中間貯蔵施設とは。除染作業で発生した廃棄物を。最終処分するまで、管理、保管するための施設です。そこで起きた、ある事件とは?
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この国で、あの前代未聞の原子力発電所での事故について知らない者は、いないだろう。
当時は、テレビ、新聞、インターネットまで、朝から晩まで連日で、この事故を報道していた。
チャンネルを変更しても、どの番組もこの事故の中継だった。関係ないサイトをみても、この事故が話題になっていた。
落ち着いたのは、事故が起きてからいったい何か月目だったろうか。事故からもうそれなりの年月が経過しているのが、なんだか信じられないくらいだ。
時間が経過したことで、事故のことがいろいろとあやふやになっている、と思う。そこで原発事故の内容を、簡単に整理してみる。
まず最初に地震だ。それから津波がきた。
その津波が、この国の沿岸部に建設された原子力発電所のひとつに押し寄せた。施設は水浸しになり、予備バッテリーもふくめた原発の電源設備が、あらかた使用不能になってしまった。
施設の機器を動かす電源を失い、原子力発電所は、原子炉の冷却水の循環や、核燃料プールへの送水ができなくなった。
水がこなくなると、原子炉に入っている核燃料が冷却できなくなる。冷却できなくなったので核燃料は、入っていた金属筒を溶かすと、燃料自体が発する高熱でまわりのものを壊して、溶けて下に落ちるメルトダウンとなった。
下に落ちた溶融燃料は、核燃料が入っていた圧力容器をその高熱で溶かして、底に穴をあけるとさらにその下に落ちた。
この国の原子炉は、燃料が入っている圧力容器を、さらに大きな格納容器におさめる、入れ子の構造をしている。
溶融した燃料は、圧力容器を溶かして、それをおさめた格納容器の底にまで落ちて、いまはそこにある、と考えられている。
またこのときに同時に、地震の衝撃と、溶融した核燃料の高熱で、送水や循環のための配管類が破損して、水素が大量発生した。
水素は原子炉がある建屋内に充満をした。その充満した水素が爆発したせいで建屋の屋根がふきとんだ。
この結果、破損した原子炉にかかる圧力をさげるためにベントで建屋内に放出された炉内の水蒸気が、つまりは放射性物質が屋外へ、大気中へと、放出されることになった。
放出された放射性物質は、原発発電所の施設内や、周囲の土壌や、地下水や、すぐとなりの海へと拡散した。
大気中に放出された放射性物質の量は、約90京ベクレル、と推算されている。これはレベル7の汚染事故であるチェルノブイリ原発事故で放出された520京ベクレルにくらべて、約六分の一の量にあたる。
現在のところ、レベル7級の大事故はチェルノブイリと、今回の福島で起きたこの事故だけだ。
大量の放射性物質が外に出て、放射能汚染という事態になったために、政府は事故当時は、原発から半径二十キロ圏内を警戒区域に指定して、立ち入りを禁止した。またこれにあわせて、福島県で暮らしていた10万人以上の住民を避難させた。
その後、これらがすべて解除されて、放射線量に応じて住民の帰還ができるようになった。
ただし、いまだに放射線量が高い、二十キロ圏内の帰宅困難区域には、部分的にしか、住人の帰還のめどは立っていない。だいたい、こんなところだろうか。
あの当時は、この国で暮らすすべての人たちが、ついにこの世の終わりが訪れた、そんな危機感とともに、原発事故の展開や進展を固唾を飲んで見守っていた。
でもけっきょく、べつにこの世界は終わらなかった。その後も、この通り続いている。
捨てばちになって職場や学校を放りだし、できるだけ遠くへと逃げた連中は、あとで後悔することになった。
この話の主人公である男も、本来なら逃げだす側の人間だった。だがそのときは、たまたま逃げだせない境遇にあった。
そして、いまに至る。
男の名前は、加部浩という。どうってことない、どこにでもいるような男である。
その加部だが、この国の首相である片切水蓮と、水蓮をささえる片切ヒロの二人に命令されて、原発事故があった場所へとむかっていた。
自分たちは別件で忙しいから、自分たちのかわりに福島に行ってこい。
今回の命令だが、『放射性廃棄物がもたらす問題の改善』、あるいはもっと簡単に『放射能汚染がもたらす負担をどうやって減らすか』とする。これにあわせて出張のあいだだけ、調査官という肩書きをあたえる。
また今回の仕事は、加部の資質を試す再試験とする。そういうわけなので、頑張るように。
「なんていうか、ずいぶんと曖昧で漠然としてるよな。だいたい、そんな命令を受けて、おれはなにをすりゃいいんだよ?
おれよりも優秀な連中が、大勢でこの問題に取り組んできたんだ。いまさらおれがなにかしたところで、よくなるとは思えないんだが?
でもヒロと水蓮様から、やれ、と命じられたことだから、やらないとマズイしなぁ……」
会社の命令だから、やりたくない出向の仕事もしかたなく引き受けた、やる気がない会社員みたいな言い草だが、加部の心情はそれにとても近かった。
とりあえず加部は、新幹線と急行を乗り継いで、事故があった福島県内へと入る。降りた駅前でタクシーを拾い、市内の幹線道路を移動して、事故があった原発へとむかう。
その移動の道すがら、加部は市内のあちこちで、奇妙なものを見かける。
ごくありふれた住宅地の空き地や、商店がならぶ通りの一角や、学校のグランドのかたすみに、黒い大きなバッグが積んである。
大きさは幅が1、5メートル、高さが1、5メートルくらいだ。中身をいっぱいに入れているのだろう。バッグは円柱の形状になっている。
袋の容量だが、だいたい1立方メートルあって、重さはひとつで、なんと1トンから1、5トンにもなる。
なかにはもう少し小さな袋や、灰色や青色など、色が違うバッグもある。
その黒い大きなバッグは、少しだけのところもあるし、たくさん積まれているところもある。
きちんと整然とならんでいるところもあるし、適当に乱雑に放りだしてあるところもある。
長いこと放置されていたのだろう。破れてしまい、入っていた土が外に出ると、そこから雑草が生えているバッグもある。
積まれたバッグの数は、目的地に近づくにつれて、その数がだんだんと増えてくる。
事故の騒動のときを思い出すと信じられないが、タクシーは事故があった原発から二十キロ圏内に入ると、原発施設の間近にまで近づくことができた。
目的地まで、あと少しだ。海岸沿いまでくると、積まれたバッグの数はさらに増える。
海を横手に眺めて、車両で移動できる海岸道路沿いの反対側は、整地された広々とした土地が続いている。
吹きっさらしのなにもない海岸沿いのその土地に、青いビニールがずっと遠くまで敷いてあって、その上に中身がぎっしりとつまった例の大きな黒いバッグが何十メートルにもわたって延々とならべてある。
列をつくってならべてある袋の上に、さらに二段目、三段目と、バッグが積まれている。ここにあるだけでも数千個、いやもっと大量のバッグがあるだろう。
さながらそれは、高く積まれた大量のバッグでつくった山や防壁ともいうべき、巨大な堆積物だった。
この黒い袋は、フレキシブルコンテナバッグ、通称フレコンバッグという。または除染袋とも呼ばれている。
バッグに入っているのは、そのほとんどが土だ。原発事故で放出された放射性物質が付着した大量の土である。
それだけではない。雑草や、木の葉や枝や伐採された樹。側溝の汚泥。削りとったコンクリやアスファルト。そういった、放射性物質が付着して破棄された、あらゆるゴミが入っているのだ。
事故のあとで、除染や除染作業が行われた。除染作業とは、放射性物質が付着したものを除去したのちに、それを遮蔽物で覆うことをいう。
今回のそれは、汚染地帯の表土をはぎとること。生えていた草木や芝を刈りとること。そのほかの汚染されているものを集めて、この黒い袋につめること、をさした。
こうしたフレコンバッグの仮置き場は、福島県内に11万4700か所あって、除染作業で出たフレコンバッグの合計は、915万5千袋にもなる。一個を1トンとして計算しても、その総量は気が遠くなるくらいだ。
海岸沿いのさえぎるものがない景観のせいだろう。晴れた日だったので、海岸沿いにのびる沿岸道路の先に、事故があった原発施設が見える。いまもあそこでは壊れた原子炉に水をかけているんだろうか、と加部はボンヤリと考える。
そこで加部は、タクシーの窓越しに外を見て、不思議に思う。原発施設を中心に、むきだしの大地が広がっている。雑草が自生しているが、よくよく見れば、木々もなければ建物もなく、そもそもゴミさえ見当たらない。なんでだろう、と考えていた加部は、そこで理由に気付く。
原発を中心に、表土をはぎとり、木々を伐採して、草木も砂利もゴミもすべて、そこにあったものはすべて汚染物として回収してから、あそこにならんでいたフレコンバッグの山につめこんだのだ。
除染作業を徹底したことで、ここにあったものは、海岸沿いにならぶ黒い袋の山になってしまったのだ。
恐怖にも似たショックと、感動にも似た驚きに、加部は移動中のタクシーのなかでぼうぜんとなる。その加部にむかってタクシーの運転手が、もうすぐ到着しますよ、と告げる。
加部の目的地は、事故があった原発ではなかった。原発施設を目視できる距離内にある、べつの新しい施設の方だ。
それは中間貯蔵施設という。中間貯蔵施設とは、除染にともない発生した大量の廃棄物を、最終処分までのあいだ、安全に集中的に管理するための施設の名称である。
噛みくだいていうなら、市内や海岸で見かけたあの大量のフレコンバッグをトラック等に積んで集めてきて、管理しておくための場所だ、と考えるとわかりやすい。
中間貯蔵施設は、原発をとりかこむかたちで、大熊町、双葉町の二つの町で建設がすすめられている。
すでに完成して運営が開始されている施設もあるが、加部が今日訪れた大熊町側のここは、まだ建設中だった。
かなりの広さになる敷地内では、二十台からある黄色のシャベルカーが、労働者といっしょに作業を行っている。
どうやら整地した敷地内に大きな穴をいくつもつくって、そこに運んできたフレコンバッグをおさめて、土をかぶせるなり、コンクリの屋根を設けるなりして、フレコンバッグを外界と遮蔽するやりかたをとるらしい。
タクシーの運転手から領収書をしっかりともらうと、加部は持ってきた旅行用の手さげカバンを片手にさげて、中間貯蔵施設建設予定地、立入禁止、と看板がある金網で仕切られたその広々とした敷地内に入る。
「ずいぶんと広いんだな。良くこれだけの用地を確保できたもんだ。きっと事故があった原発に近すぎて、このあたりを借りたり買う人もいないから、それで可能だったんだろうな」
加部は、働いている大勢の労働者たちの格好をたしかめる。シャベルカーの運転手も、手押し車に土砂をつんで運んでいる作業者も、作業着にヘルメットに手袋という、おなじみの格好に、放射性物質を吸入しないための特注の使い捨てのマスクを着用している。
だがあくまでも規定上の義務なのだろう。防護服を着ている者はいないし、汗をかいて顔をぬぐうときも、マスクをとってタオルで拭いている。
手荷物のなかに、鼻孔と口を覆う携帯型のマスクを入れて、いっしょに持ってきていた。それを付けようかどうしようか迷っているときに、敷地内に入ってきた普段着姿の加部に気付いて、どうやらここの責任者か、そうでなければそれに近い立場らしい作業着姿の人物が、こちらに大急ぎで近づいてくる。
やってきたそいつは、いきなり大声で、加部を怒鳴りつける。
「おい、そこの、おまえっ。ここは立ち入り禁止だっ! 観光地の人気スポットと勘違いして、写真や動画を撮影しにきたんなら帰れっ! それとも、またマスコミ関係者か? もしそうなら作業の妨害として叩きだすからなっ! 覚悟しておけよっ!」
安全ヘルメットにマスクで顔を隠しているが、その怒鳴り声をきけば、この相手が本気でいまのセリフを言っている、とわかった。
加部はあわてて笑顔をとりつくろうと、こちらにむかってくる肩をいからせた作業者にむかって、大声でいいわけを始める。
「いや、おれは怪しい者じゃない。今日、ここに到着する予定になっている、視察の調査官がいるはずだよな? 片切水蓮様から直々にその連絡がきているはずだ。それが、おれだ。加部浩という。
連絡を受けた担当者に確認してもらえば、すぐにわかるはずだ。ホラこれが、証拠の身分証でさ……」
財布に入った身分証をとりだそうとする加部の手を押さえると、驚く加部にむかって、その作業着の人物は、問答無用で命令する。
「だれであろうと、いいから、ここに入ったならマスクをつけろっ! それともおまえは、マスクをしていなかったから被ばくした、と健康被害を訴えて、手当てや補償金をせしめるためにここにきたのか、ああっ?」
「だからそうじゃなくて、おれは水蓮様の命令でだな……」
「うるさいっ! ゴタゴタ言わずに、さっさとマスクをつけろ、と言っているんだっ!」
物凄い剣幕でそうまくしたてられて、加部は笑顔を凍りつかせてあとずさりすると、言い返すのをやめて、手荷物のカバンのなかからマスクをとりだして、顔面に装着する。
怒りまくっていたその相手は、マスクがきちんと加部の口と鼻を覆っているかどうか、マスクと顔のあいだにすきまが生じてないかをたしかめてから、加部がとりだした身分証をながめて、ようやく冷静さをとりもどす。
「すまなかったな。ここでは、マスクに手袋とヘルメットの着用が義務付けられているんだ。話はきいているよ。あんたが政府の命令で来た調査官か。案内はあたしがすることになっている。ともかくは、まず事務所に案内しようか。あとについてきてくれ。
ああそれから、手袋をしない手で、そのへんのものにさわるなよ? さわったらかならず、洗浄するんだぞ?」
どうやらこの人物は、だれであれケンカ腰で突っかかっていくらしい。加部は、やれやれ、とため息をつく。
前を歩きだすその作業者にむかって、加部は相手への挨拶がわりに、訪れた建設中の施設に対する自身の感想を述べる。
「でも、ここでの作業が順調なようで安心したよ。広い土地を確保して、大きな穴を用意してるってことは、除染作業で出た、汚染された廃棄物を、ここに埋めて処分するってことなんだな? 原発のゴミを受け入れるとこなんてないだろうから、それもしかたがないか」
加部が漏らしたその感想をきいて、前を行く作業者は足をとめると、ふりかえって低い声でこう告げる。
「言っておくが、これは中間貯蔵施設だ。運び込んだフレコンバッグや汚染ゴミは、ここに一時的に置いておくだけだ。時期がくれば、ここから別の場所に運んで処分する。ここはそのためにつくっているんだ。政府の役人だろうが、だれだろうが、ふざけたことを言うと承知しないぞ?」
「いやでも、どう考えても、そうなるだろう? ほかの場所に持っていこうったって、そもそもほかの場所に住んでいる住人や自治体が、自分のところで汚染ゴミを受け入れるはずがない。
そうなれば、この場所で、ここでなんとかして汚染ゴミを安全に処理する方法をみつけて、それを実践していくしか……」
加部はしかし、最後まで自分がくちにしたセリフを言えなかった。
なぜならその前に、彼の前に立つ相手が、手袋をしたかためた拳で、加部のマスクをした顔面を殴りつけたからだ。
けっこう勢いがあるパンチが加部の鼻のあたりに命中したが、つけていた樹脂製のマスクがクッションになったせいだろう、大きな負傷にはならなかった。せいぜい、数日腫れる程度だろう。
とはいえ、突然の打撃を予想していなかった加部は、避けることもできずにそのパンチをガツンッとまともにくらい、脳震盪を起こす。加部は、うしろに吹っ飛ばされて倒れると、得意げな笑顔のままで動かなくなる。
建設中にある中間貯蔵施設の敷地のはずれには、労働者たちが着替えたり休憩したり、場合によっては寝泊りもする、二階建ての事務所がつくられている。
ただ今回の事務所は、除染用のシャワー室が用意されていたし、また事務所の建物全体の気密がしっかりとされていて、常に空調機を動かして、フィルターを通しての換気がされるようなっていた。
さらに工事が終わって事務所をバラして撤去する際には、ほかの汚染ゴミといっしょに、バラした事務所を汚染ゴミとして、中間貯蔵施設におさめる予定にもなっている。
気絶した加部は事務所の二階に運び込まれたが、いまでは腫れた鼻にアイスノンをくるんだタオルをあてて冷やしながら、不機嫌そうな顔で窓越しに、外で行われている作業をながめていた。
加部は恨みがましい態度で、自身にこう言いきかせる。
「鼻血が出たよ。放射能じゃなく、殴られたせいだけどさ。どこの世界に、視察にきたお偉いさんをいきなり殴ってむかえる現場があるんだよ。あいつ、ふざけやがって。自分がなにをしたのか、あいつに思い知らせないと、ダメだよな。
みてろよ。おれが水蓮様に告げぐちをすれば、あいつの将来なんてそれで終わりだ。この恨みは百倍にして返してやるからな。おれに手をあげたその報いを思い知れ。せいぜい、悔やむがいいさ」
タオルで鼻を冷やしながら、加部は暗い笑いを浮かべると、くっくっくっ、と含み笑いをもらす。
はたからみると、加部は情けないことを言っているように受けとめられるかもしれないが、この場合はいきなり暴力をふるったあの作業者の方に責任がある。加部が怒るのも、あたり前だ。
というか、世の中に出て、そんな真似をしたら、手を出した側が法的に裁かれる。それが当然の理屈だ。殴ったほうが正しい、なんてのはフィクションの世界だけのことだ。
入ります、と背後で声がしたのに気付いて加部がふりむくと、そこには、ヘルメットを脱いで、マスクも手袋もとった先ほどの作業員が、下を見た格好で立っていた。
唇をきつく噛んで、自分の足もとをジッと凝視しているその相手は、加部が不機嫌そうにしてみせると、あらためて深々と頭をさげてから、加部にむかって自分がしでかした失態を声にだして謝罪する。
「もうしわけありませんでした。視察にいらしたそちらの言葉を誤解して受け取ってしまい、カッとなって大変な失礼をしてしまいました。このつぐないはさせてもらいます。なにか私にできることがあれば言ってください」
「驚いたな。最初に声をきいたときに、そうじゃないか、とは思ったが、やっぱりそうか」
ヘルメットとマスクをとってハッキリしたが、加部に暴力をふるった相手は、女性だった。
身長や背格好は、加部とたいして変わらない。化粧っけがない相貌は日に焼けて引き締まり、頭髪を短くした髪型をしている。そのせいで、とても男っぽい。
いやむしろ、土木工事の現場で働いているのだから、筋力や体力はあるに違いない。その気になれば腕力は、この女性の方が加部よりも強いかもしれない。
そうか自分の無礼を詫びて、謝罪するというのか。だったら誠意あるところを、しっかりとみせてもらおうじゃないか。
加部は頭をさげている女性の前に、自分のが立場が上であると誇示するように、ふんぞりかえった格好で対峙する。
だがそこで相手が、さげた頭の下から物凄い目つきで自分をにらんでいるのに気付く。ギリギリと歯を食いしばり、込みあげる内心の怒りに必死に耐えて、自分に頭をさげているのも知る。
加部はギョッとすると、反射的に防御の姿勢をとる。
「え。ちょっと待てよ。なにそれ? なにが謝罪しますだよ? そんな気持ちなんて、微塵も無さそうじゃないかよっ!
