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大人しい君に依存していく―弱った俺を慰めてくれる、小柄で可愛くて優しい後輩―

作者: じゅうぜん

※シリアス寄りの作品になります

※コメディ要素は少なめです

 久瀬(くぜ)と出会ったのは、高校二年の春だった。


 ◇◇◇◇◇


「あの……こんにちは」


 部室のドアがそろそろと開けられる。

 入ってきたのは新入生の女の子だった。


 大人しそうな女の子だなと思った。ずいぶん可愛い。顔が小さい。背が小さい。長い前髪をヘアピンで止めている。ちょっと胸が大きい。

 不安そうに、俺たちの様子をうかがっていた。

 小動物っぽい女の子だ。


 ここは校舎の端っこにある空き教室だ。我らが文芸部の部室である。

 今は俺と部長しかいない。部長が明るい声で呼びかける。


「こんにちは。文芸部の見学ですか?」


 うちの部長もとんでもなく美少女だ。さらりとした黒髪のロングヘア。整った顔立ち。成績も優秀で、雰囲気も親しみやすい。非の打ち所がない。


 そして俺はそんな部長のことが好きだった。

 釣り合わないとわかってはいるけど。


 新入生の女の子は、部長が反応したことにほっとした様子を見せた。


「えと……見学というか、入部希望というか」

「入部希望? ほんとに?」

「あ、はい。そうです」

「やった!」


 部長がばっと立ち上がった。声に喜びが溢れている。

 俺もほっとしていた。このまま新入生ゼロだと困る。


「新入部員ゲットだ! しかもえっちな子だよ!」

「えっちとか言うな」


 突っ込みながら、引き出しから判子を取り出した。新しく入部するには、入部先の部から判子かサインを貰う必要がある。

 女の子は所在なさげに小さく体を丸めて、俺たちの様子を眺めていた。


「入部届って持ってる?」


 俺は女の子に向けて言った。彼女が頷く。


「は、はい、持ってます」

「そしたら、そこ座って。判子押すから」

「あ……ありがとうございます」


 女の子は椅子を引いて、俺の横の学習机に座った。

 スクールバッグからクリアファイルを取り出して、入部届を探している。つとめて見ないように視線を逸らしていたが、座ると胸の大きさが強調されていた。


 部長がニヤニヤしながら小声で言ってくる。


「悠里くん。新入生ちゃんに不埒な視線を向けないように」

「向けてません。部長もえっちとか言ってたでしょ」

「私は女の子だから良いの」


 部長は気楽な調子で言って、女の子の後ろに回って抱き着いた。


「ひゃ……」


 女の子が部長に抱き着かれて、固まっている。

 美少女と美少女がくっついていた。

 いい光景だ。


「やわらか~い」

「目に毒なんでやめてもらえます?」

「目の保養でしょ? 見ちゃだめだけど」


 無茶を言う。

 でも部長はすぐに腕をほどいた。親しみやすい雰囲気を作ろうとしただけだったんだろう。


「ごめんね、急に抱き着いて。入部届はあった?」

「あ、はい、ありました! ……あの、部長さんも柔らかかったので、抱き着いたのは全然、大丈夫です」

「…………」


 感想、ありがとう。


 部長がじと目で見てくる。


 視線から目を逸らしながら、女の子が差し出した入部届に判子を押した。

 名前が書いてあって、それを見る。


「くぜさん……かな? 読み方。あ、勝手に見ちゃってごめん」

「いえ、大丈夫です 久瀬(くぜ)であってます。く、久瀬水咲(くぜみさき)です」

「なるほど、くぜちゃんだね! 私、月浦千歳(つきうらちとせ)って言うんだ。よろしくね。三年生で部長だよ。あ、呼ぶときは名前で呼んでね~」


 部長はそう言って背中から抱き着いていた。スキンシップの激しい人だ。


 抱き着かれるのを恥ずかしそうにしながら、女の子──久瀬さんがこちらを窺うように見た。

 俺も自己紹介しないといけない。


「俺は、さっき部長も言ってたけど、佐々木悠里(ささきゆうり)だ。二年で、一応副部長をしてる」


 伝えると、久瀬さんが強張った表情で俺をじっと見た。


 なんだ……?


