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【分類外】作者のお気に入り

まだ見ぬ夫を愛さなければならない花嫁は、心を盗まれることを望む

作者: 仁司方


 子爵の邸宅――とだけ聞いたなら、片田舎のひなびた領主館なり、ささやかな城壁に囲まれた小都市の一隅に建つ古めかしい屋敷、その程度のものが思い浮かぶのではなかろうか。


 だが、カーライル子爵邸は白亜の巨城であった。本丸のみならず複数の楼塔(キープ)がそびえ、前庭も中庭も広大で、湖まである。それらを堅固な城壁が取り囲んで、あたりの山野から敷地を峻別していた。


 大貴族とはいえない子爵の持ちものとしては、あまりに不釣り合いな豪壮たる構え。


 城のみならず、豊かで広大な領地と、莫大な関税収入をもたらす港湾都市もまた、カーライル子爵の掌中にあった。

 八代に渡って細々とつづいてきた、名ばかりの貴族カーライルは、現当主となってから十年たったいま、こう呼ばれている。

「子爵王」カーライルと――


    +++++


 カーライル子爵邸の西翼の端、湖の上に突き出たアーチ状の空中回廊の先につながる空中楼閣の最上階、その一室の窓が、外部から開かれた。

 窓枠をくぐって、黒い人影が、音もなく床へ降り立つ。


 土台もなく、西翼から伸びる回廊のみに支えられているここまで、どうやってやってきたのか。空でも飛んできたのか、ヤモリのように外壁に張りついて這い進んできたのか。


 室内を見回しかけた侵入者の先手をとって、鈴を鳴らすような声が出迎えた。


「ようこそお越しくださいました。レイ=インヴィジブルですね」

「お招きにあずかり参上いたしました、レイです。不可視(インヴィジブル)というのは、自称した名乗りではないですけど」


 鈴を鳴らすような声の主は、ゆたかに波うった金髪、愁いを帯びたあかつき色の眼、いささか心配になるほど血色が薄い、(しろ)(はだ)の美女だった。整った眉目、すらっととおった鼻筋、やはり血の気が薄いくちびる。


 レイと呼ばれたほうは、うやうやしくひざをついて美女に敬意を表した。長身痩躯で、黒ずくめの格好。頭を包む蓋布で髪の色はうかがえないが、眼は闇夜の空のようだった。忍び込んできたのではなく、呼び出されてやってきたものらしい。

 隠密仕事向きの格好をしていたが、秀麗な(おもて)を、不敵にもさらけ出している。


「城内のだれにも感づかれることなく、簡単にこの部屋までやってくるとは、あなたの腕前は評判どおりのようですね」

「痛み入ります。ところでオフィーリアさま、僕のような無頼の輩を、子爵王とまで呼ばれるほどのお人の奥方さまが、なにゆえにお呼び立てなされたのでしょうか?」


 単に呼び出したのではなく、実力をたしかめる試験でもあった、とこともなげにいう美女――オフィーリアに対し、レイは屈していた身を伸ばしながら問うた。

 頭ひとつ高いところから浴びせられた遠慮ない視線を、オフィーリアは眉ひとつ動かすことなく受け止めた。


「あなたは、どんなものでも盗む、と聞きました」

「まあ、いまのところ、盗めなかったものはないですね」

「人の心すら盗めるそうですね」

「……だれがそんなことを」


 眉根を寄せることになったのは、レイのほうだった。

 たしかにレイは伝説の怪盗アルティールの(わざ)を受け継いでおり、最高の奥義も伝えられている。しかしそのことを吹聴などはしていないし、使ったこともなかった。

 なぜ裏社会とは縁遠いはずの貴族の娘が、影の世界に生きる怪盗の秘密を知っているのか。


 あかつき色の眼をしたオフィーリアの薄い笑みは、夜明けの陽を、かすかにけぶらせる朝靄のようであった。


「わたくしの実家には、古いことに詳しいものがおりますので」

 

