わたくしのお姉様
あの日、わたくしと兄様はお姉様に救われた。お姉様は頑なに救いではなく自己満足であると言い張るが、わたくしたち兄妹にとってお姉様は救いそのものだった。
生まれた時からわたくしより三ヶ月早く生まれた兄様しか家族がいなかった。お父様、いえ、パクストン子爵と見目麗しい使用人との間に生まれた兄様と正妻の子でありながら女であるという理由だけで冷遇されてきたわたくし。立場は違えど同じ境遇のわたくしたちは自分たちだけを家族とした。
ベビーベッドから降り這って自由に動けるようになった途端、パクストン子爵たちはわたくしたち二人を地下牢に閉じ込めた。一日に一度、使用人が運んでくる食事は簡素なもので、残飯であることは見てわかった。それ以外には、子爵とその息子、わたくしからすればもう一人の兄が日々のストレスを発散するかのようにわたくしたちを痛めつける。それが素手だったり鞭だったりとさまざまではあったが、兄様もわたくしも体のあちこちに傷をつけた。最初の頃は何も理解が出来なかったが、そんな生活が続けば、自分は捨てられたのだと認識することが出来た。時折上の方から聞こえてくる使用人の会話で殴ってくる少年が兄であること、自分にも兄様にも名前がなく「兄君」「妹君」と呼ばれていることを知った。
わたくしたちはお互いのことを「兄様」「妹」と呼びあった。
昼も夜も分からない場所で満足なものも与えられず何も出来ない日々を送った。
ある時、パクストン子爵がわたくしたちのところへ白い服をまとった男の人を伴って地下室にやってきた。なにかよく分からないことを言われたけれど、その大半を理解出来ず、気が付いたらお兄様が手を掴まれて指に針を刺された。
「いっ……」
その小さな声もわたくしにしか拾われず、兄様は必死に二人に抵抗する。しかし、子どもである兄様には何も出来ず、為す術なくそのまま兄様の血が垂れた紙を見つめた。その紙は光を放ち、何らかの紋様を映し出す。白い服の男の人は「おぉ……」と感嘆を漏らす。子爵と彼は「土」だとか「最高レベル」だとかの話をしていたが、当時は理解ができなかった。
そして、またしばらく経った頃。同じように二人がやってた。今度は自分の番であると察した。兄様もそれを理解していたのか、わたくしを守るように抱きしめる。それでもわたくしの手は引っ張られ、針を刺される。少しでも兄様に心配をかけまいと、小さな痛みに耐えた。この程度、いつもされているのもより全然痛くはない。それよりも、このことで兄様が心を痛める方が辛かった。
兄様の時と同じように、紙は光りだす。出てきた紋様を見て、男の人は驚愕の表情を浮かべた。
「大丈夫か?」
「はい」
大したことはないのに、兄様はいつも心配をしてくださる。いつもの方がひどい怪我をしているし。わたくしを庇ってわたくしよりもボロボロのはずの兄様は何でもないことのように、わたくしのことばかりを心配する。いつか、乳母が話してくれた“妖精さん”がわたくしたちを兄様を救ってくださると信じていた。
だからこそ、初めてお姉様の姿を見たときに、妖精さんだと錯覚したのだ。今でもお姉様はわたくしにとっての妖精さんで女神様に等しい存在。しかし、お姉様は大切な家族だ。
血まみれだったお姉様。正気であったらただただ恐ろしいと思えるそれも、お姉様の美しさを際立たせるだけだった。薄暗い牢屋の中で、ライトの魔法で照らされたお姉様の銀の髪は血が付着していながらも輝いていて、紫水晶のような透き通った瞳は優しさの光を携えていた。「初めまして」と紡いだ唇も神々しく、幼さを孕んだ声は大人のような落ち着きがありどこか歪だった。思わずお姉様へ「妖精さんなの?」と聞いてしまったが、お姉様はわたくしの希望を砕くと知ってそれを否定した。そして、姉になるのだと言った。
家族は兄様以外知らない。子爵ももう一人の兄も家族だと認識したことはない。わたくしたちを救って下さった方が姉となるのなら、何でもしようと思えた。お姉様からの愛であれば暴力ですらも耐えられると、むしろ喜んで受けるだろうと思った。