 困惑しながら待っていたら、思い切ったように口を開いた。

 

「ゆ……ゆうりせんぱい」


 すごい硬い声で名前呼びされた。

 何かと思ったが、すぐ思い当たった。さっき部長が言った『呼ぶときは名前で呼んでね~』を部のルールと勘違いしているのかもしれない。


「い、いや、別に俺は名前で呼ばなくていいよ。部長だけで」

「あ、そ、そうでしたか……」


 久瀬さんが赤くなって俯く。気恥ずかしい。

 部長がにや~っと笑った。


「いいじゃん悠里くん。佐々木なんて沢山いるんだから、呼ばれておきなよ」


 軽い調子だ。可愛い女の子に急に名前を呼ばれるのは緊張するんだけど。

 俺と久瀬さんは気まずい空気になる。部長はニヤニヤ俺たちの事を見ていた。


 何を思われているんだろうか。複雑な気持ちだ。

 

 久瀬さんはそのまま部に入ってくれた。

 他にも何人か入って、人数も増えた。

 けれど、文芸部はこの三人でいることが一番多かった。


 俺たちは放課後によく集まっては小説の話をしたり、ただ駄弁(だべ)ったりなんかした。

 机をくっつけただけの、簡易的なテーブルに座って。

 楽しい日々だった。


 その翌年の三月に俺は部長に告白してフラれた。


 この頃に戻れたらと思う事もあるけど、現実にそんな奇跡は起こりそうにない。


 ◆◆◆◆◆


 高校に入って、私は文芸部に入部した。

 大きな理由はなくて、本が好きで、失礼だけど、あまり目立たない部だと思ったから。


 結果的に、文芸部に入れて良かった。

 ここはとてもいい所だ。あたたかくて、優しい。


 悠里先輩が千歳先輩を好きなのは見ていればわかった。

 入部してすぐ察した。

 態度や、声色や、雰囲気が違う。


「悠里くん、久瀬ちゃん、ごめん、私はちょっと先に帰るね」 


 この日は、千歳先輩がいつもより早い時間に席を立った。悠里先輩が声をかける。


「勉強ですか?」

「うん、模試が近くて、集中したいんだよね~」


 千歳先輩はぐでーっと全身で疲労を表現した。

 適当な調子で私たちに声をかける。


「ま~、なにかしてて」


 ばいばい、と手を振って、千歳先輩は帰っていった。

 後には私と悠里先輩だけが残される。

 それだけの事で、少しどきどきした。


 悠里先輩はうーんと唸っている。


「なにか、って言われてもな……」


 腕を組みながら、私に視線を向ける。


「久瀬さんは……何かしたいことある?」


 困った様子で話しかけられる。

 少しぎこちなくて、女の子に不慣れな感じがする。


 本当に、それだけなのに、たまらなく嬉しい。


 せんぱいは優しい。


 そう思うと胸があたたかくなる。

 あたたかさは募って、すぐに溢れそうになる。


 だからこの日は、少し思い切って声を出した。


「あの……せんぱいの呼び方を変えたいです」

「呼び方?」

「私、後輩なのに、『さん』付けは変だと思います」


 悠里先輩は驚いて目を大きくしていた。


「えーと……」

「ち、千歳せんぱいはあだ名ですけど、悠里せんぱいはちょっと、硬いので」

「……なるほど」


 困ったように頭を掻いている。

 嫌がっている雰囲気ではなかったから、もう少し続ける。


「名前呼びとか」

「なまえ……名前か……」

「くぜちゃんでもいいです」

「部長と一緒か……」

「苗字だけでもいいです」

「あー……苗字なら」


