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三界無安



我が師は、基本的に酒を呑まない。

常日頃飲んでしまうと、特別である感覚が遠ざかるのだと。私が辿り着いた時に酒を呑んでいた印象から、大酒飲みであると思っていた。


我が師は、あまり寝つきはしない。

その必要も無いのか、はたまた何かに気を常に張っておられるのか、もしくは元々がそうであるのか。私のような未熟者にわかる由もない。


我が師は、殆ど鍛錬をしない。

何故なのか、何かあったのかを問うとつまりは、『飽きた』のだという。これまで、どれほどの悠久をそれに費やしてきたのか。成程飽きる事も、そしてこれほどの力を持つことも納得ではある。


の、筈だったのだが。



「ほっ、ほっ、と」


ある日私が目覚めると、師は珍しく、鍛えておられた。どういう風の吹き回しなのか解らず、そうそのまま尋ねてみれば、よく分からない答えが帰ってきた。


「負けないよう頑張らにゃならんからの」


誰に、負けるのだろうか。首を傾げてしまった。そうしたこちらを咎めるように阿呆、と一言。その真白な指がこちらの額をとすりと突いた。先まで一間離れた場で演舞をしていたその細い瞳孔は、今、目の前にあった。



「ったく、妾は妾でしんどいのよ。もし負けたらぬしゃそのまま学ぶ事全部終わったんで出てくーとか言い出しそうだからの。うっかり負けちまわないように必死よ」


「御冗談を。師匠には幾千年経とうとも敵いませぬ」


「あーそれそれ。そういうの。そういう油断しないとことかもまた怖いんじゃが…のっと」


ひょい、と立ち振る舞いを正す姿。

服を改めて纏い直し、首をくいと回す姿は、相変わらずその見た目と不均衡に老人的で、それでいて尚可憐だった。



「さあ、今日もやるか。紅蓮」


「の前に腹拵えを致しましょう。

私の身体が保ちません」


「おほ、待っておったぞ!今日の献立はなん…

…と、こうしてがっつくのが良くないんじゃよな、絶対。こうしてる内にみるみる妾の威厳とかどうこうがのう…」


「私はそう喜んで頂けると嬉しく思いますが」


そうだ、嬉しいものだ。

自らの為のみにやってきたこの自己満足にも似た手慰みを、振る舞うのもこうも喜んでくれるのもこの方が初めてだ。

飽きもせず、毎日叩きのめされて、その度に苦痛を味わおうとこの霊峰を降りずにいる理由は、強くなるという目的がある故。その上でその苦痛に挫けなくある大きな要因は、こうした静かな愉しみだ。



「あー!そういうの!そういうのじゃ!

そういう妾を堕落させる一言がまた狡い!

まったくもって、この生意気な弟子め!」


「理不尽な…!?」


羅倶叉さまは、まるで子どものように弱く何度も叩いてくる。その様子は本当にただ、市井に紛れるただの女子のようだ。そうして私は貴女に贅を振る舞う。大したものではないが、せめてもの精一杯を。


「おほん。では、今度こそやるか紅蓮よ」


「は。宜しくお願いし申す」


「くく、その堅苦しい挨拶もいらんと毎回毎回言うとろうに」


「しかし…」


「ま、良い良い。そういう変なとこが妾は好きぞ」



そうしてから私たちはまた、手合わせをする。

手を出し、弾かれ、からがらに対処して。

手合わせと言うにはあまりにも、一方的だが。



「ガ、ハぁっ…!はっ、はっ…!」


「ようし、今日はここまでにするかの。

ま、そのまま横たわっとれ。ゆっくりな」



食事に喜ぶ姿、話す姿は無垢にしてただの少女然としている。であるのに、その度にその間違いを正すかのように恐ろしき者を相手にすることとなる。何をどうされているかすら、分からない。そしてまた、そうして少女然としている時と、夜叉が如くにこちらを攻め立てる時の様子がまるで同じであるのだ。延長線にある、存在だった。


攻撃をされていたことだけは分かる。痛みがあるのだから。逆説的に、痛みが無ければきっと私は死ぬまで痛めつけられてることにも気付かないのではないだろうか。



「うむ、やはり上達が早い!紅蓮、お主ほんとやるのお。たったの二年でここまでやるか」


満足したように、うんうんと此方に頷く姿。いつもよりも甲高い声は、高揚して、それが嘘やおためごかしではない事を教えてくれる。その上で、自らが強くなってるとは到底思えなかった。どこからして、彼女は私に負ける危惧を抱いたのだろう?とんと、わからない。



「偉い、偉いぞ我が弟子?

あまり良き師じゃないが、ようついてくるものよ」


「ぜっ、ぜっ、めっそうも、ない…

これほどの、師をわたしは、しりませぬ…」


「おう、おうおう。言わせるようになっちもうたの。だがたとえ嘘であってもそう言われると…かか、嬉しいの!」


袖で顔をさ、と隠しながらそうからからと笑う彼女。しゃらりと銀糸じみて髪が揺れる。

気付けば、もう日が暮れている。陽を欺くような蒼い月光が、彼女の照れ臭げな顔とその美を否応なしに引き立てていた。


(……)



そうして、儚い美しさをこの目に映す度に思うのだ。こうも、羅刹や夜叉のごとくに恐ろしき存在。気儘に、気紛れに私を子として拾い上げて師と成ってくれた仙人。この、存在を。

どうにも、霞の如くいつか消え失せそうで。

私はひどく心が落ち着かなくなる。



「…ぷっ、ふふ!その顔はどうした!

