四衢八街
「よおし、今日はこれまでにしようかの。
……っとと!危ないのう。ぬしも頑丈になってきちゃあるが、流石にそこから落ちると死ぬぞ?」
「……存じあげて、おります」
「かかか、不満たらたらって顔じゃな。うっかり落としかけた奴に言われたんじゃ、そうか」
崖の下に落ちかけた弟子の脚を、ぶらんと片手で持ち上げ、そう笑う羅倶叉。明確に体格の勝る身体を片手のみで持ち、揺らぐ事なく平然と立つ姿は、明確に異常だ。だがその、上下が反転している弟子は異常であることなどとうに知っているので、ただ何も言うことは無い。
そうして、崖上に引っ張り上げ、また横にならせる。弟子の、紅蓮の傷は霊峰の霊たる力にすぐに癒えてこそ行くが、如何せん、疲労そのものと精神の疲弊はどうしようもならない。
「どうしたよ、紅蓮。
妾を超えるんじゃあないのかよ?
超えねばならぬというのだろう。
この調子じゃあ、妾にゃ幾百年勝てんぞ?」
「……」
沈黙。
らくしゃは軽口のつもりで言った。そしてまた、少しの本音で、これならもう少し長く居られそうだという感情も込めて。
しかし紅蓮はただそれに悲痛な趣で俯くのみ。何も言わず、また言い返さずに自らの無力を噛み締めるように拳を握っていた。力の無さを呪うように。自らの無能を呪い殺すような勢いで。
その様子を見て。
仙女は些か気まずそうに頬を掻いた。
「あ、あー…そう気にせんでよいぞ?
実際強くなってるのは確かだし、ようやっとる。
いや、冗談のつもりだったんじゃがのー…」
「…しかし、幾百経とうと勝てないという、らくしゃ師匠の仰られた事は、ただ事実です。師匠の発言ではなく、私はそれを言わせてしまった己が。そして、それを否定出来ぬ己が憎いのです…」
ぎり、と歯を食い縛る音。その音の深さは紅蓮の秘めてある鬱屈とした情の深さを象っているようで、故に発言の嘘の無さを思わせた。そしてまたそれ故に、らくしゃはううんと頭を捻る。
「…むう、むむむむ…こりゃまた、難しい問題よ。確かに妾を超えるほど強くなりすぎても困るが、さすがに、こうまで自信を喪失してるのは、気の毒じゃの」
問題は一つ。この山には、何も無い。否、正確にはまともな生き物が、彼ら二つ以外には存在しないという事だ。つまりは小手試しをする相手も居ない。故に叩きのめされた事による、無力感以外を経験させる機会が無い。そうして、それにより自らを追い詰めていく姿は正味、見ていられたものではない。
成程、師たるものただ技と力を教えるのみでなく、こうして精神の手当てもしなくてはならないのだ。と、仙女は目を閉じて一人頷いた。そうして、ぴょんと跳び躍り出て、にいと笑った。
「紅蓮、紅蓮よ!明日の手合せは無しじゃ。
たまにゃそういうのも悪かない」
「教える程の価値も、無いのでしょうか」
「がー!違う、ちがうわ!どうしてぬしゃそんなに悲観的なんじゃ!そういう人柄がなんかもう顔に出とるわ辛気臭い!」
「か、顔が…!?」
がん、と衝撃を受けたような表情をする紅蓮。その顔からして辛気臭いとまで言われた事は、流石に予想外であったようだ。
だが言いたいことはそのようなことではなく。
「ったく。そういうんじゃあなくて、よ」
「なあ紅蓮よ。
そろそろ一回、街の方に降りてみんか?」
「…は?はあ…」
特に、断る理由はなく。
ただそうする事となった。
…
……
喧々、囂々と。
歩けば歩くだけ、耳を澄ませるだけ声と音。
何かの行事があるという、訳ではない。
人々はただ日頃の常を過ごしているだけだ。
故にそれがこうまで喧騒となっているという事はこの巷が、この都市が熟した果実の若く実ったものであると云う事。
この世は正に、治世の元に理想を敷いていた。
「おうおう!人でごった返しておるの」
「はい」
「…ふむ?元気が無いのう。
久しぶりに人混みに入って酔いでもしたか?」
「そういうわけでは。…ただ、師匠が山より一度降りる選択をした事が、私の慮外でありまして」
「うんにゃ、妾ぁちょくちょく降りてきてはおるぞ。別に何かあって来たくないとかそういうのは無いしのう」
「そうなのですか」
「ま、あまり降りん理由は無いわけではないがな。だが降りてはいるぞ?前も、六十、いや八十程前だったか。そう遠くはない」
「…その、数字の後に付く単位は『日』でしょうか」
「?『年』じゃ」
「…左様で」
何を妙な質問を、と疑問を呈するような返答に、紅蓮は眉間を押さえて喧騒にまた目を向けた。
ぎゅるん。
直後に。羅倶叉はぐるり。首を動かした。
急激な、猛禽じみた動き。そのまま何処かをじいと見詰めた思いきや、べろりと舌舐めずりをした。
「如何しましたか」
「くか。いいや?色々な者がおるなぁ、と。
ただ、ただ感心しただけよ」
そうして、市を歩く。迷うてはならぬだろう、と差し出された手を取りそれに追従する師弟の様相は寧ろその実の真逆のようで、その滑稽さを知る者があれば笑っただろう。
乾飯を路上で売り出していた男が、彼らに話しかける。売物を売りつけんと、商人としての当然をすべく。
「よお、そこのお兄さんと…その妹さんかな!腹ごしらえにこちらを買ってかないかい!」
紅蓮がその声に首を振るい、滅相もない、この方は、と言おうとして。そうしてからぎょっと驚愕に目を剥いた。
「はい、妹です!」
「おおそうかいそうかい!
