大人しい君に依存していく―弱った俺を慰めてくれる、小柄で可愛くて優しい後輩―
※シリアス寄りの作品になります
※コメディ要素は少なめです
久瀬と出会ったのは、高校二年の春だった。
◇◇◇◇◇
「あの……こんにちは」
部室のドアがそろそろと開けられる。
入ってきたのは新入生の女の子だった。
大人しそうな女の子だなと思った。ずいぶん可愛い。顔が小さい。背が小さい。長い前髪をヘアピンで止めている。ちょっと胸が大きい。
不安そうに、俺たちの様子をうかがっていた。
小動物っぽい女の子だ。
ここは校舎の端っこにある空き教室だ。我らが文芸部の部室である。
今は俺と部長しかいない。部長が明るい声で呼びかける。
「こんにちは。文芸部の見学ですか?」
うちの部長もとんでもなく美少女だ。さらりとした黒髪のロングヘア。整った顔立ち。成績も優秀で、雰囲気も親しみやすい。非の打ち所がない。
そして俺はそんな部長のことが好きだった。
釣り合わないとわかってはいるけど。
新入生の女の子は、部長が反応したことにほっとした様子を見せた。
「えと……見学というか、入部希望というか」
「入部希望? ほんとに?」
「あ、はい。そうです」
「やった!」
部長がばっと立ち上がった。声に喜びが溢れている。
俺もほっとしていた。このまま新入生ゼロだと困る。
「新入部員ゲットだ! しかもえっちな子だよ!」
「えっちとか言うな」
突っ込みながら、引き出しから判子を取り出した。新しく入部するには、入部先の部から判子かサインを貰う必要がある。
女の子は所在なさげに小さく体を丸めて、俺たちの様子を眺めていた。
「入部届って持ってる?」
俺は女の子に向けて言った。彼女が頷く。
「は、はい、持ってます」
「そしたら、そこ座って。判子押すから」
「あ……ありがとうございます」
女の子は椅子を引いて、俺の横の学習机に座った。
スクールバッグからクリアファイルを取り出して、入部届を探している。つとめて見ないように視線を逸らしていたが、座ると胸の大きさが強調されていた。
部長がニヤニヤしながら小声で言ってくる。
「悠里くん。新入生ちゃんに不埒な視線を向けないように」
「向けてません。部長もえっちとか言ってたでしょ」
「私は女の子だから良いの」
部長は気楽な調子で言って、女の子の後ろに回って抱き着いた。
「ひゃ……」
女の子が部長に抱き着かれて、固まっている。
美少女と美少女がくっついていた。
いい光景だ。
「やわらか~い」
「目に毒なんでやめてもらえます?」
「目の保養でしょ? 見ちゃだめだけど」
無茶を言う。
でも部長はすぐに腕をほどいた。親しみやすい雰囲気を作ろうとしただけだったんだろう。
「ごめんね、急に抱き着いて。入部届はあった?」
「あ、はい、ありました! ……あの、部長さんも柔らかかったので、抱き着いたのは全然、大丈夫です」
「…………」
感想、ありがとう。
部長がじと目で見てくる。
視線から目を逸らしながら、女の子が差し出した入部届に判子を押した。
名前が書いてあって、それを見る。
「くぜさん……かな? 読み方。あ、勝手に見ちゃってごめん」
「いえ、大丈夫です 久瀬であってます。く、久瀬水咲です」
「なるほど、くぜちゃんだね! 私、月浦千歳って言うんだ。よろしくね。三年生で部長だよ。あ、呼ぶときは名前で呼んでね~」
部長はそう言って背中から抱き着いていた。スキンシップの激しい人だ。
抱き着かれるのを恥ずかしそうにしながら、女の子──久瀬さんがこちらを窺うように見た。
俺も自己紹介しないといけない。
「俺は、さっき部長も言ってたけど、佐々木悠里だ。二年で、一応副部長をしてる」
伝えると、久瀬さんが強張った表情で俺をじっと見た。
なんだ……?
