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飲水思源


「はっ、はっ…!」


がら、がら。がらくたを纏めて集めて急ぐ物音。ある男は黒い服を纏い、夜の闇の中に逃げようとしているのだ。造られたものの、手の負えなさにそれだけを捨てて。

そこはつまり、不死の水を作り、献上させていた村長の家。正確にはそれを乗っ取って作り上げられたまがいものの祭壇の上だ。



「くそ、糞っ、役立たずどもめ!儂がこのような屈辱的な目に…無能どもがいつも足を引っ張るせいで、儂のような優秀なものばかりが割を食うのだ…!」


「なるほど、無能は脚を引っ張るものか。

かか、その通りじゃな。お前を見ていると」



びくり。誰もいないはずの暗闇に響いた声に、肩を振るわせるその老年の男。咄嗟に振り向くが、だがそこには変わらず何もいない。



「…幻聴か?いや…」


そこに、響く。ぴちゃ、ぴちゃ。

舐める音。そして、その鈴の転がるような音。

黒衣は改めてその音の方向に向けて向き直る。



「……猫…?」


「げえ、ぺっぺっ。やはり出来損ないじゃな。の、上に。不味いのお。他人に呑ませようと思うのならもっと、味を考えたらどうだ。良薬なら口に苦くともよいが、駄薬ときたものなのだからな」


「…ッ!?どこだ!誰だ!姿を見せろ!」


「ほう、小僧。妾の声が聞こえるのか。

そちらの才はあるのに、勿体無いのお」


「…な、なんだキサマは…?

出来損ない?何が、何を…!」


「出来損ない、だろう。冶魔への捧げ物として作ろうとして、その出来の悪さに一瞥もされず。ならばその開発物を少しでも使おうと、野心が湧いたのだろう?か、かかか。小物らしい。実にわかりやすい、雑で不粋な小物の心情よ」



ふたたび、ぴちゃりと水を飲む音。



「ふむ。人やその他から命を絞り出して、ちと手を加えりゃあ、擬似的な不死を生み、怪物にとっちゃ即席の栄養剤になる水。考え自体はまあ悪くない。惜しむらくは発案者の無能か」



銀猫はそうして、飲み下した『水』の評論と目の前の黒幕の評論を終えた。暗闇の中、目だけが金色に光を放つその猫の姿は見た目に何一つの瑕疵はなく、であるからこそ声と纏う雰囲気の異常さを際立たせていた。



「無能、無能だと!?おのれ、何が…!」


「あーいい、いい。そういう馬鹿丸出しの言葉もいらん。時間の無駄じゃしな。まあだから、手っ取り早く行こう」


「……妾は正直な、どうでもよいのよ。

この村についても、貴様の処遇もな。

ここのどうこうを調べてこいと言われただけだ」


「が。妾の弟子は、そうはいかないようだ」



はっ、と焼け付くような殺意が黒衣の男を包む。そのぞっとするような感覚はつまり、ただ純粋で、故にこそ強すぎる感情。


視界の端が赤く染まるような、どす黒い感覚。足音は摺ったように静やかで、気配も消していた。だのに、その怒りが、殺意が、全く消し切れてはいなかった。未熟ゆえというべきか、はたまた。


それを発す主が、ただ、言う。



「聞きたいことがある」


「この水を作ったのはお前か」



紅色の髪と、そしてまた、表情の少ない貌。しかしそれは今、額の皺と共に怒りを刻んでいた。紅蓮という男の、その青年の額に。





……




上記の、少し前の事である。

紅蓮は師の言った通りに水をごくりと呑んだ。



「があっ…ぐう…!」



どくん、どくん。胸の奥の、更に奥。内側であり、瞼の裏のその裏で、その鼓動が暫くなり続けていた。真っ暗な空間でそれを見た。その光の輝きを、紅い光を。それは自らの混じり混ざった、いのちの源であるのだと分かった時。根源に触り、その形が分かった時。


