3. 砦の灯、騎士の笑顔
数ある作品の中からこの作品を見つけていただいてありがとうございます。是非、拙い作品ですが、楽しんでみていただけたら幸いです。
荒野を抜けた先、森と森の隙間を縫うようにして、
石を積み上げただけの古い砦村がぽつりと建っていた。
砦の外壁はひび割れ、門扉は片方が欠けている。
それでも村の中には確かな灯があった。
夕暮れを待たずに掲げられた松明の炎が、
吹き付ける冷たい風に揺れている。
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リィナは門の前に立ったまま、胸元の銀鈴をそっと握った。
隣には大きな鞄を担いだライハがいる。
森を抜けてから、二人はほとんど言葉を交わしていない。
いや、言葉を交わさないのはいつものことだ。
それでも、ここに来てからの空気は、どこか張り詰めていた。
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門の上から兵士が声をかけてくる。
「立ち止まれ! ここは立入を制限している!
魔獣が近くに巣を作ったって報告が……」
ライハが慌てて手を振った。
「俺たちは旅の魔術師だ! 村を荒らす気なんかない、
ただ夜を越す場所が欲しいだけなんだ!」
兵士は渋い顔で、もう一人の兵に耳打ちした。
リィナは黙ったまま、門扉の隙間から中の様子を覗き込む。
人影がちらつき、焚き火の煙が昇っているのが見えた。
しばらくして、兵士は呟いた。
「……無詠唱の魔女ってのはお前らか?」
ライハがギクリとしたように笑った。
「噂って早いな……。ああ、そうだ。この子だ。」
リィナは視線を外した。
いつものように、遠巻きにささやかれる自分の呼び名――
“無詠唱の魔女”。
それを受け止めることには、まだ慣れない。
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門扉が軋んで開いた。
中に足を踏み入れた瞬間、薪の焦げる匂いと人々のざわめきが流れ込んでくる。
荒れた砦の中は、意外なほど賑やかだった。
小さな屋台、即席のテーブル、剣を磨く兵士たち――
夜を待つというより、嵐を迎え撃つ前の宴のようだった。
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「おーい! そこの二人、こっちこっち!」
声の方を向くと、人混みをかき分けるようにして、
一人の女性が走ってくる。
軽やかに揺れる金属音。
陽光のような金髪をポニーテールに束ね、
胸当てに刻まれた銀の紋章が松明の光を弾いている。
笑顔は大きく、声は澄んで、全身から太陽みたいな熱が伝わってきた。
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「初めまして! 砦の守りを任されてる女騎士、
エリシア・ヴァルトだよ!」
勢いよく右手を差し出してきたエリシアに、
ライハは目を丸くしたまま慌てて手を握った。
「お、おお……元気な人だな……」
「元気が取り柄だから! あんたらが無詠唱の魔法使い?
村の外で噂になってるじゃん! すごいねぇ!」
エリシアは人懐っこい笑顔を向けて、
おかまいなしにリィナの肩をポンポン叩く。
リィナはわずかに目を見開いた。
人に触れられることに、まだ少し慣れていない。
けれど、不思議と不快ではなかった。
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「ありがたいよ、ほんと!
最近は魔獣の群れが夜な夜な近くの森に巣食ってさ、
村の兵隊だけじゃ心細かったんだ。」
エリシアは人差し指を立ててウインクする。
「ま、あたしがいれば魔獣なんか叩き斬ってやるけどね!」
豪快に笑ったエリシアに、ライハが思わず吹き出した。
「……強いな、心臓が。」
「当たり前でしょ! 騎士だもん!」
その笑顔を見て、リィナも胸の奥で何かが緩むのを感じた。
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◆ 焚き火の輪と、不穏な夜
砦の中庭では、すでに夜営の準備が始まっていた。
子どもたちは火を囲み、兵士たちは剣を研ぐ。
村の老婆たちはパンを焼き、湯気が夜気に溶ける。
エリシアはリィナとライハを焚き火の輪に誘った。
大鍋で煮込んだスープを紙皿によそってくれる。
味は塩気が強くて少ししょっぱい。
けれど旅の疲れを溶かすには十分だった。
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「リィナちゃん、食べな!」
エリシアが何の遠慮もなく、煮込んだ野菜をリィナの皿に追加する。
リィナは慌てて皿を引くが、エリシアはおかまいなし。
「細いのに強いんだから、不思議だよねぇ。
ちゃんと食べなきゃダメだぞ?」
横でライハが笑う。
「君、ほんと姉貴っぽいな。」
ライハが笑いながら言うと、エリシアはスープの鍋を木のスプーンでかき混ぜたまま肩をすくめる。
「ん? あたし一応、末っ子だよ。兄貴が三人もいるの。」
「それでその性格か……大変そうだな。」
「大変だよー? 幼い頃は“女に剣なんか持てるか”って怒鳴られてばっかり。でも、ぶっ飛ばしてやった!」
豪快に笑うエリシアの声が焚き火の輪に弾け、周りの兵士もつられて笑った。
ただ、その笑いの奥に、誰も気づかない一瞬の影が宿った。
それを見逃したのはライハだけだった。
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リィナは焚き火の明かりに照らされながら、静かにスプーンを口に運ぶ。
スープの味は少ししょっぱい。でも、あたたかい。
火の粉がパチパチと弾けては、星のない夜空へと吸い込まれていく。
ライハとエリシアの笑い声が遠くなった。
リィナの耳には自分の心臓の音だけが残った。
『ともだち』
誰にも聞こえない小さな声が、胸の奥で震える。
けれど唇を動かしても、やはり声は外には出ない。
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焚き火の奥、砦の石壁の向こうから、低い唸り声が聞こえた。