 先輩は、一つ咳払いをして、口を開いた。


「久瀬」

「は、はい」


 どきっとする。なんとか返事ができたのは、反射みたいなものだった。

 悠里先輩が照れを隠すみたいに笑う。


「……こんなんでいい?」


 胸を押さえながら、頷いた。

 その日以来、私は『久瀬』と呼ばれるようになった。

 距離が縮んだようで嬉しい。翌日、千歳先輩はちょっとびっくりしていたけど。


 そんな日々を過ごした。


 悠里先輩が千歳先輩のことを好きなのは知っている。

 だけど、私は悠里先輩に惹かれていた。

 日ごとに想いを重ねていく。

 好きになっていく。


 好きで好きで好きで、どうしようもなくなっていく。


 せんぱいは私をどう思っているんだろう。

 きっと嫌とは思ってない。

 でも、千歳先輩を好きだと思っているから、それ以上の好意を向けられない。


 せんぱい。


 私はせんぱいが好きです。

 それをちゃんと抑えている。頑張って平静で覆っている。

 だけど、毎日、せんぱいのせいで、とても耐えがたくなっている。


 ――だから、三月のこと。

 悠里先輩が告白を断られるのを聞いて、気づいたら体が動いていた。


 ◇◇◇◇◇


「――ごめん。悠里くん。私は、きみとは付き合えない」


 夕暮れが差し込む部室で、俺はフラれた。


 三月。

 部長はもう、卒業だった。

 そうしたら会えなくなる。俺はたぶん焦っていた。

 告白する前、部長は『卒業したら』みたいな話をしていた。そのせいか、タイミングが今しかないと思ってしまった。それは正解だったかもしれないし、間違いだったかもしれない。


 いずれにせよ、俺はフラれた。


 部長は帰った。気づかわしげに様子を見ていたけど、たぶん、かける言葉は浮かばなかったのだろう。


 俺は呆然と椅子に座っていた。何も頭が回らなかった。

 気力がない。動く気もない。

 後悔しているわけではなかった。

 言わなければそれはそれで苦しむのはわかっている。

 だとしても、胸の空虚さは簡単には消えてくれない。


 動けなくて、座ったままでいたら、部室のドアが開けられた。


「せんぱい」


 誰かわかって驚いた。


「久瀬?」


 帰ったんじゃなかったのか?

 久瀬は静かな表情で、ドアの横に立っていた。


「せんぱいを待ってました」


 聞く前に、久瀬が答えた。

 歩いてきて、俺の隣の席に腰を下ろす。久瀬の定位置。

 そしてじっと俺を見つめた。


 久瀬は、妙な雰囲気を湛えていた。

 ……本当に久瀬か?

 いやに落ち着いていて、静かだ。

 (くら)い夕暮れのせいだろうか。


「……フラれたんですか?」


 そう言われて思わず笑う。

 久瀬は結構俺たちに慣れてきて、意外とはっきりと物を言うことがあった。


「直球すぎるだろ」

「すみません……そんな気がしたので」

「……そうか」


 情けないところを見られた。

 でもこれ以上情けなくなることは無いなと思ったら、少し楽になった。

 やけになっているとも言えるかもしれない。


 久瀬が、不意に体を近づけてきた。


「せんぱい」


 うな垂れる俺の手を両手で持ち上げた。

 急な事に驚く。


「千歳せんぱいは、見る目がないと思います」


 女の子の手の柔らかさを感じる。

 久瀬が静かな表情のまま、俺を見つめている。


「久瀬……?」

「私は悠里せんぱいの事が好きです」


 ……え?


