9.笑顔
戦場から逃げ出す者の足音も遠くに消え、辺りには再び静寂が訪れる。
今この場にあるのは、灼熱の炎で溶かされ、真赤になった大地が爆ぜる音と、九つの首の間を通り抜ける北風が起こす風切音だけである。
アンデッドの腐臭が充ちていた空気もロウのブレスで浄化され、そこはまるで戦いなど無かったように、動くものなど何もない静かな世界であった。
ロウは防護壁の上に立つ自分より小さくなったティノの姿を見降ろしながら、あの迷宮から這い出して来てからの事を考えていた。
思えば楽しい日々であったと。
ほんの気紛れで助けた少女は、ただの泣き虫で何の力も持たなかったのに、今では神獣種が使う古代魔法を理解し、幻獣を召喚できる程の立派な召喚士として活躍しているではないか。今回の事で実戦も経験したし、これでティノに教えるものは何もない。
ロウは自分の姿が醜く人に恐怖を与えることも、迷宮で幾人もの人を殺してきた人族の敵として討伐対象になっていることも十分理解している。この世界に存在する限りあの時迷宮で出会った勇者様や、ずっと高位の冒険者達が、自分を殺そうと次々とやってくるのだろう。
この姿を見られたからにはこの場に長居は出来ない。羽を広げでもう一度空へ飛び立とうとした時、静寂を破るようにティノの叫び声が辺りに響き渡る。
「ロウーーーー!!!」
ティノのいた場所に視線を戻すと、今まさにキュアの背に乗り、こちらに向って飛んでくる姿が目に映った。急速に近付いてくるティノは、ロウの目の前(五番目の首だが)の前までくると突然キュアの背から飛び降りて巨竜の顔目掛けて落下してきた。
ロウは慌てて触手を使っ落ちてきたティノを受け止め、自分の顔の前まで静かに持ってくる。
「ロウ!ロウ!!」
ロウの触手の上で立ち竦んだティノは、両掌を握りしめ少し俯き加減で顔を伏せ、相変わらず顔中をグシャグシャにしての大泣きである。
(確か初めて会った時もこうであった。)
召喚が上手くいかず、自分に自信が持てなくて泣いていたティノだ。今の涙はそれとは違うのだろうが、情けない顔であることだけは何も変わらない。
ロウの瞳に少しだけ柔らかさが戻ったようにも見えた。
『まったく・・・どこまでも泣き虫なのだな。ティノは。』
「ロウ・・・ご、ごべんなざい・・・ま、街守ってぐれだのに・・・びんな逃げだ・・・」
『そんな事か。それは仕方がない事だ、なにせ我は厄災の不死竜だからな。』
あっさりとロウは言うが、ティノは悔しくて仕方がなかった。
ロウは街を守ってくれたのに、誰も傷付かぬように一人で戦ってくれたのに、それなのに皆ロウの姿を見て逃げ出してしまったのだ。
そして何より、ロウの本当の姿を見て、ほんの少しだったとしても恐怖を感じてしまった自分が許せなかったのだ。だからロウに謝らずにいられない。
だが、泣きじゃくるティノに対しロウはあくまで普通に、どこまでも優しく語り掛ける。
『ほれ、串焼きをやるで泣き止むのだ。』
「ロウ・・・行っちゃヤダよ・・・」
『ティノよ、ティノは自分の進むべき道を自分で決めたではないか。そして、すでにその道を進んでいるのだ。それは我が行くことは出来ない道である。』
「でも・・・でも・・・」
『それでティノよ、我からティノへ願う事があるのだ。』
ロウはティノの腕輪に描かれた魔法陣の意味を伝える。腕輪に刻まれたのはキュアの召喚陣だけではなくもう一体召喚できる従魔の召喚陣が示されている。それは以前ティノに絡んできた貴族の小童、ロシュゾーラが隷属させていた鬼獣ギガドゥールを召喚する魔法陣だ。
ギガドゥールは今、ロウの塒である浮遊島で体を休め、時に他の眷属達と鍛錬したり、時に下界に降りて魔獣と戦ったりと好きなように過ごさせているが、いずれにせよ別世界から迷い込んできた鬼獣なのだから、ティノが再召喚して契約してほしいと考えている。
鬼獣ギガドゥールの戦闘力は非常に高く、国軍の専属従魔使いを目指すティノの強力な剣、或いは盾となってくれるであろう。
ロウの突拍子もない話を聞き、ようやく泣き止んだティノがロウからもらった腕輪を見つめている。
「ロウは・・・これからどこに行くの?」
