1.指令書 T (Taking)(2)
「それで…」
くすくす笑いながら、お由宇は横目で俺を見た。慣れた手つきでグラタンをテーブルに置いて、再び台所へ戻りながら尋ねてくる。
「そのまま出てきちゃったの?」
「ん……ああ」
お由宇の家、いつもの居間のソファに沈み込んだ俺は、もぞもぞ体を動かして答えた。
「可哀想に……ショックを受けたでしょうね」
ああ、それはまあ、何となく、感じた。
周一郎の眉を寄せた表情を思い出しながら頷く。
「でも、いつまでもあいつの所に厄介になるわけにはいかないだろ? いずれ本格的にあいつが当主を名乗ったら、俺が居ることで邪魔になることの方が多いだろうし」
それぐらいの自覚はある。
「今でも十分、足を引っ張ってると思うけど?」
「悪かったな」
からかう口調のお由宇に唸る。
「でも、それよりも数倍、あなたが居ることで周一郎が救われている部分も多いでしょうにね」
「は?」
俺が目をぱちくりさせている間に、お由宇はさっさとグラタン、サラダ、ゼリーのデザートを並べ終え、俺の前に腰を降ろした。確かに、春3月、今日はまだ肌寒く、グラタンも苦にはならない。
「はい」
「ん」
フォークを渡してくれながら、お由宇は優しくことばを継いだ。
「本当に……不器用ね、あなたって。もう少し言い方があったでしょうに」
「言い方?」
「そう。せめてもう少し、徐々にほのめかしていくとか」
「あのな、お由宇」
グラタンを突いていたフォークを止めて、相手を眺めた。
「俺にそういう器用なことができると思うか?」
「無理だわね、実際」
「そんなことができりゃ、とっくにしている」
これでも俺は俺なりに考えたのだ。
「なあ、お由宇。俺は『一般人』だよな?」
「えっ」
「まともな話だ!」
お由宇がとんでもなくぎょっとした顔になったのに、慌てて言い返した。少し真面目な表情になった相手が、例の、ごく稀に見せる聖母じみた微笑みを浮かべて促す。
「それで?」
「けれど、お前や周一郎は違う。よくわからんが、『プロ』だ」
レタスを突き刺して咥え、しばらくもぐもぐ噛み続ける。お由宇は急かさない。
いつの間に降り始めたのか、外の雨音だけが部屋の空気の底に沈んで行く。
「スペインに行った時にも、何となく考えてたんだ。そりゃあ、俺はこういう性分だし、『厄介事吸引器』だし、おせっかいだし、ドジだし、まあ面倒事に巻き込まれるのも仕方ないと思うが……スペインに行ってた時、国際的な情報じゃ、俺があいつの片腕ってことになってたんだろ?」
どこで何を間違ったのか、想像もつかないが。
「ええ、そうね」
お由宇は微笑みを消さない。
「なら、あいつを狙おうとしてさ、俺を狙ってくる奴も、たまには居るかも知れないよな? お前や周一郎と違って、俺が自力で相手にできるわけないし、結局はあいつに面倒事をおっかぶせることになるんじゃないのか?」
「……で、あなたが離れれば、周一郎の面倒事が減る、とでも?」
「そこまでは言えんけど、あいつなら、少なくとも自分が標的なら大丈夫だろ? けど、俺が側に居て、俺が標的であいつが巻き込まれたら、あいつのことだから、何とかしようとするだろうし」
「だから、あなたが側に居なければ、あなたを狙ってくる人間の分だけは、周一郎が安全になるだろうってこと?」
「まあ、な」
俺はもそもそ答えて、やたらグラタンの表面に穴を開けた。と、なぜかお由宇がくすくすと楽しそうに笑い出し、呆気に取られた。
「あなたったら」
「何かおかしいか?」
「周一郎のことをわかってるのかわかってないのか、本当にわからない男性ね」
「?」
「そのうちにわかるわ、周一郎があなたのことをどう思ってるのか、ね」
お由宇は楽しそうにことばを続けた。
「まあ、それでも前よりは少し、進歩したけど。……それより、グラタン早く食べて、レポートにかかったら? 今度落ちたら『また』留年でしょ?」
