◇キサリティア編【3_12】十歳の私は義妹のそばにいることを選んだらしい
レンカリオの物心がつく前は、仲のいい義姉弟妹として過ごせていた。
養女とは名ばかりで、旦那様と奥様からは使用人同然として扱われてきたけれど、トゥマ様とレンカリオは、私を義姉として慕ってくれていた。
レンカリオは特に……。
日々、己の立場を弁えろと言い聞かされていた私は、義弟妹達の名を呼び捨てにすることはなかったし、言葉遣いにも気をつけていた。
義弟妹達も同じく、義姉とは立場が違うと言い聞かされていたから、トゥマ様は私からの〝様づけ〟を難なく受け入れた。
けれど、レンカリオは受け入れたがらなかった。
「レンカリオさまなんていや! レンカってよんでくれなきゃやだもん!」
レンカリオが泣いたりぐずったりした時、私はその小さな耳元で「レンカ」と呼んであやすことがあった。
いま思えば、お姉さん風を吹かせていただけなのだけれど、レンカリオはそれをいたく気に入ってくれていた。
「二人きりの時はそう呼びますから……。ね?」
「むぅ。……ことばずかいもよ?」
「わかりま――……わかったわ、レンカ」
「やくそくよ! キサねえさま!」
レンカリオは天使のような顔で笑っていた。
名ばかりの養女でも、使用人同然でも構わない。この子の義姉でいられるならば。
その頃は、そう思っていた。
――レンカリオが前触れもなく劇的に変わってしまったのは、八歳から。
当時九歳になられたお兄様のトゥマ様が、お屋敷を、領地を出ていかれた。
正義感が強く、真っ直ぐな心根をお持ちだったトゥマ様は、父――ゴスメズ様が領内で行っている所業が許せず、そして耐えられませんでした。
「実った作物のほとんどを取り上げ、若い娘と見れば連れ去り、抵抗すれば殺す……。父上はなにを考えておられるのですか? こんなことが許されるとお思いですか? 領民はあなたのおもちゃではないのですよ!」
「……トゥマよ。我が息子といえども、私に逆らうのであれば容赦はせぬぞ」
「――お待ちください、お父さま」
「来るな、レンカリ……オ? どっ、どうしたんだ、その血にまみれた姿は! どこか怪我を? ん? ……短、刀? レンカリオ、その短刀の血はなんだ……?」
「いやだわ、お兄さま。この血がなんだですってぇ? そんなもの、お兄さまが逃がした娘の血に決まっているじゃありませんか」
「……なん、だって……?」
「ほお。それは真実か、我が娘よ」
「ええ。もちろんですわ、お父さま。所有物の立場でありながら、勝手にお父さまの離れから逃げ出した不届き者を手打ちにしました。これがその証ですわ」
真っ赤に染まった小さな手には、血に濡れた髪が握られていたといいます。
「ひっ⁉ そん、なっ……ぅぅ、ぁ……」
「この程度で気を失うなんて……。お父さま。お兄さまはダメですわ。お父さまの後継に相応しくないどころか邪魔者――いいえ、裏切り者となる可能性があります。即刻、排除するべきかと」
「ははっ。私もそう思っていたところだよ、レンカリオ。いかに長男といえども、私の邪魔をするならば必要ない。……がしかし、始末するとなるとクオキシャが黙ってはいないだろうな」
「でしたらこうしましょう、お父さま。お兄さまには、王都にいらっしゃる叔父さまの元へ行っていただくのです。お母さまには、お兄さまを王都の水で磨く――つまり、王都で行儀見習いをさせたり、物見遊山をさせたりして、見聞を広めさせたいと説得すればいいのすわ」
「なるほどな。しかし、呼び戻したいと言ったらどうする? 年月が経てば当然そうなるだろう」
「どうとでも言いくるめられますわ。お兄さまには王都の水の方が合うから、メリケオ領には帰らない。次期領主の座はわたしに譲ると言っている。そのようなことをお父さまから実しやかに言われれば、お母さまも納得されます。それに」
「それに?」
「わたくしが、お兄さまよりも次期領主に相応しい振る舞いをして、お母さまに認めていただきますわ」
「ふははっ! ふははははっ! よくぞ言った、レンカリオよ! それでこそ我が娘というものだ。たしかに後継にはお前が相応しい。期待しているぞ! はぁーはっはっはっはっ!」
などということが起こっていたなど露知らず、私は晩ご飯の後片づけと、朝食の下ごしらえを手伝っていました。
翌朝になって突然、トゥマ様が王都へ行かれることが知らされ、その支度に屋敷中の使用人がてんやわんやとしていました。
出立のお祝いとして、朝食には鶏肉が加わっていました。
目の回るような忙しさに私があくせくしていると、
「義姉さん」
と、人目を憚るようにしてトゥマ様がお声をかけてきました。
「僕の侍女として一緒に王都へ行こう。この家は……メリケオ領は危険だ。ここにいちゃいけない」
メリケオ領が不穏であること、そしてその不穏が領主様である旦那様によってもたらされていることは、私にもわかっていました。
逃れられるのならば、そうしたい。
領民は勝手に領地から逃げ出すことはできない。逃げ出せば、重い罰を受ける。
理不尽と思うかもしれない。けれど、そもそも領民の生殺与奪は領主様に委ねられている。身分の差があるというのは、そういうこと……。
しかし、トゥマ様の侍女として王都へ行く分には問題はない。
願ってもない申し出だった。でも。
「レンカリオ様はどうなるのですか?」
「……ここに残る」
「そんな……、どうして……。急な出立といい、昨日の晩になにがあったというのですか?」
「……言えない。言いたくもない……っ」
トゥマ様はすっかり青ざめていました。
「レンカリオは、アレは父上と同じ悪魔だ。アレはここに残り、領主となる。次の悪魔となる。だから置いていく。それでいいんだ!」
「ですが……、ですが領民はどうなります! トゥマ様は領民を見捨てておいでですか?」
「仕方がないだろう! 領民を救いたくても僕には力がない! だからせめて、義姉さんだけでも救いたい――! 一緒に来てくれ、義姉さん!」
差し出されたトゥマ様の手。日々、勉学と剣術に励む傷だらけの手。
「誓うよ。王都で――叔父上の元で僕は必ず力をつける。そしていずれ、このメリケオ領の民を救いに戻ってくる。その時までどうか堪えてくれないか?」
その切実な、それでいて精悍な面差し。自らが成せることを信じて疑わない者のみがまとえる空気。
わかる。
次期領主の座を追われても、この方はきっと大成なさる。
私は、
「――わかりまし」
(やくそくよ! キサねえさま!)
突如として思い出された、天使のような笑顔。
――ああ。
私は、
「一緒には行けません、トゥマ様」
義妹のそばにいることを、義姉は選んでいた。
その直後から、レンカリオが変わってしまうとも知らずに。