だいたい、どうしてそんなに怒っているんだよ? 初対面のおれが、あんたになにかしたか? それとも憶えてないだけで、うらまれるようなことを言ったのか? わけを教えてくれないか?」
いきなり敵意をむけられて、加部はすっかり動転してしまい、声を荒げて、対峙した女性にそう問いかける。
問われたが、その女性は答えなかった。頭をさげたままで、さげた頭の下から加部にいいかえす。
「いえ、理由はありません。私が悪いんです。あなたを案内する役目を命じられていたのに、あなたの怒りを買い、こんなことになってしまった以上、案内役を引き受けるのは私では不適切です。今回の件について、処罰は受けますから、案内役は辞退させてください。それでいいでしょうか?」
加部はさげた頭をあげずにいるその女性を前に、すっかり混乱してしまい、自問自答するよりなくなる。
「ええっ? なにそれ? わけも話さずに、そんなに勝手に、一方的に拒絶されたら、されたこっちは困るじゃないかっ! ワケを話してくれよ、ワケを! そうしなきゃ、ほかの案内役に変えても、ずっと気になり続けるだろっ!」
この理解不能な相手を、適切な処分を言い渡して、別の人物に変更するのはたやすい。すぐにでもそうするべきだった。
だが加部は、頭をさげた女性を前に、その踏ん切りがつかずに、混乱したままで思い悩む。
そのあとで加部は、事務所を訪れた中間貯蔵施設の工事を請け負っている現場の責任者と、計画の責任者である議員に会い、挨拶をしてから、予約をとってある市内のホテルに移動した。
いくら片切水蓮の紹介でやってきた調査官といっても、加部浩は肩書きもはっきりしないポッと出の三下である。(今回のために片切水蓮が一時的にでっちあげた身分なのだから、それも当然だった)
だからだろう。地元の政治家である議員の挨拶もおざなりで、ひとつよろしくお願いします、水蓮様によろしくお伝えください、だけでさっさと帰ってしまった。
けっきょく加部は、自分に暴力をふるった女性のことを、工事会社の責任者に言い出せなかった。
それでも話し合いの場で、あの女性が、ここで生まれ育った人物であること、その名前が早坂青子なのを知る。
ホテルの部屋で、連絡用として片切ヒロから渡されていたボタン式の古めかしい携帯電話の電源を入れると、民生用の通信回線を使わずに、加部はヒロに連絡をとる。
出張第一日目の報告がてらに、今日起きたことについて加部が話してきかせると、わけがわからない、とボヤく加部にむかって、ヒロはあきれた様子で反論する。
「加部、そんなのは説明されなくたってわかることじゃないか! もっとシッカリしてくれよ!」
「え、なに? どういうこと? ヒロにはわかるの? それなら、頼むから教えてくれよ?」
そう訴える加部に対して、できの悪い生徒でも相手にしているように、ヒロはため息でかえすと、それからこのように順序だてて説明してやる。
その女性は、原発事故が起きたこの場所で生まれ育ったんじゃないか?
あの原発事故からもう×年間が経過したが、自分の故郷はいまだに大変な状態にある。
事故が起きた原発は、廃炉が決定して、そのための取り組みが続けられているが、まだまだ先は長い。
燃料プールから使用済み核燃料を回収しなくちゃならない。それだけじゃない。溶け落ちた核燃料を原子炉内から安全にとりだす方法をみつけて、そちらも実行しなくちゃならない。あと三十年から、四十年はかかるだろう。
避難指示の解除で、避難所の人たちがようやく住んでいた町や村への帰還が許された。政府は除染は済んで安全だ、というが、その言葉を本当に信じていいかもわからない。
「あたしの予想するに、その青子ってヒトは自分の故郷でずっと、なにか自分にできる、事故を収束させるのにつながる仕事についてたんじゃないかな。除染の仕事とかさ。それでそのつてで今回は、中間貯蔵施設の工事の仕事についた。
原発事故があった故郷をよくするには、放射性物質を集めて、それをよそに運んで、運んだそれを安全に処理しなきゃならない。ただ集めただけじゃ、片手落ちだ。
建設中にある中間貯蔵施設は、福島県の各市内にあるフレコンバッグを始めとする汚染ゴミを集めて、最長で三十年間保管するための場所だ。受け入れ先や処分先が決まれば、保管していた施設から移動させる。だから、その女性が言っていた主張が正しい。
ところがそこに、政府の関係者だ、と名乗る加部がやってきて、そんなことはできない、ここで処分しろ、埋めておけ、考えなしのことを言う。だから怒ったんじゃないか?」
「で、でもそれだったら、ちゃんとそういうことを説明すりゃいいじゃないかっ! あんなに一方的に拒絶しなくたって、そうしてくれたらおれだってさぁ……」
自分の至らなさを指摘されたようで、加部が不満たっぷりにそう抗議すると、ヒロはあっさりこうかえして加部をへこませる。
「問題解決のために苦労しているのに、世間は相変わらず、放射能で汚染された土地だ、とつめたいからね。しかも加部が、そういう偏見の目で見ているなら、言ってもしかたない、と思い込んでしまい、それで短絡的な行動にでたんじゃないかな?
ホラ、あれだよ。中間貯蔵施設は名目上だけで、ここを最終処分場にするつもりでいる奴とはくちもききたくない、とかさ」
「なんだか、おれが悪いみたいな話になってるけどさ。いけないのは、最初に暴力をふるった、あっちの方だよな?」
「それじゃあ、そのあたりの誤解を解くことから、明日は始めたらどうだい? 視察のスケジュールや日程は、まだ残っているんだからさ」
「え。ということは、まさか、あの乱暴で敵意むきだしの案内役を、交替させずに、明日の視察や今後の調査の仕事に同行させろ、って言っているのか?」
「だって今回の任務は、加部にこの仕事の資質があるかどうかを再チェックするためのものでもあるんだよ? 困難な方が、テストとして有効じゃないか。そうだろ?
明日からの調査の報告を楽しみにしてるからね。自分の将来が大切なら、クビにならないように頑張るんだよ?」
ヒロはそう告げると、加部の抗議もきかずに通信回線の接続を切ってしまい、話を終える。
加部はホテルのベッドにパジャマ姿ですわった格好で、発信音だけが響く手のなかのボタン式の携帯電話を顔から離して、見やる。
うそだろ、かんべんしてくれよ、そう文句をくちにすると、加部は低い声でうめいて、両手で顔を覆う。
調査官(笑)の視察二日目の予定は、次のようになっていた。
午前中は前日から引き続いて建設工事中にある施設の視察、昼食後は、市民会館で住民参加のもとで行われる中間貯蔵施設の説明会に参加、である。
翌朝に、ホテルに加部を迎えにきたのは、早坂青子だった。
フロントから電話で連絡があったので用意をすませて一階に下りると、青子は昨日と同じ、工事現場で着用していた作業着のズボンにシャツに手袋という格好で、ロビーのソファにすわって加部がやってくるのを待っていた。
加部を見て、わずかに頭をさげて挨拶をする。どうやら加部の印象は、加部が自分の失態を黙っていてくれたことでよくなっているらしい。
とはいえ、それを言葉や態度に示す気持ちはない様子だった。
「やあ、おはよう。今日はヘルメットにマスクは不要でいいだろ? 君も付けてないんだしねぇ」
加部がご機嫌をうかがうように、笑顔でそう呼びかけても、青子の態度はかたくなで冷たい。
「移動に必用だろうから、クルマを工事現場から借りてきた。現場のクルマなんだから、文句はつけるな。つまらないお喋りもやめてくれ」
ソファから立ちあがると、加部の返事も待たずに、背中をむけて歩きだす。
案内役であるべき女性の、親しみといったものが微塵もない、態度と口調と行動に加部はため息をつくと、笑顔を装うのをやめてウンザリした顔で、自身にこう言いきかせる。
「まだ始まったばかりだってのに、長い一日になりそうだな」
午前中の施設の工事の視察は、とどこおりなく上手くいった。だが午後にむかった市民合同の説明会の方は、そうはいかなかった。
到着してみると、市民会館で行われた『第××回 中間貯蔵施設推進説明会』には、すでにかなりの数の参加者が集まっていた。
講堂内には、折りたたみのパイプ椅子がならべてある。大勢の住民がそのパイプ椅子にすわって、剣呑とした顔で腕組みしたり、難しい顔でひそひそと話し合ったりしている。
時間がくると、背広姿の二人組の男性が、壇上にあがる。
計画担当だという年配の議員と、説明役の背広姿の若い男が挨拶すると、マイクを使い、話を始める。
安全な生活のためにも、中間貯蔵施設を増やさなくてはならない、そのためにはこの町のあなたがたの理解と協力が必要だ、設置の意義をどうかわかっていただきたい、と説得を始める。
だが難しい顔で壇上の二人組をにらみつけていた住人たちは、それをきくと椅子から立ちあがって、くちぐちに叫びだし、説明会を野次でさえぎってやめさせようとする。
「だれが、そんなものを許すかっ! おれたちの生活を犠牲にしておいて、いつまで原発のゴミを押しつけるつもりだっ!」
「そうだ。汚染されたゴミをおれたちに押しつけるなっ! おまえたちが責任をもって処理しろっ! サッサとどこかに持っていけっ!」
「どうにもできないなんて、そんなのは理由にならないぞっ!」
「おれたちの故郷には、原発も、原発から出た汚染ゴミもいらないっ!」
「そうだ。そうだ。汚染ゴミを持って帰れっ! 汚染ゴミをだす原発はいらないっ! 事故を起こした原発も、いまある原発も撤去しろっ!」
「政府と電力会社は、おれたちの故郷を原発の放射能で汚したつぐないをしろっ!」
「そうだ。つぐないをしろっ! 故郷をもとにもどせっ!」
「原発、反対っ!」
「中間貯蔵施設、反対っ!」
「反対っ! 反対っ!」
拳をふりあげて立ちあがった大勢の住人たちは、壇上の下にやってくると、壇上の二人組を大声で非難する。大変なエキサイトぶりだ。
この事態に待機していた制服姿の守衛がでてくる。守衛たちは、住民たちが壇上にあがらないように、阻止をする。
大騒ぎになった説明会の、そのずっと後方のならべたパイプ椅子の最後尾に、加部はただ一人、脱力したようなだらしない格好ですわって、騒動の様子を輪の外からボンヤリとながめていた。
「すごいね。こういうことになっていたとはね。でもこんなんでよく、中間貯蔵施設の建設まで、こぎつけられたもんだね……」
加部がそう感想を述べると、だが青子はこのようにその意見を否定する。
「ここには施設をつくる土地を提供した、土地の持ち主はいないよ。ここにいるのは、地元の住民じゃなくて、よそからやってきた反対派の連中だ」
「そりゃいったい、どういうことだよ? この県の住民はみんな、施設に反対してるんじゃないのか?」
疲れるのですわっている加部とは違い、青子はそのうしろに立って、市民会館で行われている大騒ぎの様子を、驚いた様子もなくながめていた。
加部の問いかけに答えるよりも、青子は自身に言いきかせるようにつぶやく。
「こんなのはウソだ。でっちあげの、たわごとだ。世間にそうだと思い込ませるための、演出だ。
こいつらはよそからやってきて、私たちの故郷をおとしめているんだ。こいつらは、私の故郷をダメにしているんだ。
原発の汚染はまだ続いている。放射線で土地も人も汚染されて、もうとりかえしがつかない。それもこれも、原発がもたらした悲劇だ。こいつらが騒げば騒ぐだけ、世間のやつらはそう思い込む。本当は、そうじゃないのに……」
それから青子は、ききとれないくらいに小さな声で、くそっ、こいつら一人残らずブチのめしてやりたい、と悪態をつく。
「複雑な事情があるみたいだな。よかったら、おれにその事情を説明してくれないか?」
そう尋ねる加部に、だが青子はそれ以上はなにも言わずに、加部に背中をむけて出入口の方へと歩きだす。
加部は立ちあがると、あわてて青子のあとを追いかける。
駐車場には二人が乗ってきた、工事現場で利用している、社用車らしい、中古の大型車両がとめてある。
大型車両のところにもどった青子と加部は、青子の運転で、その日のスケジュールにはない、予定外の場所へとむかう。
やってきたのは、同市内にある市民会館を利用した地域生活センターという建物だった。
なんでこんな場所に連れてきたんだよ、と尋ねる加部に、青子は相変わらず説明するよりも先に、車を降りて歩きだす。加部はしかたなく、またそのあとを追いかける。
地域生活センターという建物はどうやら、地方自治体が運営している各地域につくった出張所みたいなものらしい。
建物の外には、このあたりの農業従事者の人たちだろう、土で汚れた作業着姿のジイさんバアさんたちが、自分のところで栽培して収穫した野菜や果物が入ったビニール袋を持って、自分の順番がくるのを待っている。
先を行く青子のあとについて、建物のなかに入った加部は、自治体の職員らしい白衣を着た男性が、順番がきた老人が持ってきた野菜入りのビニール袋を受けとっているのを目にする。
青子は白衣の職員に「見学者だから」と告げて、了解を得ると、加部にこう言いきかせる。
「ここでやっていることを、見てもらいたいんだよ」
「そりゃいいが、それでおれは、なにを見たらいいんだね?」
青子は返事のかわりに、職員の方に視線をむける。
野菜が入ったビニール袋をうけとった職員は、一般的な使い捨ての透明なビニールの手袋をはめてから、袋に入っていたキャベツやトマトをとりだし、蛇口をひねった水道の水で二十秒間ほど、それを洗浄する。
続いて洗ったキャベツの食べる部分を、まな板の上で包丁を使って、一ミリから五ミリの大きさにザクザクと細断していく。
「あの千切りにしたキャベツで、サラダでもつくるの?」
「ちょっと黙ってろよ、おまえは」
加部が皮肉っぽく茶化すのを、青子はそういって黙らせる。
職員は前述した要領でつくった測定用のサンプルを、用意してあった容器のなかに決められた分量だけ、正確に入れる。あるいは必用ならば、ジューサーのような機械でさらにサンプルを粉砕してペースト状にする。
そうやってつくった食品のサンプルを、必要な分量だけとって容器に入れて、机の上に用意してある、電源を入れて準備ができている、測定用の機械の鉛遮断測定室にセットする。
その機械は、液晶画面の表示部分がついた、各家庭にあるデジタル式の重量計を大きくしたものに似ている。ただ重量計にしては、上にはサンプルを入れる蓋付きの円筒部分がある。円筒部分は鉛のコップを内側にはめこんだ構造になっている。
白衣の職員は、これは簡易放射線測定装置です、と加部に説明すると、装置を動かしてサンプルの測定を始める。
「食品に含まれる放射性物質、この場合は放射性セシウムであるセシウム134とセシウム137を調べます。その数値はベクレル数で表示されます。
食品衛生法に定められたセシウムの基準値は、飲料水が10ベクレル\キログラム、牛乳が50ベクレル\キログラム、一般食品100ベクレル\キログラム、乳児用食品50ベクレル\キログラムになります。
ですからこの場合は、100ベクレル\キログラムを越えていたら、農産物として出荷や流通はできないし、自家製野菜にしても食べてはいけないことになるわけです。わかりましたか?」
白衣の職員の説明をきいても加部には問題点が理解できず、相槌をうってやりすごすばかりだった。
だが心のどこかで、数値がゼロじゃないなら、やっぱり危険なんじゃないか、とそんなことを考える。
「それで今回の野菜、キャベツの数値ですが。すぐに結果がでます。あ、いまでましたね。6、5ベクレル\キログラムなので、出荷や流通させても問題ない、となるわけです」
「うーん。でも、そうはいっても、なんというか……」
言葉をにごすと考え込む加部にかまわず、職員は、測定装置にケーブルでつないであるノートパソコンに計測した数値を記録してから、ノートパソコンにつないだインク式のプリンターで結果を用紙に印刷する。その計測結果のプリント用紙を、待っている老人にわたして、このように言いきかせる。
「今回の野菜の計測結果も、基準値以下、安全でしたから、大丈夫ですよ。今年に入ってから、ずっと低い数値を維持してますよね。除染の効果があったんでしょうね。なによりです」
「県の除染の担当の人に頼んで、畑の土をひっくりかえしていれかえることをしたのが、よかったみたいだな。
でも、ここまでしても、ここでつくった野菜は、フクシマ産だ、と言われて安く買い叩かれるか、売りものにならない、と拒絶される。やっとられんわ。まただめだったら、そのときはわしが、自分で食べてやることにするよ」
そこで畑からそのままやってきたらしい老人は、自分のことを見ている加部に気付くと、そちらをふりかえってこう呼びかける。
「あんた、ここの人じゃないね? どうだね、この野菜を持って帰って食べてみんかね? 採れたての新鮮だよ?」
「え? あっ、その。いーえ、けっこうですっ! 気持ちだけ、いただいておきますっ!」
キャベツやトマトやキュウリが入った袋をさしだす老人に、加部はサッと両方の掌を前にむけて、あわててそう返すと、相手の好意を拒絶する。
老人は加部のその反応を見て、フンと鼻で笑うと、そのまま野菜が入った袋をさげて、建物から出てウチに帰っていく。
職員は加部に頭をさげると、「すみません。いい人なんですけどね。悪意はないので」と困った様子でかわりに謝罪する。
加部は老人が立ち去ったのをたしかめてから、声をひそめて職員に尋ねる。
「いやでも、本当に許可していいんですか? 食べても大丈夫って言っちゃってましたけど、たまたま検査したあのキャベツの数値が低かっただけで、ほかの野菜は危ないかもしれないじゃないですか? だいたい、さっきのキャベツだって6、5ベクレルあったわけだし」
疑わしそうな顔でそう抗議する加部に対して、職員は困った顔で考え込んでいたが、きっとこれまでの記録が保存されているのだろう、手もとのノートパソコンを操作して、表示した数値を加部にみせる。
それは、あの老人だけでなく、この地域に住む大勢の農業従事者が持ってきた野菜を、品目ごとに分類して、その放射性セシウムの数値を計測した記録だ。記録は2011年からつけてあって、それが今年の記録まで、ズラリと続いている。
わかるのは、検査を始めた最初の年から年を追うごとに、検出される放射性物質の量が減っていくことだ。
ただし、個人情報にあたるからだろう。氏名の欄は一時的にすべて××になっている。
「ウチの県では、国のガイドラインに基づいた、農林水産物等の放射線モニタリングをやっています。集計したデータは、各市ごとに、またそれぞれの品目ごとに、県のホームページ公開して、だれでも調べられるようになっています。いまのデータも集計されて、ここのホームページにくわえられることになるわけです。
この市では、この三年間で12616件の検査を行いました。そのうちの12236件が、つまりは割り合いにして97パーセントが、20ベクレル未満だったんです。基準値である100ベクレルを越えたのは35件だけで、割り合いにして0、3パーセントたらずです。農作物に関しては、皆さんが考えているよりも、ずっと安全なんですよ」
「でも実際に、さっきは6、5ベクレルあったわけでしょ?」
自信をもってそう語るその職員に、加部は納得いかずにくいさがる。
職員はそんな加部に、こう言いきかせる。
「キャベツに関して説明すれば、言いたくはないですが、ほかの県で栽培しているキャベツも、数値はゼロじゃないんですよ。というよりも、ゼロになることはないんです。これがそのデータですが、見ていただければわかるように……」
農水省が公開している全国集計の県別のデータをみせて説明を続ける職員に、加部は不満そうに、そうかもしれませんが、とくちをにごす。
たぶんこの職員が言うように、検査の結果は問題ないのだろう。でも数字上のデータをみせられても、やはりそれだけでは不安を払拭できない。
複雑な表情で職員の説明を拝聴している加部のことを、少し離れたところから、青子はなにもいわずに黙って眺めている。
宿泊しているホテルに帰る大型車両の後部座席で加部は一人、頭のうしろで両手を組むと、座席に身をあずけて天井を見上げて、ほうけた表情でずっと考え込んでいた。
運転手である青子は黙って運転を続けていたが、頃合いをみて、うしろの加部にこのように自分の意見をきりだす。
「わかっているんだ。いったん付いた悪いイメージは、簡単にはぬぐえない。実際にここは一度、放射性物質に汚染されたんだ。
だから、いまだに山でとれた野生のキノコや山菜は、出荷制限の対象になっているし、危険だからとっても食べる奴はいない。出荷できるのは温室栽培でつくったキノコの方だけだ。
でもここでつくった、とれた、というだけで拒絶されるのは、ヤッパリおかしい。だって出荷前に全体検査をして、安全チェックはキッチリやっているんだからな。そうは思わないか?」
「なるほど、そうかもしれないね。ところでさっき職員が言ってたが、だんだんと数値は下がっていったんだよな? じゃあ原子炉から放出された放射性物質は、どこへ行ったんだ? 大量の放射性物質がこのあたりにも放出されたんだろ?」
「そりゃあ、もちろん、あのフレコンバッグのなかだよ。除染袋のなかに、土といっしょに入っているんだよ」
「そうか。そうだよな。そう考えるべきだよな」
うなずいて納得する素振りはしたが、加部は難しい顔で、うーん、と唸る。それから加部は、青子にこう尋ねる。
「それから今日、市民会館でなにか言っていたよな? あれは、どういうことなんだ。教えてくれないか?」
「ああ、あれね。原発関係の集まりには、反対する団体の奴らが住民のふりをして参加しているんだ。見付かれば追いだされるもんで、以前ほどはあからさまな真似はしていないが、それでもいまだにこの町の住人をたきつけて、反原発の運動に参加させようとしているんだ」
「なんだか、いろいろと複雑なんだな。それで、その、なんだ。君も中間貯蔵施設の建設には反対なのかな? 今日のあの反対者たちと、同じ意見なのかい?」
加部が慎重に、心配そうにそう尋ねると、青子は沈黙の後に、ぶっきらぼうにこうかえす
「反対だったら、施設の建設工事の仕事なんて、するもんか。そりゃもちろん、原発を建てた電力会社の奴らを許したわけじゃない。
でも私たちが生活する場所に、大量のフレコンバッグをいつまでも放置しておくわけにはいかない。少ないとはいえ、あの袋のなかに放射性物質が入っているんだ。耐久性の限界がきて破れ始めているものだって増えている。
みんなも、なんとかしなきゃならない、とわかっているんだ。中間貯蔵施設に反対だ、と建設を阻止するよりも、集めて管理する場所をつくらなきゃならないことはね。だから、少しでも現状をよくするために、私も工事に参加したんだよ」