『この世界のあちこちを廻るさ。まだまだ知らないことが沢山あるからな。』
「また逢える?」
『ああ、我とティノの契約が破棄されたわけではないのだぞ。ティノが危険に晒された時、我の力が本当に必要になった時、その腕輪に願うが良い。すぐ飛んで来るでな。』
「うん・・・うん・・・」
『狐の姉さんの腕もいつかちゃんと直す約束なのだ。その内ふらっと遊びに来てみるさ。』
「うん・・・ロウ、ありがとう。ほんとう・・・あ、あじが・・・」
『また泣くか、泣き虫ティノめ。そんな調子ではいつまでたっても一流にはなれんぞ!』
「あい・・・はい・・・」
『もう一人ではない、お前には頼れる友が沢山いるのだ。その友を守れる剣となれ。』
ロウは自分の頭の上で寝そべっているキュアに降りてくるように促す。ロウ頭の上にいたのは、いつもロウがキュアの上で寝そべっていたその仕返しか。
ティノがキュアに乗り移ったのを見ると、ロウは全ての触手を格納して代りに巨大な翼を広げる。そしてゆっくりと空中へ舞い上がると、ティノを残してたち込める雲の中へ消えていった。
◆
王都ダガリスクの王城の中、大広間にエラセナ・ソシラン王、クロフ宰相、ホーンデル大将軍、ファリアナ近衛騎士団長、ヴァリストリズ魔法士長など、半年前に怨嗟迷宮創造主ヒュドラの解放事件で集まった面々が再び顔を合わせていた。
そしてそこにもう一人、レミダ評議会のソシラン王国領事ヘンダリソンが、額に脂汗を湛えて何事か説明を続けている。内容は勿論、レミダの街に降りかかったアンデッド襲来という災害の顛末である。
千を超えるアンデッドが襲来し、しかもリッチがそれを操っていたという前代未聞の事件である。本来なら街が一つ消える位の大災害であるにも拘らず、レミダでの死者が二十を満たない数で済んだのだ。
たしかに国全体の被害としては、その後の調査で国境付近の地図にも乗らない小さな村が全滅し四十人程がアンデッドとなっていたこと、行方不明の冒険者が五人、レミダから逃げようとした商人一家が魔獣に襲われ殺されたことなどが分っているが、それでもこの程度であった。
「いったいどういう事なのだ。ヒュドラが街を救っただと?訳が分からん。」
静かに話に耳を傾けていたエラセナ王が誰ともなく言葉を発すると、ヘンダリソンは視線を下に向けて緊張のため流れ出る汗を拭い、何と説明すればいいか必死に考え始める。
正直、彼も今回の事態を正確に把握している訳ではなく、人から人への又聞きで伝えられ、様々な状況から判断してヒュドラの行動を推測しただけなのだ。
確かに一部の兵士は、ヒュドラが街をブレスで焼き払おうとしたなどと言っているが、実際にそんな痕跡は見当たらず、レミダの街はほとんど無傷である。どう分析しても一連のヒュドラの行動は街を守ってくれたとしか思えない。
ヒュドラが何処から現れて、何故レミダを襲うアンデッドの群れを駆逐し、何処へ去って行ったのかなど誰もわからない。唯一の噂では、従魔を操る学院の生徒がヒュドラに向かって行ったの見たと報告があったが、本人に確認したところそんな事実はないと一貫して否定していた。
誰も答える者が居ない中、話を変えるように宰相が発言をする。
「陛下、誰も答えようのないヒュドラの動きは一先ず置いておいて・・・それより気掛かりなのは我が国にリッチが現れたことです。」
「そうであったな。妖魔が自分から姿を現して、表立って戦いを仕掛けてくるとはこれまでなかったと記憶しておる。こちらも解らぬことだらけか・・・」
リッチやヴァンパイアなど妖魔族は、人族をただの餌や素材としか見ておらず、自分の棲家で常に獲物を待っているような種族である。
偶に人里に出てきて人々の精神支配を行って怨念を煽ったり、女子供を攫って行ったりもするが、全て水面下で誰にも判らぬようにことを起こすのが常であった。
ただ、四百年ほど前にヴァンパイアがとある国の一領主に憑りついて悪政を執り、その街の住人が虐殺されたり互いに殺し合ったりと数万の人間の命が失われたとの記録が残っている。
「リッチが消滅した場所には一体の人骨があったそうです。いえ、スケルトンの様な妖魔ではありません。古い人骨でした。」