「大好きなので……慰めてもいいですか?」


 あまりにも唐突で、どんな顔をすればいいのか迷った。

 フラれた人間に対してかける言葉にしては、刺激的すぎやしないか。


 久瀬は俺の返事を待たなかった。

 立ち上がり、俺の後ろに回って、背中から手を回してくる。

 抱きしめられる。

 柔らかさと、暖かさを感じた。

 それは、初めて久瀬が来た時、部長が久瀬にやっていたことと一緒だった。


「せんぱい。大丈夫。せんぱいはかっこいいです……」


 ぎゅっと体を包まれて、髪を撫でられた。

 温もりが染みこんでくる。


 展開が急すぎて、思考が回らない。

 よくわからなくなってくる。


 フラれてショックなのに、顔を覆う柔らかさに心地よさを感じている。

 胸が空虚に冷たくなっているのに、暖かい言葉と体温が上書きしてくる。

 部長は硬い表情で告白を断って、久瀬は優しく俺を好きだと言ってくる。


 どうなっている?

 何が起きている?


 ――バグリそうだ。


「待って、久瀬」


 慌てて言った。俺の声は掠れていた。

 喉が渇いている。

 このままじゃまずい。……何がまずいかはわからないが、止めるべきことのような気がした。


 回されていた細い腕を(ほど)く。


「……はい」


 久瀬は抵抗しなかった。

 感情の見えない、凪いだ声。


「……俺は、部長が好きなんだ」

「はい」

「だから、久瀬の気持ちには答えられない」

「はい」


 久瀬は落ち着いている。俺は思考をまとめられずに慌てている。


「それで……だから」

 

 だから……なんだというのだろう。

 うまく言葉が浮かばないし、まとまらない。


 どうしたらいい?

 俺は、なんて言ったらいい?


 久瀬はまた、俺の隣に座りなおした。


「平気です。私、待ってます」


 健気に微笑む。


 駄目だ、と言う事はできなかった。

 その言葉まで一息に否定するには、俺は混乱していたし、久瀬と過ごした時間も長い。

 でも俺は安堵してもいた。やっと、ごちゃごちゃした場が終わってくれる。色々ありすぎた。思考も回らない。疲れている。一度落ち着きたい。


「私は、大丈夫です。好きになったのも、千歳せんぱいを好きな悠里せんぱいですから」


 久瀬は大人びた表情で微笑んでいた。

 ぞっとするくらい、綺麗な微笑みだった。


「せんぱいは……告白のリベンジですね」


 俺は……ぼうっとしていた。出来事が畳みかけてきて、頭がうまく回らなかった。

 夢を見ているみたいだ。何もかも判然としない。深く物事を考えられない。


 どうしたらいいんだろう。 


 思考が霞んでいく。底のない沼に沈んでいくような感覚を覚える。

 

 ぼんやりした意識の中で、俺は久瀬の言葉に頷いた。


 ◇◇◇◇◇


 それから俺は受験勉強を始めた。


 部長は国内トップクラスの大学にすんなり合格していた。それくらい頭が良かったのだ。俺はそんなこと全然知らなかった。俺のことをどう思って、どう整理したのかはわからない。あれから連絡は一度も取っていなかった。