 オフィーリアの実家は、ロートリングル侯爵家だ。侯爵家から子爵家への嫁入り――カーライルの権勢のあらわれの一環といえよう。


 侯爵家に仕える情報屋であれば、アルティールの奥義を耳にした可能性はあるかと思いながらも、レイは最前の不敵な視線と口調を取り戻すことはできないでいた。


「オフィーリアさま……いえ、奥方さまとお呼びしましょう。奥方さまは、いったいどなたの心をお望みなのですか?」

「わたくしの」

「……は?」


 即答したオフィーリアの言葉の意味がわからず、レイは目を白黒させることになった。

 さきほどまでの、仮面のような無表情や作った笑みに比べればずっと人間的な、いたずらっぽい顔でオフィーリアはきびすを返した。


「ちょっと長いお話になります、お茶でも飲みながらにしましょう。寝所にはだれも入らないよう、厳しく申し渡しているので、従者がおりませぬゆえ、あまり美味しいお茶は淹れられませんが」

「ああ、それなら、僕が淹れましょう。おそらく、奥方さまよりは淹れ慣れているかと」

「……悪いけれど、おねがいできるかしら」


 侯爵家の箱入り娘として育てられ、子爵としては破格の財力と権力を得たカーライル家に嫁がされたオフィーリアは、やはりお茶淹れには自信がなかったか、素直に、レイに任せた。


 レイが淹れた紅茶をひと口飲み、オフィーリアは感歎の吐息をつく。


「おいしいわ」

「泥棒もお茶くらいは飲みますからね。泥棒の家には従者もいませんし」


 ティーカップをソーサーへ戻し、オフィーリアは本題を切り出した。


「あなたに、わたくし自身の心を盗んでいただきたいというのは――」


    〜〜〜〜〜


 わたくしは、こうしてカーライル子爵のもとに嫁いできてはいますが、いまだに夫とは一度も顔を合わせていないのです。結婚式は、代理人どうしですませています。


 ええ、貴族にはときどきあることですわ。さすがに、輿入れ先の邸宅に妻が到着しているのに夫が会いにこないというのは異例ですが。理由はあるのです。夫は現在軍務に当たっていますので。

 子爵でありながらこれほどの城を構えている理由でもあります。……ああ、戦地の近くを通りかかったことがありますのね。そうです、ノゴダウの、ダスフィング公の継承地争いの件ですわ。もう決着はついていて、あとは先方の面子がどうにか立つよう体裁を整えれば、講和条約の署名式が開かれるそうです。


 そうなれば、夫は帰ってきます。凱旋すれば、位階も、所領とこれまでの功績にふさわしいものになるでしょう。

 爵位を買ってほしいという声は多くかかっているそうです。王は王で、あらたな称号の創設に乗り気だとか。もちろん王も、目あてはカーライルの持っている財力と武力です。


 つまり、ロートリングル家としては、なんとしてもカーライル子爵の好意を得なければならないのですわ。わたくしは、どんな手段を用いてでも、夫に愛されなければならない。


    〜〜〜〜〜


「……それで、僕をお呼びになったと」

「そのとおりですわ」


 話を聞き終えたレイが問うと、涼しい顔で、オフィーリアはうなずいた。


 教皇の至聖宮にも、皇帝の禁城にも敬意を払うことなく秘宝をちょろまかしてきた、無頼の盗賊を引き入れてこの態度。怖いもの知らずなのか、世間知らずなのか。両方か。


「カーライル子爵の心を盗んでこいというならまだわかりますが、どうして奥方さまご自身の心を()れとおっしゃるのですか?」

「もしあなたがカーライルの心を盗み出したとして、万が一にも第三者の手に渡るようなことがあったら、せっかく夫を中心に再編されかかっているこの国がまた乱れてしまうでしょう。わがロートリングル家にとっても、必要なのはカーライルの手腕であり、彼がもたらしつつある安定です。わたくしの心であれば、仮にカーライルの手に届かずどこかにいってしまったとしても、そこまでの影響はありませんから」

「……奥方さま、それだけのお覚悟があるならば、カーライル子爵を単に迎え入れればよろしいのではありませんか? たとえ本心からの愛ではなくとも、お国とお家のためならば、あなたはそういうことができるかたのようですが」

「だめなのです、それでは。わたくしは心からカーライルへの捧げものでなければいけない」


 今度はうつむいたオフィーリアに対し、レイは小首をかしげることになった。政略結婚だと認識しているのであれば、割り切ればすむことではないのか。


「奥方さまが、こうして城の中心部から離れた小部屋を与えられているのは、カーライル子爵があなたを冷遇しているからではなく、むしろ大切にされているからだと思いますが。城内には、奥方さまの身を狙う他家のエージェントが多く入り込んでいます。陣中にあるカーライル子爵のもとにも、夜ごとに美姫が送り込まれているとか。けれど子爵は、すべてにべもなく追い返しているそうです」