「そうか。それをきいて、安心したよ。でも君はリッパだな。おれなんて、視察にきたのに、なにをするべきかサッパリわからないでいる。
いまだに、どうもよくわからない。けっきょく、問題の焦点はどこにあるんだ? だれがいけないんだ? なにをどうしなきゃならないんだ?」
「……」
加部は後部座席からそう問いかけるが、青子はそれきり黙り込んでしまい、そのままくちをきかなくなる。
青子が自分の疑問に答えてくれるのを期待していた加部だったが、けっきょくそのあと、ホテルに到着するまで、青子にあわせて黙っていることになった。
ホテルに到着すると、加部は車から下りて青子に、じゃまた明日、と告げる。だが青子は返答を省略して、車を発進させると走り去る。
ホテルの部屋にもどった加部は、着替えて風呂に入り、先刻の自分の疑問の回答について考え続ける。
けっきょく加部は、答えを求めて、その日の報告を行うために連絡をいれた片切ヒロに、まったく同じ問いをすることになった。
加部からの報告を待っていたのだろう。加部が携帯電話で連絡をいれると、片切ヒロはすぐに電話にでた。
早坂青子の案内で地域生活センターに行った一件を伝えると、よしよし順調だな、とヒロは通信回線のむこうで相槌をうつ。
「御苦労サマ。その調子で、明日も現地をまわってきてくれ。現地でなければわからない、なにか気付くことがあれば、忘れずにそれを報告するように。それでは以上」
「おい、待ってくれよ。そりゃないだろ、最初の質問に答えてくれ! なんでおれを、ここに送り込んだんだ? おれは、なにをしたらいいんだ? おれがやるべきことを早く教えてくれ!」
加部は声を荒げて、通信回線のむこうの相手に問いかける。
沈黙したのちに、ヒロは加部にこうかえす。
「それじゃ、教えよう。加部がそこに送り込まれたのは、原発事故が起きてから、ある程度の期間が経過したからだ。
ではなぜ事故後に、こうした区切りの期間を設けたりしたのかだが。加部にはその理由がわかるかい?」
「それは、えーと……。いや、だめだ。わからない。サッパリだな」
本気でわかってないとわかる加部がそう答えるのをきいて、やれやれ、とヒロはため息でかえすと、それから理由についてこう説明を始める。
「チェルノブイリだ。チェルノブイリ原発事故を、我が国で起きた原発事故との比較や参考の例にしたからだよ。
チェルノブイリの場合には、事故があった数年後から、汚染地域で暮らす被ばく者の変化が、だれの目にもあきらかになった。
数十キロ先にある国境のむこうの事故現場に行ったわけでもないのに、大人の被ばく者たちがバタバタと死に始めた。新生児の死亡が、ありえないくらいに増えた。
白血病や甲状腺がんになる子供たちが増えた。しかも、本来ならば甲状腺がんにならない0歳から5歳の患者ががんになるんだ。だれがみても、これはおかしい、となった。
でもソビエト政府はこの異常な現象は、原発事故とは関係ない、原発事故が原因ではない、と否定を続けた。そうこうするうちに、死亡者と発病者はさらに増えていき、そのいいわけも通じなくなってしまい、ソビエトは分裂し崩壊した。それが事故から五年後だった」
「ああなるほど、そういうことか。そういえば、そんなこともあったよな」
ヒロの説明に、加部はうなずいてかえす。
ヒロの説明だが、じつはかなり間違っている。
チェルノブイリの事故の場合は、原子炉の爆発で核燃料が飛散してしまい、飛散した核燃料によって生じた汚染地帯での被害は、数年後ではなくて、それよりもずっと早くからあらわれていた。
とにかく、まずは話を先にすすめる。
「チェルノブイリの話をひきあいにだされると、不安になってくるな。それなら今回の原発事故で、福島はどうなっているんだ? 子供たちががんになったり、白血病になっているのか? 放射能汚染で大勢が病気になっているのか?」
「いや、全然。別にこれといって、目立った変化はないな。子供のがん患者はいたけど、少数だし小児がんだったし。避難のストレスで高齢者が亡くなっているけど、それだってがんや白血病じゃないし。
騒ぎにしたがる連中は、政府が隠蔽しているだけで実態は違う。推定患者は十万人はいる。将来的に患者は百万人になる、と訴えている。でもそんな事実はないし、そうした科学的な裏付けや根拠もない」
「なんだ、そうか。ふぅぃーっ。それをきいて安堵したよ。つまりは、放出された放射性物質による福島での被ばくは起きていないんだな? つまりは、おれの心配は、すべては取り越し苦労だったんだな? やれやれ、人騒がせな。まったく……」
「いやいや、そういうわけじゃないんだ。原発事故は実際に起きたし、大量の放射性物質が放出されて降下もした。加部がいる場所から遠くないところに、立ち入り禁止の区域が生まれた。人が暮らせないほどの汚染地帯、ホットスポットもできている。
でもチェルノブイリと決定的に違う点は、チェルノブイリの場合には、政府が汚染の実態を隠蔽して、なにも問題はない安全だ、と情報の遮断を行ったことだ。対外的にもこれをやったせいで、他国から大変に非難もされた。なにせ事故の発生を、当事国じゃなくて、スェーデンの観測所が気付いて発表したくらいだったんだからね。
ウチの国だって事故当時の政権のお粗末な対応はひどかったけど、それでも汚染地帯の情報を出して住民を避難させたり、除染作業をやって放射性物質の回収をやったりした。なによりも被災地の住民が自治体と協力して、自主的に正しい知識を学習して、行動できた。ホットスポットがどこにできて、それをどう回避するべきか。なにを食べたらいけないのか。そういう対応ができたんだ。
チェルノブイリの事故の汚染地帯では、住民の避難や移動や除染作業は軍によって実施されたが、あくまでも共産党による強制退去命令だったから、なんで移動するのかを説明しなかった。キノコやミルクの規制がされたのも、ずっとあとになってからだ。
汚染地帯に暮らす住人たちは、汚染された乳製品や森でとれたキノコを食べて、汚染された水を飲んでいた。やがて癌や白血病の患者が増えて、そのせいで社会不安が拡大した。
チェルノブイリの事故でまずかったのは、住人側だけでなく、党の中枢にさえ正しい情報がいかない、社会主義体制の悪習が、事態を悪化させたことだ。大きな問題が起きても、下がそれをもみ消して、あたかも平常通りであるように、上には報告を続けた。がんや白血病の患者がどんどんと増えて、そのせいでソビエトの社会がパニックにおちいっても、対応しなければならない共産党が、事故は収束している、被災者はわずかだ、対応は万全だ、とやってしまったんだ。(実際には事情はもっと複雑だった)まあこのあたりが、いちばんの違いじゃないかな」
ヒロから説明をうけて、加部は一応は納得したものの、自分の質問に対してヒロがちゃんと答えていないことを、とがめる。
「それで、その事故後の原発施設があるフクシマに来て、おれはいったいなにをしたらいいんだよ? 被害がでてないなら、それでもういいじゃないか。そうじゃないっていうなら、ワケを話してくれよ。おれがすべきことを、ここに行くように、と命じた当人から直々に教えてもらえないか?」
「その件については、あたしからはなにも言えないね。というよりも、それを教えたりしたら、加部の再テストにはならないだろ? でもまぁ、加部あてに、チェルノブイリの原発事故による健康被害について、まとめた資料を送っておくよ。この出張仕事の参考にしたらいい。それで調査官(笑)の明日の予定はどうなっていたかな?」
「建設がすんで、もう運営している、双葉町にある中間貯蔵施設に出向いて、明日はそこを視察することになっている。
そこの職員からいろいろと話をきいて、建設中の施設への参考にする予定だよ。それから外国の視察団が来るとかなんとか、案内役が言っていたような……」
「そうか。よしよし。万事、予定通りだな」
「?」
加部の返答をきいて、ヒロはなにやら勝手に了解すると、頑張るように、と伝えて連絡を終えた。
加部はため息をついてホテルのベッドに寝転がるが、メールの着信音をきいて、そばにおいた携帯電話をとりあげる。
着信したメールといっしょに送信されてきたファイルをひらいて、それがヒロが言っていたチェルノブイリの資料なのを知る。
ベッドに寝転がった格好で携帯電話を操作して、液晶画面に表示された資料の内容を、加部は読み始める。
2
チェルノブイリ原発事故は、1986年4月26日に、ウクライナとベラルーシの国境付近で起きた。正確にはウクライナ側だ。だからウクライナに旅行することがあれば、事故現場の観光もできる。
嘘みたいな話だが、事故から三十年近い年月が経過した現在では、守らなければならない規則や制限付きで、チェルノブイリ観光ツアーが実施されている。ツアーの費用が高額なせいで、カネ持ちの外国人観光客むけになっているらしいが。
チェルノブイリの原発事故では、爆発事故の際に、炉内の核燃料の一部が飛散をしてしまった。残った核燃料もむきだしになった。放出された放射性物質の量は、おかげで膨大なものになった。
放出された放射性物質によって、国境を接していた、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアが汚染された。この三か国のうちで、汚染がもっともひどかったのがベラルーシだ。続いて、ウクライナ、ロシアの順番となる。
事故があったウクライナがいちばん汚染されそうなものだが、ウクライナよりも、地続きで国境をまたいだベラルーシのが酷いことになった。
事故当時は、風が北へと吹いていた。汚染濃度をしめす地図をみればわかるが、放射性物質はウクライナからベラルーシにむかって流れた。その結果、放出された520万テラベクレルの放射性物質のうちで、70パーセントあまりがベラルーシにいってしまった。
ベラルーシは、国土の二割が放射性セシウムに、国土の一割がストロンチウムに汚染された。おかげで、ベラルーシをわけた118地区のうちの53地区が、放射能汚染地域に指定された。また原発から三十キロ圏内に暮らしていた13万5千人あまりの住人が、強制移住を強いられた。
このように、汚染された国土の範囲があまりに広すぎるせいで、ベラルーシでは総人口の13パーセントにあたる約130万人の人々が、汚染地域での生活を続けるよりない状態にある。
汚染地域での生活で、注意すべきは、内部被ばくの問題になる。
内部被ばくは、放射性物質を、呼吸によって吸入したり、飲食によって体内に入れることで起きる。
原発事故で放出された放射性物質が、季節風や雨風の力で広範囲に拡散する。拡散したそれが降下すると、表土や樹木や雑草に付着する。あるいは河川や湖に降下して、水源に混入する。
畑の表土に落ちた放射性物質は、畑の作物の葉や根から吸収される。森に落ちた放射性物質は、果樹に吸収されたり、地表のキノコに吸収される。なかでも野生のキノコなどの、山に生える育成が早いものは、放射性物質を大量に吸収する。
牛や豚、ニワトリなどの家畜は、放射性物質が付着したり吸収された雑草や飼料を食べることで汚染される。家畜の場合は、肉だけでなく、牛乳やチーズなどの畜産品が汚染される。特に牛乳や乳製品に関しては、家畜の体内で生物濃縮されるために危険度が高まる。
汚染された食品を食べるだけでなく、内部被ばくは、毎日飲んでいる水によっても起きる。河川や地下水、水源が汚染されると、やはり内部被ばくをする。
内部被ばくとは、私たちの体内に入った放射性物質が、体内にあるときにだした放射線によって、私たちの体組織が影響を受けることをいう。
体内に取り込まれた放射性物質は、その元素の化学的性質によって、体内でのふるまいが異なる。
事故で放出された放射性物質のうちで、その主なものは、セシウム134、セシウム137、ヨウ素131、ストロンチウム90、プルトニウムになる。
このうちで、特に大量に出るのが、ヨウ素131、セシウム131、セシウム137になる。食品による健康被害を調べるときも、まずはこの三つが対象になる。
この三つは、軽いために広範囲に飛び散りやすく、人体に摂取されやすい水溶性の放射性物質なのだ。それにくらべると、プルトニウムやストロンチウムは重すぎて、爆発で原子炉から燃料が飛び散った数キロ以内が、汚染の対象になる。
福島の事故で、プルトニウムやストロンチウムの汚染が騒がれなかったのは、燃料がとびちらなかったからだ。ベラルーシの場合は、爆発で核燃料そのものがベラルーシまでとんできたのだ。
また前述したように、放射性物質は体内に入ったあとで、蓄積される場所がそれぞれ異なる。
ヨウ素131は、甲状腺に取り込まれて、そこに沈着をする。
ストロンチウムは、骨中のカルシウムと置き換わって骨に沈着する。
カリウムやセシウムは、水に溶け込んで全身の細胞内へと広がる。
なぜ放射性物質が体内に吸収されるのか、といえばだ。人体側が栄養素と間違えて取り込んでしまうかららしい。(本来の栄養素も化学物質だしね)
だから栄養のバランスがとれた健康的な食生活をすることが、吸収をおさえて、内部被ばくを避ける対処方法にもなる。
コンブやワカメを食べれば放射性ヨウ素の吸収がされない。カルシウムが多いものを食べればストロンチウムが吸収されなくなる。水溶性食物繊維、ゴボウや納豆はセシウムの排出を促進する。
事故で飛散したしたいろいろな放射性物質のなかでも、チェルノブイリの事故でもっとも危険とされたのが、セシウム137だった。
セシウム137は、前述したようにとにかく大量に放出される。そして軽いせいで、広範囲に飛んで広がる。しかも水溶性なので、魚介類、野菜、コメをはじめ、粉ミルク、牛乳、牛肉、茶葉、キノコと、あらゆる食品に吸収される。
きわめつけに、放射線を出さなくなるまで、つまりは半減期が三十年と長いせいで、汚染された地域は三十年もその影響を受けることになる。
ちなみに放射性ヨウ素の半減期は八日間で、セシウム134は二年である。
セシウム137は、体内に取り込まれると、水溶性なので、肝臓、心臓、腎臓などの臓器や筋肉に取り込まれて、長期間にわたって組織や細胞に影響をあたえ続ける。
だから、原発事故で放出されて、心臓に蓄積されたセシウム137が心筋梗塞を起こすのではないか。甲状腺に取り込まれたり、骨に取り込まれた放射性物質が、甲状腺がんや白血病を発症させるのではないか。そのように主張する人があらわれた。
これがバンダジェフスキー医師になる。
バンダジェフスキー氏は、ベラルーシのゴメリ医科大学の学長をやっていた。
ゴメリ州はベラルーシで放射能汚染がもっともひどかった地域だ。氏もそれゆえに多くの患者とかかわることで、放射性セシウムがもたらす健康被害について危機感を持ったのだ、と思う。
チェルノブイリ事故の被害を伝える資料として、バンダジェフスキー氏がまとめたのが、ウクライナとベラルーシの人口統計、人口動態、になる。
この報告書は、クラス7レベルの原発事故が発生した場合には、その国で長期にわたって、なにが起きて、それがどのように変化していくのか、それを放射能汚染の影響を受けたウクライナとベラルーシの人口の変化を通して読みとろう、という試みになる。
でもバンダジェフスキー氏の主張を、鵜呑みにするのは危険だ。
たとえば、低線量の内部被ばくでも重大な健康被害を誘発する危険性がある。たとえ微量でもセシウムなどの放射性物質が含まれる食品を食べてはいけない。放射能汚染された地域に住んではならない。氏はそのように主張する。
放射性セシウムが危険だ、というのは理解できる。でも氏の意見を受け入れて実践するとなると、市販されている食品や飲料水の多くが危ないことになる。というか、ほとんどの飲食物が危険だ、となる。また居住や生活できる地域や場所が制限されてしまう。
その結果、安全な飲食物と生活場所がどこにもない。そういう社会不安をひき起こす可能性があるのだ。
氏の主張の盲信は危険だ、と思う。でもこのレポートの人口動態の変化は興味深い。
以下は、バンダジェフスキー博士の警告、人体に入った放射性セシウムの医学的生物学的影響、からの抜粋になる。
バンダジェフスキー氏は報告書を通じて、事故後のウクライナとベラルーシの人口の変化をあつかい、放射能汚染の実態がどういうものかを伝えようとする。
原発事故が起きる前は、ウクライナの新生児の出生数は、毎年に70万人から80万人くらいだった。1980年代も、ずっと70万人から80万人を維持していた。
それが事故が起きた1986年から、ウクライナにおける毎年の新生児の出生数が減少を始める。1991年には、新生児の出生数は60万4千人になってしまう。
そのあとも50万人、40万人、30万人と出生数は減り続けていき、2001年には過去最低数の37万6千人になる。38万人と計算しても、誕生するはずだった32万人の新生児が生まれてこなくなったわけだ。死産したか流産したか。そうでなければ夫婦が子供を持たなくなったのだ。
だがその後は回復を始めて、2008年には、50万人にもどる。だいたい25年で、新生児の出生数は減少から回復に転じている。(それでも50万人なので、70万人から80万人にくらべればまだ少ない)
続いて、ウクライナの年間の死亡者数の変移になる。ウクライナの年間の死亡者数は、チェルノブイリの原発事故が起きた1986年当時は、年間で56万5千人くらいだった。
ウクライナの、この年間の死亡者数が、原発の事故後から増え始める。
ウクライナの年間の死亡者数は、90年代に入ると急激に増加する。1995年には、年間で79万人が死亡して、ピークをむかえる。
その後、死亡者数の増加はとまって、2009年からはようやくどうにかなる。ウクライナでは死亡者数の増加がとまるまで、事故発生から25年がかかっている。
ウクライナの人口減少はすさまじくて、そのせいで国連から忠告をうける事態となる。注意されてどうなるもんでもない、と思うが。
バンダジェフスキー氏は、この著しい人口減少の根本原因は、おそらく放射能に汚染された飲料水や食品を大量に摂取した結果だ、それで慢性的な低線量内部被ばく状態となり、ウクライナの住人に全般的な健康被害が発生して、それがウクライナにおける死亡率の悪化、出生率の激減としてあらわれたのだ、と語る。
続いてベラルーシだが、ベラルーシの人口の動態や推移の判断はムズカシイ。こちらはウクライナほど、劇的に人口の減少が起きていないからだ。
最初に述べたように、チェルノブイリ原発事故の影響は、ベラルーシのが大きかった。放出された520万テラベクレルの放射性物質のうちの70パーセントあまりは、ベラルーシに降下をした。だから影響はウクライナより大きいはずなのに、人口の動態にそれがあまりあらわれないのだ。
バンダジェフスキー氏はその理由を、原発事故以前に行われていたソビエトによる大気圏核実験の影響だ、と解説する。だから核実験が禁止されてベラルーシの人口の増加は回復したが、また再びチェルノブイリの事故によって減少に転じたのだ。それでウクライナとくらべて大きな変化がないのだ、と論じる。
実際にその主張通り、1960年代あたりは、ベラルーシの人口は順調に増加している。それが1986年のチェルノブイリの原発事故の発生後から、順調だった人口の増加率が変化を始める。
それまでは人口増加が毎年、プラス0、5パーセント以上あったのに、それが1988年にはプラス0、33パーセントに。1989年にはプラス0、27パーセントに。1990年にはプラス0、19パーセントに、と減っていく。
一見するとベラルーシの人口増加は事故後も続いているが、その増加率が下がっていくのだ。つまりいままでは、毎年たくさん増えていたのが、毎年ちょっとずつしか増えなくなるのだ。
ベラルーシの人口は、やがて1千万人台から動かなくなる。そしてついに1994年に、つまり事故後8年で、マイナス0、13パーセントになってしまい、そこから少しずつ人口の減少が始まる。
人口の減少はその後もじりじりと続いて、1995年には、ついに1千万人台を割り込んでしまう。
ただし前記したように、放射能汚染がよりヒドイはずのベラルーシのが、ウクライナとくらべて人口の減少は少なくて、900万人台を維持し続ける。ベラルーシの人口減少がとまるのは2009年で、事故後23年目になる。
なぜ汚染がひどいベラルーシのが、ウクライナよりも減少の度合いが少なかったのか。それが最初に疑問として出てくると思う。でもその疑問の解決はあとまわしにして、とりあえずは、この二か国の話を続ける。
ウクライナとベラルーシの人口増減に関しては、もっと単純に両国の人口増減を比較すると(比較のグラフを見ると)、その違いがハッキリとわかる。
原発事故当時のウクライナの総人口はざっと5000万人で、ベラルーシの総人口はざっと1000万人だった。
事故から8年後に、ウクライナの総人口が5200万人くらい、ベラルーシが1200万人くらいのところで、両国ともほとんど同時に人口の減少が始まる。
ウクライナとベラルーシの人口減少はそのまま続くが、ウクライナの急激な減少率が、ベラルーシを追い越す。そしてベラルーシは事故後23年目で、ウクライナは事故後25年目で、ようやく減少がとまる。
この時点でウクライナの総人口は4250万人あまり、ベラルーシは9500万人あまりである。
総人口のピーク時から、ウクライナは950万人の減少、ベラルーシは250万人の減少になる。
ちなみに、ウクライナと、ベラルーシは、地続きになっている隣国同士ではあるが、いろいろな面で大きく違う国である。
ウクライナが、ヨーロッパ的な性質をした個人主義的で資本主義的な国家だ、ととらえるなら。ベラルーシは、ソビエト的な性質をした、社会主義的で全体主義的な国家になる。
この二国は、ソビエト連邦に組み込まれていた当時も、ウクライナはソビエトが大嫌いだが、ベラルーシはソビエトが大好きと、これも正反対の対応をしていた。
だから原発事故の対応も、ウクライナはソビエトのせいだと訴えていたが、より被害が大きいベラルーシはそういう態度をとらなかった。
この二国は、隣国同士だが、国の体制も、国民の性質も、まるで違うのだ。
加部はベッドに寝転がったままで、携帯電話を操作して、バンダジェフスキー氏がまとめた資料を読みすすめる。そうしながら、ウクライナとベラルーシの総人口の変化について考えてみる。
不思議なのは、放射性物質による汚染のダメージをより多くうけたベラルーシのがウクライナよりも人口減少が少ないことだ。これはいったい、なぜだろうか?
