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一期一会




……そうか。

己は、こういうものになったのか。




……





「…」



狐が、居た。

彼女は、生まれながらに自らの力に自覚的だった。自らの知能に、その才能に、美貌に。それに溺れる事は出来た。他の全てを、溺れさせることも同様に。


銀の髪と切れるような細長の眼。

紅く燃えるような眼の奥には焔がある。この世全てを燃やし尽くしてまだ足りない、そのような火。


そんな、無双たる存在が、呆けていた。

ぼうと、空中を眺めたまま脱力し。


「………」


力のまま、才のまま思うがままに。振舞う事さえすれば彼女は傾国の美女として、狂獣として、悪名を後世に轟かせる妖仙になったと違いない。

だけれど彼女が、その真実という自惚れにかぶれ、そうしようとした時。湧いてくる不思議な感覚に貫かれたのだ。



何処からか。

無論、自分自身からだ。

そう思わせられるような存在など、この世にいない。

これも自惚れ。そしてそれも、真実だった。



「……はっ。……ああ?」



不思議な、気分だった。

自分は、誰かに逢うのだ。

そりゃあ、誰かにはあうだろう。自らの数億は生きられるであろう生涯で、何にも逢わないことなどあり得ない。


だがそういうことではない。

会う、遭う、ではない。

『逢う』のだ。

巡り巡って、いつかに望んでいた者に。

廻り廻って、待ち望んでいた、誰かに。


その時に、きっとそれと意識も出来ない。だけれど自分はそうして、命よりも大事な何かに出逢うことになる。そう、確信してやまなかった。

何かがいつかに逢うのだ。


それは、絶対的に。

そしてそれは、きっと優しい者で。

馬鹿馬鹿しく、見下したくなるほど愚かなくらいに。

だからこそ眺める事に飽きはしない。




(…訳がわからん…)


そうだ。訳がわからない。

だが、わからない、なりに。

自分の力は絶対だ。だから自分を信じてみよう。

九尾を持つ狐は、自らをそう戒めた。


いつか逢う君へ。

貴方か、其方か、御前か、貴様か。

どれであっても、きっと底抜けに甘い君へ。

妾のする事には意味はない。ただの暇潰しだ。

ならばこそ、君に恥じないように、善良であろう。

いつか逢う君のために。


そう、した。そういうことに、なったから。



(…わしの前世の記憶か?

いや、そんなンでも無いな。だが…)



頭から貪り喰らわんとしていた、人男を手から落とす。そうしてから腕を自らを縛り付けるように巻き付けて、代わりに口から声を挙げた。


かんらかんら。

世界ごと、笑いに巻き込むような破顔。

目の前の者が訳もわからず、笑いに釣られるような、無理矢理にそうした気持ちにされてしまうようなげら笑い。



「か、かかかっ!かかかかかかッ!!」



「……はぁー…成程、のう?

いや、その実理解はしとらんがな。ただ、運が良かったなお前。お前を…いんや。善良っぽいヒトを殺さんことにした。

無論お前が悪党なら喰っちまってもいいが……」


「か。そう、首を振るのはやめろ。取れちまうぞ?

まあなんにせよ、寧ろ逆に、だ。お前を助けてやろう。できるだけ善良な存在である為にな」



「…んあ?わしの名前、だと?

名前などどうでもいいだろうが」


「………羅刹女?妲己だぁ?無しだ。そもそも既存の名を遣ってわしを枠に捉えようとする事そのものが不愉快だ。腹ただしい」




「…羅倶叉。そう、らくしゃだ。

ああ。なんだかな、誰かにそう呼ばれてた気がするのよ。そうだ、そいつがわしの名前よ。それでいい」


「それが、いい」






……




ざりざり……



ざりざり……





……





遠い、遠い異国にたどり着いて。

うちは、逃げてきた。



びちゃ、ずるずるずる。

びちゃ、ずるずるずる。


自分で聞いても、悍ましいと思うような音。

むしろ、自分から発せられているから、より汚らしく感じるのかもしれないけれど。


それでも、自分が嫌になっても、そこに歩いてきた。

そこに歩かないといけない気がした。



「…─ぅ、  ─…」


舌も、喉もこそぎ取られているから声は出ない。だけど息の亜種みたいな、そんなものを口から出しながら這って、それすら限界になったから、人の姿に化けて、歩き続けて。


うちは、そこに身を横たえた。

何があると思ったのか。

何かを想ったのか。

どれも自分でも解らないけれど。

偶然であったのかもしれないけど。


だけどここにいる事であなたに逢えた。

それだけは間違いない。



「…う、き、きみ。死んじゃう、の?」


頷いたかどうかも確かではない。

ただそれでも、うちはあなたに。

何度も、何度も、何度も。

何度でも助けられたかのように思えた。



だから私は、私にしてくれたその恩を。

それでも、仇で返してしまうのだろう。


きっとそれを心から望んでいるのだ。



「…あ、ははあ…」





……





ざりざり……


ざり、ざり……






……

 




