木人石心
「…う、う…」
幾度かの悪夢の後に、眼を覚ます。
廃墟を風避けにした野営は、とても快適なものとは言えなかったが、しかし休息にはなった。
紅蓮はぼうと、意識だけを保つ。
眼を閉じる度に、失う夢を見る。
自らの家族、受け入れてくれた人たち。それらが無惨に殺されていく姿。そして何より一際色濃く残るものは、銀髪の少女の心の臓が、ずぼりと貫かれる姿。瞼に焼き付いたあの景色が、少しの隙間に、心の合間に想起される。
故に深い眠りは得られず、そうして風を浴びようと立ち上がった時だった。
また、蒼い月だ。
年々とこれの数が増えている気がする。
それは凶兆なのか、吉兆か?
そんなことを考えようとして、その思考は消し飛んだ。
その光景に、焼かれて溶けた。
「……あ…」
蒼い月明かりの下。
絹鞘の白が映し出されていた。
真白が蒼月を写し、危ういほどに美を放つ肌は長い長い銀の髪に巻かれるようにその身を隠し、しかしその下には一糸たりとも纏ってはいない。
月の色を奪ったような金色の眼が、こっちを向いた。
「あ、ああ…!」
見覚えがあろう。忘れるはずがない。
その美麗や無謬なる猥褻に、しかし恥じらいや照れなどは無く、まずそこには喜びだけがあった。
夢ではない事を祈るように、ゆっくりと近づいて。
それを受け止めるように。
妖精じみたその少女は手を広げた。
「おいで」
ひしり。ただ、抱き合う。丹田の辺りにさらりとそよぐ銀髪の感触がくすぐったかった。
「師匠…!快復なさったのですね…!?」
「あー、いや。この蒼月の時だけじゃの。この夜だけ、久しぶりにこの体を維持できるようだ」
「一時的なもの、ですか…いいえ、それでもよかった。私は、私は…嬉しゅうございます」
「か。そうか。…ん、我ながら単純なもんじゃな。試しってだけのつもりだったけど、そうも喜ばれると妾もつい嬉しくなる」
「…ずっと、横にいてくれていることは分かっているのですが、やはりこの姿の貴女を見られて…ほっと、しました。本当に…!」
「おうおう、情熱的じゃの。
くふふ、悪い気はせん」
そうして、暫くの間手と手が触れ合う距離で強い抱擁と、しばしの歓談と再会を喜んでいた。が、その熱も暫くのうちに止み。冷静になってから、紅蓮はしまった、と言わんばかりに距離を離していく。
しかしああ、と名残惜しげに手を伸ばした羅倶叉は、紅蓮の眼には映らない。
なぜなら。
「…ら、羅倶叉さま。その、お服を…」
目を逸らし、そう、自らの服を一枚脱いで手渡す。その顔は少し赤くなっていて…いるならば、よかったが。どちらかというと、迂闊な行動をした自らに青ざめているようだった。
「ん、ああ!そいや裸だったか。は、そんなに気にすることはないぞ紅蓮!というか、いやいや、いまさら恥ずかしがるかよ。今更…」
そうからからと笑っていたらくしゃだったが、そう言って笑い続けても頑なに目を閉じて服を渡す様子に。
ふと自分の起伏の少ない身体を見て、何やらむずがゆくなり。そわそわと、かあと少し顔を赤くし、渡された服をひったくった。
「…やっぱり服着てくる。いや、恥ずかしくなったとかそういうんじゃないからな」
「……は」
「…ないからな!?何か変な勘違いをするなよ!?」
「は、はあ…」
…
……
「さてさて、待たせたな我がで…ん?
おお、おお!これはこれは!」
「お身体も冷えているのではないかと思いまして。それに…久しぶりに師匠に振る舞えるのではと、つい舞い上がってしまいました」
折角だから水も浴びてくるか、とそう言い放ち、暫く時間を空けた後。羅倶叉は、何処から出してきたのか脚の横に切れ目の入った動きやすそうな薄い衣を纏い、その上に先に渡された紅蓮の上着を羽織っていた。
そんな彼女を歓迎したのは芳しい煮込みの匂いと、湯気の立ち上る錆びた鍋だった。
「煙を上げるのも良くないかとは思うのですが…ええ、もし見つかろうものでもなんとかなるかと思いまして。さあ、よそいましょうか」
「お、殊勝な心掛けじゃな、紅蓮。いやはや実を言うとこうして無理に人姿になったのはお前のこの料理をちょい期待したってのもないではなくてな…
…っと、威厳の為にゃ言わん方が良かったかこれ」
「ふふ。いえ、そう楽しみにしていただけるのならば、私も作った甲斐があると言うものですから」
「ならいいか…いいのか?
