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月下氷人




感情の無い、虫じみた目。

それが己に向けられていたこと。

枝を折り帰り道を残すことを封じるためだけに、手繋ぎをされていたこと。

ここ数日、母も己も何も食うものがなかったこと。


それらの理由から、少年は捨てられたということをとうにわかっていた。仕方のないことだともわかっていた。

むしろ少年は母の非合理に首を傾げた。食い扶持の為に自分を捨てるなら、その場で殺してその肉を食べればもっと得だったろうに、と。



だがまあ、捨てられたことに変わりは何もなく。少年もそのまま死ぬのは退屈だと思って、その捨てられた山をとぼとぼと歩いた。



あれよ、あれよと不思議なまでにその歩みが進む。そうして見晴らしの良い崖にまで来ることが出来たのは不思議な気分だった。

少し高い所から自らの住んでいた集落を見下ろす光景は、まあ、綺麗に見えたし。何か自分の小ささを知るようでとても納得のいくものだった。



「…わっ!?」


「あれ。こんばんわあ」



そのひとは、後ろを向いたすぐそこに居た。

最初は、壁かと思った。

もしくは、急に大木が生えてきたのかとも。

それくらい巨大で、太かった。

力の極まる太さが、全身に満ちていた。


誰もが見上げるような巨躯と、柳の枝のような垂れる濃い紫の髪色。その合間からそばかすとじっとりとした目が覗き見えて、初めてそれが、ひとの形をしてるものなのだと認識した。




「ゆっくり風景を眺める邪魔しちゃった?ごめんねぇ。何処かに行った方がいい?」



「…う、ううん。僕もただ見てただけだから」



「そっか。ね、横に座っていぃい?」




答えることが出来ず、ただごくりと唾を飲む。常日頃から水分も足りずずっと渇いていた喉が久しぶりに、緊張から唾液を分泌させていた。


ただその緊迫は、淡い感情や頬を紅潮させるようなものからのそれではなく、どちらかと言えば。こちらをまだ見ていない猛獣を、一方的に認識してしまったような。そんなものだ。



よいしょっと。答えを待たず、その巨躯は横に座る。既に太ましいその身より更に身幅の広い黒色の服は、しかしそれをここで初めて悟らせるほど静かに動いていた。


目を、細める。

縦に瞼が閉じたようにも見えた。

懐かしそうに、ただ遠くを見て。




「なつかしいな。

もうあれからどれくらい経つんだっけなあ」



「…来たことがあるの?ここに」



「うん。へへへ、聞きたい?聞きたい?

ここはねー、思い出の場所なんだ。初めて、うちがうちになった場所。ぜんぶのぜんぶが、うちになる前しか見ずにころしたりにがしたり捕えたりしてた中で、はじめて、この『ここにいる私』を見てくれた場所…」


「……」



そこまでは聞いていないというのに。その女性はずっと自らに酔うようにそう語る。英雄の盛った酒精に酔いしれ動けなくなるかのように、自らの過去に、べろべろに酔って。



「……はじめてだったんだぁ。ものを貰うのも。呼びかけてくれるのも。抱きしめてくれたのも名前を付けてくれたのも、家族にして、くれたのも」


「人もだけど、妖は特に顕著かな。そういうモノたちは、何かに認識をされて、始めてその存在を確立する。だからここで『私』は、『うち』になれたんだ。その全部が、幸せでたまらなかった。だから…」



「…だから…?」




妖は特にそうだ。という、自らの正体の暴露に近しい事を言われても少年は恐怖から逃げることも無く、ただ好奇心のままに話を聞く。恐怖よりも好奇心に負ける人の愚かさの下に。


それに気づかずか気づいてか…

否。確実に、気が付きながら、その蛇妖は更に和らげな酔った笑みを浮かべる。そして、促されたままに話を続ける。




「だから…なんだろうね。うちにも、実はわからないの。たまに、この感情に振り回されるだけ振り回される、自分を俯瞰することがある。そりゃあ、あの人もうちを遠ざけようとするよねって、たまーに」