「ここにも、噂は聞こえてきています。だからこそ、わたくしはうわべであってはならない」

「自らの意志なく心を差し出すというのは、うわべの一種だと思いますが」


 レイの指摘に、オフィーリアはくちびるを噛んだ。


「……わたくしの事情は、あなたに関係ないはずでしょう」

「僕は師から、本当にほかの手段がない場合をのぞき、奥義を使ってはならないと戒められていましてね。これまでの奥方さまの話を聞くかぎり、カーライル子爵へあなたの心を直接差し出すのが唯一の手立てだ、とは思えません」


 そういってレイが肩をすくめてみせると、オフィーリアはしぼり出すように、隠していた胸の内を言葉につむぎはじめた。


「わたくしの、心には……もう、引き離すことのできないひとがいるのです。どうやっても忘れることができない。こんな気持ちを抱えたままで、カーライルと顔を合わすことはできません。まだ直接会ってもいないわたくしに、カーライルが誠意を持ってくれているということはわかっています。だから、わたくしに不純な心が残っていてはいけないのです」

「つまり、奥方さまにはすでに愛を捧げた殿がたがいらして、しかしロートリングル家のために、そのかたと別れてこちらへ嫁いでこられた、と」

「……いえ、そこまでの仲だったわけではありません。言葉を交わしたのも数えるほどです。でも、あのときのわたくしにとって、なによりも救いになってくれた」


 レイはカップを口に運んで、一度間を取った。虚空を見つめるオフィーリアの(かお)には、懐かしさと思慕の念、そして罪悪感が入り交じっている。


「そのかたの顔や声は、ご記憶にはありませんか?」

「ほんの子供のころでしたから。それに、当時のわたくしは、目がほとんど見えなかったのです、悪性の熱病で。いまも、明るい陽の光の下では、あまりよく見えません。ここのように、薄暗いところのほうが楽なのです。声はよく憶えていますけれど……」


 そういうオフィーリアへ、レイはふところから取り出したなにかを示した。淡い青色の璧玉――宝石や貴石と異なるのは、内側から光を放っていることだった。椅子を立ってオフィーリアのかたわらへ歩み寄り、璧玉を差し出す。


「とあるかたからお預かりしてきたものです。どうぞ、お手を」

「いったい、なに……?」


 不思議そうに手を伸ばしたオフィーリアだったが、璧玉が手のひらの上で輝きを増すと眼を(みは)った。


 ほつれた金髪と、焦点の定まらぬあかつき色の目、肌の赤みは熱によるもので、血色そのものは薄い少女が眼前に現れた。


 これは、わたくし……?


 ――そう、過去の記憶です。


 レイの声はどこか遠い。


 つづいて聞こえてきたのは、オフィーリアの心から離れたことのない、あの声だった。


『だいじょうぶかい?』

『ここ、どこ……』

『治癒院から抜け出してきちゃったのかな。ときどきあるみたいだね、熱にうなされて、身体が勝手に動いちゃう。戻ろうか』


 腕が伸びて、幼いオフィーリアを抱え上げたが、しばらくして、地面へと再びおろした。少女に背を向け、視点が下がる。


 これは、()()()()の記憶だ――


『つかまって。落ちないようにね』


 視野の主はオフィーリアをおぶって、緑の丘を越え、白い壁の療養棟へ近寄っていく。

 血相変えて建屋の周囲を行き交っていた大人たちが、ゆっくりと歩いてくる少年の背にオフィーリアがもたれていることに気づいて、走り寄ってきた――


 ……場面が切り替わり、今度は療養棟の中、ベッドに横たわるオフィーリアが視界に映っていた。


『ぼくは、今日でここを離れなければいけない。元気になってね、オフィーリア』

『また会える……?』

『きっと会える。元気になれば、すぐにでも』

『……迎えにきてくれる、わたしを?』

『ああ、かならず、迎えにくる』


 ――過去を再生した璧玉を握りしめ、オフィーリアは涙を流していた。


「わたくしはあのとき、気がついていなかった。ぼんやりとしか見えていなかったけれど、彼が着ていたのは、黒い服だった……」

「ええ。彼が治癒院の近くにいた理由は、お母さまのお見舞いのためでした。お母さまは治療の効むなしく亡くなり、彼は帰ることになった」

「なぜ、あなたが彼の記憶を持っているのですか?」

「古い知り合いなんです。僕が、奥方さまから手紙が届いたことを話したら、ではこれを渡せ、と。心を抜き取る(わざ)に比べれば、記憶の引き出しからちょっと一場面を拝借するのは簡単でしてね」