「リッチとなった、どこぞの魔道士のなれの果てか。」
「ただ・・・その人骨には黒い隷属の首輪と腕輪が掛けられていました。現ブリアニナ王国、旧ジロール帝国の物でした。」
「なんだと!過去の遺物ではないか!あのような危険なモノがまだ存在したのか。」
ジロール帝国。
それは二百年前まで存在した国で、近隣諸国を侵略し急速に大きくなった国家であった。純血人族至上主義を掲げ、獣人族や妖精族、魔人族を亜人と勝手に称し、殺戮して回った狂気の国である。
急速に成長を続ける帝国に危機感を覚えた周辺国は互いに手を取合い、連合を組織して帝国に対抗して戦いを進めてきたが、帝国軍の強さと兵装は群を抜いており、連合軍を悉く退けてその勢いを止めることは出来なかった。
他国が防戦一方となった理由は二つある
一つはジロール帝国が独自に開発した隷属魔法である。
帝国は亜人を虐殺するだけでなく、捕えた亜人や敵国の捕虜に強力な隷属魔法のかかった黒い首輪を装着させて意のままに操り、戦争の最前線に送り出していたのである。精神を支配され死をも恐れぬ亜人の兵士は、各国の軍を呑み込み確実に戦果を挙げていったのである。
そしてもう一つ、ジロール帝国はそれまで禁法とされていた、多くの召喚士の魔力を引替えに発動する大規模召還魔法を強行し、勇者と称する異界より強大な力を持つ者を召喚していたのである。
異界から召喚された男は剣術も攻撃魔法もこの世界の者を凌駕する高い能力を持っており、たった一人で連合軍の大部隊を壊滅させるなど、その力を存分の発揮し各国に恐怖を植え付けていったのである。
飛ぶ鳥を落とす勢いで近隣各国を武力併合した帝国は、大陸全土の支配を宣言、時のジロール帝国の王サイネット・ルファンレス・ジロールは自らを初代皇帝と名乗り、その他の国は全てジロールの属国であると宣言した。
この帝国の余りの暴虐ぶりに、近隣諸国はそれまで以上に反帝国を明確にし、連合に参加する国を増やすとともに、隷属魔法の解除魔法の開発に乗り出して、亜人たちを開放するための方策を模索し始める。
さらに帝国が召喚した異界人に対抗するため、連合に所属していた妖精族の国ファーレン王国の持つ秘法、高位精霊召喚魔法を異界に向けて行い、この事態を打破する救世者を連合軍にも召喚したのである。
帝国の勇者と連合の救世者。異界から来た者同士の壮絶な戦いは一昼夜にわたって行われ、ジロール帝国が召喚した異界人は連合の救世者によってなんとか討伐されたが、彼の者の首にも真黒な首輪、隷属の首輪が取り付けられていることが判明したのである。
やがて隷属解除の魔法も開発され、最前線に送られた亜人や捕虜はどんどん解放されていく。
勇者と隷属魔法を失った帝国の凋落は早く、連合の反撃だけではなく広げた領土のあちらこちらで反乱の火が上がり、ジロール王は皇帝を宣言してから僅か二年で連合軍に捕えられ、一族郎党とも即刻処刑となったのである。
約六年もの間大陸全土が戦火に包まれた戦争は終結した。連合各国は精神を支配する隷属魔法の取り扱いを厳格に管理することと、大規模召喚魔法を禁法とすること、種族間差別を撤廃することなどを柱とした盟約を交わして解散した。
尤もこの二百年で政変や戦争によって滅んだ国や合併した国もあり、現代に至ってはこの盟約が完全に順守されているとは言い難いのだが。
「あの忌わしき黒の隷属首輪が出回っているのか。」
「いえ、それが不可解な事でありまして・・・残された人骨は相当年経過しておりいつ死んだ者なのか判別もつきません。しかし、首輪は・・・ここ数年内で作られたように傷みがなかったとの事です。」
「なんだと・・・どういう事だ?」
「い、いえ、私では解りかねます・・・」
古い人骨に新しい首輪。それが意味することは一つしかない。墓を暴き死者を隷属させる、その意図とは・・・。
「陛下。あくまで予想の範囲でありますが宜しいでしょうか?」
「ヴァリストリズよ、遠慮はいらぬ。お主の考えを述べてくれ。」
「現代においても首輪を作ることは可能。となると・・・人為的にリッチが作られたのではないかと思われます。」
