次に逢えば……
夢でも逢いたいと希うだけならば良かった
幻に恋して、影に焦がれて、慕うだけならば良かった。
醒めない夢ならば夢では無くなる。
しかし、その夢が現実となったら。
そこに肉が、血が、姿が、魂があったのならば、人ではない者の差異などなんたるものか。
手に縋り、目を見つめ、言葉を交わし、あるいは交わさずに傍らに佇んでみせる、そのように在りたいと願わずにはいられなくなる。そうしなければいられないのだ。
――――それが、彼の真個なのだろう。
空は薄曇り、海は小波立って。
磯の香ばかり追う。それだのに生き物の気配は無い。否、彼女の気配は無いと言い換えよう。古木が老人の髭のように揺れる。寂寞の風情に、眼は真っ直ぐ海を見据える。
連峰は眠り、島の松も寄り添った。天津風、雲の通い路、貴人もしばし留まり、割れ窓のような雲の隙間から帰るだろう。月の御手にも花と香り、薄くむらむらと霞がかる女郎花。
龍海は待った。
たかだか数分でさえも長い。長い。
朝には発たなければならない。それまでが彼の残られた時間。のはずであった。
日が昇り始めればアルクルゥが顔を出すことは無いのだから。
物憂げな表情で海に佇んでいれば絵にもなろうが。彼はただ覇気が無いだけである。眉は急降下の天気の如く垂れ下がった。一見すれば悲嘆に暮れているように見えるが、実際には物思いに耽っているだけである。自分の心の裡はなんたるかなどと、向き合う時間は幾らでもあるのだ。
それでも三日である。
出発の予定はとうに過ぎた。少ない路銀と講義をかなぐり捨ててここに居る。最早帰りの電車賃くらいしか無い。むしろ電車賃すら無い。二駅は歩かねばならないだろう。s
端から見れば、悲嘆に暮れ、何も無い虚を熟っと視めている姿に見えるだろうか。流石の彼もこればかりは無理かと浮かれ心も悲嘆へと変わり始めた頃で。
「おむしはほんとうにアホウだなぁ!?」
ちゃぷりという音とともに、彼の頭上から怒声が降ってくる。
「来てくれたんだね」
「違う。これはわたしの勝手だ。断じてお主のためじゃない」
玉の簪を引き摺ればこのような声音になるだろう。
アルクルゥはそのまま口を尖らせ、拗ねた仕草でそっぽを向いてしまう。
反面、龍海の嬉しそうな顔といったら、だらしなく弛緩させるそのざまは、尻尾を振る犬でさえももう少し精悍な顔つきをしている。逆上せた気勢。撓んだ顔。眉は解け、悠揚と向き直った。
「逢いに来てくれたことが嬉しいんだ」
「恩に報いただけだ」
「おばあさまの教えの?」
「そうだ。それ以上の理由は無い。最後の情けだ。もう逢うこともないだろう」
彼女はあくまで冷たくあしらう。
「だから何故なんだ。理由を教えて欲しい……」
「これ以上わたしの裡へ入ってこようとするな。わたしのようなものに興味を持つのはやめろ」
「イヤだ。望むなら何度だって逢いたい。語りたい。その手に縋りたい」
「人の子は人の子を追いかけていれば良いだろう……って、なんだその顔は」
「俺は君に惹かれているんだ。少なくともこの気持ちが嘘だなんて思いたくない」
「おぬしは自分の気持ちも分からないのか」
「分からない! 否。分からなかった。最初に出会ったときはきっと夢で見た光景が現実になったことの嬉しさだったと思う。二度目に出会ったときは再び逢えたことの安堵。じゃあ三度目は? これが俺の真個の気持ちなんじゃないかと思うんだ」
「それで、答えは出たのか」
「この気持ちに名前を付けるなら、恋、が妥当だと思う!」
「ばっ、おぬしはほんとうにアホウだっ。恥ずかしいことを臆面も無く言い放つとはっ。アホウを通り越してドアホウだっ」
「あっはっはっは、言い切ってしまえばこれほど清々しいことは無いな!」
彼女の崩れた表情の。
呆れ眼の、呆れ顔の。
ごほんと、軽く咳払い。ぐっと顔を引き締める。
「ま、まあ。これで思い残すことも無いだろう」