「せんぱい」


 教室から出た俺に、久瀬が声をかけてくる。

 久瀬もあの日から、()()()()()()は一度も言わなかった。少し、積極的にはなったかもしれない。でも大体は去年と変わりなく、後輩として接してくる。

 ありがたいことだった。俺は勉強しないといけない。他の事に、集中を切らされたくない。

 部長と同じ大学に行くのだ。

 そこでもう一度。


「今日も、勉強ですか?」

「……ああ、模試の成績が悪かったから、勉強してくるよ」

「わかりました。いつものところで待ってます」

「ありがとう……悪い」

「いえ、頑張ってくださいね」


 俺の集中を切らさないようにと、久瀬はいつも別の場所で待ってくれる。帰ってもいいと言ったが、『せんぱいを待ってたいです』とはにかんだ。

 悪いとは思ったが、久瀬といると落ち着くことができた。だから、甘えてしまっている。寒い時期になったら、もう少し強く言おう。


 図書室で参考書とノートを広げて、勉強を始める。


 そうしていくらか経った時、小さく喋る生徒の声が聞こえた。


「――この人、あそこ受かったのか」

「――すげ、めちゃ美人やん」


 それだけ言って、離れていく。そこまでの興味はないらしい。


 その場にあるのは、部長が載っている冊子だ。

 俺も見た。高校のイメージアップのために、最難関に合格して、見た目も綺麗な部長の写真を使っている。華々しい写真。

 模試の成績でもたつく俺とは違う。


 拳に力が入って、ノートの端に(しわ)がついた。


「……ダメだ」


 集中が途切れた。

 三十分も経っていないが、俺は机の上を片付けて、図書室を出た。


 久瀬はいつも購買の前にあるベンチに座っている。

 俺を見ると、スクールバッグを持って、急ぎ足で歩いてくる。


「せんぱい、今日は早いですね」

「ああ……集中できなかったから」

「大丈夫です……せんぱいはいつもその分頑張ってます」

「……そうだといいけど」

「絶対、いっぱい頑張ってますよ。頑張ってるので……よしよししてあげます」

「はは、それは恥ずかしいな」


 久瀬はいつも俺を励ましてくれる。最近は久瀬と一緒にいることが増えた。というより、久瀬とばかりいる。

 友人には彼女と勘違いされた。そういうわけじゃない。仲のいい後輩だ。

 そう言い聞かせている。


「合格しましょうね。せんぱい」


 久瀬はにこにこと言った。

 こうして話していたら、さっきまでの苛立ちや不安が薄れているのがわかった。

 久瀬のおかげだ。いつも俺を気遣ってくれる。俺を応援してくれる。

 一緒にいてくれると、心が軽くなる。


「ありがとう……頑張るよ」


 そう言うと、久瀬は心から嬉しそうに笑った。


 ◇◇◇◇◇


 寒い季節になっても、状況は(かんば)しくない。


「……先生に、志望校のランクを下げないかって言われた」


 放課後に久瀬と帰りながら、呟く。

 久瀬は心配そうに俺の顔を見上げている。


「……変えるんですか?」

「いや、今更変えられない。変えたら……俺はここまで何のために頑張ってきたんだ……?」


 呟きに、久瀬が目を伏せた。


 俺は部長と同じ大学に入るために勉強を続けている。……いつの間にか、それ自体が目的になっているような気がする。なぜ、同じ大学に入りたいんだ? 部長が好きだからだ。部長に会って、もう一度やり直したいからだ。そのためには、同じ大学に入れるくらいの実力を身につけておかないといけない。


 でも、もう、よくわからない。

 俺は部長が好きなのか?

 好きとか嫌いとか、何を基準にすればいいんだ。

 勉強は苦しい。

 この日々が終わっても、報われるのかなんてわからない。


 けれどこの目標を止めてしまったら、何をしたらいい?


 皆、俺の合格を信じていない。先生や、同級生や、家族もみんな。

 でも、久瀬は俺の意見を尊重して、やめろとは言わない。みんなとは違う。

 久瀬だけだ。

 止めないのは。

 俺のことをわかっているのは。

 君だけだった。


「応援してます、せんぱい」

「ありがとう……久瀬」


 その二か月後、俺は志望校に落ちた。


◇◇◇◇◇


 スマートフォンに表示される「不合格です」の文字を見て、すべてを失った気がした。


 今までにないくらい努力した。

 苦しくてもこらえて、勉強に打ち込んだ。


 その結果がこれか。

 もう、駄目なんだ。全部。俺が何をしても、上手くいかない。無駄なんだ。結局。


 スマートフォンをベッドに投げ捨てた時、チャイムが鳴った。

 ……誰だ?


