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五濁悪世





邪っ。


二名は、反目しあっている。紅蓮と冶魔共に、向ける感情、愛憎、望む未来の全てが逆の方向に向いている。


その、二つともに。

同時に羅倶叉に飛び掛かった。意図せず、されど共謀したかのように。

理由はなく、故に反射のままに。彼らの本能が警告を発したのだ。『こうしなければ』と。




「ん…ああ、すまんな」



「ちと本気を出し過ぎた」



そうして、叩き伏されたのも二名。

音の様に、雷光の様に地に伏せらる。何が起きたかはつまり、それをした仙にしか分かることはない。



「にしても、弱いな。

お前本当にあン時の小娘か?」


「……ぐ…う…この、婆ア…!」



這い蹲る蛇の憤怒を敢えて駆り立てるように、その頭部をずんと踏みつけにする。それを跳ね除ける力すらなく、眼玉が割れんばかりに睨み付ける冶魔。だがその視線すら、羅倶叉の視界にはもう無い。

もう一つ、立ち上がってきた自らの弟子に彼女は嬉しそうに向き直っていた。



「そら、そら見ろ!別にどちらかがどうとかで加減はしてないぞ?なのに我が弟子はちゃんと立ってきている。そおら。お前も見習ったらどうだ?」



紅蓮は、外れた肩の関節を無表情のままごぎりと無理矢理嵌め込み、懐中に手を入れ、まだ動く人型の紙をそこから引き摺り出した。

驚いたように身じろぎする紙片に口元でぼそりと何事か呟き、そうしてから跪いた。迷いの無い動きだった。



「ほお。その姿勢の訳を聞こうか」


「申し訳ありません。

師匠、私は貴女であると分かった上で、襲い掛かるという愚を犯しました。言い訳のしようも、御座いません」


「ああ!いやあ、それは別にいい。妾は殺意を飛ばしていた。むしろこれで反応をせず、能天気にぽてぽて歩いてきてたらそっちの方が怒っていたわ」


「左様ですか」


「うむ。だから赦す」



そう言ってから、羅倶叉はきょとん、と首を傾げた。

何か誤算があったかのように、悩ましげに。



「…むう、違うな。なんかもっと、こう。久しぶりなのだし、こうしんみりとした雰囲気にだな…?」


「?」


「……まあ、いいか。

何はともあれやることは、変わらん」




羅倶叉は、そう言うとその日常のままの笑顔で未だひざまづく弟子ににじりより、思い切り。

その顎を、蹴り飛ばした。



「ッ!!てめェ、よくも、よくもっ!!」


「『オーム、ハンバッタ・ヤクシャ…』

…やっぱ怠いな、略」



指を二本立て、その腹を怒り立つ冶魔に向けてからそのまじないを途中まで唱え、そうしてやめる。ただそれだけで冶魔の身体を幾つもの光の刃が貫いて、地に磔にした。立ちあがろうとしたその足も、叫ぶ口も貫かれ。



