④
「すみません。しかし」
彼は顔を上げた。
「僕は本気ですよ」
色素の薄いエクリュの目をしばらく見つめてふぅと息を吐く。
毒気を抜くように。
わかった。
なにかの空想物語化なんかに感化された頭の軽いぼっちゃんだ。
なにが本気だ、やっていることは下衆とかわりないくせに。
だがこちらも生活がかかっている。
平静を被るように上げた顔は笑顔で。
たっぷりその軽さ利用させてもらうことにする。
立ち上がり、パエリエは手の甲で男の頬を撫でた。
「ほんと?」
心にもない猫なで声をたっぷり上乗せして。
「ほんとにあたしを連れ出してくださるの……?」
「——あ」
男は自らも頬に触れ、顔を赤らめ――。
「いやぁお恥ずかしい。昼間食べたサンドイッチの欠片がこんなところに! 気付いてくださって感謝します」
心の中で毒づく。
ちげーよ。
ご丁寧に拭ったかけらをハンカチに包みながら、男が続ける。
「それでですね、本題に入ってもよろしいでしょうか」
さんざん待たせているのはそっちである。
「実は、僕は医療に従事しておる者でして」
はいはい、堅実な仕事アピール。
大ぶりのカールを描いた首筋の髪の一房を払いのけ弄びながら、パエリエはじとりと客を見上げる。
「その、今回訪ねたのは。よろしければ」
言いづらそうに眉をハの字にする姿はポメラニアンのようだ。
いかにも純朴そうに見えるところが余計にいらいらしてくる。
とっとと仕事を済ませて、熱いシャワーでも浴びにいきたい。
「ここで働くみなさんの健康と衛生環境の調査をさせていただきたい!」
パエリエの肩にかかる見事なカールがくしゃりとつぶれた。
「……は?」
図らずも、オレンジペコの目をなおさら鋭く眇めてしまう。
しばし瞠目し相手の真剣そうな瞳にまじまじと見入ってしまい、ビジネス上の無作法をやらかしていることに気付く。
パエリエは今我が耳を疑ってしまっている。
「それが、ご用件ですの?」
医療従事者とやらは深く頷き、ずずいと顔を寄せてくる。
「研究資料に使わせていただく条件で無料で改善案も提供いたします! いかがでしょうか!」
つっ込む隙も与えず、彼は身振り手振りを交えて等々と語り出す。
「ここで働く女性たちの環境。失礼ながらとても衛生的とも人権が順守されているとも言えない。感染症が流行すれば大損害が危ぶまれます」
「あのー」
「いえ決して脅しているのではなく! 実は誠に勝手ながら当方でこの界隈の同種の施設の調査を実施しておりまして。れっきとした数値にも表れている結果が――」
長くなりそうなので、迫ってくる眼鏡をずずいっと押し戻しながら、無理やり遮ることにする。
「つまり、お客様じゃなく、営業の方?」
端的に切り込むと、男はまた飼い主に叱られたポメラニアンのようにしゅんとうな垂れる。
「……費用は発生しませんので営業かと言われると頷けませんが。お客じゃないのかと言う質問には、その通りで――」
どっと肩のあたりに重い疲れが押し寄せてきて、パエリエはしゃっと入り口のカーテンを開け放った。
「帰って」
むんずと腕を組み、言外にきっぱりした拒絶を著す。
もちろん、言の内でもだ。
「すみませんけど、よその営業にかかずらってる余裕はうちにはないんです」
だが、そこでポメラニアンはしっぽを丸めなかった。
きりりと眉で直線を描き。
口元にはかすかな笑みすら浮かべている。
「ここに売られた娘さんたちの人生を諦めるのですか」
彼女の内に起きたのは、ほんのささいな変化。
自分でも気付かぬうちに、口の中を噛みあわせるくらいの。
「あなたほどの人が」
だが。
かすかなボヤからも、硝煙は立ち込める。
違和の香りについ、反応してしまった。
「なんですって」
鼻につく香りの向こうに見えたのは、完全なる笑顔。
「それはあなたの本意ではないと、お見受けいたしますが」
自信に満ちそれでいていかにも人がよさそうな。
「僕に任せていただければ、ここから発生する病のリスクを七十パーセント減らしてみせる」
鋭い息が、口先から漏れる。
それはまるで、不快な香りを一蹴するように。
あなたほどって。
あたしのなにを知っているというのか。
そんな当然のつっこみすら飛んだ。
「ほんとなの。ほんとに病気で死んでく子が減るの?」
気付いたら、白衣の袖を掴んでいた。
軽く目を閉じ、男は礼をする。
「申し遅れました。アッセンブル皇国専属医師団協会所属。リカルド・アルコスです」
手始めにと手を取られ、ショールをどかされ腕を露わにされた。
抗議する間もなく、清潔なガーゼをあてがわれる。
「しばし、両腕を拝借します。治せるうちに治さないのはどうにも、許せない性質でしてね」