「――せんぱい。すみません。急に」


 玄関のドアを開けると久瀬が立っていた。

 驚いたが、そうあるのが自然な気もした。


 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()


「いや……大丈夫。寒いから、入って」

「ありがとうございます」


 家の中は暗くて寒くて、しんとしていた。家族は俺から避けるように出かけてしまった。たぶん、しばらくは帰ってこない。

 俺の部屋に案内する。


「せんぱい……」


 扉を閉め、コートを脱ぐと、久瀬が体を寄せて俺の背中に手を回した。

 ちりちりとした熱が脳裏に灯る。


「大学は、どうでしたか?」

「……駄目だった」

「せんぱい……」


 ぎゅっと抱きしめる力が強くなる。

 心地よい柔らかさを感じる。


「お疲れ様です。……よく頑張ってました」


 久瀬が手を伸ばして、髪を撫でてくる。

 思考が溶けていく。

 俺は「駄目だった」と伝えることで、慰められることを求めていた。頑張ったけど、駄目だった。だから、慰めてほしい。認めてほしい。幼い子供みたいに抱きしめて、髪を撫でてほしい。

 慰めを受け取るために、身を委ねていく。

 緩んだ頭に囁きが届く。


「もう……諦めてもいいんですよ」

「諦める……?」


 甘い誘いが思考に浮かぶ。


「せんぱいはこれだけ頑張ったから、おやすみするんです」

「……おやすみ」

「はい、おやすみです。その間は、私が……一緒にいてあげます」

「久瀬が?」

「嫌ですか……?」


 潤んだ瞳に見上げられていた。


 慌てて、首を振る。

 嫌じゃない。そんなはずがない。俺は君に助けられている。君がいないと、不安なんだ。

 だから、離れないでほしい。


「あ……」


 久瀬が体をくねらせた。俺はいつのまにか、久瀬を強く抱きしめていた。


「……せんぱい、痛いです」

「ご……ごめん」


 叱るみたいに咎められて、力を緩める。自分のしたことに驚いていた。

 俺は、こんなにも久瀬に頼り切っている。


「せんぱいは仕方ないですね」

「…………」

「心配そうな顔をしなくても平気ですよ。それでも、私はせんぱいの事が好きなんです」

「……ああ」


 ――私は悠里せんぱいの事が好きです。


 ぼんやりした頭で久瀬に言われた事を思い出す。大体、一年前の事だった。ひどく遠い過去のようだ。

 あの日の感覚は未だに覚えていた。

 胸に溶け込む暖かさ。空虚さを埋める甘い声。柔らかい体。

 それをもう今、受け入れてしまった。あの日は(ほど)いた腕が、今は俺を抱きしめている。駄目なんだ。たぶん。もう、内心で求めてしまっている。


 久瀬が上気した頬でぽつりと零す。


「今なら、私にもチャンスがありますか……?」


 脳裏の熱が高まる。頭が白く染まっていく。目が眩む。

 ちかちかする。


 でも、いいのか?

 ここで受け入れて、楽になってしまっていいのか?

 久瀬は魅力的な女の子で、でも魅力的すぎるから、逆に不安になる。


 俺の思考を見越したかのように、久瀬が微笑んだ。

 いつかの時のような、大人びた微笑み。


「せんぱい……」


 背を伸ばして、俺に口づけした。

 緩い温度を感じた。長い間そうしていた。


 熱が思考を溶かしていく。

 何も考えられなくなっていく。


 しばらくして、久瀬が唇を離した。時間が長かったのか、短かったのかわからなかった。

 でも、残念だと俺は感じている。もっと。欲しい。久瀬。


「……大丈夫ですよ。これからは私がいますから」


 久瀬の囁きが、脳に染みこむ。


「ぜんぶ諦めたら、とってもきもちいいですよ……」


 そう言われて、何かの糸が切れた。


 俺は久瀬の体をベッドに倒していた。

 高い声が零れた。

 その声で、熱が高まり、脳裏に電流を流されたような眩暈を起こす。


 全てが、思考の底に消えていく。

 甘い夢に沈んでいく。

 