困惑しながら待っていたら、思い切ったように口を開いた。
「ゆ……ゆうりせんぱい」
すごい硬い声で名前呼びされた。
何かと思ったが、すぐ思い当たった。さっき部長が言った『呼ぶときは名前で呼んでね~』を部のルールと勘違いしているのかもしれない。
「い、いや、別に俺は名前で呼ばなくていいよ。部長だけで」
「あ、そ、そうでしたか……」
久瀬さんが赤くなって俯く。気恥ずかしい。
部長がにや~っと笑った。
「いいじゃん悠里くん。佐々木なんて沢山いるんだから、呼ばれておきなよ」
軽い調子だ。可愛い女の子に急に名前を呼ばれるのは緊張するんだけど。
俺と久瀬さんは気まずい空気になる。部長はニヤニヤ俺たちの事を見ていた。
何を思われているんだろうか。複雑な気持ちだ。
久瀬さんはそのまま部に入ってくれた。
他にも何人か入って、人数も増えた。
けれど、文芸部はこの三人でいることが一番多かった。
俺たちは放課後によく集まっては小説の話をしたり、ただ駄弁ったりなんかした。
机をくっつけただけの、簡易的なテーブルに座って。
楽しい日々だった。
その翌年の三月に俺は部長に告白してフラれた。
この頃に戻れたらと思う事もあるけど、現実にそんな奇跡は起こりそうにない。
◆◆◆◆◆
高校に入って、私は文芸部に入部した。
大きな理由はなくて、本が好きで、失礼だけど、あまり目立たない部だと思ったから。
結果的に、文芸部に入れて良かった。
ここはとてもいい所だ。あたたかくて、優しい。
悠里先輩が千歳先輩を好きなのは見ていればわかった。
入部してすぐ察した。
態度や、声色や、雰囲気が違う。
「悠里くん、久瀬ちゃん、ごめん、私はちょっと先に帰るね」
この日は、千歳先輩がいつもより早い時間に席を立った。悠里先輩が声をかける。
「勉強ですか?」
「うん、模試が近くて、集中したいんだよね~」
千歳先輩はぐでーっと全身で疲労を表現した。
適当な調子で私たちに声をかける。
「ま~、なにかしてて」
ばいばい、と手を振って、千歳先輩は帰っていった。
後には私と悠里先輩だけが残される。
それだけの事で、少しどきどきした。
悠里先輩はうーんと唸っている。
「なにか、って言われてもな……」
腕を組みながら、私に視線を向ける。
「久瀬さんは……何かしたいことある?」
困った様子で話しかけられる。
少しぎこちなくて、女の子に不慣れな感じがする。
本当に、それだけなのに、たまらなく嬉しい。
せんぱいは優しい。
そう思うと胸があたたかくなる。
あたたかさは募って、すぐに溢れそうになる。
だからこの日は、少し思い切って声を出した。
「あの……せんぱいの呼び方を変えたいです」
「呼び方?」
「私、後輩なのに、『さん』付けは変だと思います」
悠里先輩は驚いて目を大きくしていた。
「えーと……」
「ち、千歳せんぱいはあだ名ですけど、悠里せんぱいはちょっと、硬いので」
「……なるほど」
困ったように頭を掻いている。
嫌がっている雰囲気ではなかったから、もう少し続ける。
「名前呼びとか」
「なまえ……名前か……」
「くぜちゃんでもいいです」
「部長と一緒か……」
「苗字だけでもいいです」
「あー……苗字なら」
先輩は、一つ咳払いをして、口を開いた。
「久瀬」
「は、はい」
どきっとする。なんとか返事ができたのは、反射みたいなものだった。
悠里先輩が照れを隠すみたいに笑う。
「……こんなんでいい?」
胸を押さえながら、頷いた。
その日以来、私は『久瀬』と呼ばれるようになった。
距離が縮んだようで嬉しい。翌日、千歳先輩はちょっとびっくりしていたけど。
そんな日々を過ごした。
悠里先輩が千歳先輩のことを好きなのは知っている。
だけど、私は悠里先輩に惹かれていた。
日ごとに想いを重ねていく。
好きになっていく。
好きで好きで好きで、どうしようもなくなっていく。
せんぱいは私をどう思っているんだろう。
きっと嫌とは思ってない。
でも、千歳先輩を好きだと思っているから、それ以上の好意を向けられない。
せんぱい。
私はせんぱいが好きです。
それをちゃんと抑えている。頑張って平静で覆っている。
だけど、毎日、せんぱいのせいで、とても耐えがたくなっている。
――だから、三月のこと。
悠里先輩が告白を断られるのを聞いて、気づいたら体が動いていた。
◇◇◇◇◇
「――ごめん。悠里くん。私は、きみとは付き合えない」
夕暮れが差し込む部室で、俺はフラれた。
三月。
部長はもう、卒業だった。
そうしたら会えなくなる。俺はたぶん焦っていた。
告白する前、部長は『卒業したら』みたいな話をしていた。そのせいか、タイミングが今しかないと思ってしまった。それは正解だったかもしれないし、間違いだったかもしれない。
いずれにせよ、俺はフラれた。
部長は帰った。気づかわしげに様子を見ていたけど、たぶん、かける言葉は浮かばなかったのだろう。
俺は呆然と椅子に座っていた。何も頭が回らなかった。
気力がない。動く気もない。
後悔しているわけではなかった。
言わなければそれはそれで苦しむのはわかっている。
だとしても、胸の空虚さは簡単には消えてくれない。
動けなくて、座ったままでいたら、部室のドアが開けられた。
「せんぱい」
誰かわかって驚いた。
「久瀬?」
帰ったんじゃなかったのか?
