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1.指令書 T (Taking)(1)

人の鎖を逃れて

心の鎖に縛られる

離れたくないのに

近づくほど遠くなる

その呪文は短い

『TAKI』

 耳の奥底に、優しい音が響いている。細かい砂、白い指先から零れる細かい、無数の砂の音。

 誰かの声が、ぽつりと呟く。「雨の日は……」。その先が続かない。俺は少し待ち、返事が返ってこないのに苛立って、促す。

 なんだって? 何か言ったか、周一郎? 

「いえ…」と相手は微笑を含んだようだった。ゆっくりと、まるで味わうかのように呟く……「雨の日は……」。その先がふいに空気に乱されたように聞こえなくなり、俺はまたもや、目の前の、年齢から言えば少々華奢で小柄な相手の後ろ姿に促した。

 だから、何だってんだよ、周一郎。言っとくが、俺は能力者でも何でもないんだ。んな一言で、お前の言いたいことがわかるかよ。

 言ってしまえよ、黙ってる本音を。言ってしまえよ、楽になりたいんだろ? 意地を張るなよ。冷たい表情を一皮剥けば、辛そうに唇を噛んで立ち竦んでいるのはわかってるんだ。知ってるだろ、俺がお前の本音を聞いたからって、すぐに態度を変えられるほど器用な人間じゃないって。わかってるだろ、お前にとっちゃどうかは知らないが、俺にとっちゃ、その……お前は大切な人間だって。

 俺のことばを黙って聞いていた相手は、ようやく俺の方を振り返った。

 が、その顔がいつしか周一郎のものではなくなっている。薄い茶色の猫っ毛、見開いた潤んだような澄んだ茶色の瞳、微かに開いた淡い桜色の唇が、この上もなく嬉しそうに微笑む。

(……え…?)

 10時10分。

「……え…?」

 自分の声で目を覚まし、目の前にあった時計の文字を読んだ。一瞬頭の中が真っ白になり、その中を蝶ネクタイを締めた『とかげ』が、アリスの白うさぎよろしく、片手に8時30分と言う黒い文字を持って走っていく。8時30分。納屋教授の研究室。卒論。

「どわ!!」

 跳ね起きる。時計を叩いて落としてしまう。積んであった本を崩す。ベッドから降りようとして、シーツに足を引っ掛ける。体が浮く。ベッドから転げ落ちる。上から本が降ってくる。払いのけた手がテーブルにぶつかる。テーブルの上にあった飲みかけのコーヒーが零れる。とっさに拭こうと掴んで引っ張ったシーツが足に絡んでいて、再び転ける。支えようと伸ばした手が、コーヒーカップと本と辞書とノートと筆入れと……つまりはテーブルに載っていた全てをなぎ倒しぶち倒し張り倒し……、

「どわあああああっ!!」

「……あの、滝様」

 コーヒーを浴び、辞書にどつかれ、筆入れに殴られ、ついでに持って、シーツに手足をぐるぐる巻きにされて果てた俺に、いつの間に来ていたのか、控えめな、遠慮がちな、高野の声が問いかけた。

「一体……何をされているのですか………?」


「うー…」

 シャワーを浴びて乾ききらない髪を掻き回し、唸りながら食堂のドアを開けた。

 正面に端然と座っていた周一郎は、気難しい表情で何やら高野と話し込んでいたが、俺の姿を見ると鋭い一瞥を高野に投げた。頷いて高野が口を噤み、がらりと調子を変えて挨拶する。

「おはようございます、滝様」

(何だ?)

 かなり白々しい態度の急変に眉を寄せる寸前、巧みに周一郎が口を挟んでくる。

「おはようございます、滝さん。今日は早いんですね?」

「……嫌味な奴だな」

 乗るまいと思っても、ついふてて唸る。

「高野から聞いてるんだろ?」

「ええ」

 にっこり、と周一郎は唇を綻ばせた。心からのにっこり、ではない。俗に言う『業務用』の腹が立つほど鮮やかな笑みだ。

「朝から派手に『運動』したんですね」

「へえへえ」

 俺はむすっとして椅子に腰を下ろした。濡れた髪がどうしても気になったらしい高野が、タオルを渡してきたから、頭から被る。

「どーぜ、俺は阿呆なドジだよ、時計が止まっているのも気づかんほど、な」

 あのクソ時計は、どうやら昨日から止まってしまったらしい。俺は今日のことを考えて、高野に7時に起こしてくれるように頼んでいたのをすっかり忘れ、完全に遅刻したと思って慌てふためき、挙げ句の果てに、コーヒーを浴び、辞書にどつかれ……あ、やめよう。気分が落ち込んで来た。

「本当に、あなたときたら…」

 くすっ、と周一郎は小さく笑った。今度のは『業務用』じゃない、ほんの子どものような、どこか幼い邪気のない笑みで、我ながら単純だとは思うが、気分が浮上してきてしまった。

 ま、いいか。こいつがこんな微笑い方をするなら。

「ふん……」

 それでも、口だけはふてくされて、垂れてきた雫をタオルで拭き取る。

「でも、何だって、そんなに慌てたんです?」

 こくり、と白いコーヒーカップから上品に湯気の立つ液体を飲み込んで、周一郎が尋ねてくる。

「ん……それがさ、この間から卒論を上げるのに手こずってたのは知ってるだろ?」

「はい」

「あの件で、今日、納屋教授から話があるって言われててな……あ、どうも」

 高野がコーヒーを俺の前にも置いてくれた。礼を言って中身を含む。強い香りが鼻をくすぐる。

「そうですか。『今年』は大学を出られそうですか?」

「あ」

 思わず果てた。

 ったく、人が優しくすれば、すぐこれだ。まあ、5歳下とはいえ、実際に社会で事業家として生きている周一郎にしてみりゃ、俺みたいな人間は頼りなくて仕方ないんだろうが。

「まあ、心配するなよ。俺だって、少しは将来のことを考えて…と」

 慌てて口をつぐんだ。これは、周一郎どころか誰にも言ったことがない。それにまだ、その時期でもないだろう。

「ま、遅かれ早かれ、ここを出てくことにもなるだろうし」

「え…」

 どきりとしたように周一郎はカップを置いた。見張った目にはサングラスをかけていない。無防備に晒した黒曜石のような瞳が、俺を凝視する。

「いつ…です?」

「ん?」

「いつ、出て行こうって……」

 頼りなく消した語尾の幼さに、珍しく周一郎は気づいていないようだった。

「いや、いつってのはまだ決めてない。第一、今出てっても、食ってけないしな」

「…でしょうね」

 周一郎は小さく溜息をつき、遅まきながら自分の反応に気づいたようだ。びくっと体を強張らせて、照れ隠しのように眉を寄せ、厳しくカップを持ち上げる。

「だけど、いつまでも居るってわけにもいかんだろ」

 俺は腕時計に目をやった。

「お、時間だ、行ってくる」

「は、い…」

 答えた周一郎の声がどこか虚ろに響いて、ドアの向こうに消えた。


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