⑭
アッセンブル皇国の下町、シャノワーヌに生まれた少女。
決して貧しい家庭ではなかった。
だが、健全な家庭でもなかった。
父は愛人をつくって別邸に住まわせ。
そんな父をかいがいしく世話していた母。
自分に向けられず素通りしていったいくつもの視線。
ついに崩壊した家族と。
娘が売られた先。
あの家庭と娼館とどちらがましだったろう。
そんな問いも色あせとうに自問をやめた。
美貌の新入りだ、こいつは売れると上機嫌に査定した雇い主も。愛撫してくる客も。
誰も。
誰も自分を見ていなかった。
世間を生きていくとはそうしたことだと思ってきたし、誰もがそんなものだと、漠然と諦め、諦め。
でも。
——あれ。
一筋の熱い線が、パエリエの頬を濡らし、照らす。
ほんとうは。もう、たくさんだった。
彼の声になぞる、自身の声を聴いた途端、決壊は訪れた。
どっと滝のように大粒の涙が、後から後から止まらない。
何故だと自分に問うてみたり、みっともないと叱咤してみても、止まらない。
壊れた音楽機器のように。
「……っく、うううっ」
背中に暖かな感触がして、あやされるように触れられていると気付くとまた、豪雨のように迸る。
まさか。
ありえない。
もう何年も泣いたことなんかなかったのに。
怖かったというのか。
男の本性なんてとうの昔に知り抜いている。
このあたしが。
――いや。
ずっとずっと、怖かった。
自分を愚弄し、利用しつづける世の中が。
そして、そんな世の中の声に頷き、従ってしまう自分自身が。
ふいに腕に巻かれた包帯の中の消毒が冷え、熱くなった身体を覚ますのを感じる。
楽になるまで痛んでいることに気付かないくらい。
腕の傷は自分がつけた。
仕事をした後に、娼館で迎える朝に、ふとした時に、襲う衝動。
自分が汚く思えてどうしようもなくなる。
不浄な身をかきむしらずにはいられなくなった。
どこかで受け入れ、頷いていた。
そうだ。
自分は貶められて当然の存在だと。
まさかそんなと否定する暇もなく、頭にぽんと手を置かれる。
彼のその手は彼女の反論の前に、肯定してしまった。
怖くて当然だ、それでいいのだと。
そして、その名を呼ぶ。
「パエリエ」
今までこの人生を素通りしていった誰とも違う、音楽的な発音で。
「見下してきた世間を見下ろしてやりたくはないかい」
涙に濡れ、化粧が崩れたみっともない顔だと自覚しながら、それでもパエリエは面を上げた。
「見下ろす……?」
父を母を。
蔑んできた男たちを。
涙をこすってやっと見た先にはリカルドが微笑んでいた。
雪のような白い手袋をこちらに向けて差し出して。
「僕がきみに会いにきたのには、目的がある」
仲間たちの環境改善はただの糸口。きみに興味を持ってもらうそのためなんだと、この男は、いともたやすいことのように、言った。
「皇女。すなわちプリンセスを目指してもらいたい」
そのいたずらっぽい笑顔も相まって、冗談かとも思ったが。
「さっきのような奴らは無論、娼館のような場所も来る男たちも。きみには似合わない」
一歩また一歩とこちらに近づき。
「きみにふさわしい相手が世界でたった一人いる」
見入ってくるその瞳はあまりにも。
「皇太子だ」
冗談にするにはあまりにも――まっすぐで。
「皇太子妃にならないか、パエリエ」
差し出された手袋が視界一杯になる。
灰で塗りつぶされたページが、白紙に舞い戻った。