久瀬は静かな表情で、ドアの横に立っていた。
「せんぱいを待ってました」
聞く前に、久瀬が答えた。
歩いてきて、俺の隣の席に腰を下ろす。久瀬の定位置。
そしてじっと俺を見つめた。
久瀬は、妙な雰囲気を湛えていた。
……本当に久瀬か?
いやに落ち着いていて、静かだ。
昏い夕暮れのせいだろうか。
「……フラれたんですか?」
そう言われて思わず笑う。
久瀬は結構俺たちに慣れてきて、意外とはっきりと物を言うことがあった。
「直球すぎるだろ」
「すみません……そんな気がしたので」
「……そうか」
情けないところを見られた。
でもこれ以上情けなくなることは無いなと思ったら、少し楽になった。
やけになっているとも言えるかもしれない。
久瀬が、不意に体を近づけてきた。
「せんぱい」
うな垂れる俺の手を両手で持ち上げた。
急な事に驚く。
「千歳せんぱいは、見る目がないと思います」
女の子の手の柔らかさを感じる。
久瀬が静かな表情のまま、俺を見つめている。
「久瀬……?」
「私は悠里せんぱいの事が好きです」
……え?
「大好きなので……慰めてもいいですか?」
あまりにも唐突で、どんな顔をすればいいのか迷った。
フラれた人間に対してかける言葉にしては、刺激的すぎやしないか。
久瀬は俺の返事を待たなかった。
立ち上がり、俺の後ろに回って、背中から手を回してくる。
抱きしめられる。
柔らかさと、暖かさを感じた。
それは、初めて久瀬が来た時、部長が久瀬にやっていたことと一緒だった。
「せんぱい。大丈夫。せんぱいはかっこいいです……」
ぎゅっと体を包まれて、髪を撫でられた。
温もりが染みこんでくる。
展開が急すぎて、思考が回らない。
よくわからなくなってくる。
フラれてショックなのに、顔を覆う柔らかさに心地よさを感じている。
胸が空虚に冷たくなっているのに、暖かい言葉と体温が上書きしてくる。
部長は硬い表情で告白を断って、久瀬は優しく俺を好きだと言ってくる。
どうなっている?
何が起きている?
――バグリそうだ。
「待って、久瀬」
慌てて言った。俺の声は掠れていた。
喉が渇いている。
このままじゃまずい。……何がまずいかはわからないが、止めるべきことのような気がした。
回されていた細い腕を解く。
「……はい」
久瀬は抵抗しなかった。
感情の見えない、凪いだ声。
「……俺は、部長が好きなんだ」
「はい」
「だから、久瀬の気持ちには答えられない」
「はい」
久瀬は落ち着いている。俺は思考をまとめられずに慌てている。
「それで……だから」
だから……なんだというのだろう。
うまく言葉が浮かばないし、まとまらない。
どうしたらいい?
俺は、なんて言ったらいい?