ともかくだ。この資料からわかるのは、人口への影響をみるかぎりは、世間が考えているほど、放射能の影響は半永久的に続くわけではないことだ。
なぜ二十五年目あたりで人口減少がとまるんだろうか、と加部はベッドに寝転がったままで考える。
チェルノブイリの原発事故で、住人にいちばん影響をおよぼした放射性物質は、大量に放出されて拡散をし、人体に影響しやすく、長期的に影響が続く、セシウム137らしい。
セシウム137が放射線を出さなくなる、つまりは半減期がくるまで、だいたい三十年かかる。25年後に人口統計が好転するのは、セシウム137の半減期が近づいて、影響力を失うからじゃないか、と加部は思い付く。
いや待て、それは早計だろう。セシウム137が三十年で半減期が訪れるのと、ウクライナとベラルーシの人口減少が二十五年でブレーキがかかるのとは、関係はないんじゃないか? それとは別の理由があるんじゃないだろうか?
そうやってボンヤリと考えごとを続けていた加部はそこで、中間貯蔵施設におさめて管理する大量のフレコンバッグが、場合によっては最長で三十年間の保管を念頭においていたのを思い出す。
中間貯蔵施設に汚染ゴミを集めるのは、あくまでも一時的な措置だ、受け入れの態勢が整えばよそに移す、と考えている青子のような現地の人たちがその理由をきいたら怒りだすかもしれないが、それはつまり、セシウム137が放射線を出さなくなる半減期を予定に入れた措置なんじゃないか?
ベクレル数が高くて危険な汚染ゴミはしまっておいて、三十年後に放射線を出さない安全なゴミになったら、施設から出して別所にもっていって処理や処分する、そういう前提でいるんじゃないだろうか。
加部はそんなことを考えながら、寝転がった姿勢で携帯電話を操作して、資料の続きを読んでいく。
次の項目は、放射能汚染による健康被害、だった。
だが加部は、読むべきではなかった、と後悔することになる。
チェルノブイリ原発事故については、事故が起きたその年、あるいは一年後から、原発施設の周辺住民に健康被害があらわれていた。
チェルノブイリの事故がもたらした、現在まで続く健康被害の報告を読むうちに、加部は、だんだんとけわしい顔つきになっていく。
資料には、放射能汚染についてまとめた報告だけでなく、多数の写真が添付されていた。甲状腺がんになって手術を受けた大勢の子供たちのくびまわりを撮影した、見ているだけで痛々しい気持ちになる写真だ。
そのほかにも汚染地域で誕生したとキャプションにある、指や手首がなかったり、頭が大きかったりと、先天性異常のたくさんの赤ん坊や子供たちの写真もある。
何十枚もある写真資料を見ていくと、原発事故がもたらした、この悲惨な現実と、救いがない悲劇的な事実を前に、助けを請い、祈るしかない。そんな心境になってくる。
住んでいる場所が放射性物質に汚染されたら、なにもくちにしてはいけないし、そこから逃げるしかない。それしか助かる方法はないんだ。そう思えてくる。
ひどく気分が落ち込んでしまい、加部は携帯電話を閉じると、枕に顔を押し付けて、声にならない呻き声をもらす。
出張三日目の朝になる。前日と同様に、加部が宿泊しているホテルに、早坂青子がやってくる。
職場から借りだした大型車両を駐車場に入れてから、青子は、ホテルのロビーに足を踏み入れる。
青子は、ホテルのフロントの係員に、加部の呼びだしを頼もうとしたが、そこで当の加部本人が、ホテルの一階にいるのに気付く。
外出着に着替えて、フロアにあるソファに腰を下ろすと、肩を落とした格好で、加部はぼんやりと自分の足もとを見ている。
青子はソファにすわっている加部に近づくと、その背中にむかって、挨拶もなしにぶっきらぼうに呼びかける
「なんだよ。今朝はずいぶんと早いんだな。そんなに仕事熱心だとは思わなかったよ。それで、もう朝メシはすんだのか? すぐに仕事に出かけるかい?」
「あ。ああ、君か。いやその、朝食はパスさせてもらったよ。どうも食欲がなくてね。昨晩は眠れなかったから、そのせいかもしれないね。ははは……」
加部の反応は弱々しく、笑い声もかぼそく、そらぞらしい。
青子は加部の、ひどく疲れきって血色が悪い顔を見下ろすと、腕組みをしてその理由について考えてみる。
加部の変調について疑問はあったが、青子はまず最初に、クルマは用意したよ、視察に行くんだろ、それとも今日はやめるかい、と加部に尋ねる。
肩を落としてうつむいていた加部は、青子の呼びかけをきいてハッとする。
「そ、そうかぁ。そうだよな。今朝は体調がすぐれないので、ホテルで休養にすればいいか。……いや、ダメだ。そりゃ、できない。これはおれの再試験を兼ねた出張仕事なんだからな。休んだりしたら、評価が悪くなる。水蓮サマから、その資格無し、でくびを切られちまう。そりゃ、マズイよ。とっても、マズイ」
「さっきからブツブツと、なにを言ってるんだ?」
加部のそばに立った格好で、青子は不思議そうにそう尋ねるが、加部がソファから立ちあがって、よろよろと先に立って歩きだすのを見て、しかたなくそのあとについていく。
本日の視察先は、工事が昨年に終わって今年から実際の運営が始まっている、双葉町側の予定地内にある、中間貯蔵施設だ。
まだシャベルカーや大勢の作業員を動員して、穴を掘ったり、建物を建築する準備中の青子がいた大熊町側の現場と比較すると、双葉町側の施設は、すでにフレコンバッグの受け入れを始めて、本日も稼働中だ。
じつは中間貯蔵施設は、青子がいた大熊町側の予定地と、稼働中にある双葉町側の予定地をあわせた広大な用地に、四つのエリアを設けて、そこに全部で4つの施設を建設する予定になっている。
最初に訪れた、シャベルカーや大勢の労働者を入れて、これからつくるぞ、と地面を掘り返していた建設現場とは違い、青子が運転する車両で加部がむかった稼働中の中間貯蔵施設は、そこを初めて訪れる加部の眼から見ても、なるほどこういうものができるのか、と驚かされるところだった。
というよりも、稼働が始まった中間貯蔵施設も、工事が始まった中間貯蔵施設も、違いは、同じ用地内のあちらとこちらにあるくらいなのだ。
一般むけに公開されている見取り図をたしかめてもらえばわかるが、中間貯蔵施設は福島第一原発の施設をはさんで、大熊町と双葉町の二つの町にまたがって、それぞれの海岸に二つずつ建設する。(原発施設もまたがっているのだが)
もともと事故が起きた福島第一原発も、敷地面積は350万平方メートルある大きな施設だった。サイズでいえば、江戸城がすっぽりとおさまる広さである。
中間貯蔵施設の用地の広さは、その原発施設のさらに4倍もの大きさになる。敷地面積は約15平方キロメートルで、大きさで換算すると、東京ドーム約320個分にもなる。
この広大な用地に沿うように国道6号線があって、そのむこうを常磐線が走っている。最寄りは大野駅だが、電車は動いていても、駅は閉鎖中だったと思う。
政府は、というか環境省は、地権者だけでも数千人からいる必要な土地をすべて買い入れて国有化することで、ここに中間貯蔵施設の建設をすすめている。
そしてこの広大な用地をいったいなんに使うのかといえば、汚染ゴミをしまっておく大きな穴をいくつも掘るためなのだ。
その大きな穴は、原発事故の土地として世界中に知られることになった福島県から出た大量の汚染ゴミ、主にそれは放射性物質が付着した土が入ったフレコンバッグを。それを運び入れて保管するのに使われる。
この計画の実現のために、土地の購入費や、建物や車両や人員等の費用として、およそ1、1兆円の予算が投入されることになっている。そこまで考えると、気が遠くなってくるというか、狂気すら感じる、壮大な事業だ、とわかってくる。
とはいえ、その広大な用地も、いまのところはまだそのほとんどが荒れ地でしかない。しかも原発に近い帰還困難区域にあたるので、建物も無ければ、人も住んでない、雑草だけが生い茂る、ただのだだっ広い荒地である。
その日、国道6号線を北上する、青子が運転する車両の後部座席にすわった加部が目にしたのも、そんな将来図には程遠い、移動中の道路をはさんで右側に青い海と、左側に緑の山々が続く、そのあいだにはさまれた広い荒地だった。
しかも、丈が高い雑草がしげる荒地がえんえんとどこまでも続くので、見ているうちにだんだんとものさびしくなってくる。
右側の青い海の方には、数キロ先に事故を起こした原発施設の建物が見える。車はちょうど、原発施設のあたりを越えて、そのむこうの双葉町側に入ろうとしていた。
運転している青子が、後部座席の加部に声をかける。
「天気もいいことだし、ドライブがてらに海風を楽しみたいかもしれないが、窓は閉めておいてくれ。
道路の途中に高線量地帯があるんだそうだ。現場の主任から命令されて、私たち作業者はそうする決まりになっているんだよ」
「あけないよ。おれもべつにドライブを楽しむ気分じゃない。車のタイヤでまきあげられた放射性物質が付着した土ボコリを吸いこむなんて、ゴメンだしな」
「いや、そこまで神経質にならなくても大丈夫だと思うぞ?」
国道を先へと進むと、なにもない海岸沿いの荒れ地に、今度は建設が終わって稼働中にある貯蔵施設が見えてくる。
とはいっても、ここからだとそれは、そこに通じる道路が設けられた、ただのデカイ穴にしか見えない。
サイズとしてその穴は、数十メートルの幅と、数百メートルの長さがある、側壁に段を設けて、底部を補強して、自重でつぶれないようにした、おそろしく大きな広くて細長い穴だ。そんな穴が、荒地のまっただなかにあるのだ。
加部が真っ先に想像したのは、段差がついた側壁の構造や、穴の巨大さのせいだろう、水が入っていない建設中の貯水池やダムだった。
用地内につくられたその巨大な穴は、地下貯蔵施設という。当然だが、地面に穴を掘っただけのものではない。つぶれないように、穴は補強や独自の工夫がされている。
また、晴れている日だけではなく、雨が降ったり、雪が降ったり、台風に見舞われたりもする。地下水も浸出する。穴の底に水がたまれば、やがては放射性物質まじりの泥土が外にあふれだす。そんなことになったら大変だ。
そこで、滲出した地下水やたまった雨水等は、補強をくわえた穴の底に設けた排水管を通じて、水処理施設に送られるようになっている。水処理施設で放射性物質を濾過して除去してから、雨水は河川に放流される。
また穴の中にフレコンバッグを運び込んで積みあげるだけだと、強風で放射性物質が付着した土埃が飛散するかもしれない。そこでフレコンバッグで穴がいっぱいになったら、その上に土をかぶせて覆土でふたをする。覆土には排水路を、穴のふちには排水溝をもうけて、雨水を水処理施設へと送る。
国道6号線だが、事故後の4キロあまりの封鎖された区間は解除されて、いまでは一般車両の通行も可能になっている。
その6号線を、どこかにむかうのか、荷物を積んだトラックがいそがしく行き来している。
荷台の荷物は、よほど重要なものなのか、シートで全体を覆い、ロープをわたして全体をしっかりと固定してある。青子が運転する車両のそばを、いったいこれで何台目になるのか、そんな荷物を積んだ大型トラックが行きすぎる。
加部は、後部座席の窓ガラス越しにトラックを見送ると、あれはいったいどこにむかうトラックなんだろうか、なにを積んでいるんだろうか、と考える。そこでこのトラックの集団の目的地が、自分たちと同じだ、と気付く。
トラックの目的地は、稼働中の中間貯蔵施設だ。そしてトラックの荷台にいっぱい積まれて、シートで覆ってあるのは、運搬中に内容物が飛散しないようにされたフレコンバッグなのだ。
国道には右に入る道が新たにもうけられていて、トラックは次々にそちらへ入っていく。青子が運転する車両も、ハンドルを右に切ると、そのあとについていく。目的地に到着したのを、加部は知る。
トラックが入っていったのは、コンクリを敷いてつくった大きな駐車場だった。全部で何十台あるのか、同種のトラックがずらりとならんでいる。
だが荷物を積んだトラックはそこでとまらずに、さらに奥へと進む。その先には、倉庫街や空港などでよく目にする、カマボコ型の巨大な施設がある。荷物を積んだトラックはその中に入っていく。
見回せば、あたりにはほかにも同様のカマボコ型の巨大施設がいくつも建造されている。たくさんのトラックがそうした巨大施設のあいだを行き来している。ほかにも距離をおいて、焼却施設らしい煙突がある建物や、窓がない大きなコンクリ製の建物が見える。
加部は、車を運転している青子に問いかける。
「それで、これからどうすんだ? マスクに手袋に防護服の厳重な装備で、この広い敷地内を徒歩であちこち見回るなんてことはしないよな? いくら視察だからって、あのデカイ穴を見に行くなんて、おれはごめんだぞ?」
さすがに、場所は違うがこの中間貯蔵施設内で働いているだけあって、青子はこれから自分がむかうべき場所がどこなのかをちゃんと心得ていた。
「これから行くのは、付帯施設のエリアだよ。管理棟、研究施設、情報公開センターがある。いまはまだ、ちゃんと動いているのは、管理棟と情報公開センターだけだけどね。視察にきた見学者なら、まず最初にそこに連れていかれて、ハナシをきかされることになっている」
「よかった。この広い施設内を歩かなくてすむんだな? ホッとしたよ」
用地内に建造された真新しい道路に沿って移動を続けると、青子からたったいま説明された、管理棟か情報公開センターらしい建物が見えてくる。青子が運転する車両は、その建物の地下駐車場へと入っていく。
つくってまだ日にちがたってないせいで、その白くて大きな建物の地下駐車場はガラガラだった。地下駐車場から昇降機を使って建物の上階あがっても、どこもかしこも新品同様でピカピカだが、働いている職員たちの姿が見当たらない。
このあとの展開だが、一部を省略する。起きたことだけを簡単に紹介しておく。加部は青子の案内のもとで、双葉町側の中間貯蔵施設の責任者に出会い、その責任者が連れてきた広報担当者にあとを引き継いでもらい、情報公開センターのプレゼンテーション施設に移動すると、そこで広報担当者から話をきくことになった。
情報公開センターは、そこを訪れる来訪者に、この中間貯蔵施設がどのような目的でつくられて、いかに問題なく安全に管理されて運営されているかを、包み隠さずに伝えるために設けられた施設である。
なんとなく市役所の窓口や、窓口にひかえている公務員のような人たちがいるんじゃないか、と想像するかもしれない。
実際にそうだった。情報公開センターの責任者は、公報担当という肩書きになっているが、この県の公務員から選ばれたのだろう、と納得させられる人物だった。
好感をもたれるために、いつも身だしなみを整えて、だれかと接しているときも物腰は穏やかで、やりとりの最中も笑顔をたやさずに会話を続けて、そうやって相手を説得する。そのような人物である。
なにしろこの情報公開センターにやってくるのは、福島の県民ばかりではない。
なかには遠路はるばる原発事故が起きたこの土地にワザワザやってきて、それで放射能汚染はどうなっているんだ、本当は放射能にやられた犠牲者が大勢出ているんじゃないのか、こんな施設をつくったのも汚染の実態を隠ぺいするためだろう、がん患者が続出しているのを隠すために違いない、真実を話せ、告白しろ! とアタマから決めつけて自白を強いてくるお客さんだっている。
そういう連中を笑顔で出迎えて、いえいえそんなことはありませんよ、原発事故はおさまりました、今後も健康調査は続けますが、なにも問題は起きていません、これがその証拠であって証明です、とかえして、施設の紹介をするのが広報担当の仕事なのだった。
なんだかさえない顔つきでいる、元気がない加部に、広報担当の老人は、来客者に配るパンフレットの資料を渡したあとで、施設の全体図が描かれている大型パネルを前に立って、この中間貯蔵施設について、いつものように手馴れた様子で解説を始める。
まずは、中間貯蔵施設とはなにか? どうして中間貯蔵施設が必要なのか? パンフレットにも記述があるその理由について一通り説明をしましょう。それはもうわかっている? ではこの中間貯蔵施設の各設備の役割の紹介に移りましょうか。
まだ数がそろっていませんが、こちらで用意した専用の輸送トラックと人員を派遣して、県内に仮置きされている汚染土が入ったフレコンバッグを回収して、ここへと運び込みます。
途中で、トラックが列をつくって出入りしている大きな建物を見たはずです。あれが受け入れ施設と、分別施設です。
集められて運び込まれた大量のフレコンバッグは、まず最初に分別施設でその放射線量を測定して、どの土壌貯蔵施設に入れるのかを決めます。放射線量の測定方法ですが、それも知っている? でしたらそのあたりは省略しましょう。
フレコンバッグを収納する土壌貯蔵施設は、大きくⅠ型とⅡ型にわけられます。
土壌中の放射性セシウム濃度が8千ベクレル/キログラムと比較的低くて、地下水等への汚染はない、と考えられる土壌等は、Ⅰ型の貯蔵施設に。
土壌中の放射性セシウム濃度が8千ベクレル/キログラムを越える場合には、排水設備をもうけて、難透水性土壌層で遮水する、Ⅱ型の貯蔵施設におさめられることになります。
現在のところはまだ、試験的に稼働しているのは、私たちがいるこの第一エリア中間貯蔵施設だけです。ですが将来的には、現在建設中にある大熊町側にある第二エリアの中間貯蔵施設が、ここに続きます。
さらには、第三エリア、第四エリアと中間貯蔵施設を増やしていくことで、県内にあるすべてのフレコンバッグ、汚染ゴミを、この中間貯蔵施設に集めて、安全に保管と管理をするようになります。
いまのところ、福島県内にある仮置きされている汚染土の総量は、東京ドーム十八杯分に相当する、2200万立法メートルほどなので、今後建造する予定の貯蔵施設で充分に対応できる、と計算されています。
さて、各エリアにつくられる設備ですが、基本的には同一のものとなり、それは次のようになります。
まずは、フレコンバッグをおさめるⅠ型とⅡ型の土壌貯蔵施設です。次に、収納前に放射線量を測る、受け入れ・分別施設。そして、水処理施設、スクリーニング施設、それからそれぞれのエリアを管理運営する、管理棟や、情報公開センターがある付帯施設、そして駐車場ですね。
そしてまた別に、同じエリア内には、減容化施設、廃棄物貯蔵施設がつくられます。運ばれてくる汚染ゴミは土ばかりではなく、草木などの、燃やして処理できる種類のものもあります。
減容化施設には、焼却炉を用意してあります。ここで可燃物を燃やして灰にして、できるかぎり汚染ゴミの量を減らすわけです。
ただし、焼却の際に付着した放射性物質が煙といっしょに大気中に放出される危険があるので、フィルター等であらかじめその問題への対処をしておきます。
燃え残った灰は、放射性セシウムの濃度が高まり、10万ベクレル/キログラムを越える焼却灰になるので、高濃度の廃棄物収納する、厚いコンクリ壁で覆われた、廃棄物貯蔵施設という施設におさめることになります。
ことわっておきますが、この中間貯蔵施設では決して、福島第原発から出たガレキや鉄骨などの汚染ゴミは引き受けません。ここはあくまでも原発以外のゴミ、県内からでた汚染ゴミをひきうける場所として利用します。なぜわけるのか、ですか? わけなければ処分場との区別がつかなくなるからで、その点については政府の担当者と前もってしっかりと取り決めてあります。
そして今後、最終処分場が決まって受け入れが開始されれば、中間貯蔵施設の汚染ゴミもそちらに移動させる、そういうことになっているわけです。
とりあえずは、ここでいったん休憩にしましょう。ちょうどお昼どきです。別室に福島県の特産品をそろえた簡単な昼食を用意してありますので、どうぞ召しあがってください。視察の再開は、午後一時からで、どうでしょうか?
