土豪劣神
その蛇が、生まれた時。
妖の常として生まれ直し転生した時から。
この世を構成するその全てに疎まれていた。
その蛇の前世は神とも呼ばれるほどの妖だった。戦の神たるものと、互角に戦える程の力。むしろ世を厭う者どもに、邪悪なるかみとして祀り上げられるほどの八つ首の、蛇。
故に生まれてすぐ、その八つあった首の七つを、ちぎり取られた。残った一つの首にあるその眼を、口を、壊され縫われて潰され封をされた。
何も感じない暗闇と飢餓の牢の中、全てに怯えて、何も出来ずにびくびくと身体を震わせていた。
ある狂信者が、封を解き、からがらに脱走した時もその暗闇と恐怖から逃げ出したいという、その場からの逃げでしかなく、やりたいことも、本能に刻み込まれた殺戮欲求すら考える暇もなく。
広くて、狭い島国。いやだ、いやだと逃げて。ただ逃げて逃げて、海を必死に渡る。そんな無計画な逃避行の末は、死に近しい疲労。次に土に触るころには力尽きていた。
こわい、こわい。
何もかもがこわい。
うちはどうして生まれちゃったんだろう?
なんでこうなったんだろう?
そう、思ったまま、終わるはずだった生涯。
それを、見つけたのは小さな少年だった。
死にかけた、蛇を見て。
少年は震えながら、その手にあった狩りの獲物である小さな兎を、そっと口の辺りに差し出した……
…
……
「待てッ!」
そう口にした時には遅く。次元の裂け目はうにょんと音を立てて目の前で閉じた。
くん、と鼻を使う。目を閉じて熱源を見る。耳を澄ませる。臭線も切られた。どの熱が紅蓮かなどわからない。音など聞こえるはずもない。当然だ。
「…クソッ!
クソっ、クソっ、クソッ!!」
今回は、うちの勝手な絶望で周囲の全てが見えてなかった時とは違う。すぐに、辿れば見つけられる近さにもいない。今回こそ、完全に。
(完全に、撒かれた…!)
だあ、ん。地面を思い切り殴る。
八つ当たりにそうしても気が晴れることはない。それでも激情を抑えられずに何度も、何度もそうした。
「あああああッ!!
あ゛あああ゛ああ゛ッ!!」
……一つの亀裂が、小さな谷となりかけるほどそれを続けたあとに。ようやく、冷静さを取り戻した。
遅かったかもしれないけれど。
(……絶対に、諦めないよ。紅蓮。
うちは、何度でもあなたを探し出す。
たとえどれだけ貴方に嫌われても、貴方の横に絶対、いるんだ。そして、うちはまた紅蓮と一緒に暮らす。今度こそずっと一緒に)
ずきん。
ずき、ずき、と痛む場所が二つ。
一つは、あの糞婆アに蹴られた場所。
こめかみが、ずきずきと痛む。
そうしてもう一つ、彼に撃ち抜かれた、腹部。前の山の上で食らった場所も、ついさっきに二人がかりにされた場所も、同じ場所だった。
その、容赦の無いそれぞれの一撃にうちはもう一つ、脳の奥がずぐりと痛んだ気がした。それの認識とはつまり、うちに対する紅蓮の気持ちがどういうものなのかということに向き合うことだった。
(二度とないのだと、いつかから分かってはいたんだ。どれだけ愛しても愛しても、あなたはこっちを見ない。うちから離れようとする。遠ざけようとする。それでだけならいいのに、うちを、殺そうとした)
そうだ。うちはもうとっくに、分かってた。それに必死になって目を逸らしていた。それはうちがもう、紅蓮と共に歩める未来はないということ。
『ずっと、ずっと。やまと一緒にいたいなあ。…ぼく、ずっと一緒にいれたら、それでいい』
あの時、純朴な目でそう言ってくれたあの時から、何を間違ってこうなったんだろう。
うちを恐怖と憎しみの目で見るようになったのは、いつからだっただろう。そして……
「………うちを、もっと、もっともっと、その目で見て。憎んで、怖がって、そうした目で見て。
もっと、もっともっと、もっと!」
うちには、もうわからない。
あなたがうちを怖がるようになったきっかけも。あなたと一緒にただ居るだけでよかった安寧への喜びも。もう、紅蓮の失った貌や怖がる目がなかった時でも満足できていた自分自身のことも。
紅蓮。
あなたはあの婆アの事が、好きなの?