あの紙がわたくしの血で光ったあと、子爵は何らかの道具を渡しに当てて満足げに笑っていた。今ではそれが魔道具で、魔道具の充電器として使われていたのだと思う。お姉様であればそんな道具扱いですらご褒美として受け入れられる。
自分が異常だとは思わなかった。それがわかる頃にはこの考え方がわたくしの基礎になっていた。
「お姉様」
「どうしたの? ローリー」
フローレンス・ローリエル。お姉様がくださったわたくしの名前だ。優しい声で愛称である「ローリー」と呼んでくださるとお姉様と家族なのだと再認識できた。
あの夜。わたくしとウィルフレッド兄様が救われたあの夜、わたくしたち兄妹は久しぶりに外を見た。久々といえども、わたくしたちの記憶にはほとんど残っていない。屋敷の外に出たこともないため、疲れも忘れ、お姉様の手を握りあれは何だと質問攻めにした。淑女としてはあり得ないそれにマナーをある程度勉強した今、思い出しては頭を抱える。お姉様が嬉しそうに答えてくださらなければわたくしはお姉様の前で羞恥に顔を赤らめていただろう。
ローリエル公爵家の馬車を使って王都にあるローリエル家の屋敷にいく。数日かけてたどり着いたその家は、あの子爵の家とは比べ物にならないくらいの大きさでわたくしも兄様も空いた口が塞がらなかった。
「ウィルフレッド、フローレンス、あそこが今日から貴方たちの家よ」
「あの、アウローラ様」
「あら、家族になるのだから気楽に姉さんと呼んでもいいのよ?」
兄様が言葉に詰まる。視線を逸らしどもりながらも、お姉様に質問を投げかける。この時、わたくしたちには何もなかった。知識も技術もなにもかも。それを教えてくださるのはお姉様だけだと理解していた。
「あ、あねうぇ……」
「ええ、どうしたの?」
楽しそうに答えるお姉様と気恥しいのか一向に目を合わせない兄様。お姉様の隣で興味無さそうに腕を組み、目を瞑るグランツィアーノ様。小さな家族が出来ていく音に口元が緩んだ。
「その、ウィルフレッドとフローレンスとは何でしょうか……?」
お姉様が苦笑をこぼす。ライトの魔法で馬車の中は明るくなっているため、よくその表情が見えた。グランツィアーノ様も片目だけ開けてお姉様を見ている。正直なところ、わたくしも気になっていたためお姉様に全員の視線が集まる形となった。
「それは……」
お姉様が話そうとした時、馬車が止まる。どうやら玄関に着いたらしい。御者がドアを開けるとグランツィアーノ様が先に降り、お姉様をエスコートする。お姉様は優雅に大地に降りたって、わたくしに手を伸ばした。
「それは貴方たちの名前よ。私からの最初のプレゼント。さぁ、手を取って? 私の大事な妹、フローレンス」
「フローレンス……」
名前というものを初めて貰った。
お姉様からの大切な大切な贈り物を噛み締めて、その手を取る。まだ階段の昇り降りには慣れていないため、お姉様の手に掴まりながらローリエル公爵家の王都の屋敷に足を踏み入れた。後ろを見れば、グランツィアーノ様の手を借りて、兄様が馬車を降りている。
「ようこそ、我がローリエル公爵家へ。ウィルフレッド・ローリエル、フローレンス・ローリエル。それが今日から貴方たちの名前よ」
その声とともに、屋敷の前で立っていた多くの使用人が頭を下げる。使用人の前には室内用のドレスを纏った綺麗な女の人と手を貸すように立っている男の人がいた。
その人たちは優しい笑みをたずさえて、わたくしたちを歓迎してくださった。
「エルマリア・ローリエルよ。貴方たちの母になるわ。よろしくお願いするわね」
「ヴォルフィゴード・ローリエルだ。君たちの父親になる。よろしく頼むよ」
エルマリア様とヴォルフィゴード様はお姉様の前へ行って、労いの言葉をかけている。その様子を兄様とぼんやり眺めていた。
「おかえりなさい、アウル、グランツィアーノ」
「ただいま帰りました、お母様、お父様」
「血まみれじゃないか! 怪我は? していないかい?」
「もう、お父様は大袈裟ですね。返り血ですよ」
