第2章 あじさい革命 ①
等間隔に開いた、半円の等身大の窓から広大な王都が見渡せる、白亜の回廊。
アッセンブル城南棟の最上階をリカルドに連れられ、パエリエは歩いていた。
普段着用だとあてがわれたビスケット色にマーマレード柄のドレスで動く度に花びらのようなフリルがこすれる。
回廊の奥にはいくつもの堅牢な扉がありリカルドが一番手前を開くと、本の詰め込まれた巨大な空間が姿を現す。
「ここが大閲覧室。社交の諸々や礼儀作法に加え、歴史や地理、言語、幾何に至るまできみには多くのことを学んでもらうことになるけれど、その中でより詳しく知りたいことが出てきたら来るといい」
見渡す限りの本。
それも半数以上はこの国以外の言語で書かれたもののようだ。
レースの手袋に包まれた手で軽くパエリエは額を抑える。
「母国語の読み書きでさえ、やっとマスターしたっていうのに」
「学問は一日にして成らずさ。難しいものは持っておいで。解読を助けよう」
なんてことないように呟かれた言葉は、眼鏡の奥で微笑むいかにも人のよさそうなこの人物の脳内に、世界中の言語と知識が詰め込まれていることを意味する。
まじまじとパエリエは彼を見上げた。
白いシャツに水色のラインの入った燕尾を着こなすすらりとした好青年。
未だに信じられない。
まさかあの風変わりな白衣の営業男が皇太子だったとは。
眇めた瞳の意味を別に取ったらしいリカルドは、首を傾げ、気づかわしげに問うてくる。
「いきなりのプリンセスレッスンに戸惑うのも無理はない。なにもかも初めてなんだからね」
パエリエは肩をすくめ、この仕草すら民の前では表してはいけないと先日倣ったことを思い出し、密かに舌を出した。
この身を見下した世界を見下ろしたくはないか。
その言葉の魔力的な引力に絡めとられるように頷き、皇太子妃を目指すことを承諾したのはいいものの。
実際、育ちはなかなか隠し切れるものではなく、苦労している。
褒められる微笑み方も、所作も言葉遣いも、身につけるべき知識の種類も、娼館と王宮ではなにもかも違う。当然のことだが。
下町で生き残るため、たいていのことはうまくたちまわって切り抜けてきたつもりでも、ここはまるで勝手が違う。
知らず下唇を噛んでいることに気付き、あわててやめる。これもご法度だ。
思わず頭を振りたくなる。一秒ごとに失敗だらけ。悔しい。
目を閉じていると、頭の上から高らかな笑い声が降ってくる。
不満げに見上げるとリカルドが心からおかしそうに笑っていた。
「なにがおかしいのよ」
「いや、すまない」
ぴんと伸びた背筋で、口元に長い指の関節をあて控えめに笑うその小さな仕草すら品よく絵になっている。そう思いまたげんなりする。ここまでを目指すということなのか。
リカルドは身をかがめ、パエリエの頬にかかった一筋の髪を払いのけ、言う。
「負けず嫌いなところもかわいいなと思ってね」
「……ばかにしてるの?」
数日をともにしてわかってきたことだが、のんびり構えているようで、リカルドはいつでも余裕の態度を崩していない。
端的に言って腹が立った。
「いや。こう言ったらいいかな」
にこにことパエリエを楽し気にあらゆる角度から見つめる瞳がふいに、真剣味を帯びる。
一瞬、見開かれたパエリエの瞳のオレンジペコの色素が薄まる。
――そう。腹が立つのだ。
「悔しいと思ってもらえることが喜ばしい。それは伸びしろ以外のなにものでもないから」
ここぞと言う時の台詞に妙に説得力があり、反論が難しいことも。
「パエリエ、きみの誕生日は?」
とっさに反応できなかったのは、突然話題が変わったためばかりではなかった。
「……覚えてないわ」
家族にも、祝ってもらった記憶がない。
リカルドは一瞬息を呑むが、そうか、と短く答えただけだった。
「では、皇太子の婚約者として王宮に上がった今日が、きみの誕生日だ」
微笑み、顎に長い指先をあてがうと、リカルドは思考する。
「六月九日だから、毎月九日にしようかな」
形よく整えられた眉を、パエリエは顰めた。
「なんの話?」
「僕が我が婚約者に、ささやかな贈り物を贈る日さ」
リカルドはそっとパエリエの手を取ると、レースの手袋を脱がせる。
胸元から紺に真珠を散らした長手袋を取り出し、被せた。
「毎月新しい手袋を贈ろう。夏のうちは日よけのものを。寒くなったら防寒具に」
身を寄せ、いいかい、と囁いてくる。
「僕の親愛の証と思って、屋内でも身に着けていてくれ」
「……?」
発言の意図がわからず首を傾げると、念を押すように彼は続ける。
「夏のうちは慣れるまで少し、暑いかもしれないけれど、必ず。——わかったね」
有無を言わせぬ口調に、わからないままに頷くと、手袋の縁の真珠がほのかに光った。