ふたりのこれから
黒竜は指輪をゴシゴシと水洗いする。
「もう……ばっちいなあ……」
指輪は赤竜の体内から取り出された時は消化液や食べたものと混ざってドロドロだったのだけど、水で洗い流すと綺麗になった。
部屋の隅のベッドでアリシアは苦しそうに横たわっていた。
これが本来の彼女だ。
病弱で、外に出ることもできずただ命が尽きる時を待つばかり。
黒竜は洗い終わった指輪を持ってアリシアのそばに行く。
「アリシア……大丈夫? 今楽にしてあげるね」
前足の爪が当たらないように気を付けてアリシアの髪をひとなでしてから、黒竜は指輪をクンクンと嗅いで顔をしかめる。
洗ったけれど、少しまだ匂いがする……。
口に入れるには抵抗がある。それでも背に腹は代えられない!と口に運ぼうとしたところで、黒竜の前足をアリシアが手で握って止めた。
「……黒竜様……やめて下さい。黒竜様が病弱になる必要なんて……どこにもないです」
か細いアリシアの声に、黒竜は首を振る。
「さっきも言ったでしょ? 僕は君のことが好きなんだ。僕は竜よりも人が好きな変な竜なんだよ。竜ときたらあの通り会えばケンカばっかり。……僕はそんなのが嫌で一人でいた。でもそれはとっても寂しくて、たまにこうやって人間を呼んでは僕の寂しさに付き合ってもらっていたんだ」
目を細めてアリシアを見つめる。
人間は弱い。でも竜にはないものをたくさん持っている。黒竜にとってはそっちの方がうらやましかった。
どうして人間に生まれなかったんだろう、と何度も思った。
「寂しさに比べれば、痛いのも苦しいのも全然辛くない。……だから、君さえよければ僕にもう少し付き合って? ……少しでいいんだ。君が嫌になったらいなくなっていいから。これまでの『花嫁』だってそうだったからね」
アリシアは目を見開く。
その顔はくしゃりと歪み、涙がこぼれた。そして泣きながら黒竜の体をぎゅっと抱きしめた。
「わたしは……わたしももう言いました。わたしはあなたと一緒にいたい。あなたに寂しい思いなんてもうさせたくない。……でも苦しむところだって……見たくないんです。それは自分が苦しいのよりずっと辛いんです。だから……もう、どうしたらいいかわからない……」
アリシアは黒竜の腹に顔をうずめて肩を震わせる。
黒竜は「うーん」と天を仰いで考えた。
そして、
「じゃあさ、僕が苦しくなかったら一緒にいてくれるってこと?」
黒竜は小首を傾げる。
アリシアは呆けた顔で黒竜の顔を見上げる。
「え……ええ……」
「じゃあ僕、苦しいの我慢してないで薬飲むよ。それでいいでしょ?」
黒竜はにんまりと笑って言った。
「え?」
「さっきの霊薬、あれを飲めば元気になるから」
「え? え? え?」
アリシアは頭がついていかなくて混乱してしまう。
「よし、それで決まりだね!」
黒竜は一人頷いて、指輪をポイっと口の中に放り込んでゴクリと飲みこんだ。
続いて霊薬をゴクゴク飲む。
ようやく理解が追いついたアリシアが怖い顔で黒竜をにらむ。
「……黒竜様」
(ああ、怒った顔も声も可愛い)
のほほんと黒竜はアリシアを眺める。
「ならなんで最初っからお薬飲まないんですか!?」
アリシアは今まで生きてきた中で一番真剣に怒った。
「あ、元気になったね、良かった」
黒竜はさわやかに笑う。
「黒竜様!」
「えー、だって僕病気になるのって初めてだったしー? アリシアが僕のこと甘やかしてくれるのもうれしかったしー」
黒竜はニコニコしている。
「そんなの……! 病気にならなくったってできます!」
アリシアは拗ねてそっぽをむく。
「本当?」
黒竜はぱあっと目を輝かせてアリシアに迫った。
尻尾がパタパタとうれしそうに揺れる。
「ほ……本当……です……」
改めて念を押されるとちょっと詰まってしまう。
アリシアは黒竜のキラキラした瞳を正面から受け止められずに目をそらす。
「じゃあ、甘やかして?」
黒竜は満面の笑みで言った。
そんな風に言われるとアリシアは困ってしまう。
「ど……どうやって……?」
今までは両親の真似をして看病していただけで、普通の甘やかしなんてどうすればいいのか分からない。
黒竜はまかせてとばかりにニコニコしながら説明を始めた。
「えっとねー、じゃあまずは僕がここに座るでしょ?」
黒竜が床にドカッとうつぶせで座った。
「はい」
「で、君はその前に座って」
「こうですか?」
黒竜の腹の前にちょこんとアリシアが向かい合わせで座る。
「いや……これもいいんだけど、反対反対」
アリシアを前足で抱きあげてぐるんと向きを変える。
「うん、完璧」
後ろ抱きしめポーズが完成して黒竜は満足げな笑みを浮かべる。
黒竜は前足でアリシアを抱きしめてそのままじっと動かなくなった。
「…………。……ええと……あとはわたしは何をすれば?」
アリシアは戸惑って頭を後ろにそらせて黒竜を見上げる。
「何にもしなくていいよ。……ただ僕のそばにいて」
黒竜はそうささやいて、アリシアの顔に頬を寄せた。
アリシアは黒竜の顔を優しくなでる。
(この人は……本当に寂しい人なんだわ……)
『ずっと一人』なんて、アリシアには想像もつかない。
――少なくともアリシアには両親がいた。
病気がちな自分の事をずっと『宝物』と言ってくれて、頭をなでて、手を握って、抱きしめてくれた。
『竜の花嫁』になろうと思ったのは、きっと死ねばまた両親に会えると思ったからだ。
最後にみんなのためになることをして、あの世で両親に褒められたかった。
でも本当はそんなのより、両親が生きてそばにいてくれる方がずっとずっと良かった。
気持ちよさそうに目を細める黒竜を見ていると、胸がギュッと締め付けられた。
(どうしてこんな優しい人が寂しい思いをしなきゃいけなかったの?)
そんなの理不尽だ。
自分が生まれついての病弱だったのと同じように。
竜だからというだけの理由で。
アリシアはたまらず黒竜の顔を抱きしめた。
「これからはずっとわたしがそばにいます」
この優しい竜を寂しさから守ってあげたい。
「うん」
黒竜の目に涙が滲んで、鼻がスンと音を立てる。
「いっぱい楽しいことしましょうね?」
楽しいことやうれしいことで心をいっぱいに満たしてあげたい。
「うん」
黒竜の目が閉じられ、涙が一筋流れた。
「一緒にいろんなところにも行きましょう」
二人でならどこに行ったって楽しいに決まってる。
「うん」
黒竜の涙をぬぐってあげる。
「おいしいものもいっぱい食べるんです。忙しくなりますよ? 寂しがってる暇なんてなくなっちゃいます」
アリシアはニコッと笑って立ち上がる。
そうとなれば座ってなんていられなかった。
「さあ、行きましょう」
黒竜の前足を引く。
「えっ? 今から?」
黒竜もつられて立ち上がる。
「だって待ちきれないんです!」
アリシアははじけるような笑顔を見せる。
二人は歩き出す。
外は快晴。
黒竜の呼んだ雲だってもうどこにもない。
まずは何をしようか?
二人は微笑み合う。
――二人の生活はまだ始まったばかり。
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