⑤
翌日の夜更け、パエリエは娼館の主の隣を歩いていた。
タキシードに豪奢なクラヴァットを飾った頑健な姿に伴い粛々と。
大事な顧客の時はこうしてじきじきに雇い主から紹介される。
バールヴァイオレットのドレスに、黒いレースのショールを被った姿が大ぶりの鏡に映る。
館の主——シェンデルフェールからすると妖艶さを増すそうだが、童顔の自分にはちぐはぐに思えてあまり好きではなかった。
「らしくないな。緊張しているのか、パエリエ」
上辺だけの言葉はもっと、好きじゃない。
つんとパエリエは顎を逸らす。
「日常のデスクワークと同義になった仕事にどう緊張しろって? それとも、そのほうが初々しくて好感がもたれる?」
シェンデルフェールは髭の奥で笑った。
渾身の皮肉も、この男にはたわいない子猫のじゃれつきとしか映らないらしい。
「安心しろ。お前は稼ぎ頭だ。丁重に扱うようにと先方にも言ってある」
悟られないように小さく息を吐き出し、数メートル先に聳える一等客用のサロンの扉を見据える。
年齢も仕事の数も。
何一つ把握していずに丁重に扱うか。
「なにか欲しいものはあるか」
気まぐれに。
一人遊びにゲームのサイでも投げるように、言葉は放たれた。
「今月の経営はお前でもったようなものだ。褒美をやろうと言うのだ」
ごてごてしい鏡の隣。
そこには開放的な窓があって、城が見えた。
「お前ほどの女なら、いずれ面倒見てやってもいい」
面倒を見るというのはつまり、この男の愛人になるということだ。
そうなるのだろうと、漠然と思っていた。
この国の中心。紺碧の屋根が連なる王都の奥に聳えたつのは王宮。
たった七十キロの距離。
だがパエリエにはそれが、地球の裏側よりも隔たって見える。
『神は自ら助くるものを助くというんですよ』
『外に出たくなったらその時は一言、お声がけいただきたいですね』
昨日聞いた声が蘇ったのはそう、ちょっとした偶然。
風のたわむれで本のページがふいに翻るような。
そう、彼女は自身に弁解した。
「——外に」
シェンデルフェールの革靴がかすな音を刻み、止まりかける。
「外に出てみたいわ。王都のほうへ」
しばし目を眇め、吟味するように、雇い主は視線を寄越す。
「妙だな。そんなことは口にしたことすらなかったのに」
なんとなく、パエリエは目を鏡の斜め下あたりに逸らした。
「別に。単なる気まぐれよ」
だが、直後。
「いいだろう」
瞬き一つ。
許可が下りたことに視線を上げてしまうのは禁じ得なかった。
「明日一日、暇をやる」
たとえ気まぐれなダイスの結果だったとしても。
「これからもたっぷり働いてくれよ」
二度、肩を叩いてくる雇い主の笑みの奥はいつもと同じ、打算でしか彩られていなかったとしても。
ほんのかすかなものでも。
この日この時、パエリエは初めて自由を手にした。