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 辻馬車が止まり、パエリエは大地に足を降ろした。

 鬼百合の髪を、つぎはぎのあるバンダナで覆い、みすぼらしいスカートを履いて。

 きらびやかな衣装は全て王宮に置いてきた。

 とぼとぼと、細い足は石畳の貧民街を歩き出す。

 王都を離れようと彷徨っているうちにとうとう戻ってきてしまった。

 その建物を前に、彼女は足を止める。



 娼館マグダラ。



「……」

 足が震えてなかな踏み出せない。

 ――いやだ。

 ――帰りたくない。

 ――でも。

 精彩を失ったオレンジペコの瞳は、相変わらず繁盛しているらしいその店を見上げる。

 結局あたしの居場所はここしかないんだ。



「姉さん。パエリエ姉さんね?」

 ふいに呼び止められ、パエリエは振り向いた。

 若い女性が立っている。

 数秒見てはじめてその名を唱える。

「ローザ、なの?」

 娼館の新入り。

 客に支払いをごねられていたのを助けた少女。

 彼女が入ってたった数週間のうちに娼館を出て行ってしまったが、なにかと世話を焼いたので覚えていた。



 声をかけられなければ通り過ぎていただろう。

 ローザはだいぶ見違えた。

 ふっくらと健康的な赤味がかった頬。

 衣服も小ざっぱりした清潔なワンピース。

 みだらな娼婦の香りなどかけらもない。

 視線でパエリエの想いを察したかのようにローザは肩をすくめた。



「あたし、ここを辞めたの」

 数秒、意味が飲み込めずに瞠目する。

「みんな次々に辞めてるわ。というか、辞められるようになったのよ」

「どういうこと?」

 客との取引がうまくできずに泣きじゃくっていたあの頃が嘘のような快活さで、ローザは笑う。

「パエリエ姉さんがいなくなってすぐくらいかしら。国の偉い医師団の人たちがやって来て、検査をしていったの。カビのはえた娼婦たちのシーツや食器。洗い場なんかもぜんぶ。さいしょはみんな仕事の邪魔だってうるさがってたんだけど。そのうちに、感染症の診察や薬の処方もしてくれるようになって。先月正式に国王様から、保護指定なんとかってのになったらしくて。衰弱した娼婦から次々に施設に移ってるの」



 ぱちり、ぱちりと瞬きするために、なにかが鮮明に見えるような。

 この感覚は――。

 眩さに身もだえるように、パエリエはこめかみを抑える。

「元気になって仕事も決まった子もいて。あたしも。信じられる? 食事処の会計をやるのよ」

 浮き立つローザ背後に、深みのある声が聞こえてくる。

 かつて娼館を訪れた一人の男。



『ここで働くみなさんの健康と衛生環境の調査をさせていただきたい!』

『研究資料に使わせていただく条件で無料で改善案も提供いたします! いかがでしょうか!』



 あの時はこの人生にここまで踏み入ってくるなど思わなかった声。

 あれは、はったりなどではなく。

 真実だった。

 パエリエはそっと目じりを拭う。



「……よかった」

 心から言葉が出る。

「今度は支払いをごまかされちゃだめよ」

 軽口にもローザはからからと笑った。

「これでも高級店よ? 支払いごねて暴力振るう奴はいないわよ」

 そっと、ローザはパエリエの手にふれる。

「姉さん、すごいお金持ちに見受けされたってシェンデルフェールからきいたけど。……きっと酷いことをされたのね。それで戻るしかなくなったんでしょ?」

 返答はせず、笑っておく。

 そのぬくもりだけで、十分。

 現実に起きた事変を報せる必要はない。



「でもね、もう大丈夫なの。あんな仕事しなくていいのよ。一緒に保護施設に行きましょう」

 パエリエは静かに首を振る。

「あたしは、そんな場所に相当する人間じゃないから」

「なに言ってるの? 清潔なベッドも。必要なら薬だって――」

 無言でローザの頬を包み、パエリエは言った。

「幸せになるのよ」

 一瞬、ローザが虚を突かれたすきに、身を翻す。

「パエリエ姉さん、姉さんてば!」

 彼女の叫びにパエリエがふり向くことはなかった。


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