その場にいた者すべてが息を呑む。
過去にその様な事件がなかったわけではない。一部の狂人たちがお伽噺の邪神復活を目論み、人為的に妖魔を作り出すことから研究が行われていたことがあった。
そう言った組織は常に地下に潜っており、その全容を掴むことは出来なかったが、今だその研究を続けていたとしたら、
「死者を冒涜する様な真似を・・・」
エラセナ王は小さく呟き、その眉間に深い皺を作るのであった。
◆
ロウは今、浮遊島にいる。
基本的に怠惰であるロウは、レミダでの戦いの後、特に行きたい所が無かったし、たくさん働いて疲れたし、暫くだらだら過ごそうと思いここへ戻ってきたのだ。
浮遊島の様相はそう変わったわけではないのだが、ロウが下界から移した木々が実を結び、草原には様々な花が咲き誇っていた。獣たちも多くなった。兎や鹿に似た獣の家族、小鳥の群れ、花蜜を運ぶ虫たちが飛び交っている。獣たちも魔獣という天敵がいないので、皆どこかノンビリとした雰囲気である。
この調子なら直に浮遊島の土壌も養分を取り戻し、これまで以上に緑が活性化するだろう。
元の世界で言えば四国ほどもあるこの浮遊島で、さらに食物連鎖を活性化させるためには、もう少し強い個体を連れてきても良いかもしれない。
また、今後の目標でもある食味の改善に関しても、下界で香辛料や発酵菌類が見つかれば、原料を調べてこの地に移植し、定期的に生産しておけば食べ物の味にストレスを感じることもなくなるだろう。
そんなことを考えながら湖の畔の草原で寝そべっているといると、森の方からギガドゥールが出てきてロウの方に近付いてきた。
やってきたギガドゥールはロウの隣に腰を下ろすと、何をするでもなく湖を眺めてボーっとしている。今のギガドゥールは随分と血色もよく、学院で出会った頃の魔力の乱れは感じない。
この浮遊島に住むロウの眷属や、後から連れてきたギガドゥールには、下界への転移魔法陣を自由に使ってよいと伝えてあるのだが、眷属達は下界に行くことはせず、ギガドゥールだけが時折下界に降りているようだ。因みに下界の転移魔法陣は『魔境』の中心部、結界を張った洞窟内に設置してある。
下界に降りてもまたここに戻ってくるのだから、彼もここが気に入ってくれているのが分かる。
暫くそうやっていると、ロウの影からシャドウアサシンが出てきて、ギガドゥールに向って何事かアピールし始める。おそらく模擬戦でもしようと提案しているのか、頻りに何かを殴るふりをしていた。
その様子を横目で見ていたが、シャドウアサシンはロウの鱗を削り出して作った双剣を持っており、対するギガドゥールは丸腰である。これでは不公平と、ロウは空間倉庫を開いてギガドゥールが使えそうな武器を物色し始めた。
まず取り出したのは、三十二層の階層主オーガキングに与えていた魔鉄製のハルバードである。オーガの身体に合わせて作ったので長さが5mを越え、両派の斧の厚みも大きさも最大級の業物だ。
所詮魔獣であるオーガが使っていたので、手入れもされず所々傷や腐食が見られ、刃が欠けている部分もあったが、ロウはそれを特殊能力【錬成】を使って難なく修正していく。
さらに、ギガドゥールは腕が四本ある鬼獣なのだから、空いている手にも武器防具を使わせようと、これも魔鉄で作ったオーガナイトのバスターソードとサークルシールドを整備して持たせた。
次は身に着ける防具だ。迷宮の階層主には身に着ける防具など与えていなかったので、こちらは一から作らなければならない。ギガドゥールは腰布しかつけていないので、空間倉庫から魔鉄のインゴットを取り出し、ブレスとプレートとタセット、籠手と脛当てをギガドゥールの身体に合わせて作っていく。
さらに猿に似た魔獣ボルケドの上位種の皮を使ったインナーを加工しておく。
ギガドゥールは興味深そうにこちらを覗いている。
やがて仕上がった防具一式を装着したギガドゥールは精悍そのもので、これならティノと契約してもグリフォンのキュアに見劣りしない立派な従魔となるだろう。
さぁ、後は自由にやれとばかりにロウは再び寝転がる。シャドウアサシンがギガドゥールの新しい防具を羨ましそうに見ていたことには、気付いていない様だった。