「そんなにひどいことをしたの?」



「………そうなのかな。そうだと思う。あんなに怖がってるし、憎まれている。うちを睨むその目にはあれ以降、常に恐怖と怒りがある。だからそうなんじゃないかな。

ふふふふ、ふふふふ。その目も、可愛くてうちだけが見れるモノで、好きなんだけど…」



「……もう、二度とうちを優しい目で見てくれないのは、堪えるなぁ。とも、思うんだ」




もう二度と、あの大切なものを慈しむような目は無い。二度と。

そううずくまったその姿はとても小さく見えて、少年はまだ赤ん坊の時に死んだ自らの妹を思い出した。だからその妹にしていたように、そっと手を握った。両手でも握りきれないほどの巨大な手だったけれども。




「ありがとうねぇ。同情のつもりなら殺してたけど、そうじゃないみたいだ。

君もきっと、あの人みたいに優しいんだね。始めてが君なら、君を好きになってたかも」



殺していたかもという、明確な殺意。

それを聞き、びくりと流石に手を引く。

死そのものが怖くなくとも、殺し殺されという輪廻の内側に入り込むのは別の恐怖がある。




「……最初はね。ただの恩返しのつもりだった。本当だよ?殴って蹴って捨てて、そのまま見殺しにしようとした、うちら兄妹の親を殺したの。きっと喜んでくれるって思って…」



沈黙が包む。先の殺意と、人を殺したという事実を、明確に平然と語る姿に少年はぞくりと背筋を冷やした。

殺人を、未だに他人事じみて、悪いものとして扱ってないその認識を怖く感じた。




「あはあ」



その様子を見て。

妖が、嗤った。


そうして、自分の腕をぶちりと噛みちぎる。ぼたぼたと垂れ始めた血を、崖から垂らさないように。だがほんの少しでも腕を伸ばせば、すぐにでもその血は崖の下にある集落に垂れて、散布されるだろう。


その、猛毒の血は。




「ねえね。もしここで君の住んでいた村の奴らを全員殺したら、きみは悲しむ?」



「!……はっ、はっ…」




少年が始めて、目の前にある存在が何かと認識をして、どんなものかと認め、恐怖を表した瞬間に。その蛇は毒を顕わにした。


それはまるで、恐怖という生血を眼前に垂らされ、飢えた獣が凶暴化するように。

理知的な人物が復讐に身を焦がすように。




「あははは、はあ。

…可哀想にねえ。捨てられても、殺されかけても自分の住んでいた所は恋しいんだ。

そんな顔をするくらいに、怖いんだ。ざまあないとか、やってほしいとかは思えないんだね」



泣きながら、声も出せずに、口を動かす。

少年はそれでも、必死に訴えていた。

それは、やめてくれと。それだけは、と。



「…そんな所まで同じなんだ」



ぼそり、と一言呟いた瞬間に。

蛇の貌はすうと無に変わった。

全てに無関心なような。何かに興味を失ったような。それは目の前の少年から関心を失ったのではない。きっと、それは。




「……つまんねぇ」


「つまんねぇ、つまんねえつまんねえつまんねえなあッ!どこかに行けよ、早くッ!!てめえをうちが殺さない内にとっとと消えろボケッ!はあはははははは、あはははッ!」




気が狂ったように笑い転げ、怒り回り、口から唾を散らしながら罵詈雑言を飛ばし続ける豹変した姿に、少年はすっかりすくみあがり、這い這いの体になっている。逃げる事も出来ない。




「あはははははッ、ははは、ははははッ!

はははは…つまんない、つまんない。

うちは、つまんねぇな」




嵐が、去るように。急激に静かになった。その狂った妖怪は、そうして落涙を一雫だけした。

自分が結局、殺戮のみしか産めない事に。自分の奥底が求めるものが畢竟、殺戮という事に。


自己憐憫の、自己満足の涙だった。

つまらない。つまらない。それでも、俯瞰をしても止まらないものは、ある。

それは自らの性癖、本性で、あったり。




「………うちはね。探し物をしていたんだ。

もう一人は大切な人。もう「一つ」は…きみだ」


「あの紙キレ野郎が何かに告げ口したのかなあ。『龍穴』の力を横取りしてずるして力を得るのが出来なくなっちゃってさ。

だから代わりに、とってもまれな、龍血の子。少ないけど君を食べれば…」



「……なに言ってもわからないよね。

だから、さよなら」






ぶうん。


風が通り過ぎた。

黄色と黒の風だった。


巨大な虎が、少年を背に乗せていた。

そしてまた、振り下ろされかけた女妖の腕を、受け止める者、あり。




『…まったく!人使いの荒いことです。

まあ今の私は人ではないですが』



虎が口を開き、顔を歪める。その舌は二股に分かれており、人のようにべらべらと動いた。



『そして何より、危のうございますよ。私と違って貴方は死んでいないのですから、そう無茶をしないでください』



「世話をかける、沙門どの」



『……ま、良いのですがねぇ』



そう言われ、よく回るその舌を、納得の行かなそうに引っ込めて。すると不思議に、次の瞬間には少年を背にしていた筈の虎はぼうんと消えて、代わりにそこには小さな人型の紙切れが飛んでいた。