今は、それが大切な存在なんだね?
なら。うちはもう『そこ』にいくのは難しい。
だから、そこに行こうと、するのではない。
「なら、うちは貴方の───になる。
そうしてあなたの心に残ろう」
まずは見つける。
そして、次はどうしようか?
そんな目標が、ちょっと立てられた。
それだけで、うちの生まれた意味がまた一つ、更新されたような晴れ晴れとした気持ちになった。
紅蓮。
あなたはいつも、うちに生きる意味をくれる。
…
……
それはきっと、可哀想だ、死にそうだからと助けた少年の過ち。何かを助ける、何かを救うことは即ち美徳であり、美しいことではあろう。
だがその拾い上げたものが、救ったものが、その迫害を受けていたものの本性が。そうされて然るべきものだったときは、どうすれば良いのだろう。そこで苦しみ死にゆくべきだったものだった時は。
愛と共に暮らして、愛を育んだ。家族のように共にい続けても、それは生まれながらに持った、彼女の本性。
蛇は、蛇にしかなれないのだ。
……
………
…………
……一方、深い深い山の中。
ある死体と、猫の寝姿がある。
その横には真赤な髪をした、派手な青年。
隠すように笠を目深に被り外套を身に纏う。
青年の名は紅蓮。
そして横になる猫は、羅倶叉という名の女仙だ。
紅蓮はただ起こさぬようにとらくしゃの寝ている頬をゆるりと撫でた。そして自らの丹田の辺りに残る赤い力を、ふう、と自らの師に戻すように念じる。
出来るかどうかも、わからなかったが。がくり、と身体が重くなったように感じ、出来たのだとほっとした。これでいい。元々これは借り物でしかなかった。自分にとって、分不相応の。
何よりこれで、この方が傷に喘ぐことももう無い。今こそまだ痛むだろうが、いつかは、すぐには。
そうしてから、ひっそりと微笑む。
その笑顔に込められたものは、惜別だ。
すくり、と立ち上がり。
迷わずに一歩を外に踏み出そうとして。
「…どこに行くつもりだ」
ぴたり。
声に、足を止めた。
振り返りはしない。振り返ればもう二度と、青年は、それが出来ないと確信していたから。
「紅蓮よう、今は夜中もいいところだ。
お主も、ゆっくり休んでおけよ。
でないとまた、倒れちまうぞ」
「………」
なにも、話さない。
互いに分かっていた。どうするつもりなのか、この敢えて真意をとぼけた会話に、意味もない事も。
ざっ。
更に一歩を踏み出す音。
紅蓮のその歩みはまた、そこで止まる。
背中に当たる、嫋やかな手の感触。
足首に触れる銀髪の感触に。
「……羅倶叉さま…」
「…また!妾を…
置いていこうと、するのか…!?」
また。
その発言に、紅蓮は唇を噛む。
一度、命を捨てた。貴女に師事を出来て幸せだったと自己満足を言い残し、置いて行こうとした。
また置いていくのか、という問いはそれからくる心的外傷によるもの。もう二度と離れはしない、させはしないという傲慢にも近い懇願。懇願に近い、傲慢。
抱きつくその手を取って、すぐに抱きしめ合うことも出来ただろう。私が間違ってましたと、そう言うことも可能だったろう。だけれど、その愚かな弟子は。
それでも、一歩を更に踏み出した。
「…これが、ただの身勝手であるのだと、わかっているのです。貴女の期待すら裏切る事であるのも…」
「だから、それでも。私に失望をしないでくれるのならば。私の家族の不始末を、全て私がつけ終えた後に。貴女とまた一緒に、酒でも交わしたく思います。それくらいは、望んでも良いでしょうか」
落ちし雫は、ただ一滴。背を向けていたが為に、地に落ちた濡れ跡が唯一の証となる。
すう、と細い手がすり抜けていく。
抱き留めたらくしゃの腕が空を切って、そのまま崩れ落ちた。追おうにも、身体に力が入らない。無理をした弊害が、今になって、最悪のものとなって彼女に襲いかかっていた。
(動け、動け)
痛め付けるように、身体を叩く。
そんな経験も、永く生きて初めての事だった。
遠くを見れば、既に背中が遠い。
迷いを断ち切った歩みだった。
ああ、あぁ。
うめくような、嘆きの声が仙から溢れる。
涙と共に、やめてくれとこだまする。
「…待て。なんでもする!そうだ、あのあまを妾が殺しに行こうか!?酒なんて、すぐにでも用意するさ!だから、だから…!」
「…はっ、はっ!