◆
所変わってレミダの街。
先のアンデッド襲撃の被害は街外の農園が破壊された程度で済んだため、街中の人々も通常の生活をすでに取り戻している。大通りを行き交う馬車や、通りの横で営業を再開した数多く並ぶ屋台を見ると、あの半月前の襲撃が現実だったのだろうかと疑いたくなってしまうほどだ。
そんな喧騒の中を歩く学院の制服を着た少女がいる。彼女の後ろには羽を持つ白銀の従魔が付き従っている。もちろんティノとキュアの主従である。
今日は長期休暇から急遽街に戻ってきたユリアナの招きで、高級住宅街の一角にあるオヌワーズ辺境伯の別宅へ向っているのだ。何でもアンデッド襲撃で活躍したティノの慰労会だとか。
あの戦いの中で常に冒険者たちの殿を務め、多くの人命を救ったティノとキュアの主従は、今や憲兵でも冒険者組合でも英雄的存在になっている。当のティノはそんな風潮を一切相手にせず、復旧のため組合に依頼された農地の復旧作業や、街中に積まれた土塁の撤去作業などを黙々とこなしていた。
とにかく何かしていないとすぐロウの姿が頭に浮かび、また独りぼっちになってしまったと泣きたい気分になってしまうのである。周囲の評価とは真逆に、ティノの心の中が晴れ渡ることはなかったのである。
アンデッド襲撃の報を聞いたユリアナは、居ても立ってもいられず自家の領地からビャッコを駆って文字通り「飛んで」戻ってきた。
ユリアナがこの街に着いたのは五日前で、真先にティノの安否を確認するため、寮のティノの部屋に飛び込んできたのである。ティノの無事を確認したユリアナは涙を流して喜んでくれた。
高等貴族であるユリアナがここまで平民のティノを気に懸ける理由はもちろん存在する。
時は十三年前まで遡る。当時四歳だったユリアナは父の公務に付き添い、四つ上の長兄と共に王都に向かっていた。
ところが道中で馬車の車軸が壊れて行程が遅れてしまい、急遽途中の小さな村に立ち寄り夜を明かすことになったのだが、その日の深夜、運悪くこの村が魔獣の群れの襲撃を受けてしまったのである。
襲ってきたのはコブリンの集団が約百匹。
オヌワーズ辺境伯は警護でついてきた領兵二十数名をまとめ、村の自警団員数人と共に防護柵に取り付いコブリンを倒していったが、多勢に無勢ではあっという間に村内に侵入され、村は大混乱に陥ってしまった。
この村の人間はこのような魔獣の襲撃が起きた場合、集会所に集まり固く戸を閉ざして災害が行き過ぎるのを待つという方策を取っていたのだが、そんなことは知らないユリアナと兄は、宿泊していた村長宅に取り残されてしまったのである。
前線に向った辺境伯は、当然二人のために警護の兵を二名残してくれたのだが、村に侵入したコブリンは集団で警護の兵に襲いかかり、あっさりと兵を殺して村長の家に侵入してきた。
この時、村長宅にとり残されたユリアナと彼女の弟を救い出したのが、自領の収支報告のため王都に向かっていたティノの父マーリン・ヴァルドアス伯とその娘ティノだったのだ。
二人は故郷の街から騎馬で王都に向かっており、偶々立ち寄ったこの村で一夜の宿を借りていてこの襲撃に遭遇してしまったのだ。
マーリンは村を守る戦いに参加し、ティノは世話になっていたその家の村人へ預けられ、最初は集会所の方に一緒に避難したのだが、夕方村に到着した綺麗な馬車に乗っていた自分の同じくらいの子供が集会所の中にいない事に気が付いた。
ティノは周りの村人に客の子供がいない事を訴えたのだが、外に行くのは危険だと聞き入れてもらえなかったので、集会所から単身抜け出して父のへ知らせに行ったのだ。
危険を冒して外に出てきたティノに拳骨を落としてから、マーリンはティノを小脇に抱えすぐに村長宅に向かって間一髪で二人を救い出し、ティノと共に二人を集会所まで送り届けて、再び戦いの場へ戻っていった。コブリンから殺されそうになり、恐怖で震えていた二人を戦いが終わるまでティノはずっと励まし続けていたのである。