久瀬はまた、俺の隣に座りなおした。
「平気です。私、待ってます」
健気に微笑む。
駄目だ、と言う事はできなかった。
その言葉まで一息に否定するには、俺は混乱していたし、久瀬と過ごした時間も長い。
でも俺は安堵してもいた。やっと、ごちゃごちゃした場が終わってくれる。色々ありすぎた。思考も回らない。疲れている。一度落ち着きたい。
「私は、大丈夫です。好きになったのも、千歳せんぱいを好きな悠里せんぱいですから」
久瀬は大人びた表情で微笑んでいた。
ぞっとするくらい、綺麗な微笑みだった。
「せんぱいは……告白のリベンジですね」
俺は……ぼうっとしていた。出来事が畳みかけてきて、頭がうまく回らなかった。
夢を見ているみたいだ。何もかも判然としない。深く物事を考えられない。
どうしたらいいんだろう。
思考が霞んでいく。底のない沼に沈んでいくような感覚を覚える。
ぼんやりした意識の中で、俺は久瀬の言葉に頷いた。
◇◇◇◇◇
それから俺は受験勉強を始めた。
部長は国内トップクラスの大学にすんなり合格していた。それくらい頭が良かったのだ。俺はそんなこと全然知らなかった。俺のことをどう思って、どう整理したのかはわからない。あれから連絡は一度も取っていなかった。
「せんぱい」
教室から出た俺に、久瀬が声をかけてくる。
久瀬もあの日から、刺激的なことは一度も言わなかった。少し、積極的にはなったかもしれない。でも大体は去年と変わりなく、後輩として接してくる。
ありがたいことだった。俺は勉強しないといけない。他の事に、集中を切らされたくない。
部長と同じ大学に行くのだ。
そこでもう一度。
「今日も、勉強ですか?」
「……ああ、模試の成績が悪かったから、勉強してくるよ」
「わかりました。いつものところで待ってます」
「ありがとう……悪い」
「いえ、頑張ってくださいね」
俺の集中を切らさないようにと、久瀬はいつも別の場所で待ってくれる。帰ってもいいと言ったが、『せんぱいを待ってたいです』とはにかんだ。
悪いとは思ったが、久瀬といると落ち着くことができた。だから、甘えてしまっている。寒い時期になったら、もう少し強く言おう。
図書室で参考書とノートを広げて、勉強を始める。
そうしていくらか経った時、小さく喋る生徒の声が聞こえた。
「――この人、あそこ受かったのか」
「――すげ、めちゃ美人やん」
それだけ言って、離れていく。そこまでの興味はないらしい。
その場にあるのは、部長が載っている冊子だ。
俺も見た。高校のイメージアップのために、最難関に合格して、見た目も綺麗な部長の写真を使っている。華々しい写真。
模試の成績でもたつく俺とは違う。
拳に力が入って、ノートの端に皺がついた。
「……ダメだ」
集中が途切れた。
三十分も経っていないが、俺は机の上を片付けて、図書室を出た。
久瀬はいつも購買の前にあるベンチに座っている。
俺を見ると、スクールバッグを持って、急ぎ足で歩いてくる。
「せんぱい、今日は早いですね」
「ああ……集中できなかったから」
「大丈夫です……せんぱいはいつもその分頑張ってます」
「……そうだといいけど」
「絶対、いっぱい頑張ってますよ。頑張ってるので……よしよししてあげます」
「はは、それは恥ずかしいな」
久瀬はいつも俺を励ましてくれる。最近は久瀬と一緒にいることが増えた。というより、久瀬とばかりいる。
友人には彼女と勘違いされた。そういうわけじゃない。仲のいい後輩だ。
そう言い聞かせている。
「合格しましょうね。せんぱい」
久瀬はにこにこと言った。
こうして話していたら、さっきまでの苛立ちや不安が薄れているのがわかった。
久瀬のおかげだ。いつも俺を気遣ってくれる。俺を応援してくれる。
一緒にいてくれると、心が軽くなる。
「ありがとう……頑張るよ」
そう言うと、久瀬は心から嬉しそうに笑った。
◇◇◇◇◇
寒い季節になっても、状況は芳しくない。
「……先生に、志望校のランクを下げないかって言われた」
放課後に久瀬と帰りながら、呟く。
久瀬は心配そうに俺の顔を見上げている。
「……変えるんですか?」
「いや、今更変えられない。変えたら……俺はここまで何のために頑張ってきたんだ……?」
呟きに、久瀬が目を伏せた。
俺は部長と同じ大学に入るために勉強を続けている。……いつの間にか、それ自体が目的になっているような気がする。なぜ、同じ大学に入りたいんだ? 部長が好きだからだ。部長に会って、もう一度やり直したいからだ。そのためには、同じ大学に入れるくらいの実力を身につけておかないといけない。
でも、もう、よくわからない。
俺は部長が好きなのか?