加部と青子のために用意されていたのは、簡単な昼食と呼ぶのがはばかれる、豪華な料理の品々だった。
名産品だという牛肉料理に、福島県でつくった米に野菜を使った御飯に付け合せ、それから漬け物に山菜の料理も用意されている。特産品だという桃を使ったデザートもある。飲み物として、地元製のビールまであった。
青子はこのもてなしに大喜びすると、さっそくテーブルについて、こりゃ役得だ、と肉料理の皿をひきよせて、かぶりつき、ムシャムシャと分厚い肉を食べ始める。
加部はテーブルのむかいの席についたものの、目の前にならんでいる料理に手をつけることもせずに、危険物でも前にしたように青ざめた表情で、料理の皿をジッと見ている。
加部のそんな様子に気付かずに、青子は嬉々として食事を続けながら、自身の感想をくちにする。
「せっかく用意してもらったんだから、食べなきゃ失礼だよなぁ。遠慮なく、いただくとするよ。でもこんなに高価でウマイものを食えるのなら、案内役の仕事も悪くねえな。おおっ、これってあの名店のデザートじゃないか。やっぱあそこのはウマイや……」
青子はそこで、加部が席についたものの、料理どころか用意してある飲み物にさえ手をつけていないのに気付く。
「なんだ、どうしたんだよ? 朝メシだって食べてないんだろ? それじゃ午後はもたないぜ? 調子悪くて食欲がないんなら、そのフルーツだけでも食べておけよ。ホント、絶品だからさ」
好意ですすめる青子に、だが加部はくびを横に振ると、顔をそむけてこう返す。
「遠慮させてもらう。この県でとれたり、つくられた食品は危険すぎる。食べ物だけじゃない、飲み物だってそうだ。
この出張中は、食事をするなら、福島県以外の食材を使ったものにする。飲み物も、県外でつくった飲み物にする。そうすることに決めた」
「おい。なにいってんだよ、おまえは?」
「ことわっておくが、別に君にケンカを売っているわけじゃない。おれはただ、自分の身が心配なだけだ。だって白血病になったりがんになったら、取り返しがつかないじゃないか。おれは過去に病気で死にかけたことがある。原因になることをすれば、結果は必ずやってくる。自分だけは助かる、なんてのはないんだ。
今回の視察の仕事は最後まできちんとやる。でも食べ物や飲み物は、ここ以外の別所からとりよせたものをとることにする。悪気はないんだ。自分の身が心配なだけだ。おれが言いたいことが、わかるよな?」
「……」
顔をそむけて言いにくそうに語る加部の釈明を、青子は食事の手をとめて、黙ってきいていた。ややあって、こうかえす。
「ちっとはわかりあえる奴かと期待したけど、おまえもけっきょくは外の連中と同じ考えなんだな。なあ、私が放射能にやられたように見えるかい? がんや白血病にかかっているように見えるかい?」
「見えないさ。でも、いま現在じゃなくて、将来が心配なんだよ。体内に入った放射性物質ががんや白血病をひき起こすのは、ずっと先のハナシだ。食べてしまえばその危険から逃げられなくなる。だからそんなリスクは犯したくない。そう言っているんだ」
「あのなあ、私は原発事故が起きた当時から、ここで暮らしていて、ここでつくったものを毎日食べてきたが、いまでもこの通りピンピンしている。仲間たちも皆、放射能なんかにやられてない。なのに、この私を見ても、おまえは信用できないのか?」
「ああ。残念だけど、なにかちゃんとした科学的な裏付けや、筋が通った証拠でもないかぎり、その程度のことじゃ、とても君の意見を受け入れる気にはならないね」
加部が自分なりに正直な気持ちで、そのように自身の考えを主張すると、青子は食事の皿を前に押しやって、それから低い声でこうきりだす。
「わかったよ。おまえがそう言うんなら、おまえがしたいようにすればいい。好きにしな。だけど私も、おまえといっしょに仕事するのを、今日かぎりでやめさせてもらう」
「え。いや待て。ちょっと待て。なあおい、短気を起こすのはマズイぞ。冷静になった方がいい。勝手に言われた仕事をやめたりしたら、今後もここで働けなくなる。解雇されるぞ?」
「うるせえっ。今日でやめるんだから、おまえともこれっきりだ。だからいまここで、ぶん殴ってやる。憂さ晴らしだ」
「だからそんな短絡的な行動は慎めって言ってるだろ? 絶対にやめろっ。ちょっ、おいっ? ウワッ!!」
青子は驚いている加部にずかずかと近づくと、逃げようとする加部の胸ぐらをグイとつかんでひきよせる。それからもう一方のかためた拳で、その顔面を殴りつけようとする。
恐怖に顔をひきつらせると、加部は両手で青子のパンチが顔面に炸裂するのをふせごうとする。だがけっきょく、青子のパンチはとんでこなかった。
青子は加部の胸ぐらをつかんでいた手を離して、加部にしりもちをつかせると、自分の席にもどって食事を再開しようとする。
青ざめた顔で自分を見ている加部に、青子は肉料理の残りたいらげながら、こう言いきかせる。
「やめた。自分が正しいと信じてる馬鹿には、鉄拳制裁くらいじゃ間違いを自覚させられない。それに、いまはどっかの馬鹿よりも、こっちのが大事だ。せっかくの御馳走が冷えちまう」
「やれやれ、助かった。君にもまだ冷静な判断力が残っていたんだな。感謝する」
「……」
加部は青子にそう呼びかけるが、青子はそれを無視して、ムシャムシャと自分の食事を勝手に続ける。
どうやら、ここ二日間のあいだ育てていた、信頼という名の二人の関係が、いまの自分の行動と発言でいっぺんに失われたのを、加部は床にすわったままで、ひしひしと思い知らされる。
情報公開センターの広報担当者は、昼食後にもどってきた加部と青子の二人が、はた目から見ても大ゲンカをやらかしたあとの険悪な雰囲気になっているのに気付いていた。
気付いてはいたが、それでも大人の配慮でその点には触れないようにして、広報担当者は、予定していた午後の仕事にとりかかる。
「ああ、それでですね。お伝えしておくことがあります。本日は午後から、海外からいらした研究者の人たちが、この情報公開センターにいらっしゃいます。その人たちもこの視察にいっしょに同行するので、騒がしくなりますが、よろしいでしょうか?」
「大丈夫です。その話は昨晩に、ウチの方でもうかがっています。了解していますから、どうぞこちらにかまわず、そちらのお仕事を頑張ってください」
「え? でも、いや……。そうですか。わかりました」
もとはと言えば、加部が視察に来るというから前もって準備をして、こうして人員をさいて応対しているのに、もはや作業的に流すつもりでいるらしい加部の態度を前に、広報担当者は、困った笑顔で応じるよりない。
広報担当者は、この施設の案内を再開するが、ちょうどそこに、海外からやってきた研究者たちというのがやってくる。
説明をうけたときは、きっと数人程度の小規模なグループだろう、と加部は勝手に想像していたが、とんでもなかった。
最初にあらわれたのは、両手でカメラをかまえてフラッシュを瞬かせつつ撮影を行う大勢のカメラマンたちだった。
そのあとに、カメラマンたちに撮影される、身長が高くて彫りが深くていかめしい顔つきをした、背筋を伸ばして大またで歩く、金髪に青い目の、ヨーロッパ人かアメリカ人らしい、数人のグループがやってくる。
しかもその外国人グループをとりまくように、いったいどういう関係者なのか、大勢の追随者たちがぞろぞろと大名行列のようについてくる。
通訳らしい背広姿のメガネの男が、歩きながら大声で話しあっている外国人グループの発言をうしろの追随者たちにもったいぶって伝える。すると、メモをとったりレコーダーで音声を録音していた追随者たちが、おおっなるほど、たしかにそうだ、とか皆でいちいち大げさにリアクションをとる。はたから見ていると、その様子はひどくこっけいだった。
加部と青子はこの騒々しい集団を、たがいの不仲も忘れてあっけにとられて見ていた。見ているうちに、集団の中から、日本人だとわかる紋付はかま姿の太った男がこちらの方にやってきて、広報担当者に名刺をさしだしてから、自己紹介をかねた挨拶を始める。
「いやいや、お騒がせしてしまい、大変に失礼をいたしました。わたくしは×××という後援会の会長をつとめさせてもらっている×××と申します。
えー、本日は原子力業界では世界的に高名な研究者でいられる×××氏を日本にお招きして、福島の原発事故の恐怖や不安をいまだに抱えている日本国民の皆さんに、氏から貴重な意見を伝えてもらう場を、国民を代表してわたくしがもうけたしだいであります。
氏は、原子力工学界の生きた伝説、とも呼ばれる人物です。チェルノブイリ原発事故の際の氏の活躍は目覚ましく、その発言が各国のメディアで警鐘として取りあげられました。
今回の我が国の原発事故も、氏は大変に心を痛めておりまして。それで多忙な身ながら、私どもの要望にこたえて、来日してくれたのです。
氏はこのあと、テレビ番組に出演して発言する予定になっておりますが、その前にぜひとも事故の土地を訪れて、その眼で災厄の実態をたしかめておきたい、と情報公開センターにやってきたのです。
それでですね。氏から、広報担当者のあなたに、いくつか質問があるそうです。通訳の者がつきそいますから、どうか氏のインタビューに答えてもらえないでしょうか?」
「もちろん、いいですよ。それが私の役目なので」
広報関係の老人がそうかえすと、後援会の会長だという太った男は感激して、仲間たちのところに大急ぎでとんでかえる。
加部は広報担当の老人に近づくと、ほかの者にきかれないように、掌でくちもとを隠して、そっと耳打ちをする。
「あいつら、なにかたくらんでますぜ? 日本国民全体の憂いを晴らす、とかもっとらしいことを言ってますが、どういう団体の、なにが目的の行動なのか、あやしいもんです。
きっとここでのやりとりも、あいつらの都合にあわせて面白おかしく改変されて、マスコミ関係者に利用されるに決まってます。やめといた方がいい、と思いますがね?」
「そうかもしれませんが、そういうわけにもいきません。なにしろここは、皆さんに正しい情報を伝えるために設けられた場所ですし、私はその役目のためにここにいるのですからね」
「そんな理屈が通用する連中じゃない、と思いますがねぇ?」
加部の忠告に対して、広報担当者は、そんな呑気な態度でかえす。
二人がそんなやりとりをしているあいだにも、研究者グループの代表者らしい、さっき紹介された高名な研究者だという人物が、加部たちのところにやってくる。
その人物一人だけではない。カメラをかまえたり、ボイスレコーダーのスイッチをオンにした、とりまきの連中もぞろぞろとついてくる。
金髪に青い目で長身で大柄の体躯をした×××氏は、いきなり英語で公報担当者を非難しているらしいことを、身ぶり手ぶりをまじえて訴え始める。
その芝居がかった行動は、こうして現場で実際に見てみると演技なんだとわかるが、カメラを通じて撮影したものをモニターを通して鑑賞すれば、きっと説得力ある真摯な行動として映るに違いなかった。
いっしょについてきた通訳の男が、さっそく氏の発言を日本語に翻訳して、口頭でほかの者に伝える。するとまた、とりまき連中から新たなどよめきが起きる。
「氏は、このように言っております。なぜに放射能汚染の原因である原子炉施設をそのままにしているのか、これは大変に危険なことだ、この国の国民だけではない、全世界の人々への冒涜だ、と」
「おいおい、いきなり全世界の人をかさにきるのかよ? あんたがいつ、世界の人々の代弁者になったんだよ?」
公報担当者に協力するわけにもいかず、事態を輪の外から観戦することになった加部は、きこえないように小声で、思わずそう突っ込みを入れる。
高名な研究者は、通訳の男を介して、さらにこのように訴える。
「放射能汚染によって人が住めなくなり、無人の廃墟となったった村々。内部被ばくが原因で病気になった大勢の子供たち。私はチェルノブイリの原発事故を、事故が起きた当時から三十年にわたって、この眼で見て、そしてともに体験してきた。
ヨーロッパはいまだに、チェルノブイリが残した放射能汚染の傷あとに苦しめられている。三十年たってもそのキズは癒えていない。これからもキズの痛みは続くだろう。チェルノブイリという癒えないキズを負ったままで、私たちは生きていかねばならないのだ。
原発事故は必ずこうした災禍をあとに残す。だのに、日本の原発事故の現場は、どういうことなのだ? 居住制限を解き、避難指示を解除した。事故があった原発に近い国道も、いまでは自由に通行を許可している。
信じられない暴挙だ。放射能汚染のおそろしさがわかっていない。もっと危機感を持ってもらいたい。このままではいつか、チェルノブイリで起きたのと同じ悲劇が、ここで暮らす人々にも訪れる。子供たちががんや白血病になってからでは遅いのだ。とりかえしがつかなくなってからでは遅いのだ。
チェルノブイリという貴重な過去の例を、なぜあなたたちは参考にしないのだ。これはこの国を代表する、あなたのような公務員の怠慢やおごりではないのか?」
通訳を介してだが、見知らぬヨーロッパ人から、眉根をひそめた難しい顔で責任を問われて、公報担当の老人は、困惑した笑顔でしばらく返答に窮していた。ややあって、こう答える。
「私は政府から伝えられたことを正しいと信じて、それを事実としてお伝えすることしかできません。
政府の公式な発表では、放射能汚染は終息したとのことです。まだ帰還できない区域もありますが、将来にはそれも解除されるでしょう。でも私はそれでいい、と思います」
「政府の発表を全面的に信用するのは危険ではないか? 政府が事実を隠蔽しているとは考えないのか? ホントは、いまも環境中に放射性物質が放出されているのではないか? ここで暮らす大勢の人々が、放射能汚染にさらされているのではないか?」
「さあ、それはどうでしょうか。もしそうなら、我が国の政府が、そのように伝えているはずです。そうしないのは、チェルノブイリの事故と、この国での原発事故とが違うからです。違うから、対処のしかたも異なるのだ、と私はきいています」
ヨーロッパからやってきた研究者は、なかなか自分に同調しない、自分に屈して負けを認めない相手に手こずり、いらだつ。
腕組みをすると、一方の掌を顎の下にやって、指先でとんとんと頬のあたりを叩きながら、考える。
「では、これはどうだ? 多額の税金を予算として投入し建造中にある中間貯蔵施設だが、ここに集めた除染廃棄物の45パーセントを、それはきっと土だろう、道路や防波堤の建築材料として再利用する予定だ、という。
なにをするのか、といえば、集めた汚染土を、ここから列島全体に拡散させる、といっているわけだ。再利用する名目で汚染土を全国に送れば、ここだけですんでいた放射能汚染が一気に広がってしまい、もうとめられなくなる。
これは前例がない、とてつもなく危険な試みでもある。なにかあったら、だれがいったい責任をとるんだ? いいや、だれにもとることなどできない。
もし失敗すれば、日本国民の健康と財産を危険にさらすことになる。だったら、その発端となる中間貯蔵施設の建造など、即刻に中止するべきではないか? 国民を危険にさらす政府の言うことなどに耳を貸すのは間違いではないか?」
「汚染土は1キロあたり8千ベクレル以下であれば、再利用は可能だ、と私はきいています。なにより、そんなことはやめろ、といわれても、その計画について、どうこうできる立場に私はありません。ですから……」
広報担当者が、そのようにして反対意見を述べようとすると、だがそれを待っていたように、先ほどの後援会の会長が音頭をとって、とりまきのほかの連中もいっしょになって、それをさえぎるように騒ぎ始める。
危険な汚染土を全国に広げるのをやめろ、除染土の再利用計画を撤回しろ、中間貯蔵施設の建造を中止しろ、と大声でくりかえし始める。
そのまま集まっていた連中が騒ぎだせば、インタビューの収録どころではなくなっていたろう。だがヨーロッパ人の研究者が、静かにするように、と身ぶり手ぶりで外野たちを黙らせると、それから自分がこの場の主役だ、といった貫禄ある態度で、議論の決着をつけるように、(撮影しているカメラを意識した態度で)次のように自身の考えを述べる。
「私の考えでは、原発事故はいまだ進行中にある。なぜならチェルノブイリと同様に、ここから数キロ先にある事故を起こした原発施設には、原子炉からとりだすすべもない溶解した核燃料が大量に残されている状態だからだ。原発事故が沈静化した、終息したというのなら、なぜ溶融燃料を壊れた原子炉からとりだして、この事態に決着をつけないのだ。それはつまり、その方法がない、そんなことはできない。事故のコントロールができていない、そういうことなのだ!
チェルノブイリの場合は、事故が起きた原子炉を厚いコンクリ壁で完全に覆い、封じ込めて、石棺化した。そうすることで、放射性物質を石棺内に閉じ込めて、これ以上の汚染の拡大を防いだ。
事故から三十年の歳月が経過したいまでは、老朽化したコンクリ製の石棺を、新たにステンレススチール製の新シェルターをつくりかえる作業に入っている。
今回の原発事故の場合も、正しい対処方法は、シェルター化であり、石棺化することだった。だから再利用計画などという危険な計画をすすめている無用な中間貯蔵施設の建造はすぐに中止して、事故を起こした原発のシェルター化にすぐとりかかるべきだ、と私は提案する。私はこの新計画を強く推奨したい」
研究者だというヨーロッパからやってきた怪しげな人物がそう自説を披露すると、まわりの取り巻きたちからいっせいに拍手と喝采が起きる。
広報担当の老人は、どうやら海外の研究者に正論でやり込められて、反論もできずにいる政府関係者という役柄になっているらしく、あのー、すいません、きいてますか、とほかの人たちに呼びかけても、まるっきり無視されている。
そのまま終われば、このあやしげな団体も、いまの撮影した動画を、自分たちの自説を裏付ける証拠として持って帰り、メディアに紹介する際の証拠として、関係者たちに得意になって披露していたろう。
だが彼らの思惑どおりにはいかなかった。なぜなら、そこにはもう一人、血の気が多い反論者がひかえていたからだ。
血の気が多い反論者は、手近にあったパイプ椅子をつかむと、それをふりあげて力まかせに床に叩きつけて立ちあがる。
叩きつけられて床の上でバウンドして転がるパイプ椅子がたてる、ガシャンッ、ガラガラガランッ、という耳ざわりな金属音が、場違いに大きく響きわたる。
続いて反論者が大声で言い放った、フザケンナッ、勝手ナコトヲ抜カスナッ、コノ野郎ッ、というタンカがフロアいっぱいに響く。
ショックを受けて硬直する大勢の人々の中で、加部だけが一人で天井をあおぐと、怒っている相手から顔をそむけて、小声で嘆く。
「あちゃー。青子ちゃん、キレちゃったよ。もうどうすんのよ、これぇ……」
「コンクリートで原子炉を埋めるだと! 核燃料を取り出せないようにして、それで事故をおさめるだと! そんな真似をしたら、この場所にずっと核燃料が残り続けるだろうがっ! 私が住んでいるこの土地が、永遠に放射能に汚染された土地になっちまうだろうがっ!
