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セイチェルの丘は王都一体が見渡せる、アッセンブル皇国有数の観光地だ。
夕暮れ時となった今もそこここで恋人たちが戯れ、ストリートミュージシャンがギターをつまびき、画家たちは紺碧の屋根屋根がマンダリンの光を受け紫に染まる瞬間を捕らえにかかる。
眼下に街を望めるベンチにリカルドはパエリエを座らせた。
「少し、触れてもかまわないかな」
そんなふうに遠慮がちに言って、ガラス細工を扱うようにそっと靴を脱がせ、ベンチに横たえる。
当然のように全身を見つめられ、手当てをされた。
丘を登る前にヒールは脱いで、歩きやすいフラット靴をあてがった上でのこの対応。
されるがままにパエリエは足を投げ出す。
本来なら警戒心を重ねるところだが、今ばかりは頭が働かない。
「すまない。きみを一人にするべきではなかったね」
「別に。あたしが悪かったのよ」
ベンチの斜め右に落ちる自身の影に視線を落としながら、最低限の言を連ねていく。
「あの手の連中なんか、うまくあしらっとけばよかったのに。……なんだか今日は、できなかった」
最低限のつもりの言葉は少しだけ、その枠を超える。
型抜き器からはみ出たクッキー生地ように。
口をついた言葉は、ほんの少しの余剰。
そう、ただ単に。
「調子が狂ってただけ」
だが。
奇しくも彼女はこの後知ることとなる。
余分な少量のはみ出たくずのような。
世の中で取るに足らないと思われるものこそ、大逆転に向けて踏み出したその足がかける杭となるのかもしれないと。
それを象徴するかのように、この男は彼女の余分な言葉を掬い取った。
いとも大事なもののように。
「それは、違う」
一言そう発し、リカルドは睨んだ。
誰もが世界有数だとあがめるこの国自慢の景観を、鋭く、憎しみすら込めて。
「これまでが狂っていたんだ」
穏やかだった今までと違う、激情を押し殺したような声に、パエリエは思わず顔を上げる。
リカルドはベンチの前、柵を握りしめていた。
「あんなやつらに笑顔をふりまいて、かしづいて」
まるで狭い檻の中に抛られた直後、まだ野生を失くしていない獣のように。
「僕なら耐えられない。きみはよく我慢した。いや、我慢しすぎた。もう、もう……たくさんだ」
おおよそ美辞麗句とも、甘言とも遠く隔たった、端的な言葉。
だがそれはまるで感傷を誘う弦楽器の音のように、パエリエの耳に抵抗なく入っては、これまでの回想の伴奏譜のように鳴りつづけた。