火中之栗
彼らの旅はひどく迅速だった。
そうなった、というよりそうならざるをえなかったのだ。
「一息つく暇もありませんね」
紅蓮はそう、黒衣の男の頭を掴み上げながらそう言った。
「ま、見た目も派手派手になっちまったし態々人里に降りてきたし。格好の餌食なんじゃろうな。そうもなるか」
銀糸のような毛色をした猫が欠伸とともに声を発する。鳴声とともに意思が伝わってくる不思議な声だった。
見た目は、師のせいではないか。そう、鮮血のように鮮やかな赤色になった髪に息を吐く。そうしてから腕の中の刺客に問う。
「…さあ、お前はどこの誰だ。
誰に仕えて何の目的で己を襲った。
その全てを教えろ。そうすれば解放する」
瞬間に、顎の微かな動き。止めようとして、だが間に合わない。ごり、と毒薬を噛み締める音。その刹那に命が失われていく。
「待て…ッ!」
「無駄じゃ。もう死んどる」
「……」
これまで襲い掛かってきた奴らも、同様だった。死に様は、それぞれだったが故に対処は追いつかないが。
山を降りてから、一刻に一度の頻度でこの黒装束の軍団に襲われた。それはつまり一度ならず、羅倶叉が始末した軍団。そしてまた紅蓮がこれまでは身を隠し逃げていた者たち。魔に魅入られた者ども。
だが以前までと違うのは、羅倶叉は今となってはそれらに太刀打ちできず、そしてその弟子は、勝つことができる。
それはこの身体に今ある、人ならざる力の故でもあり。あの、山の上で化外の師と共に磨いた技の故でもある。
「っ……」
だが勝利をするたびに紅蓮はそうして悲痛な面向きで俯いていた。その理由がわかっていた上で、猫は敢えて能天気に語りかける。
「ふん、やはりだめか。
どおするよ紅蓮?今度からは捕まえたら即座に奥歯をむしり取ってから身ぐるみをひっぺがすか。そうしたら死ねんだろ。そしたら舌も噛みにくくて一石二鳥だろう」
「……それは…」
「じょ、冗談じゃ!だからそんな『こんなことばかり考えてるのかこの化け猫は』みたいな目で見るんじゃない!」
「…いや、そのようなことは」
「ほんとか?ほんとにそうかあ!?」
先までの冷静が嘘のように慌てふためくらくしゃの姿に、沈痛な顔をしていた紅蓮も少し微笑む。それを見て師は安心したような息を吐いた。
そうしてから。
紅蓮がどさり、と身体を横たえる。滝のような汗が身体中から溢れ出て、息を激しく切らす。
ここ数日で実感したことだ。
燃料切れが早い。
貯蔵する油の量をそのままに、火の勢いのみを高めてしまった感覚。人のままの体力のままに妖の出力を出せるようになったが故のちぐはぐな力が彼の現況だった。
「無理に動こうとするな、座れ」
「…は」
無理に先に歩を進めようとする紅蓮の二本の脚の間を、八の字にまとわりつくように歩く銀猫。そうして座った弟子の腹部を、ぺろりと舐めた。ざらざらとした舌の感触とともに、ほんの少しの力が戻る。
丹田に込められた怪外の力をほんの少しだけ補充したように。
「師匠、これ以上私に与えずとも…!」
「か、妾を心配してるのか?百万年早いわ。
…がまあ、確かに過保護が過ぎるか。
このままじゃお前が成長せんか」
ぽりぽりと考え込むように、器用に爪の一本だけを出して長耳を掻く。そのまるで人らしき姿は見ようによっては不気味な姿ではあったが、紅蓮はそれを見る度に寧ろ安心をする。膝立ちに立ち上がり、立とうとし。そしてそれをまた銀猫に止められた。
「ま、何にせよそのまま休むといい。この姿であっても見張りくらいはできる」
「しか、し」
「しかしもなにもあるものか。今日は休め」
「冶魔に、早く会わねばなりません。奴は傷を負っている。何をするかもわからない。だから早く、私が行かなければならない!」
「威勢ばかりよくても脚が震えとるわ、呆け。そのまま無理して倒れたら寧ろ遅れるだろうが、ああ?」
「…ぐ…」
「…それにな。そう、焦らずとも。
お前の前からいなくなったりしないよ。
お前がそう求めても、求めずとも」
そう、ふつりと言われて。
紅蓮の身体から力が抜けた。ふたたび横たわる。
紅蓮は止まることが恐ろしい。意識を失うことが怖かった。その間に又、自らが固執するものが喪われて消えそうで。彼が何かを失う時はいつも、目覚めの時だった。