なんのために私があんなに苦労をして、道路や側溝や屋根を掃除して除染して、出たゴミを集める中間貯蔵施設をつくっていると思ってるんだよっ! それは、私の故郷を、みんながまたいっしょに住める、ほかの奴らにだって誇れる故郷にもどすためだろうがっ!
おまえがいうことをやっちまったら、三十年後も放射能に汚染された悲惨な原発事故の町のままだろうがっ!
だいたいおまえは、だれか一人でも、ここに住んでいるやつに話をきいたのかよ? 原子炉をコンクリで埋めるべきだ、なんて言ったやつがホントにいたのか? もしもテメェの勝手な思い込みだけで、この国の者がそうするべきと言ってると抜かしたんなら、いいか、私がおまえを海を越えて自分の国にもどれなくなるまでボコボコにして……」
「ちょっ、ちょっ、ちょっと待ってよ。落ち着いてよ。冷静になってよ。ほら、アレだから! みんな、それぞれ、自分の意見があるから! シェルター化した方がいい、って意見もあれば、そうじゃない、って意見もあるから! ここはそういう意見を言いあう場であって、暴力で自説を相手に押しつけるところじゃないから! そういうことで納得しないと。だから、ほら、ね?」
怒りの形相で拳をかためて、肩をいからせて、研究者と取り巻きの一団に大またでつめよろうとする青子の姿を見て、次になにが起きるのかを察した加部は、あわてて背後から青子の背中に組みつくと、腰のあたりに両腕をまわして、青子の行動を制止にかかる。
研究者とその取り巻き一団は、ようやくショックから脱した様子だった。だれかが研究者の男に耳打ちをして、了解させると、いそいそと研究者一団はその場から退散を始める。
逃げるつもりだ、と気付いた青子は、加部の腕をふりほどいて、そのあとを追いかけようとする。
「離せっ! 離さないと、まずてめぇからブンなぐるぞっ!」
「いや、そんなことは絶対に許さない。てか、許されない。ここで暴力沙汰になったら、国際問題になりかねない。そりゃマズイ。とってもマズイ。おれにとってマズイ。とにかく、いろいろとマズイ」
「ゴチャゴチャとなにを言ってやがる。てめえっ、このっ!」
カッとなった青子は、腰の前で握り合わされた加部の両腕をつかんで、力づくでもぎはなすと、そのまま加部の身体を押しのけてふりかえり、加部とむきあいざまに力まかせのパンチをその胴体に叩きこむ。
加部は大きく両眼を見開いて、その身を折ると、ぐえぇぇっ、と苦痛の呻きを腹の底からしぼりだして、その場にくたくたと崩れ落ち、そのまま動かなくなる。
それから十数分後に。情報公開センターの別室にて。
持ってきてならべたパイプ椅子をベッドがわりにして、加部はそこにあおむけに寝た格好で、天井を見上げてる。
殴られた腹部の胃袋のあたりを両手でおさえた姿勢で加部は、やりきれない、やってられない、という顔つきと口調で、自身に言いきかせる。
「また、だよ。そして、今度はボディかよ。でもまあ、朝からなにも食べてなくて、不幸中の幸いだったよ……」
青子の方は、ようやく逆上していたアタマの血も冷えて、冷静になったのだろう。
横たわっている加部のそばにおいた、持って別のパイプ椅子にすわって、自身の身体を折ると、両手で自分の頭を抱えて、やらかした失敗を悔やんでいた。
3
騒動の発端は、外国人研究者グループの身勝手な言動だった。でも、だからといって、青子が暴力事件を起こした事実は変わらない。さらにいえば、それが原因で、その日に予定されていた加部の視察は途中で中止、キャンセルになってしまった。
倒れた加部は、情報公開センターの別室で負傷の具合を調べてもらい、病院に運ぶべきかどうかを、広報担当者などのその場の関係者と話しあった。
こうして騒ぎが大きくなったのは、朝から飲み食いしていなかった加部が、見かけ以上に衰弱していたせいもあった。
それがわかると、いろいろと話しあったすえに、加部本人の希望に従い、病院はいい、ホテルに帰って休めば大丈夫、ということになった。
昼食時に、今日でやめてやる、と加部を相手にタンカをきった青子だったが、さすがにいますぐにそれを実行に移すわけにはいかなくなった。
後部座席に加部を乗せて、車を運転して来た道を帰る青子は、後部座席に横になると、アイスノンをくるんだタオルを額にあてて、もう一方の手で腹をおさえている加部に、なんと言ったらいいのかわからない様子だった。
ホテルについて車を下りた加部に、青子は自分も表にでて頭をさげると、自分の失態を認めて、言葉少なく謝罪をする。
加部は、すっかり気落ちをしてしまい、しょげている青子に、弱々しくぼそぼそとこう伝える。
「まぁその、明日もまたおれは視察の予定があるからさ。だれかきてくれないと困るんだよな。だから、運転手と案内役とクルマをまわしてほしい。そう工事現場の責任者に伝えてもらえないかな?」
「わかったよ。ちゃんと、伝えておくよ」
顔をそむけている加部に、青子はそれだけ返すと、背をむけて立ち去る。
加部は、決してこちらに心をひらかない、ひどく扱いにくい相手の後姿を見送ると、やれやれ、と大きくため息をつく。
今日あったことを、片切ヒロに報告するべきなんだろうか。明日は早坂青子以外のだれかが迎えにきたらバツが悪いな。加部はそんなことを考えながら、ホテルにむかう。
食事の問題も解決しなければならなかった。ホテルにもどる前に加部は、目についたコンビニエンスストアに入ると、カロリーメイトと、外国産のペットボトルの飲料水をまとめて買い込む。
ホテルの自室にもどった加部は、とりあえずはまずカロリーメイトとペットボトルの水で飢えと渇きをいやしてから、シャワーを浴びて一息ついて、それから片切ヒロへの定期報告にとりかかった。
携帯電話の電源を入れて、片切ヒロに連絡を入れると、加部は今日のことで自分が責任の追及をされないように、慎重に注意しながら、なにがあったのかを報告する。
きびしい批判がくるんじゃないか、とビクビクしながら、おっかなびっくりの報告を終えると、電話のむこうで加部の話を黙ってきいていたヒロは、驚いたことに、めずらしく加部のことを評価した。
「なんだよ。加部にしちゃ、よくやったじゃないか。ずいぶんと頑張ったな?」
「え、そうか? でも、どうして? だって、案内役の青子とケンカしちゃって、青子は明日来るかどうかもわからない状態なんだぜ?
それに、外国からきた研究者たちと衝突して、こちらの印象サイアクだから、研究者にテレビ番組でなにを言われるかわかったもんじゃない。
とどめに、中間貯蔵施設で起こした騒動のせいで、今後も中間貯蔵施設の視察も続けられるかどうか、あやしくなってきた。
これだけでも、充分マズイ、と思うんだが?」
加部が心配そうにそうききかえすと、へえそのくらいのことは考えられるんだな、とヒロは応じて加部をムッとさせた。
自分への意味不明の高評価をきいて、加部はヒロがなぜ自分をほめるのか、理由がわからなかった。
もしかしたらヒロにはこちらに伝えてない計略があるんじゃないか。そう考えた加部だったが、ヒロが話し始めると、すぐにそんなことは忘れてしまう。
「加部の報告にあった件だけどね。じつは私たちの方でも、その研究者たちについて、身許調査を行ってみた。
そいつは、原子力分野の専門家だ、と名乗ったらしいが、エセ学者だ。アメリカじゃ、原子力問題を危機感たっぷりに誇張することで相手の恐怖心をあおり、解決策を示せる自分の存在感や必要性をアピールすることで、雑誌に記事を売ったり、テレビに出演したり、公演に人を集めてカネをかせいでいた前科がある。
ヨーロッパの悲劇を三十年間この身で体験してきた、と言っていたらしいが、チェルノブイリの事故が起きた当時は、アメリカで高校の教師をやっていたのがわかっているから、いくらなんでもその設定は無理がありすぎる。
経歴だが、スリーマイル原発事故に隠された真実、とか告発記事や検証動画を発表して注目を集めようとした。アメリカでも、原発事故の恐怖をあおって自分たちを脅えさせてから、救われるにはこうするしかない、と専門家きどりで指示してくるこの男に、大衆はウンザリしているようだ。
主張に科学的な裏付けがない、デッチあげだ、とバレてからは、名前を知られてない外国で仕事をするようになった。最近はチームを組んで、原発事故が起きるとその国のマスコミに連絡をつけて、専門家という肩書きで乗り込んでくるらしい」
「それじゃあ、あの後援会だっていってた日本人は、外国人の研究者を名乗るあいつにダマされてる、ってことなのか?」
「いや、そうじゃないだろう。素性を知ったうえで、協力しているんじゃないか? マスコミ関係者にしてみれば、キャラクター性が強くて話題性もある人物なんだから、人気を集められると踏んで、手を貸している可能性が高い。
さえないオッサンの学者の先生が、堅苦しくて難解な説明を続ける教育番組みたいな内容よりも、映画俳優のような白人がセンセーショナルに訴えた方が、視聴者は食いつくし、場合によっては熱狂的なブームになる。そうなれば売り込んだ自分たちも稼げるわけだしね」
「なんだ、嘘だったのか。だったら、あの連中が言うことを真にうける必要なんてなかったのか。青子があの連中を力づくで追いだしても、なにも問題なかったんだな。テレビ番組に出演して勝手なことを主張しても、心配する必要はないってことだな」
「そうでもないんだよ。このあたりが微妙に理解しにくいところだけど、きっとテレビを見た視聴者の多くは、エセ学者の主張に賛同するようになるんだよな。
世間には、こうしたトンデモの方が受け入れられるんだ。正しい理屈や、正しい知識よりも、大衆は、センセーショナルな嘘を信じるんだ。
放射能はコワイ。オソロシイ。フセゲナイ。じつは私たちの生活は、私たちが気付かないうちに、とっくに放射能に汚染されている。私たちの身体は内部被ばくによって、放射能にむしばまれつつある。
明日やあさってじゃないかもしれない。でも近い将来には、がんや白血病を発症した人々が、この国中にあふれてしまう。そしてゾンビ映画の世界のように、放射能の犠牲者、がん患者だらけになって、この国は破綻して終わる。
常識で考えれば、そうなるわけがない、とすぐに気が付く。でも事実よりも魅力的な嘘の方が世間の人々のあいだにはひろまる。なぜかといえば、そちらのがずっと面白いからだ。この身が放射能にやられて、苦しみながら死んでいくなんて、ゾクゾクとふるえあがらせてくれる、エキサイティングな出来事だからだ。平穏な暮らしにあきあきしている人たちや、きびしい日々の暮らしをいっときでも忘れたい人たちは、正しい知識や正しい理解よりも、それまで気にかけたこともなかった放射能汚染で自分の健康や残りの人生が破壊されるのを想像して、その想像の中で生きるのを選ぶ。きっとそちらの想像の人生の方が、ドラマチックで劇的だからなんだろうね」
「なにもそこまで、物事を否定的に、ひねくれた見方でとらえなくても、いいんじゃないか? みんなヒロが考えるほど、間違いばかりはしないと思うぞ? おれだってちゃんと指摘されれば、自分の間違いくらい気付けるしな」
「へぇ、そうなんだ? でも加部は、今日の昼食は、放射性物質がおっかなくって、なんにも食べられなかったんだろう? そのせいで青子の怒りと反感をかい、ケンカになったんだろう?」
「いや。だってあれは、青子のが悪いだろ? おれはあくまでも、常識的な世間一般の意見を言ったまでだ! この県の土地が放射能汚染されているのは事実なんだから、食べ物や飲み物に注意するのはあたり前だろう! それが当然の反応だろ! どこがおかしいっていうんだよ!」
ヒロの挑発するような憎まれぐちに対して、加部は強気の反論で言い返す。
視聴者は、真実よりもドラマチックな嘘を信じる。ヒロからそんな解説をされても、加部はすぐには信じられずにいた。
半信半疑の加部だったが、その後しばらくして放送された報道番組を通じて、問題のその外国人研究者たちが行った発言や主張が、実際に視聴者側に受け入れられて大きな反響を生むのを見て、自身の考えをあらためることになる。
情報公開センターにやってくると、中間貯蔵施設の建設をやめろ、そんなものをつくるよりも事故があった原発施設をシェルター化しろ、そう主張をして青子に追いだされた研究者グループは、その後に放映された、報道番組とは名ばかりのバラエティ番組に出演した。そこでまた加部たちにも話した自説を披露して、その証拠として情報公開センターで自分たちが受けた妨害行為の様子を撮影した動画を、番組内で公開した。
動画の内容は、以下のようになっていた。
研究者が、中間貯蔵施設の建設を中止しろ、シェルター化のが必要だ、行政の怠慢だ、と情報公開センターの広報担当者に訴えると、青子が怒声とともにパイプ椅子を床に叩きつける大音響があたりに響きわたる。カメラがあわててそちらに向き直ると、怒りの形相でこちらにむかってくる青子が映り、カメラマンともども研究者たちがあわてて逃げだす。そういう内容だった。
何度もリピートされる動画映像にかぶせて、研究者による解説のナレーションが入る。
「長くなるので、一部編集してあるが、これが中間貯蔵施設で、我々がうけた対応なのだ。我々の主張に対して行政側は、一方的な拒絶と暴力行為で妨害を行った。
私の主張を受け入れろと、あなたがたに強制するつもりはない。でもこれが、民主的な法治国家の対応と言えるのだろうか? このような方法をとる政府を信頼していいのだろうか?」
通訳を介してだが、カメラの前に立つと、悲しげな顔で静かにそう問いかける研究者のポーズは、BGMや照明の効果もあいまって、番組を見ている視聴者に強くアピールした。
現代ではインターネットを通じて、なんでもすぐに検索できる。この研究者たちの経歴も調べられて、こんなサギ師まがいの連中の主張を真に受ける奴なんていない、と最初は嘲笑された。
ところが番組で放映されたこの証拠の動画の効果はてきめんで、番組後には、もしかするとあの外国人研究者グループが言っていることは正しいんじゃないか? いやおれはあの人を信じる! と賛同者が増える結果となった。
さらには、前もって準備したのだろうが、番組放映の翌日に出版された週刊誌に、研究者たちの主張をまとめた特集記事が掲載されて、それがまたよく売れた。メディアの後押しもあって、日本の原発問題を追及する寵児として、外国人研究者グループは注目されると、人気者になったのだった。
人気者となった彼らは、日本のテレビ番組に出まくり、雑誌に用意した記事を掲載して、荒稼ぎをした。だが引き際を心得ていたのだろう、半年もたたずに、さっさと帰国してしまう。だからあいにくと、この話にはこれ以上登場しない。
問題は、この自称研究者たちが訴えたことが、日本の大衆のあいだにどんな影響をおよぼしたのか、そちらの方にある。
研究者たちがとなえた自説はその後、長い時間をかけて大きく波及していく。
彼らのせいで、放射能汚染の恐怖が間違ったかたちで、しかも必要以上に大きく、大衆に浸透してしまい、原発の反対論者たちが世間の主流となるながれをつくってしまったのだ。
中間貯蔵施設よりも原発施設のシェルター化をすすめろ! おれたちががんになる前に、放射能汚染を広げている元凶である原発施設をコンクリで封じ込めろ!
反対派たちは集まるとそう訴えて、自分たちの要求を力づくでも通そうとした。
とはいえ、それはこの話からだいぶあとの出来事になるので、いまは出張三日目となる、宿泊中のホテルで加部がヒロとかわした会話に話をもどすことにする。
放射性物質に汚染された食物や飲料水をくちにすれば内部被ばくする! だから拒絶するのは当然だし。その能性がある飲食物は、積極的に遠ざけるべきだ!
加部がそう主張するのに対して、ヒロはさめた態度と、やる気がない口調で、こうかえす。
「そりゃまあ、たしかに、そうできたらいいんだけどね。無理な話なんだよね。そんなことはさ」
「どうして無理なんだよ? それってつまりは、原発事故が起きた福島県でとれた農作物や畜産品や、福島県でつくった飲み物を、食べたり飲んだりしなければいい。それだけのことだろ? どこにできない問題点があるんだよ?」
「うーん。いったい、どこから説明したら、いいのやら……。そうだねまず、昨晩にあたしが送信したチェルノブイリ原発事故の資料に目を通したと思うけど、あの資料を読んで、おかしな点があるのに気付かなかったかい?
チェルノブイリ原発事故で放出された大量の放射能汚染によって、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアが汚染された。でも風向きのせいで、ウクライナよりもベラルーシのが、何倍もひどい放射能汚染になってしまった。
それなのに事故後30年間からの人口の変動をみると、汚染がひどかったベラルーシよりも、なぜかウクライナのが、人口減少が著しい。どうしてだ、と思う?」
「うん。それは、おれも気付いたよ。でもそれが、いまのおれが置かれてるこの状況と、いったいなんの関係があるんだよ? おれが関わっているのは、いままさにこの場所で発生している放射能汚染の問題なんだ。海のむこうの遠いヨーロッパの話じゃない。
おれたちがこうやって呑気に二つの事故の比較をしている最中にも、海岸沿いにある壊れた原発施設から新たな放射性物質が放出されて、汚染が拡大しているかもしれないんだぞ?