待て、行くな、行くなッ!待ってくれ、紅蓮!妾を一人にするな!いかないで、くれ……」
「…いかないでくれぇぇぇっ……」
…
……
「……っ…」
遠く歩いた先。
紅蓮は、抑えていた涙をぼろぼろと流す。それすらする資格が無いと、ただ空を仰いでそれを抑えた。
『…おやおや。ひどい顔をしていますよ』
そんな懐から、ぺらり、と人の形をした紙きれが出てきて声を発する。
ぎょっと、驚いたことを尻目にひらひらと飛び廻り、そうしてから再び眼前に躍り出た。
驚いたのは紙が声を発した面妖にでは無い。
その声は、沙門の声そのものであったからだ。
「…あなたは、生きているのか?」
『いいえ、死にましたよ?まあ、なんというか。これは少し手の込んだ遺言みたいなものです。ああ、記憶には連続性がある為、同一と思って頂いて構いませんがね』
「……は、あ…」
『そんなことよりも。
……本当に、ひどいお顔です。
紅蓮殿も、羅倶叉さまも』
「………」
『…良いのですか?私には到底、あなたも彼女も、幸せになるようには思えません。そうすることで、お二人に何の得があるのですか』
「………己も離れたくなどは無い。共に居たいさ。何があろうともだ。だが…」
ぎり、と掌を結ぶように拳を握る。
自らを戒めるように、そうして彼女を傷つけた自分をことさらに痛めつけるように。
「…ただ己が悪いんだ。己は、居れば居るほどあの方に頼ってしまう。そしてそのまま、あの方に背負われることに、満足してしまう!それでいいと、あの方が優しくしてくれることに、餓鬼のように甘えて!」
「それが厭なんだ。己はあの方の横にいたい。そしてそれは、あの方のお荷物としてではない」
『男女として、とでも言いたいのですか』
「……いいや。そんなものは、烏滸がましすぎる。
…だから、せめて。」
「『己は貴女の弟子です』、と。胸を張って、らくしゃ様に言える存在になりたい。また会った時に、あの方に少し誇れるように。そうして胸を張って、師の横に居ることのできるように」
だから。
そう、区切って紅蓮はまた歩き始めた。
一度赤く染まった髪は力を失えど戻りはしない。ただ、煌々と光る力の躍動は消えていた。
その懐に紙切れがひらりとまた忍び込む。
手の込んだ遺言とやらは、まだ続くようだ。
「だから、己は、やまを。
己の妹を、止めなければならない。
他ならぬ、自分自身で」
そうして彼はまた歩き始めた。
復讐の為では、もはやもう無い。
ただ、自らの家族を止めるという為。
そして、師の元に帰る為。
そして、魔を滅する為。
その魔とはつまり、冶魔では、なく──
…
……
羅刹は、哭いた。
夜叉は、笑った。
そして蓮は、紅きを失い、発つ。
その復讐と魔を滅する願いすら。
羅刹への愛へと変えて。
羅刹も夜叉も、蓮上に踊る。
蓮はそれを踊らせているとも気づかない。
それこそが、最も重い罪であるやもしれない。
土豪の如く、神とされるようなものどもすら劣神させるその男を、堕落たる化身とせずなんたるや。
だが、何にも変わらず。ただ。
羅刹と夜叉は、恋情に踊る。
…
……
そうして、二つの魔の元より紅蓮が消え失せ。
数年が、経った。