 レイはこともなげに玄妙な奇術を語ってみせた。オフィーリアは、過去の郷愁を振り払った、明晰な眼で口を開く。


「あのひとは、いま……いえ、知っても詮なきことですわね。記憶は拭えないけれど、病弱なわたくしを迎え入れてくれたカーライルを裏切るつもりはありません。わたくしの心を持って、夫のもとへ向かってください」

「奥方さまの心を、僕が素直にカーライル子爵へ届けるかどうか、お疑いにはならないのですか?」


 おもしろげに問うたレイに対し、オフィーリアはさしておもしろくもないといいたげに応じる。


「あなたの仕事ぶりに関しては調べさせてもらいました。一流だわ。一流は、自分の仕事をおとしめることはしないものよ」

「たしかに僕は、着手した仕事をかならずやり遂げることで、若輩ながら悪名を得ました。ですが、奥方さまからは『依頼の話をしたいので、カーライル子爵邸の一番西、最上階の部屋までくるように』という、お手紙を受け取っただけです。まだご用向きをうかがっている段階で、引き請けるとお約束はしていませんが」


 オフィーリアは柳眉をひそめた。


「……あのひとから、わたくしの心を盗んでくるようにと、依頼を請けているというの?」

「いいえ、彼のかたからは、あのときの思い出を奥方さまへ届けるようにとだけ」

「それでは、どうしてわたくしの心を持っていってはいただけないの?」

「ひとつには、やはり奥義の禁を解くほどの、やむをえぬ事情だとまでは認められないということですが、ふたつには、そもそも必要がないからです」


 レイが指を二本折ってみせると、オフィーリアは目を伏せた。


「わたくしは、このさきずっと罪悪感を抱えて生きていくのが妥当だとおっしゃるのかしら。……熱にうなされていたときに手を差し伸べてくれた、名も知らぬかたから心がどうしても離れないというのは、くだらない悩みだと思われても仕方ないかもしれないけれど」

「気がつかないものですかね……? もうひとつ記憶をお預かりしています。こっちは、どうしてもという場合以外は見せないようにいわれていたのですが」


 肩をすくめてそういい、レイはほのかな茜色に光る璧玉を取り出した。青い璧玉に代えて、オフィーリアに握らせる。


 ――映し出されたのは、ベッドの上で意識なく眠るオフィーリアだった。熱禍に囚われ、にじみ出る汗でひたいに後れ毛がまといついている。


『きみはロートリングル侯家の娘さんなんだってね。お姫さまだ。ぼくは最初、天使なのかなって思ったけど』


 手が伸ばされ、オフィーリアのほおをなでた。熱の感覚も、伝わってくる。


『こんなにきれいな子が、どうしてひどい目に遭わなきゃいけないんだろうね。熱病をまき散らすのは嫉妬した魔女だっていうのは、ほんとうなのかな?』


 ハンカチでオフィーリアのひたいの汗を拭いながら、少年の声はつづく。


『子爵じゃ、ちょっと格が足りないか。でも決めた、きみをお嫁にしてみせる。カーライル家にだれも逆らうことができないようにして、もしきみがほかのだれかのものになっていたら、奪い取ってでも。だから、早く元気になるんだよ、オフィーリア……』


 ――過去の光景が消え、オフィーリアの顔に残っていたのは困惑だった。


「これって……」

「そのままです。カーライル子爵テオドールが立身を志した理由は、母の見舞いで訪れた治癒院で出会った、美しい少女にひと目惚れをしたから。彼女がロートリングル侯爵家の娘だと知って、娶るにふさわしいだけの実力を示さんと、その一心で、十五の歳で家督を継いでから十年かけ、荒れた丘ひとつだった領地を五千倍に、自分ひとりだった兵は五万に増やし、子爵でありながら国内筆頭の勢力に成りおおせた」

「……冗談でしょう?」


 真に受けることができないオフィーリアだったが、レイは苦笑して首を振る。


「いいえ。『子爵王』から娘をよこせといわれたロートリングル侯は、最初あなたの妹御であるソフィーさまの名を挙げたそうです。激怒したカーライル子爵に、あやうく斬り殺されるところだった」


