6.報告書 III (2)
「僕……志郎兄さんに約束…したんだもん……志郎…兄さん……僕のことも……心配して……くれたよ……ね…? …だから……助けて……あげ…るんだ…」
差し伸べた両手で俺の首にしがみつく。妙に邪気がなくて、まるで小鳥が親鳥の温もりを求めるような、一途な仕草だった。頬を摺り寄せてくる、その頬が温かいもので湿っている。
「志郎兄さん……好き……だから……本当に……好き…だから……」
涙に濡れた囁きが耳元で繰り返される。
「ねえ……温かい……から……いっちゃ……やだ……いかないで…」
既に意識が朦朧としてきているのだろう。セイヤは泣きじゃくりながら訴えた。すうっと阿王が動きセイヤの肩を後ろから掴む。ぐいっと引き剥がすと、俺を呼び続けるセイヤの鳩尾にあっさり一撃を突き入れた。がくりとセイヤが崩れる。それを軽々と抱き上げて、阿王はドアの所にいる仁王に合図した。頷いて仁王が道を譲り、阿王がセイヤを連れて姿を消す。ドアが閉まる瞬間、何も拒まないように揺れる、白く細いセイヤの腕が目に残った。
バタン。
ドアは閉まった。辺りは静まり返った。ドアの前には仁王が立っていた。
腹が立つ。
その思いは唐突に湧いた。
どーせ、俺は阿呆だ。厄介事吸引器だ。次々挨拶しに来る厄介事には、もううんざりしている。これ以上騒ぎを大きくしたいとはさらさら思わない。ここで、俺に何が出来るとも全く一切思わない。
が。
腹が立つ。
(何に?)
セイヤ。夜の世界に生きているしたたかな少年。あの涙は嘘かも知れない。切なげなことばも台本のセリフかも知れない。けれども、あいつが、あんなに苦しむ事自体に腹が立つ。何もしてやれない自分に腹が立つ。何よりも、たった13、4の子どもを、自分達の手を汚さずに道具扱いする『大人』とやらに腹が立つ。
セイヤの人生はセイヤ自身のもので、他の誰か、取り分け『大人』とやらのためにあるんじゃないんだ。
じっとしていれば殺されない。逆らわなければ生きてはいける。
「ええい……くそおっっ!!」
突然の叫びに、仁王がぎょっとしたように俺を見た。
俺は阿呆だ。バカだ。すっとこどっこいで、お調子者で、自惚れ屋で、いい加減で、放っとけないと言いながら手を出して、後で狼狽えるしか能がない。えい、くそっ、それがどーしたっていうんだ。そう言いながら、26年も生きてきちまった。今更どう変われって言うんだ。変えようがない。くそっ。俺は演劇部じゃないんだ。んな、天才実業家の真似なんか、できるわけがない。けれども、俺とセイヤが生き残りたいなら、その芝居をやり遂げて見せなきゃならない。えいっ、このっ、んなろっ。んなことなら、周一郎に仮面劇のやり方でも習っとくんだった。
息を吐く。ゆっくり吸う。頼むぜ、神様。せめて、しばらくドジしないように、あんたの上の神様に祈ってくれ。
「仁王…さん」
あ、情けない。やっぱりご機嫌取りしちまう。
「うむ?」
「確か、今、梅崎さんて危ういん……ですよねえ?」
「ああ」
「俺なら、何とか出来ると思いませんか?」
「……どうして、そういう気になった?」
「もちろん、ただじゃ困る。セイヤ君、くれませんか?」
「……」
「いや…さっきので『その気』になってきちまったもんで」
お、おわああああ!! もう2度と言わんぞ、このセリフ!
