③
バルコニーに出、人目がなくなっても、リカルドはまったく変わらなかった。
「人に酔ったのかもしれない。少し外の空気を吸ったほうがいい」
息を吸って、吐きながらパエリエは激しく首を振る。
違う。
違うと、頭の中で声がする。
あの令嬢たちは正しい。
自分は掃きだめで育ったねずみだ。
だから、混じりけのない空気のほうに窒息してしまう。
周りの嘲笑よりなにより。
「……なんでよ」
この人の優しさに、耐えられない。
バルコニーを掴み、身体を支えながら。
パエリエは言った。
「なんでいつもいつも助けてくれるのよ?」
困ったように微笑み、首を傾げる彼に、不可解は増しに増していく。
「それを言ったら。あんたなんで」
綺麗な空気に慣れない。
「なんであたしなんかと結婚するの?」
慣れることはないと、身体がもがく。
「わかんないわよ。わかるわけないでしょ」
知らず、綺麗な空気源のような人物に目を背け、大庭園を睨み、呟いていた。
「あんたみたいな身分の人が。好き好んで下町の娼婦なんかを。慈善事業もいいとこだわ」
彼が歩み寄ってくる度、流行る胸の焦りを消そうとするように。
言葉は止まらない。
「この際言うけど心配になるくらいよ。他人事ながらね。一国の主になろうって人がこんなにも人のいい坊ちゃんで、だいじょうぶなのかしらって」
ようやく、暴走を遮ったのは、柔らかな笑い声だった。
異国で出会った用途のわからない土産物を見るように、パエリエの瞳が上がる。
「僕とこの国のことを心配してくれて、ありがとう」
婚約者とのあいだに一息分の距離を取り、くつろいだ姿勢でもたれながら。
「でもね」
いつになく蠱惑的に、彼は微笑んだ。
「皇太子としての僕はきみが思っているよりずっとずるくて、策略家なんだ。残念ながら善意だけで婚約相手を決めたりしない」
腕を組み、赤い空に昇りかけた月を見上げる。
「今はこれが精いっぱいの答えだが、言っている意味が、わかってもらえるだろうか」
ひとふり。ふたふり。
激しく、パエリエは首を振る。
直後、手すりにつっぷした。
「わかんない。わかるわけない」
不可解でしかたないなにかが、喉元にこみあげてきて。
「善意じゃないならいったいなんで決めたのよ」
不可解なだけに、対策もわからなくて、どうしようもなくて。
「あたしを婚約者になんか――」
ふいに頬を挟み込まれ、パエリエは瞠目する。
リカルドによって、動きを封じられていた。
エクリュの瞳は、平生になく硬質な色を纏っている。
「そういう質問を軽々しく男にすべきじゃない。きみはもう少し、自分の魔力的な魅力というものをわきまえたほうがいい」
「……そんなの」
わきまえている。
魅力的に見える瞳の角度も、身体の寄せ方も。
自分の魅せ方ならなんだって――。
そうやって自分は生きてきたのだ。
だがそう主張しても、リカルドはわずかに眉を上げるだけだ。
「さて、果たしてそうかな。それはぜんぶ仕事用に構えたきみだろう。ビジネス用につくった笑顔だろう?」
ゆっくりと、堅い瞳が囁く。
「自分をみくびらないほうがいいと言っているんだ。きみはなにも、わかっていない」
身じろぎしようとすると、頬を挟み込むその手は余計に力を込めて、エクリュの瞳が差し迫ってくる。
「オレンジペコのその瞳に涙の幕を湛えて、誰より強い光を宿して睨んでくるその瞳が、どれほど僕を落ち着かなくさせるか」
「……どういう、こと」
髪もドレスも疲れに乱れて。
みっともなくただわからないとわめいている自分を。
乱れたショールを治し、涙をぬぐい。
丁重に扱ってくる彼が、パエリエにはわからない。
ふいに、リカルドの片手が、彼女の頬を開放する。
「もう少し」
数歩距離を取り、振り向いた彼は言った。
「もう少ししたらその質問に答えよう」
控えめに微笑んで。
だがそこにいつものような余裕はなく、努めてなにかを抑えているようで。
「でも今はだめなんだ。許してほしい」
それでも、限りなく優しい笑みだった。
「大事な宝箱はゆっくりと丁寧に開封していく主義なんだよ」
リカルドは微笑んだまま、パエリエの側にいた。
国務という仕事が迎えにくるまで。
「殿下。隣国ブレスレイの皇族の方がお見えです。お祝いに添えて、先日医師団を派遣した件についてお礼を申し上げたいと」
「我が婚約者もそれに値する偉大な貢献者だが」
頷き、リカルドは去っていく。
「きみには少し、休息が必要だね」
卑しい出自の自分にも、少し外すよと、相変わらず丁寧な断りを残して。