人魚の籠
菖蒲の帳、松籟の音、暗夜の色香、月の蓋を落として。
水面にパンセの花を浮かべて、ふっと、息を吹きかければ、泡となって消える。
ここは暗い洞窟のほとり、唐菖蒲の衣、まばゆいばかりの覗色。
龍海は船に揺られるように蹌踉り、流れに任せるまま、目的地へと進んだ。
アルクルゥに出会ってからちょうど一年。あのとき、あの場所へ。
「何故ここに来た」
彼女は岩場を桟敷の如く腰掛け、龍海を見下ろしていた。
拒絶とも肯定ともとれる、少し困ったような、あるいは微笑みを浮かべているような、複雑な表情をしている。目だけは熟っと、彼を視めて。
月光を浴びる彼女はとても媚めいて見えた。
ずっと追い求めた麗人の面影がそこにある。
龍海は思わず傍に寄ろうと踏み出すが、アルクルゥは軽く手を伸ばし止める。
片手では拒みながら、片手では誘うように影を彼の膚に指を這わせる。
さながら誘いながら拒む薔薇のようだ。
美しく触れたくなるが、触れればその棘で傷つくことになる。
彼は吻っと息を吐き出すと、ぽつぽつと語り出した。
「ずっと考えていたんだ。父が何故海に飛び込んだのか」
「ほう?」
「最初は誰かに惹かれたからと思った。だけど違うんだ」
「違う?」
「そうだ。父はきっと、母の声と聞こえてしまったんだ」
「意味が分からぬな」
「俺もそうだ。俺を呼ぶ声がする。だけどそれが君の声と聞こえてしまうんだ」
「…………今なら引き返せるぞ」
その言葉に潔くも無抵抗の意思を示すように両手を広げた。
自棄っぱちとも見えるが、完全に開き直っている。開き直った上で彼女に詰め寄るのだ。
「掟があるのだろう。さあ! 一思いにさくりとやってくれ!」
潔いくらいの気っ風の良さである。自らの命を投げだそうとしている者とは思えない。
今まで艶でいたアルクルウの表情も崩れ、今までの何処か気の抜けた雰囲気を取り戻す。胡乱げな目で眺めては軽く言い放った。
「あんなものは嘘だ」
「う……そ? なぜそんな嘘を」
「わたしの裡に入って欲しくなかったからだ。これ以上はおぬしを連れ去りたくなってしまう」
「俺はそれでも構わない」
「それでは恩を返せない」
「あのときそれでも逢いたいと言ったのは嘘じゃ無い」
「…………ほんとうに良いのか?」
悚然っとするほど美しい笑みだった。
伝承の水精や海精と見紛った。
あれが網に足を取られたり、うっかりと龍海に見つかったりした彼女だとはとても思えない。否、奥底に愉快な彼女の面影は残る。残ったまま艶めいて見せるのだ。
挙措の隅から覗く、退廃と淫靡な気勢に龍海はどきりとさせられる。船頭を迷わす、あるいは良人を拐かす、異形のそれ。
これを見せられてはふらふらとついて行きたくなる。
逸る気持ちを抑えて、龍海は答えた。
「迷いはある」
「ならば帰るといい。わたしのことなぞ忘れてしまえ」
「そうじゃないんだ!」
「ならなんだと言うのだ?」
「確かに迷いはある。だけどそれでも俺は何度でも同じ事をするだろう。たとえここで立ち去ったとしてもずっと後ろ髪を引かれ続けるだろう。君を追い求めるし何度だって逢いに行く。その感情は、行動は、俺自身でも止めることは出来ないだろう」
「人間というのはほんとうにアホウだな。それがどういう意味なのか分かっているのか?」
「アルクルゥ。君に連れて行かれるということが何を意味しているのか分かっているつもりだ」
「生きて戻ることは出来ないのだぞ?」
「それでも一緒に居たいと希ってしまったんだ」
幻に恋して、影に焦がれて、慕うだけならばどれほど良かっただろうか。
追い求めているだけならば手に縋ることもなかっただろうに。
彼女の手を取った先にあるのは、深い海の底。
これが夢であったのならばどれほど良かっただろう。
醒めなければ夢は夢でなくなるのだと誰かが言った。
ならばその夢が現実となって目の前に現れたのならば、その境界はどこにあるのだ。自らの足で立っている場所が、手のひらの上でないと誰が言えるのか。
龍海は午睡の微睡みの中へ墜ちてゆくのだ。
「ほんとうに良いのだな?」
「ああ」
きっと、龍海はアルクルゥと出逢ったときからすでに、人魚の籠の中に囚われていたのだろう。こくりと肯首を示すと、腕を回し、海の中へと向かう。
「俺も君と同じになれるだろうか?」
「蛇になるやもしれんぞ」
「あー、それならそれで大切に扱って欲しい」
「無論だ」
――ざぶん。
藻掻き逃げ出すにはもう遅い。アルクルゥは網のようにしっかりと龍海を絡め取ってしまっているのだから。決して手放すことはないだろう。
途端に、ぽっと、彼の手の中から酸漿の実が溢れる。
それを取り戻そうとするが、何度やっても手からすり抜けるばかりで、悪戯に水を掻くに留まる。アルクルゥが代わりに手を伸ばすと、すっと、彼女の手の中に潜り込んだ。もはやそれは彼の物ではないのだと示されているよう。
彼らとすれ違うように、無数の酸漿の実が、ごぼりと、水面へと向かっていく。
空気の泡は滝夜叉姫の膚、酸漿の紅はその襦袢の色。髑髏に連れられ、水面の方へ還る。
龍海達は沈んでゆくのではない。水の底へと、昇ってゆくのだ――――
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