まだ若いのに偉いねぇ、これはおまけだよ!」
「わあい、ありがとう!」
おまけと、軽く買った飯に先までの可愛らしい様子を捨てて齧り付く様子を、先までの変貌への反応も兼ねてじっと見詰める紅蓮。それに対して、はあと溜め息を吐いた。
「なんじゃ、その目は。妾が誰だとか、妾たちの関係だとか、そういうのを一々説明しても面倒じゃろ。というか立ちゆく先でそうしていたら日が暮れるわ。それに、こうすりゃあおまけも貰えるじゃろ?くくく」
「はあ、なるほど」
「かか、あまり納得行かんか?」
「いえ、得心が行きました。その合理と利便を極めるが、また師匠の強さであるのやもしれません」
「…いや、そんな堅苦しいもんじゃなく、楽する所は楽せよ、ってくらいのものなのだが…まあ、いい。
と言うことで、今日は妾はぬしの妹よ」
先まで引いていた手を、ならばとそうしてぐいとかき抱くような形となる。それこそそれは、歳の離れた兄妹のように。ただ爛漫な妹君じみてごろりと紅蓮の腕に頬を沿わせた。
「一日宜しく頼むぞ、兄者?」
「…非常に申し上げにくいのですが」
「む。なんじゃ似合わないとでも言いたいか?自分で言うのもなんじゃが、変ではなかろうよ?」
「いえ。ただ…兄者、という呼び方は些かに古めかしすぎるかと…」
「なんと!?」
そうして、偽りの兄、妹として市街をそのまま闊歩していて。その最中に様々な物を見、観覧して楽しむ時間が在った。
彼らを、正確にはその横にいる仙人の手の繋ぐ様子をじいと見る者があればその様子が兄妹などでは有り得ぬ事を解ったろうが、喧騒の中で態々見る者など居るはずが無い。
「…む。おい兄上よ」
「はい、なんで御座いましょう。
また何かを買いましょうか」
「…ぬしゃ妾を本当に餓鬼と思ってないか?たかりじゃなく、あれよ。あれを見ろと言うとるのよ」
羅倶叉が指を指す方向には、町々の喧騒とはまた異なる悲鳴と声音。何か荒事が起きているという事が明らかなものだった。
それに、反射的に身を乗り出した紅蓮。
は、と一度思い止まり。
そして師はそんな弟子の姿を見て、満足気に頷く。
「うむ助けてやれい!そら、師匠命令よ。
なんて言わずとも突っ込んで行きそうよな」
「……暫し、お待ちを」
「おう。…かか、紅蓮よう。
わざわざ妾の顔色を伺うんじゃあない。妾がお主を見捨てることなんぞ、あり得ん。だから好き勝手くらい、やってみよ」
そう、言うと。
紅蓮は、はっと、晴れたような顔をして。
それからその喧騒の中に突っ込んで行った。
なるほど、十人程のごろつきに私刑に遭わされている者がいるようだが、今の紅蓮には何一つ問題ではないだろう。
大立ち回りをする姿を見てから、らくしゃは少し、暗がりに身を潜める。そうして一つやらねばならない事があった。
「さて。こちらも用を済ませるとするかの」
…
……
暗がりの、誰も通りがからぬ路地の裏。
誰も通らないとは、ただ、人通りが少ないということではない。そこを通ろうとする者が誰もいないということ。そこを通れば、身の安全を保証されない。そこでの人の死は、認識されない。
そういう、場所であるからだ。
そこに、羅倶叉が立つ。
その金色の目がぎらりと闇の中に輝く。
「貴様の兄を呼べ。今すぐに、だ」
少女の周りに、影の如く現れた者たちは、恐ろしげな声でそう言った。周りには、何も無かった。居なかった。それらはしかし、数瞬のその後には少女を取り囲んでいた。音も無く、予兆も無く。
まさしく、魔。そういう者ら。
「あの男を、悲鳴で呼び出せ。
さもなくば貴様を拷し、そうさせる」
簡潔で、冷徹な発言。
眼の色が、紫をしている。
明らかに常なる者では無い。
妹、兄の関係でないと見破り、それでいてそう呼ぶことはつまり、そうした関係性、仲を利用する為である。
「くく、かかかか。
成る程。紅蓮の関係者か。
さっきから、ずうと追ってきてたものなあ。
全く持って、不粋な者どもよ。
妾たち師弟の、初めての遠征だと云うのに」
凶刃がらくしゃを貫く。
唐突で、虚を付く刃。
そう、し慣れている外道の刃だった。
だがその刃は、ぐにゃりとへし曲がっている。
「おう、問答無用か。どういう関係かは知らんが、あやつ随分きな臭い奴らと付き合っとるのお。ま、敵対しとるのは間違いなさそうじゃな。でなくとも、こういうのと寄り合いになるくらいなら…」
「……塵処理をしておこうか。
貴様らみたいなのは、我が弟子に必要無い」
その、豹変を。
彼女のその愛弟子が見たらどう思っただろう。
畏れを抱くだろうか。その、底知れなさに恍惚とするだろうか。どれでもなく、これこそが仙だと。一つの線にあるものと認識したろうか。いずれにせよただ、らくしゃは舌舐めずりをした。
火焔じみた、紅の舌。
「そら。脅してでも呼びつけたいのだろう?