「……へえ」



しゅん。とそれが飛び行く先は、蛇なる一撃を受け止めた者の、胸元。

赤褐色に、暗く赤く光る髪をした男だった。一度なりとも人ならざる力と混ざった後遺症のように、髪と目が、赤い。



赤い目が、妖を射抜いた。

その目の奥にはやはり、優しさは無い。




「来たんだ。うちの所に。うちが探すよりも先に、会いにきてくれたんだね、紅蓮」



「……ああ、逢いに来た。冶魔。

此処に来れば、お前に逢える気がした」



「本当だったら、飛び上がって喜ぶ言葉なんだけどね。うちはまだ逢いたくなかったなあ。

まだもう少し、おめかしをしたかったよ」




一人と一つはそれぞれ紅蓮、冶魔と呼び合った。宿敵のように、恋仲のように、家族のように。そのどれもの距離であって、そのどれかには該当したくないかのように、その一対は再び距離を取った。




「……此処から、だったな。

己が、お前に手を差し伸べた。

あれ以降、忘れたことはない」


「うん。うちも一度も忘れた事はないよ」


「己は、ここで過ちを犯したんだ。

だから己は、その過ちを正さないといけない」


「ふふ、ふふふ。

うちが、過ちか。その通りだね。

だから紅蓮はうちを殺そうとする。そしてうちはそんなあなたと、ずっとずっと一緒にいるの。あなたが過ちと思う存在と、共に」



「………違うさ。

過ちを犯したのはおれだ。

罰を受けるべきはおれなんだ」



「……へえ?」



「あの時お前を止めれなかったのはおれだ。お前に罪を重ねさせたのは己だ」



怒り、憎悪が彼女を見つめる。

紅蓮の目の内にいつも通りにあるもの。

冶魔は始めてそれの正体に気が付く。ああ、きっとそれは、私の目に映る、自らに向けてぶつけていたんだと。




「冶魔。だからお前を斃す。

そうして己は己の中にある魔と共に、こんなことを招いたおれの魔と共に、お前と心中する」




「………は」


「ははっ、ははははは、はははははは!馬鹿だねぇ、愚かだねぇ、ほんとにバカ!そして見事なまでに、逆さだ!

うちは、罪だのなんだのどうでもよくて。あなたとずっと二人で生きていきたい!

あなたは、生きるだのどうでもよくて。代わりに罪なんてものを精算したいんだ!」



「そんで、うちも馬鹿だ。

それがとっても、魅力的に見える。

どっちになったとしても、素敵ぃ。

だから最期に踊ろうよ」



踊り、踊る。

罪と罰に、本性と愛に操られ。

彼らは月の下に踊り狂う。




「さあ、愛し合おう。

これがうちたちの最期なら最高だ」


「ああ、殺し合うぞ。

己は、こうして魔を滅する。お前と共に」




二つの影はこうして交差する。

……筈、だった。




だが、刹那。



「そして愚者どもは蓮の上へ登る、か」




「かか。

盛り上がってきたところだな。

最終局面、って感じだものなあ」






……





「二人の愚者は、踊り狂って死ぬ。

なんと無様で壊れたすとおりいだろうな?

だが、舞台に一人、足らんだろう。

仲間外れは悲しいじゃあないか」




…目の眩むような、蒼月の日だった。

この鬼仙と、出逢う時は。

いつも、この、これだ。

銀色の髪が、月を隠した。

宙から落ちる鬼の姿が、恒星の光の代わりに世界を支配した。





「よォ。

妾も混ぜてくれよ」





斯くして、愚者どもは上り終える。

この悪趣味な物語を、罪の概念を、全てを嘲る仏の掌の上と、その冷美を讃える蓮の上に。



それでも登らんと願わせる蓮の上。

鬼天たちは再び、相見えた。


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