放射性物質は、検査機器でなければその存在を検知できない、極小の存在なんだ。それが空気中のチリに付着して、さらに車のタイヤや、おれたちの服や荷物にくっついてほかの場所へ移動する。そうやって拡散していくんだ。
放射性物質が付着したチリは、おれたちが吸い込む空気のなかや、くちにする食べ物や飲み物にも入り込む。だからそれをどうにかしてふせぐことが、つまりは除染することが、重要になる。そうしなければ、放射能汚染の犠牲者たちが際限なく増えていく。
汚染をふせぐ、なにか効果的な対策をするべきなんだよ。そうだよ。おれがやるべきことって、これじゃないのか?」
加部は勢い込んで力説するが、ヒロはやはり、加部の提案に乗ってこなかった。乗り気じゃない、やる気がないとわかる態度で、ふぅーん、まぁそうかもね、うんうん、とてきとうに相槌を打つ。
「じつはその、目には見えない、ってところがクセモノなんだよ。 目には見えないから、どこまで対処したらいいのやら、その加減がサッパリわからない。汚染された土地の表土をぜんぶ剥ぎとればいいのか、汚染された森の木々をすべて伐採したらいいのか、汚染された河の水を一滴残らず濾過して浄化したらいいのか……。
もちろん、そんなことはできっこないが、こうしたことをかりに実行できたとしても、放射性物質を加部がいるそこからすべて消し去るなんてできないんだよ。
いってみれば、幽霊を相手にしているのに似ている。幽霊にとりつかれた、と思い込んだ人が、もういなくなった、と納得してくれないと、幽霊はいつまでもいるし、その被害が続くんだ」
「?」
加部の提案と要求に対して、ヒロは達観した様子でそうかえすと、いま追加で新しい資料を送信したからそれを見てくれ、と加部に言いきかせる。
加部の携帯電話に、メールとして送信されてきたのは、前回同様に添付ファイルにされた、チェルノブイリ原発事故の資料だった。
だが今回のファイルのサイズはずいぶんと小さい。ひらいてみると、グラフが何枚か、と説明の文書が表示される。
前述したように、チェルノブイリ原発事故で放出された放射性物質によって汚染されたのは、主に、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの三か国だった。
送られてきたグラフは、そのうちで放射性物質の汚染が最も少なかったロシアについての資料だった。ロシアの人口や、ロシアの寿命の変化を、ウクライナとベラルーシの二か国と比較したものだ。
ロシアの総人口だが、ロシア単独の正確な総人口の推移は、1989年あたりまでハッキリしない。(なぜなら事故当時は、ウクライナもベラルーシも、ソビエト連邦のくくりだったからだ)
それでもロシアの人口は、ウクライナやベラルーシと同様に、1980年代くらいまでは、順調に増え続けていた。
チェルノブイリの事故が起きた当時も、ロシアの人口は増加していた。
それが事故から六年後の1992年に、総人口が1億4870万人あたりの頃に、ロシアでもやはり人口の減少が始まる。
このあたりは、ウクライナや、ベラルーシの人口動態と、まったく同じである。
ただし、ロシアの人口減少の方が、ほかの二か国よりも急激なのだ。2008年の時点で、ロシアの総人口は1億4270万人で、ピーク時から600万人も減ってしまう。これが事故から22年目になる。
ロシアの人口減少の特徴をあげるとするなら、ウクライナやベラルーシよりも、とにかく急激だったことだ。
ちなみに総人口のピーク時との比較は、ウクライナは650万人の減少、ベラルーシは250万人の減少、ロシアは600万人の減少になる。
またロシアの人口減少の特徴として、出生率の低下とともに、死亡率の上昇があげられる。ロシアはほかの国とくらべても、特に男性の平均寿命がやたらと低い、つまりは男性の死亡率が高いのだ。
わかりやすくするために、ロシアと日本の平均寿命を比較したデータを表示しておく。日本でも人口減少が社会問題になっているが、それとくらべてもロシアのそれがいかに極端なのかがわかる。国連の調べでは、以下のようになっている。
1985年から1990年までは、ロシアが68、8歳で、日本は78、3歳になる。
1990年から1995年までは、ロシアが66、4歳で、日本は79、5歳になる。
1995年から2000年までは、ロシアが65、7歳で、日本は80、5歳となる。
2000年から2005年はまで、ロシアが64、8歳で、日本は81、9歳となる。
四捨五入で計算すると、ロシアの平均寿命が69歳で、日本は80歳になる。いくらなんでもロシア人、若死にしすぎだろう、と思うが、このなかでも特にロシア男性の死亡率が高い。その平均寿命は、なんと50歳台にまで落ち込んでいる。
たしかにロシアの男性の平均寿命は、もともと高いとはいえなかった。チェルノブイリ原発事故が起きた1986年当時のロシア男性の平均寿命は、65歳ほどだ。それが1991年のソビエト連邦崩壊時には、58歳になる。
2005年の平均寿命が、ロシア男性が59歳、ロシア女性が72歳なので、男性だけがなぜか早死にしているのがわかる。
平均寿命が50歳台といえば、日本だと江戸時代の頃の寿命になる。(これも諸説あるらしいが)
国連開発計画書、人間開発計画書2005では、ロシアの死亡率の上昇について、特に男性について、このように表現している。
『1991年から2000年までのあいだは、例年よりも250万人から300万人も多く死んでいる。これは戦争や飢饉、伝染病などの社会現象や、天災に匹敵する社会混乱がなければ説明がつかないことである』
日本の場合は、平成不況など、経済問題や社会不安が原因だった。結婚しなかったり、結婚しても子供を持つ夫婦が減ったことが、人口減少としてあらわれた。
ロシアの場合は、なにかそこに別の要素がくわわって、それがロシアの男性の若死にを加速させたわけだ。
「社会主義体制の国ってのはさ。自国でなにがあったのかをほかの国には教えようとしないし、なにがあったのかをできるかぎり記録として残さないようにする。
それだけじゃない。政府となる共産党が、なにが起きているのか、自分のとこの国民にすら教えないもんだから、国民自身も知らない、わからない状態におかれる。だから深刻な社会不安におちいると、解決されずにそれがずぅーっと続くことになる。
文字通り、鉄のカーテンのむこうでなにが起きていたのかわかるのは、書記長が交代したり、体制が変わったあとだったりする。その頃には、今度は時間がたちすぎたせいで、けっきょくは不明で終わることさえある。
1980年代前半は、ソビエト連邦は経済危機の状態にあった。だから1985年にゴルバチョフ体制にかわって、新体制のもとで経済危機を乗り切ろうと試みが始まった。その矢先に、連邦の一国だったウクライナで原発事故が起きた。この原発事故の影響は大きかった。情報統制された社会主義体制下のもとで、国民側の社会不安は高まったはずだ。きっといまの私たちの不安や心配の比じゃなかったろう。だから1991年のソビエト連邦の崩壊は、情報公開を求める国民側の要求が後押しになった、ともいわれているくらいだ。
前回のとき、加部にチェルノブイリ事故の説明をしたよな。でもあたし自身も前回に自分が話したことが正しいかどうか心配になったんで、もう一度当時のことを調べてみた。
どうやらチェルノブイリの問題が悪化したのは、当時のソビエト政府だけに原因があるわけじゃないらしいんだよな。だって原発事故による人口減少の問題でみるなら、その当のロシアがいちばんひどいダメージを負っているんだからね。2010年頃は、このまま人口減少が続くと、ロシアは国家として続かなくなる、とまで言われていたそうだ。
社会主義体制って、もともと、こういうシステム上の弊害を抱えているんだよ。恐怖政治をやってたスターリンの時代から、なにか問題が起きてもその関係者が懲罰をおそれて、自分の保身のために、なにも問題はない、すべてうまくいっています、と上に報告するのがあたり前になっていた。
でもそうやってみんなして、なにがあったのか本当のことを話さなくなったせいで、ソ連首脳部でさえ、原発事故の影響で連邦内の国々にどんな混乱が生じているのか、ロシア国内でどんな騒動が起きているのかを把握できなくなっていたんだ。
だからこうした隠蔽体質を変えるために、最高指導者のミハエル・ゴルバチョフはぺレストロイカ(改革)だけでなく、グラスノチフ(情報公開)を徹底するように指導したんだ。(まあわかっても、とるにたらんことだ、と放っておいたかもしれないけどね)
でもそのグラスノチフで、皆平等をうたっていた共産党員の贅沢三昧がロシア国民にばれてしまい、大騒ぎになってしまった。
ロシア人の平均寿命はもともと低かったけど、このあたりからさらにさがりだして、すぐにウクライナとベラルーシをぶっちぎってしまう。1991年のソ連崩壊のときも、ロシアの死亡者数の増加はとまらない。それどころか、さらにひどくなっていく。
私たちはペレストロイカによって、ソビエトが自由化、民主化したロシアになった。そのおかげで、みんなが幸福で安定した生活を送れるようになった、と思い込んでいた。
でもそれまでの社会システムが崩壊したせいで、医療制度や社会保障もいっしょに失われてしまい、じつはロシアの国内は大変な状態だったんだ。
だから事故後25年あまりで人口減少がとまって、回復がわずかずつでも始まっているのを、ようやくその混乱から脱した、とみることもできるけど、ホントのところ、実態はどうなっているんだろうね。
さてここで、最初の疑問、というか質問にもどる。
どうして放射能汚染が軽度だったウクライナのが、汚染がひどかったベラルーシよりも人口減少したのか? あるいは三か国のうちで、たいして放射能汚染されなかったはずのロシアが、なぜひどい人口減少になったのか、平均寿命の低下が続いたのか、そのワケがわかるかい?」
ヒロの問いかけに対して加部は、間髪をおかずにこう返す。
「それはもちろん、原発事故のせい、放射能のせいだよ! ロシアにはきっと、ベラルーシから放射能汚染された食品や飲料水が大量に入ってきて、そのせいでロシアに大勢の犠牲者がでたんだよ! それだけ放射能汚染はおそろしい、ってことなんだよ!」
「いや、そうじゃないだろ? そんな、食ったり飲んだりして死ぬようなものを、事故から三十年間も続けて流通させたりしないだろ?」
「じゃああれだ、きっと内部被ばくのせいだよ!」
「だから内部被ばくの影響がでるのは、二十年後や三十年後の話だって言ってるだろ? それに、もう何度も説明したけど、放射性物質の7割が落ちたのはベラルーシで、ウクライナやベラルーシは放射能汚染の影響は少なかったんだ。ロシアなんて微々たるもんだ。なのにウクライナやロシアの国民のが、ベラルーシよりも、もっと多く死んでいるんだよ。理由はなんだ、と思う?」
「う。だからそれは、つまりだな……」
片切ヒロが自分に伝えたがっていることを、加部はなんとなく理解できたし、予想することもできた。でも理解できるからといって、それを受け入れて、納得できるわけではない。
加部は意地を張って考えるふりを続ける。
ヒロは、電話口のむこうで、うーん、と唸っている加部にむかって、明日また報告のときに、いまと同じ質問をするから、それまでに答えを考えておいてくれ、と言いわたして、加部の返答を待たずに、携帯電話の通信回線の接続を切ってしまう。
そして、その翌日になる。つまり、出張四日目の朝をむかえる。
加部は、青子の一件が気になって、昨晩に続いてよく眠れない夜をすごした。時間をたしかめて、しかたなくベッドから出ると、顔を洗い、ヒゲをそり、着がえて、視察にでかける準備を整える。ホテルの一階のフロアに下りて、ソファに腰を下ろし、自分をむかえにくるはずの人物を待つ。
ちょうど朝食どきだったので、ホテルの一階にあるレストランや、ホテルの厨房は大忙しである。料理を運ぶホテルの従業員たちがひっきりなしに行き来をしている。
加部がいる一階のフロアからは、レストランで食事をしているお客たちの姿がよく見えた。
眼を細めて、おいしい料理をフォークやスプーンでくちに運んでいるお客たちの姿をチラ見してから、加部はそばに置いたペットボトルから水を一口飲んで、手にしたカロリーメイトをかじって呑み込む。
そうやって、うんざりした顔で、味気ない朝食をとっている加部のもとに、その日の視察の案内役と、目的地までの移動用に用意した車の運転手がやってくる。
加部のもとにやってきたのは、青子ではなくて、情報公開センターで加部と青子を案内した、広報担当のあの老人だった。
高価そうな三つボタンで三つ揃えの背広の上下に、それにあう趣味がよいシャツにネクタイ、みがいた革の靴という、昨日に情報公開センターで会ったとき以上に念が入った、身だしなみを整えた格好で、ホテルのロビーにあらわれた老人は、この場に似合う堂々とした態度でロビーを横切ってやってくると、ソファにすわっている加部のそばに立つ。
三つ揃えの背広姿をした老人は、加部がカロリーメイトとペットボトルの水で食事をすませるのを、そのまましばらく見物していた。ややあって、イヤミにならないように注意を払い、加部に尋ねる。
「むなしくなりませんか? ちゃんとした料理人がいる、うまい食事にありつけるホテルにいるのに、そんなものでまぎらわせるなんて?」
「おれは、これで充分ですから。満足してますから」
「私はここにくる途中で、スクランブルエッグとベーコンとトーストとジャム、オレンジジュースとコーヒーの朝食をとりましたよ? あなたもそうしたら、どうですか?」
「おかまいなく。充分ですから。満足してますから」
言い返すセリフとは真逆の、あきあきした、ウンザリした、といった表情と口調でいる加部に老人は、「ですがねぇ」とさらに忠告をしようとする。
加部はそれを察して、カロリーメイトの最後のブロックを噛み砕いて飲み込むと、カロリーメイトの箱と包み紙をクシャッとつぶして、飲料水のペットボトルごと、手近にあったゴミ箱に全部捨てて立ちあがり、広報担当者にこう呼びかける。
「来てくれて、助かりましたよ。さてそれじゃ、視察に出かけましょうか。今日もまた中間貯蔵施設に行くんですよね? 乗っていく車は駐車場ですか?」
加部と広報担当者の二人は、ホテルを出ると、駐車場へとむかう。
広報担当者が、今日の視察の移動用として用意して、ここまで乗ってきたのは、中間貯蔵施設に訪れる要人の送り迎えに使うために購入したらしい、真新しい四つドアのベンツだった。
これも1、1兆円の予算から購入費を出して買ったんだろうか。そんなことを考えながら、それでも加部はベンツの後部座席でにふんぞりかえって、そこを一人で占有して思いっきりくつろぐ。
それからベンツの前の運転席にすわって、手馴れた運転で視察先へとむかう広報担当者にむかって、加部は昨日からずっと気になっていたことをきいておく。
「それで、早坂青子はどうしていますか? きのうの失敗でさすがに青子もだいぶヘコんでましたけど、まさかきのうの失敗が原因で解雇されたから今日は来なかった、なんてことにはなってないですよね?」
よけいなことを言うとすぐに怒って突っかかってくる当人がここにいないので、加部は安心してぶしつけな質問ができたわけだが、その問いかけに対して、運転をしながら広報担当者は、そんなことにはなりませんよ、と答えると、意外にも青子のことをよく知っているらしいくちぶりで、このように話を続ける。
「早坂青子は、短絡的でカッとしやすいのが欠点ですが、私たちの大事な仲間の一人です。仕事に対して熱意もあるし、忠誠心もある。中間貯蔵施設を建設する必要性をよく理解してくれていて、計画の推進の頃から青子は頑張ってくれました。
反対派やスキャンダル狙いのマスコミが押しかけてきたりと、中間貯蔵施設の工事現場はトラブルが多いんですよ。でも青子はそうした苦労が多い現場で、自分からいやな仕事を引き受けて、よくやってくれています」
「それじゃ、もしかしてあなたは、青子のことをよく知っているんですか? 青子は案内役や運転手として来てもらってきのうで三日目なのに、愛想はない、付き合いづらいと、大変でした。だから青子は、ほかの皆にもあんな調子で接している、というか、拒絶しているんだ、と思ってましたよ!」
加部が、心の底から驚いた、意外だ、といった様子でそう感想を述べるのをきいて、広報担当者は苦笑すると、このように青子のことをフォローしてやる。
「除染の仕事や、中間貯蔵施設の建設の仕事は、よそからやってきた人が引き受けることが多いんです。県外からやってきた仕事が無い単身赴任者が、ここで決まった期間を働きながら暮らして稼いでいる場合がほとんどです。私もその一人なんですけどね。私の場合は、どうやら定年まで、ここで暮らすことになりそうですが。
そういう連中とくらべると青子は、もともとこの福島県の生まれで、原発事故が起きた町から遠くない、近隣の町で育ちました。ここに勤めだした当時に、本人がそう言ってましたからね。福島から出て行く者が多いなかで、原発事故のあとも青子はここに残って、いま彼女がやっているような仕事を通じて、福島にまた人を呼びもどすんだ、と言ってました」
「なるほど。そうじゃないか、とは思っていましたが。やっぱり、そうでしたか……」
加部は、出張二日目の報告のときにヒロから指摘されたことを思い出すと、それが自分の考えであるかのように、腕組みして一人で勝手にウンウンとうなずいて納得する。
とはいうものの、でも昨日は、この仕事をやめる、とあんなに簡単に言ったりしたんだから、青子の心境に、この老人も知らなかった変化があったんじゃないか、と加部は考えもする。
目的地である中間貯蔵施設に到着するまでは、前日同様に国道6号線沿いに展開するさびしい風景を車中から眺めているよりない。つまらないので、加部は前席にいる運転手である老人を相手にお喋りを始める。
話題は自然と、二人が知っているがここにはいない、青子のことばかりになった。
広報担当者とのやりとりで加部が知ったのは、青子の次のような一面だった。広報担当者は運転を続けながら、昔を懐かしむくちぶりで、このように知っていることを話した。
同じ職場ですからね。あの人とは何度も顔をあわせましたし、親しく話をする機会もあったわけです。よく言ってました。事故の前は、ここから出ていくことばかりを考えて毎日を過ごしていたのに、あの原発事故のあとは、どうしたらここでやっていけるのか、どうすればここをもとにもどせるのか、そういうことを考えるようになった。
でもそのための方法がわからない。世間は、ここを放射能汚染された場所だ、と言っている。それは事故からずっと、変わらなかった。復興には三十年から四十年はかかる、と教えられた。三十年間ここで頑張れば、四十年間ここで頑張れば、元通りになるんだろうか? ただ待てばいいのか? それでいいのか? 自分がやるべきことはなんだ?
