Epilogue
こうしてパエリエは無事王宮に帰還した。
珍しく激しく狼狽した国王夫妻によかったと抱きしめられ。
コリンヌに泣きながらすがりつかれたあたりで、すみませんが、婚約者を安心させる役は僕に回してくれますかと、リカルドが連れ去ってしまった。
リカルドがいつも身を置く執務室で、その晩はゆっくり休み、翌日目覚めた時には既に日は高く昇っており、何時なのかよくわからない。
テラスで呆然と、パエリエは座っていた。
ふしぎな心地だ。
大庭園のバラの香りをかいでいると、リカルドがやってきた。
「今、何時?」
「きみが眠った翌日の昼過ぎだよ」
「えっ?」
もうそんなに経っていたのか。
ふわぁぁと気の抜けたあくびとともに、彼は隣に腰を下ろす。
「僕も少し休もうかな。きみたちが無事戻った祝いだ、ついでに僕の誕生日もやろうと、母上が言い出して。あれからパーティーに付き合わされどおしでね」
「……嘘」
それでは、彼の誕生会は終わってしまったのか。
「きみも起こそうかとは思ったんだけれどね。やはりあんなことがあった後だし、自然に目覚めるまでそっとしておこうということでみんなの意見が一致したんだ」
はぁぁと思わず長めの吐息が出てしまう。
出た、お人よし王族一家。
優しすぎは時に惨事を招く。
ふっとパエリエは微笑み、肩を落とした。
あまりにあまりに、大好きだけれど。
「なにをそんなに気落ちしているんだい?」
「……お祝いの会、過ぎちゃった」
「え?」
心配そうに身を寄せて来たリカルドは、ふふっと笑った。
「なんだ、そんなことか。びっくりした。どこか具合が悪くなったのかとひやひやしたよ」
背中に手を回されて。
それがこんなにも当たりまえのものになっていたことに驚き。
実感して。
じわっと、目がしらがかすんだ。
「リカルド……リカルド、さん」
込み上げてくる衝動のままにもたれかかると、彼がしかと抱き留めてくれる。
「ほんとうに困った人だ。人のつらさは素通りできないのに、自分の恐怖に気付くのはいつだってワンテンポあとなんだから」
よしよしと頭を撫でながら、あやすように言われる。
「怖かったね。存分に泣いておいで」
「うっ。ううっ……」
泣きながら、ふしぎな既視感がパエリエを襲う。
彼の前で泣くのは、二度目だ。
街から王宮を見上げたあの日から。
全てを見下ろしてやろうと息巻いてここまで上ってきたのに。
自分を見下していたと思っていた堅牢な国は今、ただ静かにパエリエを包み込む。
「……」
涙を拭き、顔を上げると、リカルドの優しい眼差しとかちあう。
目を逸らして、後。
パエリエは、小さな布を差し出した。
王宮に帰って早々、無事を確かめた、贈物。
小さなハンカチーフでできた、眼鏡拭き。
へぇ、とリカルドは興味深げにそれを日にかざす。
「よくできた刺繍だ。これは、ポメラニアン?」
ぎこちなく、パエリエは頷く。
「今までの、お礼と。それから……誕生日の、プレゼント」
そして、愛すべき侍女の助言を思い出す。
「困ったような笑顔が、あなたに似てるって。ずっと思って――」
ああ、やはりこそばゆい。
手をこすりあわせながら、目を逸らし。
王妃候補の姿勢としては落第だ。
だが。
「はあっ!」
皇太子の反応は過多ぎみであった。
震えを抑えるように顔を覆い、俯いている。
「どうしよう、とても複雑な想いが」
「や、やっぱり、いやだった?」
どうにか覆った手をどけたリカルドは、飼い主からご褒美をもらった犬のように瞳をきらきらさせて、
「男として愛しい人に小型犬に例えられるのはどうかとかそんなことふっとぶくらい嬉しい自分が悔しい……!」
それがなんだかかわいく思えて、パエリエも笑い出す。
「やはりきみはかわいい人だ。王室に自分が相応しくないなどと、もう一瞬でも思うんじゃないよ」
ふいにその手を取られた。
「怖い想いをさせてほんとうにすまなかった。身をもって知らせてしまったように命がけの仕事だ。王族なんてこりごりだと、そう思わせてしまったかな……」
今度はしゅんと眉を下げ、落ちこんだポメラニアンだ。
「——『見下げてきた国を見下ろしてやりたくはないかい』」
かつての言葉の復唱に、皇太子は目を上げる。
「あんたのその言葉に惹かれて、ここまで来たけど。——今は」
やれやれと、パエリエは宙を仰ぐ。
「おかげでもっと厄介なものに取りつかれちゃったわよ」
首を傾げるリカルドに、意味深な笑顔を送った。
「——人生は転じる」
心のほんの片隅ででも、自分に期待をしていれば。
「少しずつ自分の心の前に価値の札束を積み重ねていけば、きっと。そう思いたい。この国の人々に、思ってもらいたいの」
身を乗り出し、リカルドの耳元で、囁く。
「あんたがあたしに思わせてくれたように」
魔法をかけられたように目を見開く彼を笑いながら、パエリエは姿勢を戻した。
「だから当分、ここに居座るわ」
魅惑的に腕を組み、手慣れた女性らしくいたずらっぽくウインクを投げてみせる。
「あたしをこんなふうにしたからには責任取りなさいよね」
ただ本心から――魅力的に見せたいと思った相手は、初めてだった。
「望むところだ」
彼はそれを受け止めると、自ら身を乗り出し、パエリエのこめかみに口づける。
「これでもかってくらい幸せにしてみせるよ」
そのままの姿勢で、愛しい婚約者に、囁く。
「きみにもつらい思いをさせてばかりで。ふがいない王子だが。それでも僕とともに歩んでくれるかい」
「——まったく、ばかね」
抵抗せずに肩をすくめ、皇太子に王妃候補は答えた。
人生には生きる価値があると。
自分も大事にされていいのだと。
「あたしにこんなふうに思わせてくれた。あんたじゃなきゃ」
花びらを閉じるように、ふいに口を噤み。
否。
そこに内包する甘い果実は、押し留められない。
「……好きになんかならなかった。こんな厄介な感情知らずにいられたのに」
いっぱいの果実を一口では嚙み切れないというように。
リカルドはぱくぱくと口を開閉する。
「パエリエ、今なんて?」
むすっとパエリエは横を向いた。
「こういうところで聞き逃すとか、つくづく残念王子ね!」
「だってきみ、そういうのは小声で言ったらいけないよ」
ああもう、とやけっぱちで、パエリエは皇太子に向き直る。
「好きだって言ってるのよ! ばか。ばか……」
文句を言うように拳でぽかぽかとその胸を殴り、最後は顔を埋めた。
「——僕もだ」
長い旅路の果てに、勝利を手にした皇太子は、しみじみと余韻に浸る。
「きみをつくっているもの全てを」
そして、浸った感情を、隣の彼女に惜しみなく与える。
「愛している。パエリエ」
人生は甘くない。
だが。
物語のページのように、人生は転じる。
神々しくも、ドラマチックにも、甘くも。
昼日中の太陽に手さされ、神々しい二つのシルエットがそっと重なる。
それを知ってしまった彼女はきっともう、この味から抜け出せない。
了