「心残り有りまくりだし、未練たらたらだ」
「……これで思い残すことも無いだろう」
アルクルゥは半ば諦めの視線で彼に送る。
「また逢えるだろうか?」
「いいやこれっきりだ」
「何故なんだ。そんなに俺がイヤなのか?」
「わたしの裡になんぞ入ってこない方が良い。碌な目に遭わないぞ」
「そのくらい覚悟のうちさ!」
「ああ、もうっ! 掟があるのだ。同じ人間に三度と出会って、四度目があってはならない。逢えばおぬしを死なせなければならない」
「それでも――それでも逢いたいと希うのはイケナイことだろうか?」
「…………ああ、イケナイことだ」
彼女は少しだけ寂然しそうに目を細めると、すっと、海へと消えていこうとする。
龍海は「あっ」と、声を上げ手を伸ばす。伸ばすが、さあっと風が吹き荒れる。
雲の通い路は完全に開かれてしまった、最早留めることは出来ない。
もう少しだけと、彼女が消えてしまわないように願うが、するりと潜り抜けてしまう。
ぎゅっと、握った手の中に有った物は酸漿 の実が一つだけ――――
あれから数ヶ月。
大学への通学路、学生の声が、波打ち際に立つ瀬の音と聞こえる。
龍海は寒さにかじかむ手をポケットに突っ込み、もそもそと歩いた。花祭の陽気にはまだ遠い。褐色の外套の襟を立て、吐いた息が、煙草を喫んだ煙のように真っ白く漂う。だのに空は仄暗く、そのうち降りそうな気勢。構内にまで入ればまだ暖かい。昼頃になれば見知った顔が大体揃う頃で。
「最近旅行してないみたいじゃん。体調でも悪いのか?」
「いや、講義の日数が足りなくなりそうだし、それにもう少し資金を貯めようかなと思って」
「もしかして遠くに行く予定か?」
「まあ、そんなところだ」
「北海道がおすすめだぞ」
「なぜだ?」
「あの有名な菓子が食いたい」
「おまえなあ……」
「あ、それなら俺は山梨を押すぞ。イチゴが食べたい」
「確かに今が季節だけれども」
「じゃあ俺は生八つ橋」
「俺は愛媛タルトが食いたい」
「おまえらは食い物にしか興味が無いのか!」
「無い!」
「物貰ってもなぁ」
「やっぱり食いもんだよ」
「腹減った。食堂行こうぜ」
「購買行こうぜ、ちょっと買いたい物がある」
龍海はこうしていると、あの日の出来事は夢か幻だったのかと思えてしまう。
それほどまでに穏やかで、大きな波風は無い、ただ愉快なだけの日々。悪くは無い。むしろ両親が亡くなった後の喪失感を考えればとても穏やかで、蝸牛の足の如く時が進む。だが、それ故、あの激情を焦がす胸の高まりは感じられない。
それこそ、寝物語に聞かせる与太話のような、あるいは子供に読み聞かせるお伽噺のような。
物事のひとつに思い出という偏光器を噛ませてしまえば、忽ちうすぼんやりとした不確かな物に成り果てる。違う、あれは現実なのだと頭を振る。
自分の中の真個は定まったはずだ。
――――定まったが故に、思い悩む。
外はむらむらと鼠の雲が走ったよう。
その上に墨流しを累ねればこのような色にもなろうか。
海のような、真昼を見た。
通りにの窪みに水が溜まり、小さな川を作る。
龍海は友人の静止も聞かず、洋傘 を差して立ち尽くす。
ここが際だ。
彼方へ行けば冷たい水の中へ。
此方へ行けば暖かい陽だまりの中へ。
――――行き先はどちらかしか選べないとしたら?
彼を呼ぶ声が聞こえる。
伸ばされた手がある。
こっちへと。
「雨の中なにやっているんだよ!」
友人は雨音に負けぬよう声を張り上げた。
「いや、ちょっと雨に打たれたいなと思って!」
「河童かなにかなのか?」
「早くこっち戻ってこいよ! 俺は腹減ったべ」
「ああ……そうだな」
そう言って片手に傘を持ち替え、ポケットの中を探ってみれば、そこにはあの酸漿の実がひとつ握られていた。
――これは自分の魂だ。
コロリと、転がり落ちたのなら、辿り着くのはどちらの岸か。
目の前には白菊の小舟。オフィーリアが夢見るように沈んだ、雛芥子の川――。