「…らくしゃ、様」
「うん。だからゆっくり休め。
なにかあったら起こしてやる」
そして猫の尻尾が、横たわる男の瞼を撫でた。
それを契機にしたように、紅蓮は寝息を立て始める。その顔を愛おしげに眺めて、羅倶叉は頬を歪めた。ただ、猫の顔のままに。
彼が、目を瞑ろうとしなかった訳は、またそれだけではない。自らに襲いかかってくる人の死もまた気にしているのだ。努めて殺そうとせず、そして自死する度に歯を噛み締める。詰まる所こいつはそうだ。度を越した、甘ちゃんだ。
「紅蓮。
お前は四角四面で、生真面目で、優しくて…」
「そしてなにより稚児のように愚かだ。
だから妾はお前が愛おしくて仕様がないんだよ」
「だからおやすみ、紅蓮。
そのまま妾が望むまま、愚かであれ」
ちゅ、と。
猫の湿った口が彼の頬に触れた。
…
……
「私たちは、終わりだ」
一人、自死を選ばぬ刺客がいた。
それが最初に語った言葉はそれだった。
どういうことなのか?
詰まるところはこうだ。
彼らは紫色の魔を、冶魔を信奉していた。
彼女が何をする訳ではない。
ただ彼女がやる事は超常として盲目の信仰を集め、冶魔もまたある一つの目的の為にそれを利用していた。ただ一つの目的、それを知る事はその教団員は無かったというが、真実それで良いのだろう。肝心なことはただ、信じるものがあるということなのだから。
だが、その信奉の対象が消えた。冶魔はある日を境に姿を消してしまったのだという。全くもってどこにも見つからない。その混乱は相当なもののようで、既にぶくぶくと規模だけが膨れ上がっていた信奉者どもが内部分裂を起こしているのだという。
そんな中、その冶魔が必死に消息を探していた男らしきものを捉えたのならばあの方も帰ってくる。そうして紅蓮を襲ってきたのだと言う。それを語ったからと紅蓮は約束通りにその場から逃す。その逃げた後をじいと羅倶叉は見ていたが、次第にやめた。
「ふん、実にくだらんな。
ただまあ…言っちゃなんだが。あの時の死にかけの紅蓮の掌底程度じゃあの若造は死にゃしないだろうし、冶魔とやらは生きているだろうよ」
「で、しょう。そして何よりも、冶魔は私を死んだと思っている。生きていると知ったのならば、奴はすぐに此方に来るだろうから」
それは僥倖ではある。またあの時のように襲われたならば今度こそ、殺されない保証はない。力に慣れきらない今なら尚のことだ。
だがもっと、一番の問題は、それらしかわからないこと。結局の所、その末端の者たちもまた冶魔を探しているということだ。どれだけ聞き出そうとしても聞けるはずがない。こちらも知りたいのは、むしろそれだと言うのに。
「…冶魔について信頼のおける情報が必要です。
そしてなにより」
「ああ、わかったわかった。それらの団体も放って置けないとかいうんじゃろ?お前の言わんとしてることはもう大体わかるわ」
「らくしゃ様はわかりつつ私を止めようとはしないのですね」
「かか。どうせやめようとせんくせに良く言うわ」
…
……
がや、がや。
そうして彼らは近くの街に来た。
そこにもまた人がごった返し、玉石混合さまざまなものが集まっている往来だった。拠点とするにも丁度良いだろう。
その中で紅蓮はただ、耳を澄ます。
こお、と。音のなるような。
実際はそうあったわけではなく、ただしかしそうして世界が透明になりそれを見渡すような感覚。気配や全ての探知の能力が際立っている。
ざわりと髪が逆立ち、全てを観るように聴くその感知は、またこの体になってからの力。
そうすると。一つの覚えのある姿を見つけた。否。それは、そいつは此方に近づいてきていた。
それは親しげにこちらに話しかけてきて、まるで心に間借りするかのようにくすぐるような声の調子を崩さないままに。
「もし。もしやすると、あなた」
そうして話しかけて来た者。
それは二人が既に遭ったことのある人物。
常に目を細めているかのような狐じみた目。
薄く浮かべている笑みの更に歪んだ細い糸。
しゃらりという帷子がなる鈴じみた音。
「おや、おやおや。やはり。
これはお久しぶりです、紅蓮様。