 オフィーリアにも、カーライル自身が強く望まない限り、彼女自身が妻として選ばれることはないのだと、ようやく事態が呑み込めてきた。


 父であるロートリングル侯爵は、如才ない人物だ。カーライルから娘を所望されて迷わずソフィーの名を出したように、こちらから「子爵王」のご機嫌うかがいをするのであれば、病弱なオフィーリアを送り込もうとするわけもない。


「では、わたくしは最初から、カーライルと……」

「そういうことです。――いや、奥方さまが心囚われているひとというのが、治癒院で出会ったときのカーライル子爵とはべつのだれかだったらどうしようって、途中まではドキドキしてました」


 そういって茶目っ気混じりに笑うレイの顔を、オフィーリアはおどろいて見返すことになった。


「あなた……」

「最初から、無意識のうちには気がついておいででしたよ、奥方さま。僕のことをぜんぜん警戒していなかったでしょう」

「そういえば、そうね。ありがとう、レイ。……わたくしは愚か者ね、最初にそばにいてくれたひとが、約束を果たしてくれていたのに、気がつかなかった」


 自嘲気味にそういうオフィーリアへ、レイは苦笑してかぶりを振った。


「ずっと熱にうなされていたんです、仕方ありませんよ。テオが無神経なんです、病で弱っている女の子が寝込んでいるところに忍び込むわ、枕元で嫁にするだなんだと吹き込むわ、意識がもうろうとしている相手との約束が有効だと思いこむわ。……ったく」


 やれやれ、と両腕を広げるレイへ、椅子を立ったオフィーリアが手を差し伸べた。

 レイが屈託ない笑みで手を取ると、オフィーリアは身を寄せて抱擁する。


「ほんとうに、ありがとう」

「もったいないお言葉です。いずれまた、お目にかかる機会もあるでしょう。……おしあわせに」


 ひざを屈してうやうやしく一礼し、レイは窓から去っていった。


 その手と指はオフィーリアと同じく細くたおやかで、その肩と背は華奢であった。


    +++++


「――で、けっきょくどっちも見せたのか?」

「ああ、きみがオフィーリア嬢の寝ているすきに忍び込んで、かわいいおでこをいやらしい手つきでなで回すところもね」


 レイが応じると、テオドール・デシャン=デ・カーライルは自分の髪をかき乱した。


「……あーもう、どうしても必要なとき以外は見せるなっていったのに」

「オフィーリア嬢は、治癒院にいた少年ときみが同一人物だって、まったく気がついてなかったんだから仕方ないだろ。彼女の目が当時ほとんど見えてなかったって、知らなかったのかい?」

「わからなかったな……。すごくきれいな眼だとしか思わなかった」

「病弱な深窓の姫君はともかく、この迂闊者が、初恋の相手を十五年も執念深く想いつづけた果てに射止めるとか、神と悪魔は仕事してんのかね?」


 レイは完全にからかう口調だった。国王ですら、カーライル子爵と会見するときは背筋に汗が流れずにはいられないといわれているのだが。


 いまのカーライルに、万民を震え上がらせる覇王の面持ちは微塵もなかった。


「オフィーリアがおまえのことを知っていて、しかも呼び出しの手紙を送ってきたと聞かされたときの、俺の気持ちがわかるか?」

「いや聞かされたから。繰り返さなくていいから。オフィーリア嬢は病弱な自分に結婚の話はこないだろうと思っていて、侯爵邸の一室で、治癒院で出会った少年の思い出だけを胸に生きていくつもりだったんだ。そこへ現れた暴君『子爵王』カーライルが、本当に迎えにきた約束の相手だとは思わないよ。それでもロートリングル家のために、自分の気持ちを殺して暴君に尽くさなければならないと覚悟を決めてのことだった、いじらしいじゃないか」