まあ良いか!さて、それでは頂くと、す」
がらん。
ぐわら、がら、から、からん。
器を中身ごとぶち撒ける音。
急に、膝から崩れて、らくしゃは横に倒れた。まるで、ただ石ころにつまづき転んだ稚児のようであり、つまりそれは異常を示していた。
「かっ…
はっ、がはっ…!っ…!」
「あ、ああ…!らくしゃ様!羅倶叉さまっ!」
「……っ、ははは、冗談じゃ。嘘じゃあよ。こうして、お前に、心配させて甘える為の仮病よ」
そう、必死の形相で抱き抱えた紅蓮の腕の中で、からからと笑ってみても彼女の弟子の顔は晴れない。むしろそう、嘘を言わせてしまった自らの弱さを恥いるばかりだった。
はあ、と。その路線は諦めて、仙女は口の横を乱暴にぐいと拭った。相当量の、血が付いている。
「……ちぃッ、まだ駄目だな。くそ忌々しいが、あの時の傷はかなり深かったらしい」
「…私が、弱かったから。それにまた、衰弱した私に力を与えたものも…」
「阿呆。それは妾が勝手にやったことだ。
ぬしが気に病むことは一つもない。
……つっても、まあ勝手に気にするんだろうがな。おぬしは。そういうところは、良くないとこじゃぞ?紅蓮」
「し、かし…」
「…むう、相変わらず、変に意固地なとこは変わらん。一緒にいるうちにほだされとるのは妾だけか?」
問われ、返答に困っていると。しゃんらと。気が付けば服だけが抜け殻のように残りそこに代わりに居るのは、ここ数十日ほどに見慣れた、銀色の猫の姿だった。
「まあ、また暫くは節約もおどじゃな。……ったく、こう、ちまちまと舐めるしかない身体のなんと不自由なことか。それにこの身体、熱いのがだめなのがなあー」
「し、師匠!新たによそいますから床に落ちたものを舐めないでください!」
そうして、一抹の不安を紅蓮の中に残しながらも、それでも少し賑やかに。その夜は更けていく。
更に力を。彼女を護れるほどの、力を求める。
そうしながら、先に進むために。
(……己が力を、付ければ)
(いつか、らくしゃ様の力になれるだろうか…)
彼らが次に向かう先は、『死を纏う樹』の元。
それもまた沙門の依頼の一つだった。
…
……
怪物のうちの一つは。木人じみて、人らしくなかった存在は、人との交流を得て、その朱色を混ぜてだんだんと人らしくなっていた。裸体に、ほんの少しの恥を感じていたことはまさにその象徴だろう。
では、もう一つの怪物はどうか。
紫色の、毒蛇は。
…
……
おおおおお、と嘆き声が響き渡る。
それは数々の、男女子供全て区別なく響く悲鳴であり、焼けた空気が湧き立ち唸る音であり、そして流れた命を吸った地が反吐を吐く音。それらの合唱だった。
「あははあ。い〜い眺め」
脂が、髪が焼ける匂い。
異臭を嗅いで、満足げに、はあと息を吐いた。その『それ』は、まず一つにある人間の男の事が好きで。
そしてその次点で、殺戮そのものを好んでいた。
「あ、あああ、ああ!どうして、どうしてェ!私達が、なにをしたっていうんだ…」
「私達は貴女を信じて、信じて、そうしていただけなのに!貴女の気に触れるようなことも、なにも!」
「へええ?うふふ。面白い事言うなあ。何をしたって?何もしてない、だって!すごい事言うよねえ。うちだって厚かましいことこと言えないよ!」
口調はまるで、幼い少女のようだった。
顔もまた、表情の爛漫さも含めて、あどけない。
だがその眼が一度開かれればそこにあるのは、闇じみた黒。そしてその顔が存在するのは、怪物そのものの隆々とした肩と肩の間。
長い、長い紫黒の髪を、料理をするから邪魔にならないようにとただ纏めるかのような、そんな軽いように後ろに一纏めにした冶魔の姿は、不均衡で、力の爆発や煮えたぎる溶鉄の表面じみて力の象徴だった。
「うちがそれをやれなんて一言でも言った?うちが言ったのは彼を探してねってだけ。変な水を作れとか、そこにある変な『樹』を育てろとか、うちと同じような存在になろうとしてよ、とかそんなの言ったっけ?
