赤
大学の夏休み最後の、少し暑い日。
近くの海がさざめく音、自動車が行き交う音、そして彼女であるナツの甘ったるい声が、俺の耳に届いている。
けれど俺はスマートフォンを操作している最中なので、彼女に返事をしない。
「ねえねえ、早くいこうってば」
ナツは俺の腕にすがって、目的地へと急かしている。
九月に海へ行っても、ただ散歩するだけなのに。
《――どうなの、最近》
(――マンネリ)
《――えー。ナッちゃん可哀想》
俺が片手でこんなやりとりをしていることを、ナツは知らない。
ナツと俺は大学で知り合った。付き合い初めてから、もうすぐ一年半になる。
赤い口紅をつけた綺麗な女性に、すれ違いざまに声をかけられた。
「あら可愛い彼女。誰かに、取られないようにね」
同時に友人からも新着メッセージが届く。
《――ナッちゃん可愛いから。誰かに奪われても知らねぇぞ!》
『!』が赤色で強調されていて、鬱陶しかった。
なんだこれ。
みんなして、ナツを褒めすぎだ。
「ヤッ君、早くいこうよ」
ナツはまだ、俺の腕を引っ張っている。ぐいぐいと。
「スマホ見てていいからさあ。ねえ」
「………」
ナツが悲痛な声を出したので、俺はスマートフォンの操作を止めて、彼女を見た。
整った目鼻立ちのナツが、暑さで頬を染めていた。額に汗、そして目尻には薄く涙を浮かべている。白いチュニックは汗で体に張りついて、ナツの肩にかかった下着の線を、見せていた。
「やっと、こっち向いた」と笑う。
俺は後頭部を掻いた。
「そんなに焦らなくていいだろ。たかが海に行くくらいで」
「だって久しぶりのデートだもん。……夏休み、ずっと会ってなかったよ?」
ナツはそう言って、俺の腕に頬と胸をつけた。
「ようやく、ヤッ君に会えたから」
その瞳は夏の日差しのように輝いていて、俺はナツを可愛いと思った。
海に着いたら、肩ぐらい抱いてやろう……。
「だからさ、早くいこうよ」
ナツがまた俺の腕を引っ張り、交差点へと誘う。横断歩道を踏む。
「信号が変わっちゃうから。早く、早く」
腕を掴む力が強い。
「おい、引っ張るな。痛いだろ」
「でも早くしないと、信号が」
ナツが歩行者信号を、ぎらつく瞳で示した。
「――急がないと、信号が“青”になっちゃうよ」
トラックのクラクションと衝突音が響き、視界に、赤が散った。
……通りすがりの女性には影が無かった気がするし、連絡をしていた友人の名前が思い出せない……。
俺は誰かに、ナツを、取られたんだろうか?
いや、ナツは俺に蔑ろにされたから、愚行に走ったのかもしれない。
いずれにせよもう遅い。
霞んで見える歩行者信号は、もう青だ……赤じゃない。
体が動かない。
人がさざめいている。鉄と潮の匂いがする。
眼球だけ動かす。
……赤にまみれたナツが、微かに見えた。
俺は瞼を閉じた。
そして、辿り着けなかった海の、さざ波の音を聞いて――潮の匂いと、去年の海で見た、彼女の笑顔を思い出した。
ただ眩しかった。