紅蓮は、再び目を覚ましていた。


そしてまた、見る世界は一変して、いた。



「……なるほど、これは、こういうものか。

…人外の者に向けられた、命の煮凝り。

そして今、己が、それを摂取した…」


「……そして、これの基になったのは…」



「紅蓮さんよ、あんた、無事か!?」



息をからがらに、しゃがみこむ紅蓮。

そしてそれを心配げに眺める蜃という男。

この村に来てからの、協力者。

紅蓮はその男を、悲しげに見つめた。



…この水で、生半な生命が命を注ぎこまれれば、あれになる。ここにきて、見つけたあの巨大な軟体生物に。

そしてそれを切り取り、搾り出せば、その『水』が生まれる。より乳が出るように品種改良された牛から、乳を摂取するように。林檎の果汁の汁を絞るかのごとくに。


『不死の水』。

その噂の正体はつまり、こういうものだ。飲ませて、肥大化し、更に絞って飲ませ、無限に肥大化させて増やして更に広めていく醜悪なる畜産業。それだ。



「そして、つまり、噂はあえて流されたものか。更にこの煮凝りを、作るために…この水を、搾り出す量の増やすために」


「…!…無事、ってだけではないみたいだな。

あんた、その目は…ああ、俺が見えてるのか」


「……」


無言に、首肯する。

『見えている』とは、どういう意味か。

それが今の紅蓮にはわかっていた。



「……そっかい。ならまあ、良かった」


「…こう、なって、わかった。…貴方は…」


「あー、言い訳をすると、な。

十年前くらいにこの村にいたってのも、塩売りをなりわいにしてたってのも本当さ。ただ塩が弱点だってのは、嘘さ。俺がなんとか、身体を動かせる安全地帯であったけど、説明はできなかったから…」


「…悪意がある嘘でないのは分かっている。

己は少なくとも、あなたのその嘘に助けられた」


「そう言ってもらえると嬉しいねえ。ただ、まあ、助けなくとも『俺たち』程度に、あんたは負けなかったかもしれないが」



かかっ、と肩の荷が降りたように楽そうに笑う、蜃。それを、どんよりとした目つきで、しかし目を離さずに紅蓮は見据えていた。

口惜しくも、この醜き水が、中途半端な混じり物として馴染めなかった紅蓮の半妖の身体を整えた。そうして、より透明になった世界。


その中で、ゆらりと透き通っている、シン青年の姿を。今や半透明に見える、その思念体の姿を。



「まあ、察した通りさ。ああ。この村の住人は全てこの水になって死んだか、もしくはさっきの塊の魔物にさせられた。飲ませられて、あれになって、一つに集められて搾られてな」


「……そして貴方もそれを斃そうとした」


「は、そんな大層なもんじゃない。怪しい噂が俺の故郷から出てるのを知って、里帰りをして、そんでまだ残ってた男衆を纏めて、少しでもマシにするかってだけのつもりだったんだ。途中までは上手く行ってたんだ。本当だぜ?」



諦めたように首を振るう、シン。

紅蓮は、彼に出会ってからまだ数刻も経っていない。

彼がどんな人となりかもわかりはしていない。しかし、それでも。だからこそ。ただ、悔しげに目を瞑った。



「…俺らに止めをさしたクソ野郎の見た目はこんなんだ。なあ、会ったばかりで、だのに頼み事ばかりですまねえな、紅蓮さん。だがもう一つだけ、ついでに頼まれてくれないか?俺を、俺らを…」


「……」



そう言ったきりに、青年の姿は、消えた。

そして紅蓮はただ立ち上がる。

ごうと燃える、怒りを胸に。





……





「この水を作ったのは、お前か」


「な…だ、だれだお前らはっ!?何故勝手に入り込んでいる!?クソッ、役立たずども、役立たずども!意識があっても頭が悪すぎて儂の会話が通じん、肉塊にしても今度は融通が効かないと来たものだ!」



ちかっ、と紅蓮の目から光が走った。激情の齎す光だった。だがその怒りのままにこの下卑た黒衣を締め上げようとした刹那、その空間に来訪者がある。


ぐおおおおおん。

大仰な、破壊音を伴って。



「まあ、ふん。誰が入り込もうと、何を分かったところでなにも変わりはしない!どうせ貴様らもこいつらの仲間入りよ。何も言わぬ従順な肉塊になれば貴様らも幸せになれるぞ?」



そうして現れたのは肉塊ども。その、黒衣に造られたからか、何か仕掛けがあるのか。その意識がないであろう蛞蝓じみた化け物は黒衣を襲おうとしない。その中身が、この男に弄ばれた市井の人々であろうに。



(俺らを、殺してくれ)


「……」


悔しいだろう。

悲しいだろう。

化け物どもに理不尽にも全てを奪われ、抗えもしない。その気持ちが、己には、よくわかる。

だからこそ、蜃の最期の言葉がよく聞こえた。

拳を、ただ強く強く握った。



「おう、妾の残した道標には気づけたようじゃな。それならあの水も飲んだか。…さあ、どうするよ紅蓮。どうにもシンとやらは生霊というやつだったようだな?そんな、行きずりの奴の頼み聞いてやる律儀も無かろうよ。我らがやるべきことは、達したわけだしなあ」


「…師よ、下がっていただきたい」


「かか。まあ、お前ならそう言うよな。

むしろそう言うのを、妾は待ってたとも!」



逢って、数刻もしない人間のために心の底から怒る愚かさにも似た優しさ、人好し。有無を言わさず前を睨む姿を見て、むしろ羅倶叉は心の底から満足したように、かんらかんらと笑いころげる。



「さあ、ならば往けい我が弟子っ!