「うぐっ」
思い出した。
心優しき、慈愛溢れる、教会の十字架に貼り付けてやりたいぐらいの納屋教授の話によれば、俺は、卒論ではもう一つ、先生方の心証を良く出来なかったらしい。あわやもう1年、大学に残ってもらおうという話になりかけた時に、いつかの愛娘誘拐事件で、ひどく俺に恩義を感じている納屋教授が反対し、3月31日までにもう一つレポートを仕上げれば、考慮しようということになったらしい。で、今日が3月5日で、天才でも秀才でもない俺にしてみれば、留年より過酷な条件だった。
「お由宇…」
「ダメよ。一友人として、しっかり見守りはするけれど」
「た、はは…っ…」
今年から大学の心理学の教室に残ったお由宇は、俺がいう前に見事に内容を言い当て、返事までくれた。これで最後の頼みも綱も切れた。俺は仕方なしに、グラタンを平らげるとノート類をまとめて立ち上がった。
「頑張ってね、志郎」
とぼとぼと家を出る俺に、お由宇は不思議な笑みを浮かべた。
「あ……また降ってきやがった」
角を曲がったあたりでぱらついてきた雨に眉をしかめる。さっきまで小降りだったのに、またもや雨脚が強くなってきた。
「ちぇっ…走るか」
覚悟を決めて走り出した。傘は、この間駅に忘れて、それからまだ見つかっていない。新しいのを1本買おうと思いながら、幸いにも上天気続きだったので、買わないままだったのだ。
雨は見る間に激しくなった。ここ数日の保留分を一気に取り戻そうとでもするような勢いで降り注ぎ、次第に辺りを白く煙らせていく。走る俺の足元も危うく、滑りかけては踏ん張り、のめりかけては脚を出す。
「何か、俺に恨みでもあるのかよっ!」
俺は『上の方にいる相手』に喚いた。応えるように、ますます雨が激しくなる。さすがに因果応報の方式を作り出した本家本元だけある……と馬鹿なことを考えていた俺は、次の瞬間、前方から走ってきた何者かにぶつかられて、思いっきり後ろへこけた。
「わたっ!」
「きゃっ…」
同時に細い声を上げて、ぶつかった相手も、ばしゃん、と水溜りの上に投げ出されたようだった。
「わ、悪い!」
「た…すけて…」
「へっ?!」
俺が謝るのに、相手は的外れな声を返した。
目を凝らすと、座り込んでいるのは13、4歳の少年、白いシャツにジーパンという平凡な格好だが、右脚と右肩が見覚えのある紅に染まっていた。弱々しく助けを求め、左手を伸ばしかけたが、ふっと意識を失ったらしく、そのまま崩れかける。
「あ、こ、こらっ!」
うろたえたのは俺の方、何とか細い身体を受け止めたのはいいが、びっしゃん、とご丁寧にも水の溜まった所へ寝転ぶ羽目になった。
「だ…ははっ…」
「こっちだ!」
「捕まえろっ!!」
「っ」
情けなく笑った俺の耳に、小降になってきた雨音を裂いて、怒号が届く。ぎょっとしてそちらを見ると、一目見て真っ当な職業じゃないとわかる、黒ずくめの男が二人、びしょ濡れになってこちらを見ていた。
「あ…」「ちっ」
男達は俺が少年に屈み込んでいるのを見つけると、小さく舌打ちをして身を翻した。あっという間に角を曲がり、街並みに溶け込み、姿を消す。
「何だ? …ったく…」
残された俺はぼやきながら、そおっと腕に抱えた相手を覗き込んだ。青い顔だが、呼吸はしているし、死んではいない。
「かと言って、交番に届けるわけにも……いかんよなあ……」
雨は止み始めている。いつまでも、ここに座り込んでいるわけにもいかない。
仕方なしに、少年を近くの塀にもたれさせ、背負おうとして戸惑った。
この顔。どこかで見たことがあるぞ。この、雨で濡れそぼってぴったり額に張り付いた髪が、ふわふわの猫っ毛だったら? 開いた目が、日本人にしては淡すぎるような薄い茶色だったら?
「あ、あ!」
俺はまじまじと相手を眺めた。
間違いない。
それは、夢で見た、周一郎と入れ替わった少年だった。