  が 

歪 

    む事を

身 体

 中

   否 中身で

 も感じ 

  ながら、それに

  適応してい

     く

その事にす らいつか 慣れていく。

どれほどの

   時間が、経ったろうか…



…いいや時など、空間など関係ない。

己はそれを自ら作り出す事で、この空間を前に進む。

力を用いて立方を精製し空間と認識とを作り、時間の器を生み出してその中を歩み、ようやく成立する逃避行。

壮絶な苦痛だったと思う。

他人事のようなのはそれすら無限の彼方に追いやられ忘れてしまうから。忘れるのは過去の事か、はたまた未来のことか今に起きてる事か。それは解らないが。




己の姿はいつか、ただの黒い影になっていた。

己はそういう存在に、なったのだ。


あの時、自らの首を刎ねるように言った師は、自らの死を引き金にして、今度こそ。

自らが秘める力の全てを解き放ち己に渡した。以前のような間貸しではなく、魂ごとを明け渡すような離れ業。歪み切った時の回廊はあの時に崩壊して、特異点は特異点と重なり合って、時と空間は狭間を漂い、意味を失ったのだ。


そうして、そこを、そうなった次元を漂い続け、只人の身体は消え失せる。己は、そういうものになった。

生き物ではない。うつつではない。

ただの影になったのだ。


影、影のまま。

写される対象が無い影は姿を自在に変えて。

自らの存在すら忘れて、彷徨って。



いつかの時空の中。

歩く者たちと出会う事があった。

否、それまでに何度もあった。

だが正気を取り戻したのはその時だ。



「……お手空きか」


気がつけば己はそう問うていた。

いつかに、見た事のある姿だった。

銀色の猫と、それを伴う男。

誰だろうか。

後者を、よく見た事がある気がする。

それもわからない。

紅い眼は、愚かなように見えた。



「『至リシ者於ルハ畏申ス。

相済ミマセヌ、我毒蛇不也ヤ』」



銀猫に囁かれ、そのままに復唱する男。

内容自体は、畢竟どうでも良い。


 

「ならば又道は彼方か」


彼方だ。

それは自らに言い聞かせるようだ。

言い聞かせる為のものだった。


 

「…『ソウ相為ラズヲ願イ申ス』」

 

「承知した」



通り過ぎた刹那に振り返る。

銀猫が此方を見つめた。

 ああ。

 その眼を忘れようがない。

 私を導くのはいつもその眼だった。



影を走らせる。

彼方へ、彼方へ。

己が行かなければならない彼方へ。

あなたのその答えが私を思い出させた。

影となり、自らを忘れた存在に。

師の眼こそが『紅蓮』を思い出させた。



「…今の者は?」


「さあ。知らん」



猫の視線の先。見通すような視線と、そんな会話だけが最後に聞こえた。





……





毒蛇の元へ、毒蛇の元へ。


いつかは昔の、おれの後悔のところへ。



辺鄙な村の、辺鄙な場所。

たおれた少女に施しをした、罪の場所。

おれはそこで罪を犯した。

その、罰が毒のようにばら撒かれる。

ならばそこで、蛇を救わなければ良い。

やめて、止めて。それで終わりだ。

影となって、それに干渉をして。


不穏な影が子供を止める。

情けのない、何もできない餓鬼。

臆病でどうしようもない小僧に。



さあ。


さあ、やめるんだ。

臆病風に吹かれ、逃げて消えろ。



………



(…ああ、やっぱり)


(それは、やめないよな)



怯えて、それでも。

何故自分は施しをしようとした?