目の前の外道の産物を主の手で滅せよ!」


「波ッ!」



返事は、掌打より放たれる爆音と気合の声にて返される。白金色をした肉塊は、紅の蓮が放ったその一撃にぶるぶると震えてよじれた。

衝撃は内側から弾けて混ざり、そしてまた叩き込まれていく。


ぶるり、と震えた肉塊。

発声器官もないが、悲鳴じみた音を全身からかき鳴らして押し潰さんと身体をよじらせる。それを後ろに飛び避け、そのまま手刀で乱雑に突き立てて切り刻んでいく。



「……雄雄雄雄ッ!」


ひときわ、大きい気合いと共に。粘性を帯びた肉の塊がどぶしゃあ、と激しく切り裂かれて、血が飛び散った。白金色の返り血は地面と紅蓮にそれぞれ当たり、そして紅蓮に触れたものはその身体から発せられる熱に即座に蒸発した。


裂けて飛び散った肉の破片が、それぞれ剣のように尖って紅蓮を四方八方から狙う。しかしそれが一つも当たることはない。ただ弾くこともなく最低限の動きのみで全てを避けた。



「なっ、なっ…!なにを、なにをしてる!役立たずめ、せめて侵入者を殺すくらいはしろ!」


明らかな、動揺。それを御しきれずに逃げ出そうとしていたというのに、その怪物を圧倒されているのだから、当然だろう。

そうだ、この蛞蝓じみた、肉の塊。その質量は恐ろしいものだ。一体、何十何百の人の命を喰らった肉の量だろうか。その質量は、つまり常ならば、あっ、というまに潰され、死に終わるようなものである。本来ならば、戦いになるようなものではないのだ。少なくとも、人が戦うとするならば。


だが、しかし。これはつまり、紅蓮には。



(『この程度』、今までの相手には程遠い)


「だろう?我が弟子よ」



そうだ。

今更に、こんなものにお前が負けるものか。

羅倶叉はただ密かに嘯いた。

彼が、殺さんと誓うは魔そのもの。

そしてその為に手合わせしていた者も、魔そのもの。

そしてその身体に混じった半分も、魔。

ならばこそ、今の紅蓮にこの程度は敵ではないのだ。むしろ、そうであるならば、冶魔という存在の指先一本にも勝てはしない。


しかし瞬間、黒衣の老人の顔がにたりと邪に歪んだ。そうしてから早足で、銀色の猫に近づき。



「…ひっ、ひひひひっ!そうか、それならば。儂はそこの薄汚い獣を殺すとしようか!貴様がなにやら大事にしているようなこの猫をなぁ!」


「…おっと」


そうだ、肉塊から背後に庇い、そして後ろに下がらせた動きから男はそれを見抜いた。そうした人の弱みを見つけることだけは、老人は秀でていた。



「!羅倶叉さま!」


刹那の動揺。瞬間を逃さなかったか、はたまた偶然か。肉塊は、シンたちは蠢いてから紅蓮の上に覆い被さった。ぶちりと潰されて、赤い血が噴き出て、紅蓮の姿は見えなくなった。


それを確認して、また下卑た笑みをさらに深めて。ぐいと猫の首を乱雑に持ち上げた。



「はははははっ!あっけない、油断をすればこの程度か!あとはお前をくびり殺して終わりよ、糞猫がっ!儂を無能呼ばわりしおって、しおって!」


べき、ぐしゃ。その音は、羅倶叉の猫姿、その首が折られた音ではない。

それを片手で握っていた黒衣の男。

その、腕が。ひしゃげた音だった。



「…え?」



…肉塊から血として溢れていたものは、件の『不死の水』。命の水の蒸気を纏う姿は、掻き消えて、代わりに幻のように消えて、気付けば後ろにあった。

そうだ、その蒸気は蜃気楼となって。潰された紅蓮の幻影を作っていた。そして、その本体は。



「……穢らわしい手で。

我が師に触れるな、下衆者が……!!」


身体中より沸き立つ蒸気とともに、黒衣の男の横に立ち、そして羅倶叉を縊っていた腕。びき、びきと。それをただ怒りのままに握り潰していた。


この、村の惨状。そして顛末を知っての紅蓮の滾る怒りはとてつもないものであった。


それを、優に超える憤怒。

老人はつまり、紅蓮の地雷を踏んだのだ。

その怒りは、彼に新たな力を目覚めさせるほど。



「ほほう。霧の…まぼろしか!