好きとか嫌いとか、何を基準にすればいいんだ。
勉強は苦しい。
この日々が終わっても、報われるのかなんてわからない。
けれどこの目標を止めてしまったら、何をしたらいい?
皆、俺の合格を信じていない。先生や、同級生や、家族もみんな。
でも、久瀬は俺の意見を尊重して、やめろとは言わない。みんなとは違う。
久瀬だけだ。
止めないのは。
俺のことをわかっているのは。
君だけだった。
「応援してます、せんぱい」
「ありがとう……久瀬」
その二か月後、俺は志望校に落ちた。
◇◇◇◇◇
スマートフォンに表示される「不合格です」の文字を見て、すべてを失った気がした。
今までにないくらい努力した。
苦しくてもこらえて、勉強に打ち込んだ。
その結果がこれか。
もう、駄目なんだ。全部。俺が何をしても、上手くいかない。無駄なんだ。結局。
スマートフォンをベッドに投げ捨てた時、チャイムが鳴った。
……誰だ?
「――せんぱい。すみません。急に」
玄関のドアを開けると久瀬が立っていた。
驚いたが、そうあるのが自然な気もした。
久瀬は俺が辛い時、いつも傍にいてくれる。
「いや……大丈夫。寒いから、入って」
「ありがとうございます」
家の中は暗くて寒くて、しんとしていた。家族は俺から避けるように出かけてしまった。たぶん、しばらくは帰ってこない。
俺の部屋に案内する。
「せんぱい……」
扉を閉め、コートを脱ぐと、久瀬が体を寄せて俺の背中に手を回した。
ちりちりとした熱が脳裏に灯る。
「大学は、どうでしたか?」
「……駄目だった」
「せんぱい……」
ぎゅっと抱きしめる力が強くなる。
心地よい柔らかさを感じる。
「お疲れ様です。……よく頑張ってました」
久瀬が手を伸ばして、髪を撫でてくる。
思考が溶けていく。
俺は「駄目だった」と伝えることで、慰められることを求めていた。頑張ったけど、駄目だった。だから、慰めてほしい。認めてほしい。幼い子供みたいに抱きしめて、髪を撫でてほしい。
慰めを受け取るために、身を委ねていく。
緩んだ頭に囁きが届く。
「もう……諦めてもいいんですよ」
「諦める……?」
甘い誘いが思考に浮かぶ。
「せんぱいはこれだけ頑張ったから、おやすみするんです」
「……おやすみ」
「はい、おやすみです。その間は、私が……一緒にいてあげます」
「久瀬が?」
「嫌ですか……?」
潤んだ瞳に見上げられていた。
慌てて、首を振る。
嫌じゃない。そんなはずがない。俺は君に助けられている。君がいないと、不安なんだ。
だから、離れないでほしい。
「あ……」
久瀬が体をくねらせた。俺はいつのまにか、久瀬を強く抱きしめていた。
「……せんぱい、痛いです」
「ご……ごめん」
叱るみたいに咎められて、力を緩める。自分のしたことに驚いていた。
俺は、こんなにも久瀬に頼り切っている。
「せんぱいは仕方ないですね」
「…………」
「心配そうな顔をしなくても平気ですよ。それでも、私はせんぱいの事が好きなんです」
「……ああ」
――私は悠里せんぱいの事が好きです。
ぼんやりした頭で久瀬に言われた事を思い出す。大体、一年前の事だった。ひどく遠い過去のようだ。
あの日の感覚は未だに覚えていた。
胸に溶け込む暖かさ。空虚さを埋める甘い声。柔らかい体。
それをもう今、受け入れてしまった。あの日は解いた腕が、今は俺を抱きしめている。駄目なんだ。たぶん。もう、内心で求めてしまっている。
久瀬が上気した頬でぽつりと零す。
「今なら、私にもチャンスがありますか……?」
脳裏の熱が高まる。頭が白く染まっていく。目が眩む。
ちかちかする。
でも、いいのか?
