⑧
「……」
それは少女になんらかの作用を及ぼしたようだった。
アポリーヌはぐっと上唇を噛み、わっと顔を膝に埋めた。
「ずっと、夢だったのよ」
膝の間からくぐもった声が、立ち上がる。
「バレリーナとして一流の舞台に立つことが」
「でもそれが、パトロンの気まぐれで、一瞬にしてだめになって」
泣いて泣いて、とっくに蒸発した涙が迸るままに、彼女はまくしたてる。
「わかってるわよ。あたしなんて実力があって認められたわけじゃなくて、たまたまラッキーで目をかけてもらったんだってこと」
その言葉たちに共通して潜むのは。
「あたしなんかブスでやせっぽちで、いいとこなんか一つだってない」
横にいるリカルドはただ黙って聞いている。
「バレエ始めるまえは太っていたし。学校のテストも下から順位数えたほうが早くて。小さい頃からみんなを笑わせるにはまず自虐ネタよっ」
顔を上げた彼女はなにかに向けて怒るように、言葉を継いだ。
「アポリーヌのアポリは、『アホなポッチャリ』って! 友達とポークソテー食べながら、『共食いしちゃった~』って言ったことだってあるし! 節約して馬車の荷台に乗れば決め台詞は『出荷しないでください(笑)』」
彼女がまくしたてているのは、ぜんぶ、過去に連ねた自分への悪口。
おそらく当時は笑顔でそう言って。笑顔で、言い続けて。
でも今の彼女は泣いている。
周りの人々はみな切なさをかみしめるように聞いている。
母親もロイクもリカルドも。
「ふふっ」
沈黙を破ったのはパエリエだった。
「おもしろいわね、あんた」
あんぐり口を開けたのはアポリーヌだけではなかった。
「ユーモアのセンス、あるわよ」
「はぁ?」
医師としての婚約者のお供ということでフリルを最低限に抑えた黒いドレスの腕をベッドにかけ、パエリエは首を傾いだ。
「認められたのは実力じゃない。成功しかけたのはパトロンのおかげだって言うけど、その人だって、あんたのダンスやそういうところも見て好ましく思ったからこそ援助したんじゃないの?」
飾り気のない言葉は、だからこそ心に直通する。
「同感かな」
気付いたら後ろにリカルドが立って身をかがめていた。
「自分の哀しみを抑え込んで、みんなを笑わせて、平気なふりをして。きみはずっと頑張ってきたんだね。だからこそ今限界が来てしまっている」
「……」
一瞬、怒ったように少女の目が吊り上がり。
徐々に込み上げるなにかに耐え兼ねるように、アポリは顔を覆った。
「……初めてかも。細い外見以外を褒められるの」
すっと、パエリエの指先がかすめたのは少女の首元だった。
「くるみのブローチ、すてきね」
赤らんだ顔で再度唇を噛んだ少女は、数刻前よりよほど少女らしい表情をしていた。
「くるみ割り人形ってバレエに小さい頃憧れて。それからつけてて……」
「知ってる。すばらしい舞台ね。どんなところが好き?」
「舞台いっぱいのクリスマスツリーも。人形たちの衣装も。なにより、主役の人のしなやかなダンスがすてきで……」
こくんと、アポリーヌは唾を呑み込む。
「あたしもこうなりたいって思った」
パエリエはリカルドとそっと視線を合わせる。
少女の中の本来の部分がむくっと起き出している。
きっと。
「続けて」
「おしゃれなワンピースが好き。クリームいっぱいのタルトが好き……食べられなくなるまえだけど。くるみのケーキも最高。かけっこも、ほんとうは誰かと話すのも、好き」
ぽんと、パエリエはアポリーヌの頭に手のひらを重ねた。
「元気いっぱいで、かわいいものが好き」
世の中の偏った価値観の犠牲者に。
「あなたは」
彼女自身を返すつもりで。
「チャーミングな人ね」
パエリエは泣くアポリの頭を撫でる。
ふしぎな、同士を見るような感情が沸き起こっていた。
外見だけに注目されるわびしさは覚えがないこともない。
髪の色、目の大きさ、まつ毛の量。
娼館にいた頃はそんなものをいやというほど吟味された。
そっと、口を開いたのは兄のロイクだ。
「都会に出ていって、落ちこぼれのオレと違って家族の期待の星でさ。お前のことどっかでずっと羨ましいって思ってたけど。つらかったんだな」
妹に歩み寄り、兄は頭を下げる。
「ごめんな、アポリ。今までずっとわかってやれなくて」
少女の決壊はここで初めて訪れた。
「うわぁぁん。にいちゃんは悪くないわよーーっ」
大声で泣きながら、アポリーヌは言う。
「あたしが自分でもっとはやくちゃんと言ってりゃよかったのよ。にいちゃんがよく言ってくれたみたいに、『アポリをぶたなんて言うやつはぶっ叩く!』って」
「外見じゃなくて、あたしをもっと見てよって――」
母親とともに、アポリの背を叩くロイク。
無言のうちにリカルドとパエリエは目を交わし、そっとその場を後にした。