プロローグ
────我ながら、これは酷いのではないか。
幼女は目を覚まし、物理的に頭を抱えた。周りのメイドがわーきゃーと騒いでいる中、彼女は、ため息を零したのだった。
ローリエル公爵家の四歳の娘、アウローラ・ローリエルは、両親が頭を抱えるほどのじゃじゃ馬である。
そんな彼女は、先日、勝手に厨房に入り込み、新人料理人が誤って落としてしまったバナナの皮を偶然踏みつけ、そのまま勢いよく転倒した。
頭を酷く打ち、その言葉通り、三日三晩眠り続けた。二日目には、高熱を出し、周りをハラハラさせた。
アウローラは、ようやく目を覚ましたのだ。
そう、前世の記憶とともに。
(いや、何事? そもそも、転生って……その思い出し方がバナナの皮っていいの……?)
そこで、冒頭に戻る。
前世での死因は特に覚えていない。が、それなりに黒い職場ではあったので、過労死だと思っている。
(おかしいな、同僚たちも過労死ラインはとっくのとうに過ぎ去っていたはずなんだけど)
案外自分も体が弱かったのかもしれない。そう納得して、視線を上げる。
アンティーク調の白い家具が並べられ、ベッドはフカフカ天蓋付き。ネグリジェは、肌触りのいい生地で出来ている。
前述の通り、ローリエル家は公爵家だ。まだ四歳という幼さから、このシトリン王国の歴史や現状については把握出来ていないし、そもそもの話、家庭教師による授業も始まってすらいないのだ。
アウローラが理解しているのは、自分がローリエル公爵家の一人娘で跡取り、というところまでだ。
突如、部屋に響いたノックの音で、アウローラの思考は遮断される。
「は──」
「アウルッッ!!!!」
返事もし切れず、途中で入ってきたのは、アウローラの父であるヴォルフィゴード・ローリエルだ。彼は、アウローラのベッドの近くに行くと、目を涙で潤ませながらしゃがみこんだ。
「おとうさま、もうすこしおしずかにはいってください」
「アウルが……喋った……」
その、○○が立ったー! のノリは切実に辞めて欲しい。アウローラは、笑いをこらえるのに必死だった。しかし、それもひとつの声によって背筋を伸ばすことになる。
「ヴォルフィ、アウルが困っているわ。おはよう、アウル。調子はどう?」
「おはようございます、おかあさま。もんだいありませんわ」
「そう、それなら良かった。貴方が寝込む原因となった料理人は自宅謹慎にさせているけれど、貴方が望めばすぐにでも首を飛ばせるわよ」
どうする? なんて言うように優雅に首を傾げるのは、アウローラの母であり、このローリエル家の当主であるエルマリア・ローリエルだ。
彼女が言う"首を飛ばす"とは、物理的でないことをアウローラは祈る。
「いいえ、おかあさま。だれしもしっぱいはおかすものですわ。きんしんをといて、そのままここにおいていただけませんか?」
「! ええ、分かったわ。貴方が言うのならそうしましょう。ヴォルフィ、まだ仕事が終わっていないでしょう? 戻るわよ」
「エル……僕は……僕は…………」
首根っこを掴まれ、父は引きずられていく。父も母も見目麗しく、誰もが見惚れ羨むような整った顔をしているが、家の中では妻の尻に敷かれる夫という姿をよく見かける。
父は、婿養子であり、あくまでも女公爵である母の補佐としてこの家にいるが、仕事が出来ない訳では無いのだ。ただ、残念なことに、妻と娘に頭が上がらないだけで。
「おとうさまにもこまったものね」
嵐のように去っていった両親。二人が出て行った扉を見つめつつ呟く。
すると、傍らにいたメイドがアウローラに声をかけた。
「アウローラ様、お体をお拭きいたしましょうか?」
言われてみると、身体は寝汗でかなりベトベトしていた。あとから聞いた話によると、アウローラは二日目に高熱を出して、生死をさまよったらしい。恐らくだが、前世の記憶という膨大な情報に脳が耐えられず、知恵熱として放出していたのだと考える。
そこで、アウローラは、前世と今世が混ざり合い、今世の6倍以上も人生経験と記憶が存在する前世のアウローラに引っ張られ、言葉遣い以外は前世のアウローラと同じ人物になった。
「おねがいするわ」
苦笑を零しつつ答える。
メイドは、一時退室し、桶に暖かいお湯を張り、タオルを持って戻ってきた。
大人しく拭かれている間、アウローラは思考する。