こんな所で会うとは偶然ですねえ」
「あなたか、沙門」
「ええ、そうですとも。随分とお姿が変わってらっしゃいますが、しかし、この沙門にはすぐ分かりました。貴方のその立ち振る舞いが」
以前に紅蓮が助け、そうして沙門と名乗った男。
その、胡散臭い男だった。
「ふむ。以前の妹君はいらっしゃらないのですかね?迷子になっているのでしょうか」
「…色々あり、今はいない」
「ほう、そうですか。あまり話したくはないご様子のため、それについて聞くのはやめておきましょう。…っと、可愛らしい猫ですね。私、猫には目が無くて痛たたたたたっ!」
「師匠、師匠!噛み付かなくとも!」
「こいつ気に食わんのじゃよ」
そんな風に、彼らは邂逅する。
と、不思議なことに。羅倶叉の声は紅蓮にしか聞こえないようだった。それは彼が彼女の力をそのまま受けているからであるのだろう。他の者にはただ、猫の声が聞こえるらしい。
「…単刀直入に聞こう。沙門、あなたは妖の…いいや、冶魔について。そうしてその怪物の治める団体を知っているだろう」
「ほう?どうしてそのように思うのです」
「答えは」
紅蓮の、有無を言わさない質問。それに沙門は肩をすくめてから、くつくつと笑い始める。
「くく、くくく。ええ、知っていますよ。魔と名のつくそれらの所在に動き、動向のことは。さすがは紅蓮様。私のことをよく、見ていらっしゃる」
は、とらくしゃが弟子の顔を見た。信頼の出来る情報源となり得る。そう、思ったのだろう。きっと彼なりに何故かを考えて、またそう確信をしたのだ。
「なるほどしかし、申し訳ありません。私も商売でやっているものでして、ただで情報を渡すとなるとあがったりなのですよ」
「…そう、か。ならば…
…しかし己も先立つものがなく…」
「いや、いや、しかし!恩を忘れたような真似をするのも私、とても心苦しい。ならばどうでしょう?私の仕事を手伝い、それの対価として情報を教える、と言ったことは?
無論、情報以外にも報酬は支払いましょう。そしてそうでなくとも、その依頼であなた方の求めるものが手に入るやも、しれませんよ?」
「それこそ。
紅蓮様の求めるもの。
更なる力であったりも、ね」
つまりは、こうだ。
金は必要ない。代わりに沙門が提示する仕事を手伝え、ということ。要約してしまえば単純だ。だがしかし、その言う事のなんと危うげで胡散臭いことだろうか。それはつまり何か悪事の片棒を担がされるかもしれないということでもあるし、危険に突っ込むことになる可能性もあるということ。
まずもって、この者は何者なのだろうか?あの時に私刑に遭っていたのは、果たして本当なのか。じいと、四つの目が沙門を見つめる。その視線のそれぞれに目を合わせて、その細い目は更に引き絞るように笑みを浮かべた。その本心を覆い隠すように。
「おい、紅蓮よ。無視しろ、こいつを」
「いいえ。
申し訳ありません、師。
それに従うわけにはいきません」
「…はあ、だろうな。
そう言うような気がしていたわ、まったく」
「わかった、あなたの言う通りにしよう。代わりに得られるものも、なんであっても構わない。…その代わりに、情報の正しさを保証してもらおう」
「ええ。それでは、契約成立ですね。
これから改めて宜しく申します」
恭しく抱拳礼をする沙門を、猫の視線が射抜く。なるほど確かに、どう考えても妖しくはある。
だが少なくとも今はこれに代わる信頼と情報はない。だから、ならばこそこの火中の栗を、拾わねばならないようだ。
その火がどれほど熱いものなのかわからずとも。
「……ふうむ」
ただ、その栗を拾う愚かさを。横にじいと座る銀猫が何を言うでもなく眺めていた。その愚かさこそがまた、彼女自身気に入っているの、だから。どうしようもなく。共にいたいと願うほどに。
…
……
「…では、早速。
ここの村に行って貰いたいのですよ」
「随分と遠いな」
「ええ、まあ。それ故に私が直接出向く訳にもいかず…ですがまあ、しかし。紅蓮様たちの求めるものの、『当たり』に中々近しいものなのではないかと」
「流れ着いてきた風説によると、つまり。
そこにあるのは『不死を生む水』だとか」