「オフィーリアが俺のことを忘れていたらどうしようって……ここ三日、一睡もできなかった」

「明日調印式なんだろ? 寝ておきなよ。講和条約さえ発効すれば、王都に凱旋するのは後回しでいいさ。彼女に早く顔を見せてあげなって」

「……すまん、ちょっと休ませてもらうぞ」


 といって、カーライルは長椅子に横たわった。ここは本陣として徴用している小都市の教会だ。野戦陣地よりはマシだが、国一番の実力者の寝室としては粗末なものである。


 数日以内に、子爵王の素顔を知る唯一の人間という特権を失うことになるレイは、寝物語がてらに話をつづけた。


「僕もまあ、オフィーリア嬢の心に住み着いてるのが昔のきみだって確信するまで、ちょっとハラハラしたけどね。奥義のことを知られてたのもおどろいたし」

「……もし、オフィーリアの心がほかの男のものになっていたら、奥義を使ってくれたか?」

「うーん、どうかな。それだと、きみは満足しなかったんじゃないの?」

「そうかも……しれ……」


 言葉じりを寝息に変えたカーライルへ、レイはブランケットをそっとかけた。寝顔は昔と変わらない、と、われ知らずほおがゆるむ。このさきカーライルの寝顔をずっと目のあたりにするオフィーリアも、少年の日の彼の寝顔だけは見たことのないものだ。

 まあ、レイの記憶を貸せば、オフィーリアにも見ることはできるが。


「さすがにそこまでのサービスはしないよ」


 至聖宮にも禁城にも、レイは秘宝を盗み出すために侵入したわけではなかった。宝物は真の目的を知られぬようにするためのカモフラージュであり、教皇と皇帝の秘密を握ることは、カーライルの覇道の第一歩を長足とした。


 貧乏貴族の倅が熱心に語る、治癒院で出会った美しい少女の話と、彼女を娶るためだけに、四分五裂した王国を再統一する計画――怪盗の弟子だったレイは、最初は単なる与太話として耳を貸し、次第に、テオドール少年ならば未来を切り開けると、その器量を本気で信じ、手をも貸すようになっていった。


 知らず知らずのうちに、彼女自身、テオドールへ強く惹かれるようになりながら。


 テオドールに協力するうちに、結果的に難攻不落の金城鉄壁を複数陥とし、師からも認められたことで、レイは伝説の怪盗アルティール、その最高の奥義を授けられた。もちろん、濫用を厳しく戒められてはいたが、どんな人間でも意のままに操ることのできる力だ。


 それでもテオドールの態度が変わることはなかった。もはやレイが裏工作を弄する必要はないほどカーライル子爵の権勢は確固たるものになっていたが、用済みになった上に危険な力を持つ怪盗を邪険にすることはなく、むしろ、高い地位に昇るにつれ気の許せる人間は減っていくと、本心を明かすのはレイの前だけになった。オフィーリアへの想いも、相変わらず隠そうとせず。


「……まったく、きみはバカ正直だけど、僕もそうとうにバカだな」


 ひとりごつレイの顔には、乾いた自嘲の嗤いが浮かんでいた。


 彼女が惚れたのは、傍若無人でありながら繊細で、無軌道でありながらずっとただひとりの想いびとを追いつづけ、純粋な少年のまま走るテオドールだった。

 レイがその気になれば、もちろん子爵王であろうと心を盗むことも造作ないが、しかし、盗んだ心で得たテオドールは、彼女が愛した純粋な彼ではなくなるのだ。

 けっきょく、母を(うしな)う過程で出会った、あかつき色の眼をした少女への恋を動機に、覇道へ踏み出した貧乏子爵の跡取り息子――この総体から、どの要素が抜け落ちても、自分の愛したテオドールではないということを、レイは認めるしかないのだった。


    +++++


 救世主にして王国と王家の擁護者カーライル公テオドールの公開結婚式は、国をあげ、三ヶ月にも渡って執り行われた。婚姻自体は成立していたが、カーライルの多忙ゆえ、新郎新婦がそろっての式はまだ挙げていなかったのである。


 名ばかりの王家にもはや統治の重責を担う力が残っていないことはだれの目にも明らかであり、平和裡にカーライル朝へ権力が移行するものと思われたが、テオドールは愛妻オフィーリア以外の女に触れようとはせず、その息子フェリクスが王女ソニアを娶るまで、カーライル公はあくまでも王家の後見役であった。


 花嫁オフィーリアの介添えについていた、輝くばかりの銀髪と、対照的に黒い眼をした長身の美女は何者なのか、参列者も市井の人々もしきりにうわさ話を語り合ったが、新郎新婦のほかにその正体を知る者は、地上にはあとひとりしかいなかった。



    ――了




思い立ったプロットどおり、100%計画のまま書き上がったはずなのに、なんか気がついたらメインカップルじゃなくて、狂言回しでキューピッド役の怪盗レイちゃんに心情全振りしてました……。

小説書くと己のゆがみが炙り出されますね。

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