かか、器用な真似が出来るようになったの、紅蓮」


「師匠、師匠!お怪我は!

そのお首になにか痛痒はございませんか!」


「あ、あるわけなかろう…お主ちょくちょく本当に妾のこと猫と思ってないか?」



だがもうその怒りすら消えていく。

そんなものは、心配と安心の前に消えていく。そして、村の惨状、蜃たちの顛末への怒りも、もはや。

それを保つ必要もなく、残るは憐憫のみ。


まだ、戦おうとしているのか。

はたまた減った身体の部位を補わんとする生存本能か。銀肉塊はこちらに触手じみて手を伸ばし、それを紅蓮は蹴り切った。ただの蹴りであるはずのそれは、今や鎌鼬じみた切れ味となっている。



「さ。妾のこたあ良い。と、いうかそろそろ抱えてないでおろせ、恥ずい。

……あれらに、改めて引導を渡してやるといい」


「…は。その通りに」



紅蓮は蜃青年たち、の前に改めて立ちはだかる。

そしてもう蠢くのも鈍くなったそれに、暴力のためでなく、ぴとりと優しく手を置いた。



「……己がもう少し早く知ることが出来たなら…

…いいや。無意味な仮定だな。だが…」


「失われたものは決して戻らない。

だからこれが、せめて。貴方たちの希望に少しでも沿えるものだったら、嬉しい」



その、置いた掌に。むんと力を込めた。波動、振動が身体を貫いて、肉塊を破裂させた。


銀色の雨が、室内に燦燦と降り注いだ。


「………」



「おう、お疲れ。

さっきの無能は…ふん、逃げたようじゃな。追って殺すかよ」


「……いえ、十分です。追って、倒すことは幾らでもできます。片腕も潰しました、十分でしょう。

だから、せめてその前に」



ぺちゃ。

もう、動きはしない白銀色を持ち上げる。

そして紅蓮は瞑目して、言った。


「この者らを弔ってやりたく思います」


「…か。馬鹿じゃのう、お主は。

だから、強くなれぬのだ」



「そして、やっぱり。

そういうところが嫌いじゃないぞ」



そうして、その村そのものの墓を作った。

名前もわからない人々と村の、その墓。

水村山郭、おそらくは美しかったであろう。

それをこうした魔を壊さねばならないという決心を新たにしながら、紅蓮は、ぐらりと頭を揺らした。



「……あーあー、やっぱり、無理しすぎじゃ。怒りに身を任せた無鉄砲じゃ、長続きせんぞ?