放射能汚染された町には住めない。みんなそう言って、ここから出ていってしまった。でも出ていったその先で、安全な生活を手に入れて、幸福になったわけじゃない。メールでやりとりできる知人の報告によれば、出ていった先での生活になじめずに苦労している人が多い。仕事がみつからない。学校では、福島県の出身者だ、と言われるらしい。
環境が変わってしまい、以前の生活が失われたせいで、生活苦になったり、家族が離散したりもある。連絡がとれなくなって、それっきりの知りあいもいる。
最初の頃は、しかたがない、と自分に言いきかせて毎日をやりすごしていた。けれども、空き家だらけになった自分の町で暮らすうちに、だんだんと、このままじゃいけない、と思うようになった。
どうしてこんなことになったんだ。なにをどうしたら、またもとにもどるんだ。人がもどってくるんだ。それを考えるようになった。
仕事は、以前は就職活動をしてもサッパリ見付からなかったのに、皮肉な話だが事故後は、除染の仕事がすぐにみつかった。最初は抵抗があったが、除染の仕事をやってみて、自分がやるべきことはこれだ! と気づいた。
防護服にマスクと手袋をつけて、雑草や芝を刈ったり、落ち葉や表土を集めたり、そうやって集めたものをフレコンバッグにつめていく。作業を終えてからで空間線量を線量計ではかってみると、最初に計測したときよりもたしかに数値がさがっている。
なによりも、始める前は不安で心配そうだったその家の人たちが、除染はすんだ、安全になりました、と教えられて、線量計の数字をたしかめて安堵しているのを見て、ああこういうことなんだ、みんながここにもどってくるには、こういうことが必要なんだ、とわかった。あの人はそう自分に話してくれましたよ。
広報担当者の話をまとめると、次のようになる。
青子は、中間貯蔵施設の建設現場で働き始める以前は、いまいったように、県内で除染の仕事をやっていた。ただしそれは、事故があった原発施設での除染の仕事、つまりは全国規模で募集をかけていた原発作業員ではなくて、県内にある市町村で募集されている、住宅地や道路、農耕地や森林などの除染の作業員の方だった。
青子はその仕事を通じて、県内で暮らす多くの人々接することで、いろいろと考えさせられたらしい。
だがその除染の仕事も、事故から三年、四年と時間経過がすすむにつれて、しだいに募集人数が減ってきた。だからこの新しく始まった、中間貯蔵施設の建設工事の募集に応じた。
除染仕事をずっとやってきたので、体力や健康面、信頼の点でも問題はなかったし、経験も知識も充分あった。面接では募集に応じた目的を、自分の故郷である福島県に人をもどすためです、と青子は答えたという。
その発言通り、青子はよく働いた。役にも立ったので、会社も青子を重宝して、最近では責任ある仕事をまかせるようになった。
でも責任ある仕事は不慣れだったようだ。加部の例をあげるまでもなく、ここのところ、青子は失敗続きらしい。
「本人も頑張っているんですが、青子のあの短気で怒りっぽい、考えるよりも先に手がでる性格が災いしているようですね。
青子があんなに人嫌いになったのは、故郷を良くしようと努力してもむくわれない、それどころか他県から、フクシマは汚染された場所だ、と偏見の眼で見られ続けたせいに違いありません。努力を続けても、その効果があらわれない、偏見の目で見られる、そういうことに絶望しているんじゃないでしょうか? まったく、悲しいことです」
広報担当の老人から青子の話をきかされた加部はだが、納得しかねる、といった態度でくびをかしげる。
「本当に、そうなんでしょうか? おれにはそうじゃないように思えますが。そりゃまあ、そういう目で見られたりもするでしょう。でも青子は、そういう不遇の事態をなんとかしよう、といまだに必死でやってますよ? そうでなけりゃ、おれが適当なことを言ったのに怒って、あそこまでケンカ腰でむかってこないでしょうしねぇ。
青子はきっと、みんながイメージしている、原発事故の犠牲になった悲劇の人々、そういう扱いをされるのに怒っているんじゃないでしょうかね? 原発事故で、福島県は世間から孤立した、汚染された場所としてイメージされている。私もそう思っている一人ですけどね。
だから、どうにかしてそうじゃないことを証明して、世間の人々の間違ったイメージを正して、故郷をまた人々が帰ってきて暮らせる場所にしたいんじゃないでしょうか? でもその方法がみつからない。いろいろとやってみるが、うまくいかない。それでさらに、怒りをつのらせているんじゃないでしょうかね?」
青子に出会ってからの、この三日間の怒涛のようなやりとりを思い返して、大変だったな、と加部はため息を漏らすと、しみじみとそう述懐する。
「そうなんですか? そこまでおっしゃるのなら、青子の希望を実現できるような、なにか良い方法があるんですよね? 私としては加部さんに、ぜひともそれを教えてもらいたいものですがね?」
広報担当者からそう問われて加部は、じつは自分は視察の名目で、それを見つけにきたんだ、とは言い出せずに、ウーンと唸って、難しい顔でそのまま沈黙してしまう。
昨日と同様に、加部が乗るベンツは国道6号線を北上してから、昨日も利用した中間貯蔵施設の出入口までやってくる。
そしてフレコンバッグを積んだトラックが出入りしているそこを右に入ると、ベンツは敷地内のさらに奥へと入っていく。
だが加部が乗るベンツが今回むかった先は、前日に加部が訪れて大騒動になった、管理棟近くの情報公開センターではなかった。
道を先に進んで、トラックが忙しく出入りしている受け入れ施設、分別施設を通りすぎて、そこで道を曲がってから、昨日には素通りした、減量化施設、廃棄物貯蔵施設がある方角へとむかう。
それに気付いた加部が、ベンツを運転している広報担当者に、あわてて声をかける。
「あのっ! ねえっ、ちょっと! きのうとは違う場所にむかってるみたいですけど? こっちでいいんですか?」
「ええ。はい、そうですよ。今日は加部さんがきのう訪れた場所以外を見ていただきます。そうしないと、視察になりませんからね?」
「え? ああ、そうか。言われてみれば、そうですよね……」
広報担当者の説明に納得すると、加部は後部座席の窓ガラス越しに、自分が乗るベンツがむかう先にある建物を見やる。
近づいてみてわかったが、それは受け入れ施設や分別施設のような、カマボコ型の巨大施設とはまた違う、建物の外壁を分厚いコンクリ壁にして全体を堅牢にした、見上げるサイズの真新しい建物だった。
特徴は、建物の一部から太くて高い煙突がいくつも空にむけて伸びていることだ。ただし煙突があるあたりは、煙突だけではなくて、いくつもの大きなタンクや太いパイプや配管が組み合わさった別施設になっている。そのせいで反対側から見ると、化学工場のプラントが煙突がある建物に併設されているように見える。
分別施設から出てきた荷物を満載したトラックが、加部が乗るベンツがむかう施設のなかへと、続々と入っていく。
公報担当者が、車内からその大きな建物を見ている加部に、その建物の概要について説明をする。
「あれがきのう話した、減容化施設、つまりは仮設焼却施設ですよ。集めてきたゴミを燃やすところですね。
汚染ゴミのほとんどを占めているのは、大量の表土ですが。それ以外のゴミを。つまりは、落ち葉や枯れ木、汚泥といった、燃やして容積を減らせるものを、あそこで焼却処理しているのです。それでは今日はまず、ここから見ていきましょうか」
「え? ここを視察するんですか? わ、わかりました」
真新しいベンツを、ガラあきの減容化施設の駐車場に入れると、広報担当者はグローブボックスからとりだした防塵マスクと使い捨ての手袋を身につけて、とりだしたもう一セットを加部にも渡す。
「防護服は必要ありません。建物のなかに入っても防護服がいるほど線量が高いところはありませんからね。これはあくまでも、一応の安全対策として身に付けるだけです」
そうことわってから、広報担当者は先に車から下りて、ついてきてください、と加部に呼びかける。
加部はしかたなく、マスクと手袋をつけると、安全で快適なベンツの後部座席から外に出て、広報担当者のあとについて減容化施設の建物内に踏み入る。
施設内でまず最初に目にとまったのは、使い捨ての簡易防護服にマスクとゴーグル、手袋を着用して、ゴミをトラックから下ろしている作業員たちの姿だった。ああは言ったが、けっきょく、防護服は規則として着なければならないらしい。
それからトラックから下ろされて、焼却炉で焼いて処理されるのを待っている、いったいどれくらいあるのか見当もつかない、積みあげられたいくつもの大量のゴミの山だ。
ここでのやりかたは、次のようになる。
まず受け入れ施設と分別施設で、トラックで運んできた県内のごみの放射線量を計測する。8千ベクレル前後のごみか、それとも10万ベクレルを越えるごみか、を調べる。
ほとんどは穴に埋めることができる8千ベクレル以下か、8千ベクレルを多少は越える低線量の土のごみだ。そちらのごみは荒れ地にある穴へと運ばれる。
だがなかには10万ベクレルを越えるごみもある。そうしたごみはトラックに積み直して、減容化施設か廃棄物貯蔵施設に送る。
減容化施設へと送られるのは基本的に、次のようなごみになる。
草木や落ち葉などの燃やして処理できるごみ。それから、8千ベクレルを越える、汚泥、稲わら、堆肥などの、指定廃棄物に分類されるごみだ。つまりは、燃やして処理できるごみで、こうしたものは、減容化施設で焼却灰にされる。
トラックに積んで、減容化施設の建物内部へと運ばれた焼却ごみは、建物内にある廃棄物ピット、通称ごみピットに移される。ごみピットは、床に埋め込んだ巨大コンテナを使った、床にあいたいくつもの四角い大穴のようなものだ。いざとなれば安全対策として、すべてのごみピットのフタを閉じて、ごみをなかに封じ込められるようになっている。
焼却するごみのなかには、分別施設で発見できなかった、車のパーツのような金属のかたまりや、ガスボンベなどの燃料が混じっていることもある。こうした不適切なごみは、防護服を着用した作業者が手作業でとりのぞく。
このほかにも、大きすぎるごみは、作業者が重機で粉砕してほかのゴミと混合する。
そんなことをしたら作業者が危険ではないのか、と考えるかもしれないが。防護服と防塵マスクと手袋とゴーグルをしていれば、放射性セシウムが付着したごみから飛び散ったチリを吸い込まないかぎりは、大丈夫なのだ。
というよりも、ここ以外の一般的な焼却設備にも、放射性物質を含んだごみは運び込まれている。でもそちらは、防護服無しの手作業でとりのぞいている場合が多い。
このようにして、危険物をとりのぞいて均一にされた焼却用のごみは、施設内にある大型クレーンで焼却炉に運ばれる。
大型クレーンは、天井にある移動用のレール上をいったりきたりする、クレーンゲームのあれをそのまま大きくしたような開閉する巨大な鉄の爪だ。それをごみピット上まで移動させて、下ろしてつかんで焼却炉まで運ぶと、供給口であるごみホッパに投入する。
あとはごみホッパから焼却炉に少しずつごみを送って、順序よく焼却していく。焼却炉は八百度以上の高温で、ごみを焼却して灰にする。
ここからが重要だ。焼却炉からでる排ガスは、そのまま煙突から逃がさずに、バグフィルターや高性能フィルターを通す。フィルターを通して回収されたダストは、化学処理される。
バグフィルターとは、すごく細かい目の円筒状の濾布のことだ。これが焼却炉からでる排ガス中のダストをとりのぞいてくれる。今回は、汚染ゴミ中にふくまれる放射性セシウムもいっしょに回収してくれる。
そんなことができるのか、と疑う顔でいる加部に、広報担当者はその仕組みを説明する。
「バグフィルターは焼却炉からでる排ガス中のはいじんを除去するためのものです。ガスは通しますが、排ガス中にある粒子、つまりはいじんは大きすぎてフィルターを通れない。だからこの方法で、バグフィルターではいじんごと放射性物質を煙突の途中でつかまえて回収するわけです。除去率は99パーセント以上と、考えてもらっていいでしょう。
かりに一部の放射性セシウムが煙突から漏れても、空気中でもとの濃度の10万分の1まで薄められて、無視できるレベルになっているので安全です」
「そんな勝手なことを言われても、それだけじゃ安心できませんよ。だってそちらがそう主張しているだけで、事実かどうかはわからないわけだし」
ゴネる加部に、広報担当者は怒ったりせずに、さらにこう続ける。
「中間貯蔵施設の建設に反対する連中の主張のひとつに、本当に焼却炉で放射性セシウムが付着した汚染ごみを燃やして大丈夫なのか、というのがあります。排ガスといっしょに、大量の放射性セシウムが大気中に飛散するんじゃないか。ごみを燃やしたせいで、汚染を拡大させることになるんじゃないか。それを疑っているわけです。
でもじつは他県の、ごく普通のごみ焼却場で燃やされる都市ごみにも、放射性物質はしっかりと含まれています。
いま私たちが問題にしている、セシウム134、セシウム137は、ここ以外の一般的なごみのなかにも含まれているんです。
そして、放射性セシウムを含んだ都市ごみを、一般的なごみ焼却炉で焼いた場合には、放射能のレベルは1キロあたり1千ベクレルから2千ベクレル程度になります。この際に、でた焼却灰が8千ベクレル以下なら、既存の埋立地に処分してよいことになっています。
ただし埋め立て処分するときには、焼却灰のまわりに、指定された土の層をもうけたり、遮水シートで地下水への汚染をふせぐようにしなければなりません。
だますつもりだろう、という疑いの表情でこちらを見ていますが、これは本当のことなんです。それだけじゃありません。法律に基づいて、正しい方法さえ守れば、放射性セシウムが混じった灰を、埋め立て処理していい、と定められているのです」
焼却炉でごみを焼いたあとに残る灰を、焼却灰という。その焼却灰には、焼却炉の底に残る主灰と、燃やすときにでる煙、つまりは排ガス中にふくまれる灰塵となる飛灰がある。
焼却灰、飛灰、灰塵を総称して、焼却残滓という。減容化施設の汚染ゴミの処理の場合は、焼却残滓の回収とともに、排出される燃焼ガスに含まれる放射性セシウムも回収しなければならない。そうしなければ、せっかく集めた放射性物質をガスといっしょに環境中に再び放出して拡散させてしまい、集めた苦労が無駄になってしまうからだ。
ごみに付着していた放射性セシウムは、燃え残った主灰の中にも濃縮されて残るが、八百度以上の高温で燃やされると、その多くは揮発、もしくは液滴となって、排ガス中へと移動する。
なぜに放射性物質の焼却処理について語るときに誤解が生じるかといえば、(語り手もそうだが)多くの人が放射性物質が空気中に単独で存在する、と間違ってイメージしているからだ。そしていまだに空気中にある、と誤解している。
じつは放射性物質の大半を占める放射性セシウムは、原子炉からの放出後は塩化セシウム(セシウムに塩素がくっついた状態であるCs Cl)になっている。しかもその塩化セシウムは、さらに空気中にある吸着しやすいものにくっついている。
塩化セシウムは、事故の直後はチリやホコリなどの微細な粒子に、つまりは目に見えない小さな空気中の土埃にくっついているのだ。その状態で風向きにあわせて移動した。そして事故から何年間も経過した現在は、空気中にはない。日本のように雨が多い土地柄では、数週間から数か月の短期間で、すべてが地面に落ちて表土に吸着している。
塩化セシウムは土にくっつくと、そのまま固着して動かなくなる。だからフレコンバッグにつめるごみは、やたらと土が多いし、土でも表土を集めるわけなのだ。
加部がこの施設を見て、とっさに化学プラントを連想したのも当然だった。回収された放射性セシウムを含んだ焼却残滓を、安全かつ確実に処理するために化学処理する施設が焼却炉に併設してあるからだった。
広報担当者によれば、中間貯蔵施設の減容化施設の特徴は、ごみをいったん焼却炉に入れたあとは、安全かつ確実に付着した放射性セシウムを灰といっしょに回収できることだ、という。
前述したように、バグフィルターや高性能フィルターで回収した放射性セシウムを含んだ飛灰、それから放射性セシウムを含んだ燃え残った主灰、どちらも見た目は灰なのだが、この灰がごみの焼却が終わると残る。
この灰を炉の底から落として、コンベアで灰処理施設の灰ピットに送り、そこでコンテナ等の容器に入れてフタをする。
焼却炉から処理施設までの作業は、密閉型のシステム内で自動で行われるようになっている。作業員はメンテナンスのとき以外は、焼却炉や処理装置には立ち入らない。
その様子を加部が視察できたのは、そのあとで案内された中央制御室で、簡易防護服を着用した作業員たちが遠隔操作でクレーンや焼却炉を動かしたり、炉から落とした灰をベルトコンベアーで送ったりを、作業員たちといっしょにモニター越しに見てたしかめる方法で、だった。
感心した様子でモニターを見ている加部のとなりで、広報担当者が解説と説明をする。
「ここでは一日あたり、240トンからの焼却用のゴミを処理できるようになっています。ゴミ処理用として建設された各県にあるほかの施設が、平均的な能力として数十トンからなのを考えれば、かなりの量になりますね」
「そんなに大量に燃やしているんですか? そうなると出る灰の量も、そうとうなんでしょうね?」
「ええ、そうなんですよ。焼却灰は専用のコンテナにつめて保管する決まりになっています。見てください。いまちょうど、運びだすところですよ」
広報担当者の指摘をきいてモニターを見た加部は、防護服を着用した作業者がフォークリフトを運転して持ってくると、フォークリフト部分を操作して、ならべてある金属製のコンテナ、見たところそれはフタをしたドラム缶そっくりだったが、それをリフトで持ちあげて、いくつも持ちあげた状態でこの減容化施設の出入口を通って、外に出て行くのをたしかめる。
なるほど、ああやって運ぶのか。そりゃ危険物だもんな。作業員が手作業で運んだりはしないよな。
そのように一人で納得した加部だったが、広報担当者がこう言うのをきいて、ギョッとなる。
「それでは続いて、いまいったそれが保管してある廃棄物貯蔵施設を見に行きましょうか」
廃棄物貯蔵施設は、かわった建物だった。ほかの建物が、どれも外観をきれいに、来訪者に対して親しみを持たれるようにデザインをされているのにくらべると。なんといったらいいのか、ここには近づかないでくれ、興味を持たないでくれ、と言っているような建物だった。
全体を灰色に塗られた、四角い長方形をした鉄筋コンクリ製の建物は、この建物へと通じる道路とモニタリングポストはあるが、ほかにはなんにも見当たらない殺風景な場所に、隔絶されたように立っていた。
よく見れば、建物のその分厚い灰色の外壁には、窓どころか、空気の取り入れ口も見当たらない。でもそれは、この建物の本来の目的を考えれば当然だった。この建物は、ここにおさめたものを、地震がこようが津波がこようが、絶対に外に出さないためにつくられたのだから。
ベンツを下りた加部と広報担当者の二人は、廃棄物貯蔵施設の出入口までやってくると、閉じている見上げるサイズの金属シャッターの前にならんで立つ。
先ほどのフォークリフトで運んでいた金属コンテナは、すでに建物への収納が終わったらしい。
公報担当者は建物の出入口の横にあるインターフォンのボタンを押すと、マイクにむかって呼びかけて、ここから離れた管理棟にひかえている、貯蔵施設の管理者に訪れた用件を告げる。
「管理棟ですか? 廃棄物貯蔵施設前です。視察にきた調査官もいっしょです。いまから施設内の視察を行いますので、シャッターを開放して、指示があるまでここをあけておいてください」
事前に今回のことは管理者側に伝達して、きちんと了解もとっておいたのだろう。広報担当者の指示で、閉じていた金属シャッターの巻きあげ装置が遠隔操作で動きだし、シャッターが持ちあがり始める。
ゴンゴンゴン、というモーターの作動音とともに、ギャリギャリガリガリ、と耳ざわりな音を立てて、持ち上げられた分厚いシャッターが上部で回転して収納されていく。
シャッターがすべて収納されて開放されると、そのむこうにあらわれたのは、先ほどの減容化施設で作業員がフォークリフトで運ぶのを見た、あのドラム缶が大量にならんでいる光景だった。
中身がぎっしりと詰まって、しっかりとフタを閉めたドラム缶が、大量に、巨大な金属製のラックに入って、そこにある。そして、その金属製のラックも、施設内のコンクリの床に、ボルトでしっかりと固定してある。
いったいぜんぶで何百本、いや何千本あるのだろうか。巨大なスチールラックにおさめられた大量のドラム缶が、ここから見えるかぎり、ずっと先まで続いている。
原子炉から出た膨大な量の放射性物質はどこに行ったのか、以前に青子と話したことがあった。青子は、フレコンバッグの中だ、とかえしたが、あの答えでは不充分だったわけだ。
原子炉から出た放射性物質は、空気中にあるチリとくっついて、雨といっしょにすべて地面の上に落ちた。そしてその一部が燃やされて、今度は灰とくっついた状態でドラム缶におさめられて、いまここにあるのだ。
なんだか気圧されてしまい、恐怖がまじった表情で施設内のスチールラックを見上げている加部に、そばに立った広報担当者が、情報公開センターにやってくる来客に対応するときの落ち着いた態度で、次のように説明をする。
「ただ積みあげただけでは、地震がくると崩れて缶のフタがはずれて中身が外にでてしまいます。そんなことになれば、この建物自体が放射能汚染されて、立ち入り禁止になる。だからああやって、金属製のラックに収納してあるわけです。
缶の中身は、焼却灰です。ただし1キログラムあたり10万ベクレルを越える、高濃度の放射性廃棄物でもある灰です。なかには、10万ベクレルどころか、一千億ベクレルの放射線量の灰もある。
ここにあるのは、放射線量が高い可燃ごみを焼却して残った、放射性物質だけを分離して集めて濃縮した、非常に危険な灰なんです。
ここから数キロ先にある原発の事故現場は、自衛隊の隊員を配置して警戒中です。でもこちらはこの通り、放置されたままです。これでいいんでしょうか?」
「たしかに、そうですね。言われてみれば、放射性廃棄物という危険物をあつかっているのに、警備員もいないのはよくないですよね。それなら、この視察でそのあたりのことを上司に報告しましょう。それできっと、なにか対処がされるはずですよ?」
加部は広報担当者の話をきいてそう提案すると、広報担当者が自分の意見に同意、賛同するだろう、とそちらを見る。
ところが広報担当者は、背広の上着のポケットからスマートフォンをとりだすと、どこかに連絡を入れている。
「ああ、私だ。指示通りに、駐車場で待機しているな? 少々予定がくるったが、計画通りに施設のシャッターをあけることに成功した。約束したものは、取り扱いが容易なようにパッケージにして、必要な数だけそろえてある。あとはトラックに積んで運びだすだけだ。さっそく、とりかかってもらいたい」
「あのぅ、いったいどこに連絡をとっているんですか? それに、いまのやりとりはいったい……」
「いえいえ。どうか、気になさらずに。これはちょっとした、私個人的なビジネスの話ですので。ところで加部さん、じつはいまから少々騒々しくなります。でも加部さんなら、きっとこちらの事情を理解して、指示に従ってくれると期待していますからね? どうか、お願いしますよ?」
「は? それはあの、どういうことでしょうか?」
わけがわからない、という顔でいる加部に、だが広報担当者はそれ以上なにも伝えずに、スマホで指示を出し続ける。
連絡から三分後には、ここに通じる真新しい道のむこうから、例のフレコンバッグを回収するトラックが隊列をなしてやってくる。トラックはそのままシャッターを開放した建物の中に、次々と入っていく。
横並びになったトラックから、簡易防護服にマスクで顔を隠した大勢の男たちが降りてくると、スチールラックからドラム缶を手作業で押し出してとりだし、トラックの荷台に積み込んでいく。
加部は仰天すると、大きく眼を見張る。
「あ、あのっ! ちょっと、これはっ!」
わけを問おうとふりかえった加部は、そばに立つ広報担当者が、いつのまにどこからとりだしたのか、掌におさまるサイズをした、二連発式のミニサイズの拳銃を右手に握ってこちらにむけているのに気付く。それをみて、出そうとした大声が消える。
広報担当者は、ミニサイズの拳銃を青ざめた顔で注視している加部にむけた格好で、命令口調にならないように注意して、このようにいいきかせる。
「作業は、ほんの一時間たらずで終わりますから、そのあいだ大人しくしていてもらえませんか? よろしいですね?」
同意した、という返答がわりに、加部が両手をあげて、何度もうなずくのを見て、広報担当者は微笑でかえす。
「さすがですね。やっぱり加部さんは、よくわかっていらっしゃる」