気持ち悪いなあ。思い上がらないでよ」
断末魔に叫んだ発言者は、とっくに燃え尽きて息絶えている。だからその発言は、真っ黒な死体に向けての、ただの怪物の独り言だった。
「うちへの信仰を言い訳に好き勝手いろんな人を殺したりして、楽しかったでしょ?だから、そろそろ死んでおいて。というか、うちを信じて従うなら、うちの役に立てて死ねる事も嬉しいはずでしょ?逆に感謝してほしいくらいだよ」
見つける生き物の全てをすり潰していく。まだ生き残る黒炭を、殺しきってからごぐりと嚥下する。
焦げたものの味も、また冶魔は好んでいた。
「我ながら、完璧!うん。一石、四鳥!
勝手に紅蓮に手を出そうとする屑塵どもを駆除しながら、うちの力を蓄えることにも繋がって、そして紅蓮を呼び寄せる餌にもなる。最高だね〜」
力を蓄える。
そうだ、冶魔自身にも分かっていた。
あの時、紅蓮の横に居たもの。
紅蓮が羅倶叉と呼んでいたもの。
あれと打ちあえたのは、ただ、偶然気が抜けていた彼女に不意打ちを入れられたからだということ。それが無ければどうあっても自分は、負けていたこと。
自らが紅蓮を殺したという自殺より自殺じみた自責と、絶望と名付けるべき悲歎と、発狂にも似たような落ち込みが無くなって。ようやくそれについて考える心のいとまが出来た。故に初めてそれに向かう。
初めて、それに悔しさを感じていた。
確実に実力で負けていたというそれに。
(……もし、まだあのクソ女が横にいるなら。今度こそうちがあいつを殺さなきゃいけない。そのためにやれることは、やらなくちゃ)
ぎりぎりぎりぎり、歯を軋らせる音。
歯を、自らの骨を食いちぎらんほどのそれは彼女の中の強い決心と、そしてまた心の中にある悦び。
「待っててね、待っててねぇ、紅蓮。
うち、頑張るから。貴方がうちを倒そうと無駄な努力を頑張ってくれてるみたいに、できるだけ紅蓮を早く見つけるから。見つけて、迎えに行くからね。
出来るだけ早く、出来るだけ早く!あの女を殺してうちがまた横にいてあげる。今度は逃げられないようにずーっと見ておくからね」
自らの脳の中にのみある妄想に陶酔し、自らが作り上げた屍を弔うことすらなく、ただ踏み付けにしながらそれに相応しくない世迷言を呟き続ける。
その光景はまさしく怪物的であり、そしてまた。彼女が頬を歪めるのはそれだけではなかった。
彼女が嘯いた。一石、四鳥と。
一つは不穏分子の粛清。
一つは命を喰らい、力の蓄え。
一つは情報を流す事による紅蓮の誘い出し。手がかり作り。
そして、最後の石はつまり。
「……うん、うん。
わかる、わかるよ紅蓮。あなたのことがわかる。うちが関わってるこの人たちも、きっと放っておけないって思ってるんでしょ。それを、助けてあげたいって、図々しく思ってたんだろうなあ」
はっ、はっ、と。息が荒くなる。
だんだんと、頬の紅潮が激しくなっていく。
「うふ、ふふふふ。それが、うちに先に殺されちゃった。それを知ったら、どんな顔するんだろう?まだ、会ったこともない人たちが死んだだけなのに、きっときっと、すっごい悲しむんだろうなぁ、どんなに、可愛い顔をしてくれるんだろう……あ゛、ああ゛あ……!」
「あ゛ッ…!」
屍人しかいない空間で一人ごちながら、その妄想への興奮に、冶魔は濁点混じりの呻き声と共にびくびくと身体を震わせ、最後に一際大きく痙攣した。
どろんとした目を虚空に向ける。だらしなく空いた口からは涎が垂れた。黒い、黒い唾液だった。
「……あ゛っ、ん、はあ、……
ああ、会いたい、会いたい会いたい、会いたいなあ。早くきみに会いたいよ紅蓮。だから、うちも探すけどさ」
「…そっちもうちを探してねえ。必死になって、血眼になって。あは、ふふ、えへへへ!」
…
……
石の心。冷たく、人らしくないものをそう例える事がある。だがこれはそうですらない。
人を人として愛する温かさがありながら。
石にはない温度を持ちながらも。
その女にはある一人以外にはその温度が全く向けられはしないのだ。
それはまさしく、そしてただ。
怪物的なものである、と。
そうのみ喩えられるべきなのだろう。




