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 アッセンブル皇国の下町、シャノワーヌに生まれた少女。

 決して貧しい家庭ではなかった。

 だが、健全な家庭でもなかった。

 父は愛人をつくって別邸に住まわせ。

 そんな父をかいがいしく世話していた母。

 自分に向けられず素通りしていったいくつもの視線。




 ついに崩壊した家族と。

 娘が売られた先。

 あの家庭と娼館とどちらがましだったろう。

 そんな問いも色あせとうに自問をやめた。

 美貌の新入りだ、こいつは売れると上機嫌に査定した雇い主も。愛撫してくる客も。



 誰も。

 誰も自分を見ていなかった。

 世間を生きていくとはそうしたことだと思ってきたし、誰もがそんなものだと、漠然と諦め、諦め。

 でも。



 ——あれ。


 一筋の熱い線が、パエリエの頬を濡らし、照らす。


 

 ほんとうは。もう、たくさんだった。



 彼の声になぞる、自身の声を聴いた途端、決壊は訪れた。


 どっと滝のように大粒の涙が、後から後から止まらない。

 何故だと自分に問うてみたり、みっともないと叱咤してみても、止まらない。

 壊れた音楽機器のように。



「……っく、うううっ」


 背中に暖かな感触がして、あやされるように触れられていると気付くとまた、豪雨のように迸る。

 まさか。

 ありえない。

 もう何年も泣いたことなんかなかったのに。

 怖かったというのか。

 男の本性なんてとうの昔に知り抜いている。

 このあたしが。



 ――いや。

 ずっとずっと、怖かった。

 自分を愚弄し、利用しつづける世の中が。

 そして、そんな世の中の声に頷き、従ってしまう自分自身が。

 ふいに腕に巻かれた包帯の中の消毒が冷え、熱くなった身体を覚ますのを感じる。

 楽になるまで痛んでいることに気付かないくらい。

 腕の傷は自分がつけた。

 仕事をした後に、娼館で迎える朝に、ふとした時に、襲う衝動。

 自分が汚く思えてどうしようもなくなる。

 不浄な身をかきむしらずにはいられなくなった。

 どこかで受け入れ、頷いていた。

 そうだ。

 自分は貶められて当然の存在だと。

 まさかそんなと否定する暇もなく、頭にぽんと手を置かれる。

 彼のその手は彼女の反論の前に、肯定してしまった。

 怖くて当然だ、それでいいのだと。

 そして、その名を呼ぶ。



「パエリエ」

 今までこの人生を素通りしていった誰とも違う、音楽的な発音で。



「見下してきた世間を見下ろしてやりたくはないかい」




 涙に濡れ、化粧が崩れたみっともない顔だと自覚しながら、それでもパエリエは面を上げた。

「見下ろす……?」

 父を母を。

 蔑んできた男たちを。

 涙をこすってやっと見た先にはリカルドが微笑んでいた。

 雪のような白い手袋をこちらに向けて差し出して。



「僕がきみに会いにきたのには、目的がある」

 仲間たちの環境改善はただの糸口。きみに興味を持ってもらうそのためなんだと、この男は、いともたやすいことのように、言った。



「皇女。すなわちプリンセスを目指してもらいたい」



 そのいたずらっぽい笑顔も相まって、冗談かとも思ったが。

「さっきのような奴らは無論、娼館のような場所も来る男たちも。きみには似合わない」

 一歩また一歩とこちらに近づき。

「きみにふさわしい相手が世界でたった一人いる」

 見入ってくるその瞳はあまりにも。

「皇太子だ」

 冗談にするにはあまりにも――まっすぐで。

「皇太子妃にならないか、パエリエ」

 差し出された手袋が視界一杯になる。




 灰で塗りつぶされたページが、白紙に舞い戻った。


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