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マラソン

 まだナイキも厚底シューズもない昔々の話。

 紀元前450年9月12日、マラトンにおけるペルシア軍との壮絶な戦いの末、アテナイの名将ミルティアデスはこれに勝利した。

 ミルティアデスは部下のフィディピディスを呼んだ。

「フィディピディス、アテナイまで走ってくれ。伝令を頼む。我が軍の勝利をアテナイの元老たちに伝えてくれ。大至急だ。」

「閣下、承知致しました。直ちに向かいます。」

 ミルティアディスのテントから出ると、御者が待っている。

「フィディピディス様、どうぞこの2頭立ての戦車にお乗りください。10キロ先からは山岳地帯になるので徒歩になりますが、そこまでの間、1時間は短縮できます。」

 真面目なフィディピディスは即座に首を振った。

「いや折角だが遠慮する。ミルティアデス様はアテナイまで走ってくれと申された。兵士にとって一番大切なのは上官の命令を忠実に守ることだ。」

「フィディピディス様、お言葉ですが伝令の務めはどんな手を使ってでもこの勝利をアテナイ市民に出来るだけ早く伝えることでは?」

「君、軍人にとって大事なのは忠義だよ。」

 そう言うと、フィディピディスはアテナイに向けて一目散に走り出した。

 マラトンからアテネまでは約42㎞ある。

 最初の10キロをフィディピディスは50分で走った。当時の道路や履いていた靴からすれば相当な速さだ。

「どうだ。御者はここに来るまでに1時間稼げると言っていたが、ここまで50分で来たのだから、大した差は無いはずだ。さあ、ここからは丘陵地帯だがミルティアデス様のためにもアテネ市民のためにも走り抜くぞ!」

 20㎞を過ぎたが、所々に白い石灰石が見える丘陵が残暑厳しい9月の太陽に照らされて輝いている。

 フィディピディスの疲労は極限に達していた。山羊皮の水筒に少しばかり残っていた水をここで最後の一滴まで飲み干して、空になった水筒を投げ捨てた。今の彼にとっては空の水筒さえずっしりと重たく感じていたのだ。

 時間はすでに3時間を超えていた。今思えば、海際の平坦地を走れば余力はもっと残せたはずだが、この時代、急がば回れということわざはまだ無い。というより中世日本の琵琶湖の話だから知る由も無い。とにかくこの時代のラテン民族はまっすぐが好きなのだ。

 フィディピディスの視界は半分くらいになっていた。しかしまだ気力は衰えていない。彼は重い腰を上げて走り出した。いや、もはや歩き出したというべきか。

 30㎞を超えてフィディピディスの意識は朦朧としていた。炎天下の鋭い日差しの中にいたからか、視界も薄ぼんやりとしていた。休みを取ることさえ忘れ、ただひたすら南西に歩いている。

とうとう丘陵地帯を抜けてハランドリの集落まで来ていたが、フィディピディスには自分が今どこまで来たのかわかっていない。ただ眼前に大きな都市が見えていた。

フィディピディスはつぶやいた。

「アテナイだ。」

 その時だった。後方からアテネの軍勢が近づいて来た。

 軍勢の先頭にいた大将ミルティアデスが叫んだ。

「あれは誰だ?敗残兵か?」

 フィディピディスを見送った御者が叫んだ。

「フィディピディス様です。」

 ミルティアデスは驚いた。

「フィディピディス?まだこんなところにいたのか。」

 ミルティアデスは倒れているフィディピディスに声をかけた。

「フィディピディス、しっかりしろ。」

 フィディピディスは殆ど意識がなく、誰に声を掛けられているのかも分からなかった。それでも誰とも分からない相手に、最後の力を振り絞って一声叫んだ。

「我勝てり!」

 フィディピディスは絶命した。

 ミルティアデスは言った。

「私の伝令を私に伝えてどうする。この役立たずめ。戦車も使わず、ずっと走り続けるなんて、何てバカなことをしたんだ。アテネ市民に早く知らせることが目的であったのに。吊るし首にでもしておけ!」

 その時、御者が口を挟んだ。

「お言葉ですがミルティアデス様。出発の際、フィディピディス様は、戦車に乗るように勧めた私に向かってこう言いました。兵士にとって一番大切なのは、上官の命令に従う事だ。ミルティアデス様が走れと言われたのだから、私は戦車に乗らずに走っていくと。」

 ミルティアデスは答えた。

「私はそのように言った覚えはない。言葉の意味を全く理解していないバカだが、しかし上官に忠義を尽くそうという言葉には、非常に感じ入るものがある。」

 隣にいた副将クサンティッポスがミルティアデスに囁いた。

「ミルティアデス様、この際彼を利用しましょう。マラトンからアテネまでひた走り、街を見て、我勝てりと一声叫んで絶命。これは民衆の心を引き寄せます。この際彼を軍神にしましょう!軍神の上官は誰か。ミルティアデス様、あなたです!元老院への道も遠くはありませんぞ。」

「クサンティッポス、気に入った。おい、御者。お前はこの遺体を戦車に載せて元老院たちの前まで運ぶんだ。そして彼がマラトンからひた走り、アテネの直前で息を引き取ったと告げるんだ。我々は1時間後に出発する。」

 翌日、亡くなったフィディピディスと将軍ミルティアデスはアテネの英雄となった。

 それから2500年後のヨーロッパ。

 クーベルタン男爵は意見した。

「あのアテネの英雄の存在なしに長距離走はあり得ない。」

「男爵、42キロはあまりにも無謀です。」

「何を言っているんだ。2500年前のギリシャ人に出来た事が今のヨーロッパ人に出来ないわけがあるまい。」

 1896年第一回オリンピック。あの屈強な古代ギリシャ人でさえ古代オリンピックの競技種目に入れなかったマラソンを近代オリンピックは陸上競技にしてしまった。

 ナイキも厚底シューズはまだ無い昔々の話である。


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