随分と腑抜けた顔をしてるぞ?ぐれん」


は、と気付けばらくしゃ師匠は我が前に居た。

そうして、吹き出して笑ったかと思えば横に座り、倒れたままの私にそっと寄り添った。何をするでもなく、ただそこに居た。

ただ少し、心配は無いと言うように。


そうして遠くを眺めてから、おっと、と思い出したようにひょいと跳ねて跳んでいってしまう。そうして懐を漁り始める。



「さあさ、今日は蒼月よ。

懐かしくないか。お主が来た時もこの時だったな」


そうして、一つの瓢箪を取り出す。しかしそれは粉々に割れていて、その中に入っていたであろう安酒もまた滴り落ちていた。であるのにその液体は彼女の服を汚していなかった。

だが彼女はその中身よりも容器に用があったようで、それを見るとくわりと顔を顰めてから、仕方がない、とまたほんの少し歩いて少し大振りの葉をどこからか持ってきた。そうしてから、それを口に押し当てる。


草笛らしくなく、澄んで遠く響くような音だった。曲名も無ければ、決まった譜も無いのだろう。ただ気まぐれに音を鳴らし続ける、彼女そのものを表したようなその音は、だからこそ美しいと思えた。



「……会った時の事を覚えているか、紅蓮」


「忘れられる筈がありません」


「かか、さよか。妾もよ。

あの時はこれが、この蒼月が唯一の楽しみだったが…今となってはこれすら色褪せて見える」


そうして、笛をふうと息を吹いて捨てる。風に乗った葉は、眼下に臨む人々の篝に身をくるみながら落ちていった。

それこそがこの身に課せられた使命のように。



「なあ、紅蓮よ」


「は」


「先のこと。

主は否定せんかったの」


「……」


先のこと、とは何か。

そう聞くことは出来なかった。

片膝を立てて座り、そう遠くを眺むるらくしゃ様の眼は何処か虚なようであり、何処をも見ているようで、何処も見ていない。


我が師が聞いていることは、つまり。もし負ければ、学ぶことが無くなったと彼女の前を去るのではないか、ということ。それに対して、否定はしなかった。ただ、まだ勝てはしないと返すのみで。



「機会をやろう。

今、ここでそんな事は無い、と言うてもよいぞ」


「………」


「くく、かかか。言えぬか。

本当にぬしゃ、ばか真面目というか。四角四面じゃ」



そう言ってから、師は姿を消した。

霞と消えたように、忽然と。

そして次の瞬間に、私の肩にとすりと寄りかかる重みがあった。それこそ霧のような、あまりにも頼りない重み。



「のう、紅蓮。

もし、ぬしがいなくなると思うと…」


「妾は、嫌じゃのう」


「…で、あられますか」


くるる、と喉が、胸が鳴るような音が背を通して聞こえてくる。首だけを動かして、顔を見た。

そこには潤んだ大きな瞳孔が、じっと見ていた。



「どうよ。

ここらでずっと暮らす、というのは」


「……それは、出来ませぬ」


「そうか」



そうだ。この方の存在が、私の救いになってくれている。死に突き進むのみだった道を、新たな道へと導いてくれている。この仙こそが、私の師であるのだから。


故にこそ、私は留まることは出来ない。

私が生きている理由は、それだ。

魔を。ただ、魔を滅せねばならぬ故に。



「妾をこうまで言わせても、だめか。ふん。まあ、そう言うような奴だからこそ気に入ったのだがな」


つまらなそうに、身を離していく羅倶叉。ぷつりと首筋が切れていくような感覚があった気がするが、そこに触れてみても流血は無い。ぞくりと背筋が冷え込んだのは、果たして標高と落日によるものだろうか。



「ようし。まあ、それならば主に付き合ってはやる。

それが貴様の望み、であろう?」


「…そうしている限りぬしは此処に或る。

妾に勝てぬ限りは消えはせん。

それで間違いはないな」



は、と離れていった彼女の顔を見た。

月が翳り、顔は見えなかった。

声音は何も変わっていなかった。だからこそ、その貌を覗き、この背の悪寒がただの、気の所為であったのかと確認をしたかった。


その顔は見えず。ただ、漆黒だった。



「紅蓮よう?返事はどうした?」


「……はい。そう、あるでしょう」


「うむ!それではそろそろ寝るか!

月もこう翳ってしまえばつまらんわな!」



声音は、何一つ変わらない。

当然だ。彼女は、ただ一つの延長線に全てがあるのだ。それは、羅刹じみた攻撃性も、幼児のような無垢も、そしてその、ぞっとするような人外としての、仙としての本性も。


私は一度目を瞑った。

ただ、それだけだ。

そうして、我が師の言う通りに眠りについた。



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