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 娼館に入った瞬間、いつもと違う、と感じた。

 普段と変わらない質素な玄関口。だが。

 なんだろう、湿気や陰気さが半減しているような。

 いつもより明るくさえあるような。

 玄関の奥、仕事場へ続く扉の前で、その謎は解けた。



 男が立っていた。



 雨上がりに空から降りる光の柱のようなエクリュの瞳。

 ミルクを落とした直後の紅茶のごとく淡いアイボリーグレーの髪。

 白衣を身につけ、眼鏡をかけている。

 そうか。

 違和の正体は彼の雰囲気にあったらしい。

 いかにも世間ずれしていなさそうな、まだ年若い男。

 彼は不慣れらしくきょろきょろとあたりを窺っている。



 親しみやすい笑顔を張りつけて、パエリエは後ろからそっと声をかける。

「初めての方?」

 振り返った顔はまだ若い。二十代の半ばだろうか。眼鏡をかけているどこか幼さの残る顔立ちからして学生か。

 この手の客は珍しくない。

 判断後、にっこりと笑みを深める。

 ショールのかかった腕で建物を示した。

「お入りになって」

 ちょこんと頭を下げて手に倣う男の半歩後ろを歩きながら、入り口に飾られた国旗が目に入る。

 描かれているのは、太陽と月をつなぐ金の円。

 動乱の夜も、繁栄の昼間も経験してきたこの国の歴史を示すとか。

 そういえば今日から国の祝日。

 稼ぎ時になりそうだと。

 そう思った瞬間肩のあたりが急に重く感じた。




 仕事用の一室に案内しても男はまだ物珍しそうにあたりを見渡している。

「心配なさらなくてもだいじょうぶ。話だけって人もいるし」

 そうフォローするも、目をしばたたかれて見つめられるだけだ。

「座りましょ。——学生さん?」

 小ぶりの丸テーブルを挟んだ向かい側を薦めると頷き腰かけた彼が応えた。

「いえ、学業期間は終えましたが、日々精進ですね。目標の途上という意味では、まだまだ励んでいます」

 知らずパエリエは顎に細い指をあてる。 

 学生ではないのか。

 裕福な上流階級の子弟とあたりをつけていたのだが。

「ではもうお仕事を?」

 そう言うと男は苦笑し眉を下げた。

「ええまぁ。あまり公にはできないのですが。ごく近い者以外には内密に、極めて個人的動機で来ているもので」

 生真面目に語っているが、脳内につっこみが浮かぶ。

 娼館にくる男がごく個人的動機以外どんなものがありえるというのだ。

 とは思ったが流すことにする。



「だいじょうぶよ。ここじゃみんなそう。宵に出て行けば人目につかない。保障するわ」

 こう言えばだいたいの客は安心した顔を見せるが、彼は表情を険しくした。

「——ええ、そのようですね。ここを見つけるのも苦労しましたよ。入り組んだ路地に紛れ、薄暗く、まるで閉ざされた空間だ」

 数センチ先に隣の建物の壁が見えるだけの窓をじっと睨み、続ける。

「僕がこんなところで暮らしていたら息が詰まるだろうな」

「……」

 パエリエは軽く口元を噛む。

 息が詰まる? そこに一時の安らぎを求めてきたのだろうが。

 どうも会話がかみあわない。

 長年つちかってきたビジネス勧誘をことごとく躱す天然気質の持ち主か。

 緊張で動揺しているのか。

 あるいはただのばかか。

「すみません、気を悪くさせるつもりはなかったのですが」

 そうかと思えば気づかわし気な視線を向けてくる。

「い、いいえ?」

 笑顔をとりつくろうも自動的に立ち上がるつっこみは消えない。気を悪くしたというか呆れていたのですが。

「しかし真面目な話、こんな場所にいて、外に出たいと思ったことはないのですか? 下調べの結果ここで働く女性は、この界隈から外にはあまり出ないと聞いたものですから」

 瞬き二つでパエリエは認識を改めた。念入りに下調べとは。やはり相当な上物客のはず。

 わからないほどかすかに頷き、そろそろ追い込みをかけるかと、立ち上がりかけた時だった。




「神は自ら助くるものを助くというんですよ」

「外に出たくなったらその時は一言、お声がけいただきたいですね」




 世辞とも、社交辞令とも、単なる戯れとも。

 そのどれにもとれない真摯な響きがした。

 だからこそ勘に障った。



「そんなのきれいごとよ」

 気付いたら素で話していた。



「ここじゃ誰も助けてなんかくれないわ。誰かの手なんか期待するから手のひら返されてばかを見る」

 しなだれかかろうと掲げた腕も投げだし。

「軽々しくそんな言葉、投げてほしくないわね」

 すとんと椅子に身を沈め、足を投げ出していた。

 しばらく男が黙ってからしまったと思う。

 なにをやっているのだ自分は。

 この場この時はビジネス。

 本音など無用の長物なのに。

 なのに。


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