 ――君がいないと生きていけない。


 どうしようもなく、俺は久瀬に溺れていった。


 ◇◇◇◇◇


 朝、目が覚めると、久瀬の姿を探す。


「せんぱい、おはようございます。寝ぐせ立ってますよ」


 俺の姿を見て、リビングにいた久瀬が笑った。そうしてくれて、やっと安心する。


 俺は浪人して、久瀬と同じ大学に入った。元々の志望校からいくつかランクを下げた都内の大学。

 大学から数駅のアパートに、二人で部屋を借りて一緒に住んでいる。


「今日はお休みですから、どこかにお出かけしますか?」


 それもいい。今日は晴れている。お出かけ日和だ。


「どこに行こうか?」

「実は、少しだけ遠出したいんです。ここのデパートとか……」


 スマートフォンでマップを見せてくれる。前から考えていたんだろう。


「あと、ここ……パンケーキのお店が出来たみたいなので……行きませんか?」


 ちょっと恥ずかしそうに、お店をマップに移している。そっちが本命らしかった。

 可愛らしい内装だ。男性が行くには少し恥ずかしいかもしれない。

 でも久瀬が行きたいと言うならいい。


「いいよ。一緒に行こう」

「はい! パンケーキデートですね……!」


 もう目がパンケーキになっている。

 デパートの事もちゃんと覚えておいてあげてほしい。


 ◇◇◇◇◇


 パンケーキは甘さを選ぶことが出来て、俺はまだ甘さも控えめなものを食べた。

 意外と量があったな。久瀬は、俺より甘くて量も多いやつをぺろりと食べていた。


「美味しかったです! また来ましょうね」

「ああ。行こう」


 久瀬が嬉しそうにしているから良かった。


 ちゃんとデパートでショッピングもした。

 少し高そうな洋服屋で、久瀬が俺の服を選んでくれる。自分ではよくわからないから助かる。


「せんぱいは細いので、割と色々似合います」

「……そうなのか?」

「はい。なので、ちゃんとした服を着てほしいです」


 久瀬に着せ替え人形にされて、最終的に久瀬の目にかなう服を買った。財布が軽くなる……。


 そうしている内に夕方になった。


「近くに公園があるみたいです。少し行ってみませんか?」


 久瀬に手を引かれて、俺たちは近くの公園に向かった。公園とは言うが、だいぶ広かった。いくつも広いエリアがある。俺たちは一番広いエリアへ歩いていった。いろんな人がいる。バドミントンをしているカップル、犬の散歩をする老人、芝の上に寝転がっている男性、ダンスしている女性、動画か何かを撮っている大学生たち。子供とボールで遊んでいる家族。


 俺と久瀬は、ベンチに座ってそんな人達を追っていた。手をつないだまま、ぼうっとしていた。


「こういう何気ない感じが、幸せだなって気がします」


 久瀬がぽつりと言う。俺もたぶん、幸せだった。

 今日のデート。俺たちは傍から見ても、間違いなく幸せそうなカップルだった。

 それを否定する気はない。俺は楽しかった。幸せだった。

 そう感じている。人並みに。


 特に喋ることはなく、ぼんやり景色を眺めて、静かに座っている。ゆっくりとした時間。公園にいる人たちの顔ぶれも移ろっていく。

 さっきからいた大学生たちが何か歓声を上げた。最終シーンでも取り終えたのかもしれない。視線を向ける。笑顔らしい、大学生たち。


 その中に一人、見覚えのある女性(ひと)を見つけた。


「……え?」


 ――部長?


 その女性は、とても、よく似ていた。本当に? そういえば、ここは部長が受かった大学に近い。何をしているんだ? 何か、笑顔を浮かべているようだ。映画? 動画? 遠いから、喋っていることもよく聞こえない。なぜ。どうして、ここで。


 ――あれ?


