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ミニバラが咲き乱れる夜の庭園。パエリエはオルタンシアの隣をゆっくりと歩んでいる。
「先日のこと、ちゃんと謝りたくて。将来王妃になる者として、不用意な発言でした」
日よけ代わりにかざしていたセンスを閉じ、王妃は応じた。
「その通りですが、咎めた覚えはありません。別世界の人間が別世界にやってきたばかりであれば、わからないことだらけで当然です。それを学ぶための婚約期間でしょう」
あくまで平坦な口調。
だがたしかに感じ取れる。
あえてなにかを抑えているような。
そんな気配を。
「それに。もはや咎める必要などないのです」
鉄面皮に見えるその表情の下の、なにかを。
「あなたを次期王妃として、わたくしは認めません。荷物をまとめて来週にでも田舎にお帰りなさい。王室の体面が穢されぬうちに」
花弁を一枚、零した傍らのカレンデュラのように。
パエリエは笑みを深めた。
王妃に向きなおり、最敬礼の姿勢を取ると、深く礼をする。
「身の危険が及ばぬうちに。そうおっしゃってくださるのですね」
月が、王妃の相好を照らし出す。
「! な……」
パエリエが初めて見た、気高き王妃の動揺だった。
「ごめんなさい。独自に調べました。この国の近代史に刻まれる、二十七年前のあじさい革命のこと」
視線を背ける菫色の瞳。
母親ほどに年の離れた女性に、おかしな話だが。
素顔が垣間見れるその姿が、愛おしくさえ思える。
「ある村のカフェの本で拝見しましたの。あじさいが咲き乱れる、すてきな場所でしたわ」
二十七年前のアッセンブル皇国王都にて、民衆上がりの王妃の輿入れに反発した者たちが反乱を起こした。
それが内乱へと発展した。
王の手腕で鎮圧に成功したが。
以来王妃はますます皇室になじむよう努力を重ね、人々の信頼を得る偉大な王妃となった。
革命の要因ともなり、そしてのちに民の希望の象徴となったその王妃の名が、オルタンシア。
王妃様の名もあじさいを意味するものであった。
「道端に咲く、されど高貴な香りのする花の名です。王妃さまにふさわしく存じます」
「……」
頭痛がするようにこめ噛みに手をあて、よろめくように王妃は足を踏み出した。
パエリエの方へと。
「婚約披露の時から、とんでもない女性が来たと思ったものですが」
口の端を上げ、パエリエは会釈する。
お褒めの言葉と受け取ったほうがよさそうだ。
「娼婦だった頃、わたしは人生はどこまでも平坦で、逆転なんかないと思っていました」
そしてその快さが、パエリエの口を開かせる。
「自分のことがとてもきらいで。そんなもの掴む価値なんかないとすら」
差し上げたオレンジペコの瞳は、月の祝福を受け、サマーゴールドへと様変わりする。
「でも、ここへきて。民の人々や皇室の方々、そして。リカルドさまと関わって思ったんです。もしかしたらわたしにもほんの少しだけ、自分自身に期待している部分があるかもって」
一昔前、民衆の娘から王妃となった女性を前に。
「そう自覚してから少しずつ毎日に色がついて。どきどきしたり切なくなったり、はらはらしたり、おかしくなって笑えたり」
娼婦から王妃となろうとしている娘は、その胸の内をこう語る。
「生きているという気がするのです」
生まれ落ちたその時その場所を旅立ち、居場所を見つけた人魚のように。
「シャノワーヌの下町であの人は、わたしに言いました。きみを見下してきた世界を見下ろしてみないかと」
水を獲、うるおいを得た瞳で。
「そう。見下ろしてやりたい。そう思ってわたしはリカルドさまの申し入れを受けたんです。……でも今はそれだけじゃなく」
いつしか歩みを再開しながら、二人は庭園の門の前までやってきていた。
豪奢な蔦模様の門の奥には、生きとし生ける人々が。
そのリアルな日々が息づいている。
「人生は転ずることがある。この国の人々にそう思ってもらえたらって、そう思います」
その堅牢な扉にもたれた王妃は、顔をうつむけ、震えだす。
「王妃さま?」
品よくルージュを塗った唇からこらえきれず漏れい出たのは、
「ふふ。ほほほほ」
王妃らしからぬあけすけな笑いだった。
必死に口元をセンスで覆いながら、王妃は皇太子妃候補に対峙する。
「やれやれ。王宮へ来てわずか一月でここまでの啖呵を切るとは」
隠し切れぬ笑みの中に仕込んだ、賢し気な鋭い視線で。
彼女は呼んだ。
パエリエ、と。
「賢い女は危険です。ほんとうに世の中を転じます。そのためのものを自ら生み出していく」
そうしてふっと目線を緩め、愛しげに呟く。
「あなたはわたくしの仕事を、増やしてくれそうだわ」
背を向け王宮へと歩み出した足を一度止め、振り向かずにオルタンシアは言った。
「そうたやすい道ではないことを、心得ておきなさい」
「はい。——オルタンシア王妃さま」
「それから」
胸に手をあてかしずくパエリエを、今度こそ彼女は振り返る。
かすかに不満げに口をとがらせて、そしてもっとかすかに頬を赤らめながら。
「いつまで経っても王妃さまと、その他人行儀な呼び方はおやめなさい。国王陛下のことはお義父さまと呼んでいると聞きましたよ。……寂しいではないですか」
思わず零した笑いを、パエリエは袖口で隠した。
照れ方はだいぶ違うけれど。
照れるその顔は、母子でそっくりだと。
「はい、お義母さま」
いつかそう、お伝えしてみようと心に決めながら。
月明かりの中去り行く義母をパエリエはいつまでも、礼をしたまま見送っていた。