「お前は喧しい。少し黙ってろ」



さあて、邪魔者が消えたところで、と銀の髪がしゃらりとたなびく。向き直った先では、再び紅蓮が立ち上がる。その、立ち上がる姿をまた笑みを深める。

そうだ。あの日々のしごきに慣れていれば、この程度はものともないだろう。あの蜜月の、愉しさよ。



ご。

再び、拳がめり込む音。それをしかし、掌で受けて返しを打ち込まんとするものを更に流して、返打。

そうしてからの、切り飛ばすような手刀。それにかち合う、手の刀。暫く、そういう咬合が続いた。


ぶつかり合うような、労り合うような暫く。

刃に繋ぎ止められ、見せられるその光景は酷く屈辱的で、悔恨に堪えかねるものだった。



「腕は衰えてはいないか。まずは、良し。

だが最初の蹴りを避けんのは命取りだな」


「害意を感じませんでしたので」


「ふん。…まあ、ただの憂さ晴らしだ。

お前を本当に殺そうだとかは、思ってない。

それとも妾の事を嫌いになったか?紅蓮」


「あろうはずがありません、羅倶叉さま」


「かか、それも良し」



確認の為、と嘯くだろう。

好意の有無による取り沙汰ではないと。

だがその堕ちた顔を、悦楽に歪んだ笑みを見て誰が、彼女の内心の愉悦を否定できるだろうか。



そうして紅蓮は内心で、胸を撫で下ろしていた。

彼は、師の望みではないと分かったままに彼女の元を去った。それは彼の我儘だった。

そうして、先に感じた感情は間違いなく『殺意』だった。だからこそ、彼は反射でその身を動かしたのだから。故に紅蓮は、師と敵対する事をも覚悟していた。


だが、今はそうした害意は感じない。今あるものは、あの時のままの、師事したままの暖かな想いのみ。



「…さあ!妾が来たからには、安心よ。

冶魔を、我ら二人で共に撃ち倒そうぞ。そして終わりよ。そうして二人でいよう。なあに、あそこで横になったあいつの心の臓を抉るだけよ、簡単だな!」



ぴた、するり、と感触が変わる。

瑞々しい肌の感触はそのまま手触りのいい絹の毛感触に変化して、それまで節くれだった手に頬ずりをしていたあどけない顔は無謬の猫姿になっていた。


猫姿に、文字通りに猫を被って。そしてその姿に似つかわしくなく、手を差し伸べて。

戯れに、お手、をさせてるかのような姿。それに滑稽なまでに恭しく答えるは紅蓮だった。



「……らくしゃ様は、術の類を用いられたのですね」


「?ああ、使えんとも言ってないだろう。

あんまり使ってないし手慰め程度だがな」



なるほど通りで、沙門の陰陽云々についても即座に理解をしていたのだろう。彼女は、手慰めと言ったが、浮遊する紙片の、狼狽する様子からきっとそれは、卓抜した術理なのだろうと思った。



「で、それがどうした」


「あれを解いてくださいませ」


「なぜ」


「…私は、私の力で冶魔を倒します。そうしてこそ意味がある。それが私の罪を、失った全てに報いる罰を。私の過ち故に冶魔に背負わせた業を、祓えるのです」


「つまり?」


「羅倶叉さまの御力を、借りはしません。

私一人にのみやらせてください」


「ふん。

そして、魔と共に心中すると?」


「……ええ。そう、望みます」



差し出された手を、払うことはなかった。だがそれよりもずっと象徴的で、拒絶的だった。言葉で、眼で、全てでそれを断り絶ったのだから。




「そうか」


「それが、お前か。お前の答えか」




猫は、再び音もなく人に戻った。

顔は見えない。月は翳り、顔を隠した。

漆黒だけが、貌に浮かんでいた。

暫くの、沈黙。

宵闇に呑まれるような感覚が、その場の全てを襲った。





「…ならば、仕方がないな!

弟子の我儘に付き合うのも、師の務めよ!」



ぱっ、と、顔を上げた。

その顔は、爛漫な笑顔。すうと指を翳せば、冶魔にかかった術も解け、刺し貫いていた刃も消えていった。

苦悶と悔涙の表情を浮かべ、見ていた冶魔は遂に痛みという、意識を保たせていたものを失い、失神した。



「冶魔っ!」


「おや、宿敵ではないのか?

まるで心配なように声をかけるではないか。かか」


「……」


「まあいい。

少しこっちにおいで、紅蓮」




崖の淵に、とんと消えて現出するように。

霞が形になったように動く師。


しかし。


「…?」


そちらに、言われるままに赴こうとして、一度、脚が止まった。まるで身体が警告を発するように。意思と反するように、そうしては、ならないと言うように。




「か。なら、こちらが行こうか」



咎めるように。

銀の髪が目の前にあった。

気が付けばその姿が目の前にあった。

その、老境な眼が、眼前に突きつけられた。

その、仙であるものの眼が。



「のう、紅蓮。いつか言ったことではあるがな。もし、ぬしがいなくなると思うと…妾は嫌じゃ」


「それが嫌で嫌で嫌で、堪らないんだよ」




その、光を吸い込みそうな程に昏い眼が。




『いけません、紅蓮殿ッ!

