⑧
「この時期の庭のフェイジョアの香りは見事なものだろう。きみはミニバラとペチュニアではどちらが好みかな」
「ええと、ペチュニアかしら」
「ほう。あれは白い花弁もいいが、やはりヴァイオレットに近いものがひときわ心くすぐるね。妖精がまとう衣装のように見える」
「……あの、陛下」
のんびりと大庭園の風景描写など始めるグザヴィエに早くも耐えきれなくなり、パエリエは口火を切る。
「ほんとうは、怒っていらっしゃいますよね」
お叱りは延期させるより一思いにやってほしい。
「お怒りは当然です。皇太子殿下の婚約者が元娼婦なんて」
国王はパエリエをしばらく見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「後ろめたい過去を持つのはきみだけではないのだよ。このわたしだって、王権を手にするために旧王家にはずいぶんなことをしたものだ」
意外な返しに、パエリエは思わず面を上げる。
「そうなのですか」
「うむ」
考え深げに頬髯を撫で、グザヴィエは述べた。
「シェンデルフェールの懐に忍び込んで国庫の使い道をつまびらかにした文書を盗み、告発したりね」
太い眉の下からウインクが投げて寄越される。
パエリエをかつて娼婦として雇っていた男であり、先日もいちゃもんをつけてきた、旧王家の男。
あの、シェンデルフェールの。
「彼は商才もある貴族でね。国庫を増やすために商売に熱心で。それ自体悪いことではないが、増やし方が問題だったのだ。大量の麻薬の密輸や、娼館の大々的な経営などがそれにあたる。それらは苦しむ人を生み出す。我々は目的のために時には非情にならねばならないこともある」
思わず後退したくなる。
グザヴィエは若かりし頃、旧王家の悪行を暴き、それに対抗する政策を打ち立て、実力で王権を勝ち取ったのだ。
「初めて王族として民の前に出て、どう感じたかね」
「……」
大輪の花々の脇に咲いた、一輪の菫が視界をかすめる。
思い出すのは、兄が病が大流行している国にいると訴えていた娘と。
その嘆願をすげなくはねのけた王妃。
頭ではわかっている。でも。
「悔しい、と思いました」
自分はまだ、なにも知らない。なにもできない。
元娼婦と開き直ることはできても。
その境遇を逆手にとって生かすことは、パエリエにとって夢のまた夢だ。
「あたしに、力があれば」
あの娘だって救えたかもしれない、という言葉を寸でのところで飲み下す。
かつての自分と同じ平民の身分の者を。
「今はまだ水面下。辛抱の時だ」
ベンチに腰を下ろした王の声はまるで、呑んだ言葉を掬い取るように。
「きみはこれまでもそうやって、冷たい仮面を被ってきたのではないかね」
朝露が菫の茎を通り、弾けた。
「少なくともあの時の宴でわたしはそのように感じたよ。きみはこの世の中と戦う戦士だと」
「……そんな」
ほのかな陽光の中で微笑む王に今度こそ足を引いてしまう。
あの宴の茶番のどこにそんな要素が。
自分がしたことと言えばただ猫を被っただけではないか。
言葉を出せずにいると、王は笑みを消し、立ち上がった。
「もし、わたしの見立てが正しいのなら」
百戦錬磨の傷跡と皺が刻まれなお、たくましい右手をパエリエに差し出す。
「わたしたちとともに戦ってほしい。この国のために。未来の王妃として」
そして、皺で目が見えなくなるほど深く、微笑んだ。
「わたしを父と呼んでくれるかね。パエリエ嬢」
小刻みに震えだす唇を、パエリエはしゃんと噛む。
それでも、この王が自分の粗忽な行動になにかを感じて。
買ってくれているのだとしたら。
応えたいと思った。ただ素直に。
「はい、お義父様」
パエリエはグザヴィエの手を取る。
堅い握手の後、グザヴィエは言い添える。
「そのために、懸命に学びなさい。わからない箇所は助けよう」
思わず漏れた笑い声をパエリエは隠すことをやめた。
「息子さんと同じことを言われるのですね」
「ははは。そうか」
散歩の続きに歩み出しかけた足を止め、グザヴィエは振り向く。
「ここだけの話、自慢の息子でね。リシャールの審美眼を、わたしは信じているよ」
グザヴィエの半歩後ろを歩み出しながら、覚悟を決め、パエリエは話題に出した。
「あの。……一つだけ、習ったことで気になる箇所があるのです」
「ほう」
「いったい、なんなのでしょうか。あじさい革命というのは」
国王が足を止めた。
すまないね、と、返ってくる声は柔らかだが、有無を言わせぬ威厳がある。
「わたしは愛する全ての人々について責任がある。守らねばならないひみつもあるのだ」
やはり、だめか。
首肯し、パエリエは王のお供を再開する――。
「きみに対しては、王妃も同じ気持ちだとわたしは思っている」
ふいに足を止める。なぜここで王妃の話になるのだろう?
「あれでかわいいところもあってね」
王はくるくると、花の房を回しながら言う。
「わが身に先んじて姫を助けてしまう騎士のロマンス小説にはまっているんだ」
「はぁ……」
なるほど。課題に出される読書にたまに卑近すぎないかと思われるジャンルが入っているのはそのせいか。
「だからね」
気付くと王が振り返っていた。
多くの国民をほっとさせてきたのだろう破顔を添えて。
「自身の名誉より、我が息子のことを考えてくれるかわいい婚約者さんなんて、それはもう――」
「パエリエ、ここにいたのか!」
庭園の向こうから小走りにかけてくる、見知った人物により、会話は途絶える。
「勉強中とばかり思って私室に行ったら、父上が連れ去っていったと聞いて」
亜麻色のシャツに、黒いズボンと、平生よりラフな服装をして。
いつもかけている眼鏡の奥は少年のようにきらめき。
息を整えるのももどかしいといった調子のリカルドだった。
そういえば、とパエリエは思う。
婚約お披露目からかれこれ一カ月になるが、彼と会うのはあれ以来初めてだ。
皇太子なだけあって外交や執務で多忙を極めているというリカルドは、軽く国王を睨む。
「父上、ひどいですね。隠れて息子の美しい婚約者とデートですか」
国王は鷹揚に笑い出す。
「ははは。老体ごときにさらわれるようでは、お前もまだまだということだ」
「まったく、油断も隙もない」
いじけたように大げさに眉を寄せ、くるりとこちらを向く姿はまるで。
「パエリエ、ようやく時間が空いたんだ。息抜きに出よう」
飼い主を見つけたポメラニアンが、嬉しそうに笑むよう。
「大事な婚約者は半時すらも父親に貸せないというわけか。パエリエくん、息子から逃れるなら今のうちだよ」
「一緒に来てくれるよね、パエリエ」
期待に満ちた視線になぜか抗えず、パエリエは手を取られるままに頷いていた。