その光景は仲睦まじい家族そのものだった。エルマリア様がお姉様に微笑みかけ、ヴォルフィゴード様は手を握って無事を喜ぶ。自分たちは実の両親にそんなことをされた覚えはなかった。羨ましい、なんて過ぎた感情が胸を埋め尽くす。
そんな時、ふとお姉様と目が合った。お姉様はわたくしに笑顔を向けて、手招きをする。兄様と手を繋いでそちらへ向かうと、まとめて後ろから包まれた。
「これから私たちは五人でローリエル公爵一家になります。お母様、お父様、どうぞ、私たちの新しい家族を歓迎してくださいまし」
ヴォルフィゴード様とエルマリア様は顔を合わせ、困ったように笑う。迷惑なのかもしれないと兄様と繋いだ手に力を入れた。兄様にもその緊張が伝わったのか、向こうからも握り返して下さった。しかしそれは杞憂だった。
「さっき挨拶したのだけれどね」
「全く、この子のわがままなところはいつになっても変わらない」
お二人で言葉を交わし、わたくしたちに向き合う。
そして、エルマリア様、ヴォルフィゴード様は三人まとめて抱きしめてくださった。お姉様や兄様の小さな体とは違う、大人の大きな体。包容力のあるそれに安堵の息をこぼした。強張った体が和らぎ、体温に身を委ねる。そこで、張り詰めていた糸がプツリと切れた。
「うぅ……」
「フローレンス?」
お母様の口から飛び出る聞きなれない自分の名前。それを自分のものにするのには時間がかかるかもしれない。でも、名前を呼んでくださる方々がいる。名前を下さった方がいる。わたくしたちを家族として受け入れてくれる家がある。当たり前が塗り替えられる。
「うああああああああん!!!!」
「い、もう……っ」
兄様の声が聞こえた気がした。泣き叫んでいるわたくしにはフィルターがかかったようにも聞こえたが、それでも数年間ずっとそばにあったその声は、唯一の家族の声は、しっかり耳に届いた。
「にい、さまあ……!」
「妹……!!」
そして二人で泣いた。後ろのお姉様に支えられて、前にいる両親に包まれて泣いた。いつの間にか眠っていて、気がついたら朝だった。朝日を浴びると、眩しくて仕方なくて。ここまでの旅の途中で何度か朝は迎えていたが、ここまで眩しくはなかった。昨日散々出したはずの涙が目にしみる。隣にはお姉様と兄様。三人で眠れるようにお姉様が交渉して下さったのだと後から聞いた。
「おはよう。フローレンス。気分はどう?」
「おはようございます……お姉様」
この時初めてお姉様と呼んだ。お姉様は嬉しそうに微笑んで、わたくしの頭を抱え込む。ゆっくりと髪を梳かれる感触にまた眠気がやってきた。
「もう少しおやすみ、私のフローレンス」
その声を子守唄に、わたくしの意識は落ちていった。
そして、あれから半年が経った。ウィル兄様は誕生日を迎え、一足先に六歳に。ウィル兄様の誕生日を皮切りに、マナーを実践として学ぶのと同時に小さすぎる胃を広げるために三食とお茶会を続けている。その前は二食で量も調節していた。わたくしの誕生日は後少し。その一ヶ月後にはお姉様の誕生日だ。そこで、わたくしとお兄様は正式にローリエル家の一員になる。
戸籍上は既にローリエル公爵家の長男と次女になり陛下にも認めていただいているのだが、貴族社会的にはまだ家族ではないらしい。お姉様の誕生会と一緒にわたくしたち三きょうだいのお披露目をすることになった。
「お姉様、少し怖いです」
「そうね。私も社交界に出るのは初めてだから緊張しているわ」
「お姉様も緊張を?」
毎日恒例のお茶会で他愛もない話をする。どんな話題でもお姉様は楽しげにお話して下さった。今も、わたくしの弱音に真剣に向き合って下さっている。甘い香りが漂うお茶会室で、お姉様は片手を口元に当てて小さく笑う。
「もちろん。私だって人間だもの」
くすくすと上品に笑みをこぼす。隣に座っているウィル兄様が見惚れていた。
「兄様」
「っ……いや、忘れてしまうが姉上はまだ六歳なのだと思ってな」
「ふふ。少しの間、ウィルとは同い年ね」
またウィル兄様が飛んだ。わたくしはそれを横目で眺めながらぬるくなった紅茶を一口飲む。
わたくしたちの子ども社交界デビューはすぐそこまできていた。