⑮
「ノックは不要です。お入りください」
執務室のソファを寝室代わりにしているというリカルドの見舞いにやってきて、豪奢な扉の前で側近のエルネストにそう言われた時は、さすがに尻ごんだ。
ダイヤエナから戻り、専属医師にリカルドの診察を頼んで、数時間後のことである。
窺うように側近を見やると、彼はパエリエを責めるでもなく微笑む。
「疲労のための一時的な高熱です。今は落ち着いています。婚約者に限りそのように伝えろと殿下に厳命されております」
どうぞ、という言葉のままにパエリエは病人の部屋へ通される。
「あの」
部屋の踏み入れる前に、とうとうこらえきれずにエルネストに切り出す。
「悪いこと、したわ。……あの人の不調に気がつくべきだった」
頭を下げても、側近は微笑みを崩さない。
「不調の隠蔽は殿下の得意技ですので」
それどころか笑みを深め、こんなことを言う。
「ひょっとしたらパエリエ様は、そう遠くない未来、それを見破ることのできる史上初の王族になられるかもしれないと、思っております」
励まされているのだろうか。
一応そう取ることにして頷くにとどめ、扉をくぐる。
まず最初に、息を呑んだ。
執務室の机に山積みになっている書類とその内容。
家庭内暴力や小児病、子育て支援の対策の書類が溢れている。
まさか。
「あたしが家族を愛せない人もいると言ったから……?」
「ん……」
机の脇のソファで額に布を当て横になっていたリカルドが目を開く。
病人のくせにベッドすら拒むヤブ患者は、まだ大分赤味の残る顔で微笑んだ。
「ああパエリエ。来てくれたのか」
寝返りを打ちながら、ぼつぼつと、くぐもった声を発する。
「情けないな、これしきの仕事量で倒れるなんて。今日のデートといい、きみには……かっこ悪いところを見られっぱなしだね」
「ねぇ、そうなの?」
「ん?」
すぐそばにたち、パエリエは彼のもとにかがみ込む。
赤らんだ顔を、正面から見つめる。
「あたしの発言のせいであんた、こんなに奔走するはめに……?」
吹き出すように息を吐き、リカルドはソファから上体を起こすと、仕草でパエリエを隣に腰かけさせる。身体を傾け、言い聞かせるようにゆっくりと言う。
「これらの問題への対策をしてほしいという要望は、もともと水面下で膨れ上がっていた。
きみの発言はきっかけに過ぎないんだ」
「だったら本来、これはあたしがすべき仕事だわ」
「きみは今勉強中の身だ。王妃になった暁にはおおいに頼むよ」
病人から優しくそんなふうに与えられる言葉に。
なんで。
なんでと頭はエラーを起こす。
「なんで言ってくれないの。一言も」
反抗するパエリエの言葉すら愛おしそうに、リカルドはその手を包み込む。
「これはいいことなんだ。きみの声が市民の心を代弁してくれた」
片手から伝わるぬくもりも。
「きみは今の民に必要なんだよ」
至らなさを叱責されるどころか、感謝されていることも。
今パエリエには、なにもかもがわからない。
「なんで責めないの? あたしのこと。自覚をもって不用意な発言は慎めって」
内側から沸き起こる、このやりきれなさの正体だってそうだ。
感情を抑えることなんか容易いはずだったのに。
近頃それが困難になって。
「そうすれば済むことじゃない。なんでこんな」
……あたしの失態なのに。
街角で途方に暮れた迷い子のように俯く頭にぽんと手が乗せられる。
「また癖が出たね。自分を見下げる癖だ」
リカルドの言葉が、ゆっくりと響いていく。
「気が強く、世界に対していつも牙をむいているようできみは、常におびえている」
まるで知らない国の言葉のように。
「自分は噛みちぎられて当然の存在なんだと」
それでいて、母国語以上に身体に響くような気がする、ふしぎな国の言語。
「心の中できみがきみにつける値札は今やマイナス値だ。今まで関わった人たちのおかげでね」
優しい響きの中核にある、鋭い怒りの音。
「……」
一枚一枚衣服を脱がされて、そこに熱いタオルをあてがわれるような。
この感覚はなんだ。
「でもね、きみがつける心の値段の前に僕は一枚ごと、札束を重ねていく。いつしかそれは億を超える」
タオルが満たす、自分の芯に。
知らないなにかが綻び、生まれ、芽生えていく。
「……!」
多大な惑いに、彼を、見ることができない。
「必ずこの手でそうしてみせるから」
頭に置かれた手を、身をよじって躱すことすら、とうに忘れていた。
「きみはきみのやり方で少しずつ、いつか自分で自分の頭を撫でることができるように」
最後に彼が言った言葉がいつまでも耳朶から離れない。
これじゃ。
見舞いに来てこれじゃまるで。
歯ぎしりしたい気持ちでパエリエは思う。
「今は大人しく僕に甘やかされてくれないだろうか」
労わられているのは自分じゃないかと。