「…ちょっと待ってろ」
仁王は険しい表情でドアから出て行った。カチリと鍵の掛かる音がする。
「ふう……」
ま、これで第一段階。後は、俺の『猫と鰹節』理論がどこまで上手く行くか、だが……。
「ん?」
溜息混じりにパイプ椅子にもたれた俺は、コン、と窓から響いた音に振り向いた。床から天井近くまである両開きの窓、外は暗がりなのだが、そこにぼんやりとした人影が浮かび上がっている。
「え…? …あ!」
それが誰かを悟った俺が声を上げかけるのに、外の人間は唇に指を当てた。俺が口を噤むのを確かめた上で、黒の革手袋を嵌めた手をガラスに当て、もう片方の手でその周囲に円を描く。小さな音が響いて手の当たったところが円形に切り取られた。呆気にとられる俺の前で、ガラスに開いた穴からほっそりとした手が入り、窓の掛け金を外す。微かな音を立てて開いたガラス窓、もちろん警報機の類は遮断されてしまっているのだろう、こいつがそういう間抜けたミスをするはずもない。細身の体に革の上下、足元は黒ブーツ、足元にはブーツに尾を絡ませるように青灰色の猫がまとわりつき、声を立てない例の鳴き方をして見せる。
「…本当に」
入ってきた男は、服に不似合いな坊っちゃん然とした七三分けの垂れてきた前髪をかきあげ、サングラスを外した。見慣れた澄んだ瞳が、呆れた表情で俺を捉える。
「こんなことじゃないかと思ってたけど」
「周一郎!」
「しっ。僕の家じゃないんですから」
周一郎は俺を制し、入口へ鋭い一瞥を投げた。上品な顔が削いだように鋭い表情を浮かべる。殺気立った横顔に、そうだった、こいつは『直樹』もやれたんだっけと思い出していた。
「大丈夫のようですね」
「ああ、まあ。けど」
近寄ってきた周一郎が背後に回り、ロープを切ってくれるのに振り向きながら尋ねる。
「どうしてここがわかった?」
「あなたを狙っている相手が梅崎だとわかっていたので、殺すまいとは思っていたんです。梅崎が、あなたを僕の仕事上の片腕と見做している以上、殺すよりも誘拐する方がメリットが大きいはずですしね」
「うん」
「ところがあなたときたら、セイヤのことしか目に入っていない……いつ攫われてもおかしくなかったから、ここしばらくずっと、ルトに尾けさせていたんです」
ふと周一郎の手が止まった。
「だけど…」
「ん?」
「…もし殺されていたらと思うと……気が気じゃなかった…」
低い、震えを帯びた声音が続く。
「え?」
「…何でもありません。さあ、行きましょう」
「あ、ちょっと待ってくれ」
窓へ向かいかける周一郎に、自由になった手首を摩りながら首を振った。
「俺、行けねえ」
「どうして?」
きらっと周一郎の目が不穏な色で光る。
「セイヤ。あいつを置いて行けないよ」
「ふ、ん…」
周一郎はどこか冷たい目で俺を見返した。くるりと背中を向けながら、
「それはそうでしょうね。『さっきので「その気」になっ』たんでしょう?」
「っ、お前っ……聞いてたのか?!」
かあっと顔に血が上った。
「だからっ、あれはだなっ!」
「わかってますよ。セイヤを助けようとしたんでしょう?」
周一郎はあっさり流し、サングラスを掛けた。
「そちらのことも考えています。でも、まずは脱出が先です」
「う、うん」
周一郎とルトがすうっと夜闇に溶ける。俺は必死に追いかけた。ったく、よくもまあ、こんな暗闇をサングラスなんぞ掛けたままで走れるもんだ。
梅崎達が俺を軟禁しようとした屋敷は、それほど物々しい設備を整えていなかった。窓のテラスから飛び降り、庭を斜めに横切って行くと、隣接している廃屋との間の生垣に隙間があり、難なく通り抜けられた。表の道路に朝倉家の車が止まっており、いつもの運転手がエンジンをかけている。
「滝さん、早く」
「わかった」
ルトと一緒に乗り込んだ俺に周一郎が続き、車がゆっくり走り出す。
「どこへ行くんだ?」
「梅崎邸です」
「へ?」
ぽかんとする俺に、周一郎は薄い笑みを滲ませた。サングラスを外して俺に渡す。革ジャンのジッパーを下ろし、ズボンも脱ぎ捨てる。その下はカッターシャツと細身仕立てのスラックス、ネクタイを締め、車に準備されていたベストと背広を着込み、髪を整えサングラスを掛ける。少し前までの、良家の不良息子は消え失せ、冷静沈着、少々のことには動じない様子の青年実業家の顔に戻った。
軽いブレーキとともに車が止まる。運転手が降りて来訪を告げ、続いて恭しく車のドアを開ける。まるでつい今しがた、朝倉家からやってきたと言いたげな落ち着いた所作で周一郎が車を降り、俺も降りるように促した。
「周一郎?」
「それなりの償いは……してもらうつもりですから」
俺を見遣って細めた瞳が、ぞっとするほど冷たかった。