ここで受け入れて、楽になってしまっていいのか?
久瀬は魅力的な女の子で、でも魅力的すぎるから、逆に不安になる。
俺の思考を見越したかのように、久瀬が微笑んだ。
いつかの時のような、大人びた微笑み。
「せんぱい……」
背を伸ばして、俺に口づけした。
緩い温度を感じた。長い間そうしていた。
熱が思考を溶かしていく。
何も考えられなくなっていく。
しばらくして、久瀬が唇を離した。時間が長かったのか、短かったのかわからなかった。
でも、残念だと俺は感じている。もっと。欲しい。久瀬。
「……大丈夫ですよ。これからは私がいますから」
久瀬の囁きが、脳に染みこむ。
「ぜんぶ諦めたら、とってもきもちいいですよ……」
そう言われて、何かの糸が切れた。
俺は久瀬の体をベッドに倒していた。
高い声が零れた。
その声で、熱が高まり、脳裏に電流を流されたような眩暈を起こす。
全てが、思考の底に消えていく。
甘い夢に沈んでいく。
――君がいないと生きていけない。
どうしようもなく、俺は久瀬に溺れていった。
◇◇◇◇◇
朝、目が覚めると、久瀬の姿を探す。
「せんぱい、おはようございます。寝ぐせ立ってますよ」
俺の姿を見て、リビングにいた久瀬が笑った。そうしてくれて、やっと安心する。
俺は浪人して、久瀬と同じ大学に入った。元々の志望校からいくつかランクを下げた都内の大学。
大学から数駅のアパートに、二人で部屋を借りて一緒に住んでいる。
「今日はお休みですから、どこかにお出かけしますか?」
それもいい。今日は晴れている。お出かけ日和だ。
「どこに行こうか?」
「実は、少しだけ遠出したいんです。ここのデパートとか……」
スマートフォンでマップを見せてくれる。前から考えていたんだろう。
「あと、ここ……パンケーキのお店が出来たみたいなので……行きませんか?」
ちょっと恥ずかしそうに、お店をマップに移している。そっちが本命らしかった。
可愛らしい内装だ。男性が行くには少し恥ずかしいかもしれない。
でも久瀬が行きたいと言うならいい。
「いいよ。一緒に行こう」
「はい! パンケーキデートですね……!」
もう目がパンケーキになっている。
デパートの事もちゃんと覚えておいてあげてほしい。
◇◇◇◇◇
パンケーキは甘さを選ぶことが出来て、俺はまだ甘さも控えめなものを食べた。
意外と量があったな。久瀬は、俺より甘くて量も多いやつをぺろりと食べていた。
「美味しかったです! また来ましょうね」
「ああ。行こう」
久瀬が嬉しそうにしているから良かった。
ちゃんとデパートでショッピングもした。
少し高そうな洋服屋で、久瀬が俺の服を選んでくれる。自分ではよくわからないから助かる。
「せんぱいは細いので、割と色々似合います」
「……そうなのか?」
「はい。なので、ちゃんとした服を着てほしいです」
久瀬に着せ替え人形にされて、最終的に久瀬の目にかなう服を買った。財布が軽くなる……。
そうしている内に夕方になった。
「近くに公園があるみたいです。少し行ってみませんか?」
久瀬に手を引かれて、俺たちは近くの公園に向かった。公園とは言うが、だいぶ広かった。いくつも広いエリアがある。俺たちは一番広いエリアへ歩いていった。いろんな人がいる。バドミントンをしているカップル、犬の散歩をする老人、芝の上に寝転がっている男性、ダンスしている女性、動画か何かを撮っている大学生たち。子供とボールで遊んでいる家族。
俺と久瀬は、ベンチに座ってそんな人達を追っていた。手をつないだまま、ぼうっとしていた。
「こういう何気ない感じが、幸せだなって気がします」
久瀬がぽつりと言う。俺もたぶん、幸せだった。
今日のデート。俺たちは傍から見ても、間違いなく幸せそうなカップルだった。
それを否定する気はない。俺は楽しかった。幸せだった。
そう感じている。人並みに。
特に喋ることはなく、ぼんやり景色を眺めて、静かに座っている。ゆっくりとした時間。公園にいる人たちの顔ぶれも移ろっていく。
さっきからいた大学生たちが何か歓声を上げた。最終シーンでも取り終えたのかもしれない。視線を向ける。笑顔らしい、大学生たち。
その中に一人、見覚えのある女性を見つけた。
「……え?」
――部長?