そうでなければ自分が自分で無くなると思ったからだ。怖くても、脚がすくんでも。

その恐怖を箱にしまって、それでも助けたいと。

心の底から思ったのは自分のためか、薄っぺらな、人として生きていることの証明の為か。


だけど、止まらなかったのだ。

それだけは、変わらない。


こうして、遡ろうとも己は何も出来ず終い。

なんとも惨めで中途半端で、正に自分に相応しい。


だが、それでもよかった。

こうして、冶魔を救う事が、痩せこけた自分の良心と生きる心を初めて癒した事。

そうして、そして。



(貴女に、逢うことができる)



ここで蛇を助けねば、己はあのひとに逢えない。逢うことは、二度とありはしない。

だから己はこれでも、いいのかもしれない。


いつまで経っても、何度やっても。

己はここできっと、手を差し伸べるのだろう。

それをしない事は、いつだってない。


それできっと己は良かったのだろう。

自らの人生に於ける、唯一の救い。

それは、あなたとの暮らしだった。

己の幸福と救いは、あなただけだったのだから。




ならばこそ。

己はその輪廻を、受け入れる。


そうして、もう過去を遡ることも、逃げる事も、時間も空間も作る事もなく。

己はただ、小さな影の蝶になる。

ただ、それだけだ。






……






「……はーあ」



天を衝く霊峰は、その昔にこの國を丸ごと滅さんと暴虐を尽くした凶つ星の末路であると人々は嘯く。凶星はただ堕ちて死後になりて尚、常人を寄せ付けぬ死の峰山と化したのだ、と。


霧と雲が濃く立ち込めて、劈く雷鳴はそのまま踏破せんとする者を落命せしめん災となる。市井の者はただそれに近づかず、平安無事を願って過ごす。それそのものには近付きはしようとしない。


そんな、死の峰の頂に、それはいた。

羅倶叉という妖仙は、そこにあった。




「暇、じゃのう」



彼女は、刻を長く過ごした。

数えるすら馬鹿馬鹿しくなるほど。


ある時は国を治めてみた。

善政と言われるものだったと思うが、途中で飽きて死んだ事にして逃げ出した。

ある時は呪毒の大百足を消し飛ばした。

近隣の者に感謝はされたのは悪い気はしなかったが、英雄扱いも結局飽きて逃げ出した。

蛮族の集団を、殺さず国を救った事もあった。

気まぐれだったが、それも悪くはなかった。

だが、悪くはない、止まりであったのも確か。



長い、長い刻。

彼女は、いつからか胸の衝動も薄らいでいった。いつからか、なにかとの邂逅を望む事もすっかり忘れていた。

決して、浅はかな気持ちだったからではない。それほどの長い時だったのだ。それは、悠久を生きるものどもにとってすら。



ただ、善良たらんため。自らの力を封じる結界を山の天辺に作り、そこに自らを封じた。

ここの霊峰は、それにうってつけだった。

それに如何程の意味があったか。自分にこそ一番分かっていたが、その封印をしていたこと、そのものが自分が何をすべきか、しないべきかを教えてくれる線になっていた。


か。笑う。

まるで、呆け老人そのものだ。

自分を嘲笑しても、何も変わらない。


もういっそ、善であるのも飽きた。

だからこのまま、悪逆を尽くすのはどうだろうな、と、世界を滅ぼすのも面白いやもしれない、と思っていた。そんな、時だった。




「…ほう」



青年、少年の合間といったところ。

そんな者が登ってきていた。

この山を。

封印をも超えて、ちゃりんと。



「独力でここまで至る者など…

妾も、久しぶりに見たのう」



この存在が、この退屈と呆けを無くすとは思えない。

だがたまの暇つぶしにはちょうどいいとも思った。

そうさ、丁度いい。

今日は久しい蒼月。

久方の来客来訪を、酒の肴とするのも悪くはない。


その、程度であった筈なのに。




「私を弟子にして頂けませぬか」




不思議と、この者に好感を抱いていた。

面白いと、思った。

この者が、この段階で自分に逢うことができて、心底よかったと思った。魔に堕ちる、前に。


…それだけではない。

なんだろうか。

この胸の疼きは、なんだったろう。

ただの高揚であったのだろう。

きっと、そうかもしれない。

仙はそう考えた。



「……ならば、お前は…」



名など、つけた事は無かった。

であるのに、すぐにこの男の名を思いついたのも、何故だったのだろうか。それもただの、高揚故だったのか。



「……お前は、血に塗れた、紅き蓮よ。

主のことを、これから…」



「紅蓮、と呼ぶ」





……





影の蝶が、ひらひらと舞う。

最早、何にも触れる力などなく。

ただ風に吹かれるままに。



傾国の羅刹も、死毒の夜叉も、蓮の上に踊り、続ける。因果が許す限りに、いつかそれが壊れんばかりに。蓮もそれらに、狂い笑い。


それでも、繰り返し、繰り返し。

応報の限りを狂い尽くして尚。

羅刹と夜叉は蓮上に踊る。

終わりなき蓮の上をそれでも踊る。



輪廻の先を、踊り続ける。


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