(仮にここが転生した世界だとして、前世の私はどうしたのかしら? それに、死んだとしたら、妹も残してきちゃったわ……。あの子ももういい大人だけれど、心配なものは心配よね……)
「お嬢様、終わりました。どこか気になる所などはございますか?」
「いいえ、ありがとう。あなた、おなまえは?」
すると、メイドは目を見開く。
アウローラは、その反応に首を傾げ、どうかしたのかと聞いた。
「い、いえ……アウローラお嬢様が一介のメイドにそのようなことをお聞きになるとは思わず……。失礼いたしました」
流石はプロ。取り乱したものの、すぐに気を取り直す。桶のふちにタオルを掛け、アウローラに向き直った。
「私はアウローラお嬢様お付きのメイド、サリナにございます。誠心誠意、お仕えさせて頂きますので、どうぞ、よろしくお願い致します」
「さりな、ね。おぼえておくわ。めいわくをかけるかも……というか、もうかけているのだけれど、これからもよろしくおねがいするわ」
「っ……アウローラお嬢様……ありがとうございます……!」
どこに感謝される要素があったのか到底分かりはしなかったが、とりあえず微笑みを返しておいた。
安心したのか、幼さ故か、アウローラの瞼は徐々に下がっていく。
有能なメイドであるサリナは、その様子にいち早く気づき、小さな主を優しくベッドに寝かす。
すぐに寝息を立てて夢の世界へ飛び立ったアウローラを、彼女は優しく見つめた。
(どうか、この賢くお優しいお嬢様が、健やかに育ちますように)
そんな願いを込めて、部屋を出たのだった。
・・・・・・・・
「それにしても、驚いたものね」
深夜。ローリエル家の公爵夫婦の寝室にて、彼らは晩酌をしていた。
「なにがだい?」
ワイングラスを傾け、グラスの先にいる夫に話しかける妻は、心底楽しそうに笑っている。
そんな妻の様子を夫も物珍しそうに、そして、喜色を交えた表情で見ていた。
「アウローラのことよ」
「そうだね、僕はアウルがバナナの皮で滑って転んで寝込んだって話が一番心臓が止まるかと思ったけれど」
「我が娘ながら情けないわ……」
「まぁまだ四歳なのだから、活発でいいじゃないか」
ヴォルフィゴードが朗らかに言うと、エルマリアはグラスの中のワインを一気に飲み干し、眉間に皺を寄せながら訴えるように言った。
「そうよ、まだ四歳なのよ?」
「うん? そうだね」
全く話が掴めていない夫に、彼女は掴みかかりそうな勢いで話し始めた。
「普通なら"首を飛ばす"と言って、理解出来るはずがないわ。まだ四歳よ? それを理解し、さらには自分の一言でその料理人の人生が決まることまで分かっていた。おかしいのよ。まだ何も教えていないのよ?」
「将来この公爵家を継ぐのだから、それくらい賢い方が───」
「だからあなたはへっぽこなのよ!!!」
────バンッ!
激しい音を立てて、エルマリアが机を叩くと共に立ち上がる。
ビクリとヴォルフィゴードの肩も揺れるが、そんなことは一切気にかけない。
「いい? これは大問題よ。誰かがあの子に近づいて、人知れず教えているに違いないわ」
「そ、それこそ有り得ない話じゃないか? このローリエル家は、王城にも匹敵するほどの警備力で……」
「その慢心がいけないのよ。これは警備体制を改めるしかないようね……。それとも何? あなたは、突然アウローラが大人の記憶を持って、そう、それこそ誰かの生まれ変わりで、大人の知識があるとでも言いたいの?」
「ま、まさか!」
物凄い妻の剣幕に、気が弱い夫は両手を顔の前で振り、その動きとともに頭も横に振るしか無かった。
二人とも、その馬鹿げた話が本当だとは露にも思っていないのだろう。
「はぁ……ともかく、様子見をしましょう。そうね、少し早いけれど、家庭教師と……あの子を呼びましょうか。本来はもうすこし大きくなってからと思っていたのだけれど」
椅子に座り直し、冷静にエルマリアは言う。ヴォルフィゴードもそれに同意するかのように、真剣な顔をして頷いた。
「僕も賛成だよ。でも、あまり危険なことはダメだからね?」
「あら、それはあの子次第よ」
女は整った顔を存分に使い、怪しげな笑みを浮かべる。
かくして、警備部長の理不尽な仕打ちと、アウローラの新たな人生は幕を開けたのだった。