その女性は、とても、よく似ていた。本当に? そういえば、ここは部長が受かった大学に近い。何をしているんだ? 何か、笑顔を浮かべているようだ。映画? 動画? 遠いから、喋っていることもよく聞こえない。なぜ。どうして、ここで。
――あれ?
「せんぱい。どうしました?」
横を見ると、久瀬が心配そうに手を伸ばしていた。
久瀬……?
偶然、俺は部長を見つけたのか? そんなことがあるのか? ない。限りなく少ない。そうだろう。違うんだ。誘われたんだ。久瀬に。この公園に。だから久瀬は知っている。久瀬。なあ。
その表情は……演技じゃないのか?
知っていたのか?
だから、ここに誘ったのか?
「せんぱい?」
でも、声が出なかった。
喉に何かがつかえていた。聞けない。無理だろう?
聞いたら、久瀬を疑っているみたいじゃないか。久瀬に嫌われたくない。軽蔑されるのが怖い。
だから、口をぱくぱくさせて、震える息を吐きだすしかない。
久瀬は俺の言葉を待っていたが、一つ息を吐いて、口を開いた。
「……そろそろ寒くなってきたから、帰りましょうか」
大学生たちの方に視線を戻すと、彼らはもう消えていた。本当にそこに部長がいたのか、もう確認することはできない。
久瀬はいたって平常だった。
俺の思い過ごしなのかもしれない。ああ。たぶん。そうだ。久瀬は俺の事を考えてくれている。そんな妙なこと、わざわざしない。
そうなんだ。
久瀬はいつも俺の味方だ。
「……ああ」
頷いて、立ち上がる。俺たちは手をつないで、公園を後にした。
歩いているうちに、段々ぼんやりしてきた。
難しいことは考えたくない。
帰りの電車の中で、俺は久瀬に寄りかかりながら眠った。
◆◆◆◆◆
眠る先輩の顔を見て、抱きしめて慰めたい衝動に駆られる。
先輩は精神的に動揺すると、思考を放棄する癖が付いていた。そういう時はすぐに眠ってしまう。人間は考える葦だから、考えるのをやめたら動かない葦にしかならない。
(せんぱいはまだ、忘れきれていない)
それがよくわかった。公園に千歳先輩がいると確信していたわけではない。いるかもしれないと思っていただけだ。あの大学生だって、似た人かもしれない。
先輩も私も、視力は同じくらいだ。私ははっきりと見えなかったから、先輩だって明確に見えたわけではないだろう。でも、あれだけ狼狽していた。
(まだ足りないんだ)
先輩はまだ、過去に囚われている。どうしたら、すべてを忘れてくれるんだろう。
私だけを見てほしい。
それだけでいいのに。
先輩の頭に、自分の頭を当てた。目を閉じる。
でも、幸せだ。
今はこれで十分なのかもしれない。
あの日のことを思い浮かべる。部室に射しこむ昏い夕暮れ。告白を断る声――
千歳先輩は部室を出るとき、ひどく苦しそうな表情をしていた。
(たぶん、千歳せんぱいも、悠里せんぱいの事が好きでしたよ)
それは絶対に言えないことだった。
千歳先輩は、悠里先輩から過剰に評価されていることに怯えていた。付き合い始めたら、悪い所ばかりが目について、嫌われてしまうのではないか。そんな感じだ。たぶん。そういう風に見えていたけれど、実際に聞いたわけではないから、断言はできないし、しない。
こんなことを伝えたら、きっと、先輩は絶望するだろうから。そんなことは望まない。
言わなければ忘れていく。時間の中で薄まって流れていく。
だから言わない。
そうして全部忘れたら、幸せだけが残ってくれる。
(幸せでいよう? せんぱい)
電車に揺られる。触れ合う部分が、先輩の体温を教えてくれる。
私たちはきっと幸せだ。
そしてこれから、もっと幸せになるだろう。
読んでいただきありがとうございました。
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