誰のためのネオテニー
かれこれ一時間ほど、同じ問答を繰り返していた。
「だから、あなたはキサラギさんである筈なんです。この番号はキサラギさんのに間違いないんですから」
「この番号は私のケータイの番号です。キサラギさんなんて知りません」
由梨はもう機械的に答えていた。
電話の向こうの男性はやたらと情熱的に、これは「キサラギさん」の番号だと主張しているが、そんなまったく知らない人間の番号だと決め付けられても困ってしまう。にも関わらずここまで問答が続いているのは、由梨の悪戯染みた好奇心のせいだった。
「あ、わかった。キサラギさんは居留守を使っている。そして後ろからあなたに命令しているんだ」
そんな変な状況を想定することはできなかった。ぷっと少し吹き出して、由梨は言った。
「そうだったらおもしろいとは思いますけどね。あいにくここには私しかいません。キサラギさんとやらが訪ねてきたって、防犯上お引取り願いますよ」
「キサラギさんはセールスマンではないですよ。変な絵を訪問販売したりはしません」
これだ。
この微妙な噛み合わなさが由梨の笑いのツボを刺激している。
「あら。私は変な絵は好きですのに。キサラギさんとやらとは趣味が合わないみたいですね」
ふと、由梨は母が行方をくらませた日のことを思い出した。県立美術館に母と連れ立って行き、“変な絵”を眺めていたら母が居なくなっていた日の思い出。変な絵に描かれた人物の首の長さと、いつまでも自分が泣いていたことだけはよく記憶している。
「キサラギさんは声帯模写の達人ですからね。あなたがキサラギさんでない証拠はないでしょう」
出た。「悪魔の証明」を持ち出してきた。
由梨は深刻さを装ってこう答えた。
「そうですね。私がキサラギさんとやらであるという証拠でも示してくれればお話は早いんですけどね」
「だから、この番号があなたのケータイに繋がったということが何よりの証拠なんです」
他人事のように感じていた母の蒸発。
由梨は弟と一緒に男手ひとつで育てられ、昨年、編集プロダクションに入社すると同時に一人暮らしを始めた。
「私がキサラギさんとやらだったとして、確定後にあなたが何を言い始めるのか個人的にものすごく興味があります」
とっくに一時間半が過ぎていた。キサラギさんだのそうでないだの、それだけの会話でよく長々と喋ることができるなあという、呆れと感心が半分ずつ由梨の心を占めていた。
「あなたが自分をキサラギさんだと認めるのなら、すぐに話したい用件があります」
ここで色々なことがいっぺんに面倒くさくなって、自分がキサラギさんだと名乗ってみたら。
自制心で悪戯心を抑制しつつ、由梨は言った。
「キサラギさんとやらはご多忙な方なのですね……用件ってビジネスライクなものかしら?」
「個人的な用件でしたら、あなたとお茶を飲みたいというものもあります」
由梨は腰が抜けそうになった。何をいきなり言い始めるのだ。
「何で私があなたとお茶を飲まないといけないんですか」
母が消えて以来、由梨は無感動を自覚していたが、結局それはただ感動する能力が歪んでいただけだった。それを認めたくなくて、飛び出すように実家を出た。
「キサラギさんの奇行を肴に、あなたとお茶を飲むのも人生に彩りを添えるかと」
「何か、とてもオープンな人ですね。あなたは」
自分が電話の向こうの男を警戒しているのかというと、そうでもなかった。気を許したのとは違う、だが友達意識にも似た奇妙な感覚が由梨の胸中にあった。
「では、お茶をご一緒にしてくれるのですか」
「ぜったいイヤです」
この感覚は多分、母が消え美術館で泣いていたときに、自分を保護してくれたキュレーターのお姉さんに抱いていた感覚に近しいのだと思った。時間を越えて、そうに違いないという確信が胸に灯る。
由梨は少し笑った。笑いながら言う。
「キサラギさんとやらは、絵画はお好きなんですか? 唐突ですけど」
「なかなかの難問ですね。頓知も通じなさそうだ」
電話向こうの男は真剣に考えているらしい。数秒間の沈黙の間に、由梨の心の奥底に澱んでいたものが濾過されてゆく。
由梨は黙っていた。適当なことを述べたなら、すぐに通話を切ってやる。
ぼんやりとキサラギさんとやらのことを考える。キサラギさんとこの男がどういう関係なのかを考える。
「絵画……好きだと思いますよ、多分」
慎重に男が言った。
「絵画を眺めた感想を、キサラギさんとあなたで共有できる訳ですから」
本当は母が消えたなんて嘘で、ここにいる私も嘘っぱちなのかも。
明日にでも、食卓に母の手作りの夕食が並んでいたりして。
由梨は目を閉じて深呼吸をした。一秒かけて息を吸い、一秒かけてそれを吐く。
そして相手の反応を待った。あの日の母親の面影を思い出そうとした。父と弟との関わりが、母と同等以上の関わりであったことが理解できるのを待った。
そして、手にした携帯電話を見つめて、由梨は微笑んだ。
その時、世界も少しはにかんだような気がした。