「せんぱい。どうしました?」


 横を見ると、久瀬が心配そうに手を伸ばしていた。


 久瀬……?


 偶然、俺は部長を見つけたのか? そんなことがあるのか? ない。限りなく少ない。そうだろう。違うんだ。誘われたんだ。久瀬に。この公園に。だから久瀬は知っている。久瀬。なあ。

 その表情は……演技じゃないのか?

 知っていたのか?

 だから、ここに誘ったのか?


「せんぱい?」


 でも、声が出なかった。

 喉に何かがつかえていた。聞けない。無理だろう?

 聞いたら、久瀬を疑っているみたいじゃないか。久瀬に嫌われたくない。軽蔑(けいべつ)されるのが怖い。

 だから、口をぱくぱくさせて、震える息を吐きだすしかない。


 久瀬は俺の言葉を待っていたが、一つ息を吐いて、口を開いた。


「……そろそろ寒くなってきたから、帰りましょうか」


 大学生たちの方に視線を戻すと、彼らはもう消えていた。本当にそこに部長がいたのか、もう確認することはできない。


 久瀬はいたって平常だった。


 俺の思い過ごしなのかもしれない。ああ。たぶん。そうだ。久瀬は俺の事を考えてくれている。そんな妙なこと、わざわざしない。

 そうなんだ。

 久瀬はいつも俺の味方だ。


「……ああ」


 頷いて、立ち上がる。俺たちは手をつないで、公園を後にした。

 歩いているうちに、段々ぼんやりしてきた。

 難しいことは考えたくない。


 帰りの電車の中で、俺は久瀬に寄りかかりながら眠った。


 ◆◆◆◆◆


 眠る先輩の顔を見て、抱きしめて慰めたい衝動に駆られる。


 先輩は精神的に動揺すると、思考を放棄する癖が付いていた。そういう時はすぐに眠ってしまう。人間は考える(あし)だから、考えるのをやめたら動かない葦にしかならない。


(せんぱいはまだ、忘れきれていない)


 それがよくわかった。公園に千歳先輩がいると確信していたわけではない。いるかもしれないと思っていただけだ。あの大学生だって、似た人かもしれない。

 先輩も私も、視力は同じくらいだ。私ははっきりと見えなかったから、先輩だって明確に見えたわけではないだろう。でも、あれだけ狼狽していた。


(まだ足りないんだ)


 先輩はまだ、過去に囚われている。どうしたら、すべてを忘れてくれるんだろう。

 私だけを見てほしい。

 それだけでいいのに。


 先輩の頭に、自分の頭を当てた。目を閉じる。

 でも、幸せだ。

 今はこれで十分なのかもしれない。


 あの日のことを思い浮かべる。部室に射しこむ昏い夕暮れ。告白を断る声――

 千歳先輩は部室を出るとき、ひどく苦しそうな表情をしていた。


(たぶん、千歳せんぱいも、悠里せんぱいの事が好きでしたよ)


 それは絶対に言えないことだった。

 千歳先輩は、悠里先輩から過剰に評価されていることに怯えていた。付き合い始めたら、悪い所ばかりが目について、嫌われてしまうのではないか。そんな感じだ。たぶん。そういう風に見えていたけれど、実際に聞いたわけではないから、断言はできないし、しない。


 こんなことを伝えたら、きっと、先輩は絶望するだろうから。そんなことは望まない。

 言わなければ忘れていく。時間の中で薄まって流れていく。

 だから言わない。


 そうして全部忘れたら、幸せだけが残ってくれる。


(幸せでいよう? せんぱい)


 電車に揺られる。触れ合う部分が、先輩の体温を教えてくれる。


 私たちはきっと幸せだ。


 そしてこれから、もっと幸せになるだろう。


読んでいただきありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[一言] 日本語としてはおかしいけど、 せつなくるしい、です
[良い点] 良かったです!重い子いいですね!
[一言] 千歳先輩視点が見てみたくなるな〜
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