一瞬のことだった。
兵士の一人が慌てて立ち上がり、剣を抜く音が輪の中を凍りつかせた。
「……来たな。」
エリシアが声を潜めて笑った。
さっきまでの砕けた笑顔が、剣のような冷たさに変わる。
「二人とも、下がってて。……いや、リィナは……」
彼女が振り返ると、リィナはすでに立ち上がっていた。
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◆ 砦を裂く咆哮
砦の外壁の隙間から、暗い獣影が数頭、月明かりのない夜を踏みしめていた。
黒い毛皮、無数の目、割れた牙――
魔獣《影狼》。
一匹が門扉に飛びつき、古びた木材を爪で砕く音が夜気を引き裂いた。
「数が多い……!」
ライハが息を呑む。
兵士たちは焚き火を蹴り消し、剣と盾を構える。
松明がばらばらに灯され、砦の中庭に冷たい光が揺れた。
エリシアは剣を引き抜き、半歩だけ前に出る。
「リィナ、やれる?」
無言のまま、リィナはわずかに頷く。
そしてフードを外した。
灰銀の髪が松明の光に濡れ、目元の影が強調される。
声はない。ただ、空気だけが震える。
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◆ 無詠唱の魔女
影狼が一斉に吠え、砦の中庭へなだれ込んだ。
その咆哮と同時に、リィナの指先がわずかに動く。
言葉はない。
詠唱の代わりに、彼女の瞳の奥で何かが輝く。
次の瞬間、砦の地面が光を孕んで歪んだ。
足元を駆ける光の線が、魔獣の前脚に巻きつく。
それはまるで音のない鎖のように、獣の動きを奪い、砦の石畳に縫い付けた。
動きを止めた一匹に、エリシアの剣が閃光のように走る。
鮮やかに、一撃。
血飛沫が砦の石壁に弧を描く。
「いいよ、無詠唱ちゃん!」
エリシアが笑いながら背中合わせに叫ぶ。
「次も頼んだ!」
リィナは返事をしない。ただ静かに、次の光を指先に集める。
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だが、一匹だけ、光の鎖をすり抜けた影狼がいた。
その獣が低い唸りをあげて、一直線にライハへ向かって跳んだ。
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◆ 止められない
一瞬のことだった。
ライハは杖を構えたが、間に合わない。
影狼の爪が振り下ろされ、火花が散る。
『やめて』
声にならない声が、リィナの胸をえぐった。
次の瞬間、彼女の瞳が青白く輝く。
魔術の光が暴走のように広がり、砦中庭の空気が凍った。
光の輪が影狼を包み込み、地面ごと砕く。
獣の体が白い欠片になって散った。
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ライハは地面に尻もちをついて、呆然と息を吐いた。
リィナの視線が彼を貫いている。
光の輪の中心で、彼女の唇がわずかに動いた。
「……い……」
微かな音が、砦の夜気に溶けて消えた。
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◆ 小さな勝利と、夜の裂け目
影狼たちは逃げ去った。
砦の中には、まだ血の匂いと焦げた石の匂いが残っている。
誰かが歓声をあげ、剣を掲げた。
兵士たちは「無詠唱の魔女」に畏怖の目を向けながらも、安堵の笑みを浮かべる。
ライハは立ち上がり、息を整えながらリィナに歩み寄る。
「……ありがとう、リィナ……」
彼女は俯いたまま、何も言わない。
その肩に、そっと手を置こうとしたその時。
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エリシアが大声で割って入った。
「おつかれ! 二人とも無事でよかった!」
彼女はあっけらかんと笑いながら、リィナの頭をわしゃわしゃと撫でた。
リィナはほんの少しだけ目を細めた。
誰にも分からないほどの、小さな笑顔が唇の奥に生まれた。
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◆ 焚き火の残り火
その夜、砦の焚き火はもう一度だけ灯された。
兵士たちは怪我の手当をし、松明の火を点検する。
砦の片隅、壊れかけた石壁の前で、リィナとライハ、エリシアは肩を並べて座った。
エリシアは傷ついた鎧を脱ぎ、剣を膝に置いて空を見上げた。
「……あたしさ、剣を握ってここまで来たけど……
ほんとは、王都で結婚して家を継げって言われてたんだよ。」
ライハが驚いた顔をする。
「そんな風には見えないな。」
「でしょ? ぜーんぶ蹴ってきた!」
エリシアは笑う。
だが、笑い声はすぐに細くなった。
「……でもさ、家ってのは面倒だよ。
何百年も前の約束とか、血とか。
時の執政とか……よく分かんない誰かに繋がってるって、言われてもさ。」
ライハが眉をひそめる。
「……君の家も?」
エリシアは焚き火の火を指でつついた。
「昔、私んとこは“時の一族”を守る側だったらしいよ。
……でもさ、そんなの関係ないでしょ? もう誰も信じちゃいない。」
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リィナは二人の会話を聞きながら、焚き火を見つめていた。
赤い火の奥に、誰かの声が聞こえた気がした。
『その血が鍵だ』
幼い頃、無詠唱で自分の声を封じたあの夜。
眠る前に、母の歌声を奪った自分の記憶。
あれは――
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リィナは小さく息を吸った。
「……」
かすれた声が喉の奥で震えた。
言葉にはならなかった。
だが、エリシアには聞こえた気がした。
「……大丈夫だって。」
エリシアはリィナの背中を軽く叩いた。
「ここにいる限り、あたしがあんたを守る。
だから、大丈夫。」
リィナはゆっくりと頷いた。
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焚き火の火が小さくはぜた。
笑い声は一瞬で消えた。
暗い夜気の向こう、誰も見えない空の奥で、
エゲリアの魂だけが、そっと目を覚ました。
旅は終わらない。