そこも含めて教え直しじゃなあ」


「…ま、なんにせよお疲れ、我が弟子。

とりあえずは、ゆっくり休め」



また、身体の生気を使い果たし。

ばたりと、死んだように横倒しになった。

ふわふわと、銀糸の猫がその上に乗ってくああとあくびをした。





……




「…なるほど。そういった顛末、ですか。

ふふ。生き霊の尽力を得ての打倒と。

どらまちっくで、素晴らしいものですね」


「……己たちの人生は劇や見せ物では無い」


「おっと、気を悪くしてしまったのなら失礼。

やはりというべきか、新たな力を得たようで」



人の、ごった返す街。

再び歩いて、拠点の街へ戻り、そうして沙門に一部始終を報告しているところだった。相も変わらずに、この胡散臭い男は笑みを絶やさない。



「…新たな力、か。ああ、確かに手に入れた。沙門、貴方は己たちがそこに行く前からその事をわかっているようだったな。何故だ?」


「それについては、答える理由がありませんね。あなたには都合がいい。そして私には得が無い。ならば言う理由は御座いません」


「……」



それも、もっともだ。

此方は力を得て、情報も貰う身。

それ以上贅沢は望めはしないだろう。

訝しむ気持ちを抑え、そう思うこととした。



「いたたたたたっ!紅蓮様、この子を止めてくださいな!さっきからずっとやってくるのです!」


「こいつ紅蓮を虐めおって」


「し、師匠!師匠!引っ掻くのをおやめください!」



相変わらずに、この商人に当たりの強い猫姿のらくしゃをどうどうといさめながら。

暫くはこの街で休息を取ることとなった。

曰く、情報を得るに時間がかかるとのことだ。



「ふむ。しかし、黒衣の男ですか…

逃げられてしまったのは、手痛いのではありませんか?あなた方にとっては、これから付き合いの長くなる手合になってしまう気がしますが」


「…そう、かもしれないな」



ぐ、と、紅蓮は掌を見つめた。

あの場で、殺しておくべきだったろうか。

しかしそうする事も、殺すということそのものが彼には忌避感がある事だった。そしてそれが、自己満足でしかないこともわかっている。


いつか、また奴に会う事となるか。

であるならばその時にこそ、成敗を。

そう、思った。

 





……






…遠い、遠いどこかの場所。



「…ぜっ、ぜっ!くそ、紅蓮とやらめ!我々の、いいや、儂の邪魔をしやがって!今度立ちはだかるならば、今度こそは総力を持って殺し尽くしてやる!

この、腕の借りは億倍にして返して返して…ッ」



びちゃ。

質量を持った、ものの音。血が垂れる音。黒衣の男が、潰された腕を庇って垂れる血の音。


とは、別の音だった。




「ぐれん?」



びくり、黒衣の老人の背が揺れる。

その声に驚いたのではない。その気配の恐ろしさにびくついたのではない。この、恐ろしげな存在そのものが、ここに至るまで気付かせなかったことに怯えたのだ。

息を荒く、ゆっくりと振り向いた。



「ねえ、今、おまえ、紅蓮の話をした?」



そばかすがあった。

七尺程の、背丈があり。

分厚い丸太じみた手脚と、全てをへし折り得る隆々。

紫混じりの黒い長髪。毒色の艶めいた髪だ。


見るからに、衰弱をしていた。

目元と頬には血の涙が流れ流れ、流れ尽くした跡。そして頬はこけて、目の下には体液の色を悟らせる黒紫色の隈が色濃く残り、肌も真白だ。


だが、それでも。その存在こそが。

全てが、保証と担保をしていた。

この存在が、魔そのものであること。

黒衣が信奉する対象であること。




「……あ、あ…冶魔、やま、さ、ま…?

生きて、おいでで…」



「紅蓮をなんで、しってるの?いや、そんなことよりさあ。ねえ。会ったみたいな口ぶりだったね。ねえ。まさか」


「紅蓮って、生きてるの?」



信奉の対象と出会った、高揚の震えではない。

ただ、心の底からの恐怖。

がくがくと震えて、何も出来ない。

怪物の、魔物の、魔獣の。

その手が届く場にいるということだけで。



「………ぐれん、紅蓮、紅蓮ぐれん紅蓮!生きてた、生きてたんだ、生きていてくれた!

うちが傷つけた、うちがやった、そうだ、それは何も変わらない。でも、それでも今でもあの子が今でも他の奴と一緒にいるなら、ぐれんを傷つける奴といるなら…」


「……うん。まだ、間に合うよねえ。

うちが、また迎えに行かないと」



ぎちり、と牙を噛み合わせながら笑顔を浮かべる化生。そうしてから、ぞっとするような無表情に顔を変える。神経質そうな眉を弄りながら、ぐるりと眼を剥いた。



「……なるほど、うん。紅蓮を、害そうとするなら。こいつらも全員邪魔だなあ。私がしばらくいない間になにか厄介な事になってるし、いちいち集めるのも手間がかかるし、そんな時間あるなら……」




「あ、そうだ。さっきさ、お前。紅蓮を殺そうとしてた?そんなこと言ってたよね」



「…へ…ひ、…あ」




ど、ぶしゃ。

血が、垂れるではなく飛び散る音。

血だけでなく、命が撒き散らされる音。

黒色の衣服は、一瞬でただのぼろきれになった。その天災じみた腕に片手間に裂かれて。




「……うん、うん。うちを、利用してるって感じか。人手とか、紅蓮がどこにいるかを知るのに便利だから使ってたけど…これならもういいや」



「ぜんいん、殺そっと」




腕を振り抜いて、血を払う。

手先に残った肉片を舐める顔は、歪んでいる。

その先にある、愛しいヒトとの再会を、妄想し。




「あはぁ。

すこし待っててね、紅蓮?」


「すぐ迎えにいくから」



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