先ほど羅倶叉さまが略式に唱えた術は、封印の…!』




眼と共に、羅倶叉の顔が、改めて見えた。

笑顔などはとうに消えていた。

ただ、冷たい、冷たい顔だった。




「『オーム』」



ただ冷酷に術を唱える声が響いた。

機械のように、冷酷に。






……





「さあ、どうよ。そろそろここから出る事を諦める気にはなったか?」



「…ええ、だんだん、と」


「なら諦めよ。

この結界の中ならお前も仙と同じ時を暮らせる。味気なくはあるが、此処で暮らすのも悪くないぞ?」


「おやめください、こんな、お戯れは!

私は終わらせるのです!冶魔を倒し、そして…!」




「そうだ。お前が一人で冶魔を倒せば、これは終わる。

この一夜の夢の巷も、悪趣味な舞台劇も、この関係の全てが。悪い夢から醒めたようにな」


「そしてお前はそのまま死ぬ気なのだろう。

妾を置いて、何やら満足してな」



紅蓮が、いつかに否定しなかったこと。

彼女の前からいつかは去るという事。

彼女に勝つことがあるならば、もう用済みと消えるのではないかと危惧してのそれ。

その実、そうはならなくとも目の前から去った。故にこそ、彼女の眼と心は黒と虚に囚われた。



「だから、改めて聞こうじゃないか。

どうよ紅蓮。ここで、共に暮らすというのは。

妾はそれを望んでいるんだ、心からな」


「………一度なりとも、忘れた事はありません。

貴女にそう言われたこと。

貴女様に、そう提案してもらった事。

本当に、心が照らされたのです。

あれほど私を救ってくれた言葉は無かった」



霊峰の天辺で、師事をし始めて幾らかが経った時の事。それこそ戯れのように、らくしゃがそう言った時の話。

二人はともに、それを忘れる事はなかった。




「だから、それ故に。その上で。

あの時と同じ答えを申します。

それは、出来ませぬ。

己はそれを受けるに値しません」



「そうか。

妾に、こうまで言わせてもか。

こうまで、想わせてもか。

………だから、気に入ったのだがな」



ぶちり。

最後の線の切れる音が聞こえた。それは、きっと切れてしまえば二度と戻せはしない線。

一線を、越える。その言葉の真髄と言える事。


羅倶叉は、そこで線を超えたのだ。

善良であるという、最後の線を。




「ようし、いいだろうよ。

それならば主に付き合ってやるよ。

やるともよう。それが望みだろう?」



「…そして、そうしている限りぬしは此処に或る。妾に勝てない限りは此処から出れはしない。妾を殺さぬ限りは此岸から消えはせん。それで、間違いはないはずだ」



「……師匠ッ!」



「もう言葉は必要が無いじゃろう。

さあ、死合いだ。

組合ではない、殺す気でこい」



「お前がお前を通したいならば、妾を殺せ。

妾が妾を通す為に、お前の心を殺さんとするようにな」



「……〜〜ッ!」






……





「千と…何回だったか?

取り敢えずは良く保ったものだ。

続きは、お前が目覚めてからだな、紅蓮」



無限の試行。その度に、死直前程の苦痛、極度の精神の疲弊により、遂には立ち尽くしたままに気を失った自らの弟子に、彼女は暫くぶりの優しげな目を向ける。


そうして、銀の髪を後ろに束ねて、服を脱ぐ。裸体で、体温を失った弟子にひたりと重なった。

肌と肌を、触れ合わせて。

それは、いつかと全く同じこと。失った血と温かさを与える為に、体温に体温を分け与える。それだけのこと。


だが、いつかには無かった情欲と情熱。

それが浮かんでいると、きっとそれをしている自分でもらくしゃは分かっていた。その自らの浅ましさを恥じていながらも、それを打ち払うことも、できず。





(……妾は、いつからこうも脆くなった?)


(ああ、分かっている。

お前が、こんなにもそばに居たからだ)




霊峰に住みやった浮世離れは、死んだ。


仙は堕ち、この俗世に降ったのだ。

この穢れ切った悪世に。

そして、それはもう戻る事はない。



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