ならばやってみよ。妾に、それを。
拷して、妾に悲鳴を上げさせるのだろう?
そうして、見るが良い」
「貴様…我々を知っての─」
「ああ、そういう御託はいらんから来い。
安心せい。ここ最近、毎日やってるでな」
「手加減には自信がある」
…
……
鎮圧を、し終わり。
助けた者からの感謝と、周りの喝采をある程度受けて。そうしてから紅蓮はきょろきょろと周りを探す。
すると、後ろから肩を叩かれる。
振り向けばそこには、赤い服と銀色の髪。
そしてその可憐な顔が目の前にあった。
「おう、お疲れ」
「師匠。何処へ行かれていたのですか?」
「ん?ああ、ちと塵を纏めていた。それだけよ」
そうしてから、ぴょいと肩から飛び降りる。体格の差から、紅蓮の肩に羅倶叉が乗っていた事は当然なのだが、それに気づかぬ程その、重さというものが感じられなかった。
「…いやあ、手加減には自身がどうこう言っておいて、ついやりすぎでしもうた。そりゃあそうよな、日々の手加減と言うても紅蓮を基準に合わせてるから、そうもなるか…」
「?如何なさいましたか」
「いんや、ただの独り言よ。
それで?ちゃんと助けてやれたか?」
「は。未熟者でありながら、何とか」
「かかかか、そう言う割には全くもって綺麗なものよ。傷一つついておらぬではないか」
全てが、武器を持っていた。
用心棒までもがいる、武装集団だった。しかしそれを相手に紅蓮は少しの手傷も負ってはいない。それはつまり、異常な事。
彼が、異常に脚を浸け始めているという事。
「今日、伝えたかったのはつまりそれよ。
こういう場なら、諍いがあると思うてな。
安心せい、ぬしゃ強くなってるぞ?
少なくとも来た時よりは格段に、な」
「…は。ありがたく、存じ上げます」
「うむ。というか今日、妾と同じ速さで山を降りてた時点で凄いんじゃがの。いや、本当にたった二年でこれとは、末恐ろしい。全くもって、育てがいのある弟子よ」
今日の目的は、つまりそれだ。
彼に、自身と余裕を与える事。緊迫と緊張はつまり強くなるには必要であるが、張り詰めすぎた糸は脆く、弱い。
だから撓みを、と考えての散策であった。
なるほど、確かにそれは正しく。そしてまたらくしゃのそれは弟子の心を救いながら、心に隙間を与えたようだった。
だが、そうありながらも。
「ありがとう、ございます。
ですが、まだ。まだ。私は足りませぬ。
まだ力が足りません。もっと、私は…」
「……」
まだ、紅蓮は焦りを感じている。
まだ、強くならねば。
まだ、もっと早く。
師を超えて、更に、更に、と。
それはつまり、先の見た紫の眼をした者どもに関係のあることなのだろう、と仙人はそう思った。魔として或るもの。
それらを死すべしと願う彼の奥底。
「…ふうむ」
羅倶叉は指の、爪と肉の間に挟まった肉片をほじくり出す。そうしてから鉄の匂いを嗅いで、ふと。つい先程、『塵掃除』をした場所を振り返った。そうして、忌々しいものを見るように唾を吐いた。
「何処までも、忌々しい」
紅蓮の奥底にある、魔。
それを睨み付けた。
成程、つまり。
それが、妾と此奴の邪魔をするものだと。
ぎり、と。頬を歪める。
そしてその感情を隠したままに。
師は弟子にするりと寄り添った。