明け方、コブリンを駆逐して無事戻ってきた父親と再会したユリアナ兄妹は、恐怖と緊張から解放された安心感から、マーリンによって助けられたことを父に報告する前にぐっすりと眠ってしまった。マーリンも元より褒賞を期待して戦ったわけではないので、幼い兄妹を助けた事を吹聴するでもなく、戦いの後始末をして直ぐに王都へと出発していった。
後日、ユリアナ兄妹から事の顛末を聞いた辺境伯は、すぐに息子たちの恩人を探そうとした。しかし、マーリンは貴族であることを誰にも話していなかったし、辺境伯らはマーリンを旅の冒険者の親子位にしか考えていなかったため、その行方を知ることは無かったのである。
時が過ぎる毎に、この事件の事は皆の記憶から忘れ去られてしまったが、ユリアナは自分を助けてくれた銀髪の親子の事を忘れることは無かった。唯一、彼らの事で判っているのが「ティノ」と呼ばれていた自分と同じくらいの女の子の名だけであった。
その後何事もなく時は流れ、突然ユリアナに女神が微笑んだ。
怖くて震えていた自分の手をずっと握って励ましてくれた女の子。いつかお礼を言いたくて忘れることがなかった銀髪の女の子が、自分が通う学院の同じ科に編入してきたのである。
だいぶ大人びてはいるが、子供の頃の面影を残し、特徴的な銀髪と青い目は昔と変わらず、美しく輝いていた。
さり気なくあの日のこと切り出してお礼を言おうとしたのだが、本人は全く忘れているようだし、後で噂になったティノの家の境遇を聞いて何も言えなくなってしまった。
その後は大貴族と元貴族とはいえ平民という二人の立場が邪魔をして、中々ティノと親しくなれずズルズルと一年過ぎてしまったが、ティノがロウを従えたことで、漸く仲良くなれる糸口を掴んだのである。
「ティノさん、わざわざお越し頂きありがとうございます。」
「い、いえ、あの、お招き頂き光栄でございます。ユリアナ様。」
「ティノさん。呼び捨てで構いませんよ?緊張なさらず我が家と思い寛いでくださいな。」
「と、ととんでもございません!!私の様な者がこの場に呼ばれること自体、不相応な事なのに・・・」
別宅とはいえ広大な公爵家の屋敷に招かれ、唯でさえテンパっているティノに寛げとはとても無理な要求だった。
玄関でキュアを預け、と言っても庭に寝そべるビャッコの元に行かせただけだが、そのまま屋敷内に招き入れられて目に飛び込んできたのが、高価な調度品が揃った内装、廊下に並ぶメイド達、豪華絢爛な屋敷内は平民のティノにとってまさに別世界だった。
磨き込まれた廊下をユリアナの背に従って歩いていき、応接と思われる部屋へ通されると、すぐさまメイドが紅茶を用意して目の前に供される。優雅に茶を喫するユリアナに対し、カップを握るティノの手は小刻みに震えていた。
暫く二人で談笑していると、部屋に別のメイドがやって来て、何事かユリアナに囁いて退出していった。
準備が出来たというユリアナの先導で別の部屋に案内されると、ティノの思考は完全に停止する。なんとそこにはユリアナの父、ランハザード・オヌワーズ辺境伯と嫡子であるユリアナの兄、ノートス・オヌワーズが待っていたのだ。
現国王の信頼厚き筆頭貴族は、『斬魔の猛将』と云われる二つ名からは想像も出来ないほど柔らかな笑みを浮かべ、入室したティノを見つめていた。
ティノは慌てて膝を付き、頭を垂れる。平民が直立で拝謁できる人ではなかった。
オヌワーズ辺境伯は、緊張で固まってしまったティノに立って楽にするよう命じ、ようやく体を起こしたティノに優しく話しかける。
先のアンデッド襲撃では街の防衛に尽力してくれたことを国家を担うものとしてまず感謝したい、前代未聞の事件の顛末を見極めるため飛竜を駆ってここにやってきたと、自分も息子も学院の卒業生であること、など当たり障りのない言葉が続くが、正直ティノは緊張の余り話の内容が頭に入ってこなかった。
緊張のため、まともな受け答えができないティノに、辺境伯は唐突に口調を改め、十三年前にあったサンデス村での魔獣襲撃事件の事を覚えているかとティノに問うてきた。
辺境伯の言葉が切っ掛けで、今まで忘れていたティノの記憶が鮮やかに蘇ってきた。襲ってくる醜い魔獣たち、勇敢に戦う父さま、怖い思いをしてずっと震えてた女の子は・・・そうか、あの女の子はユリアナだったのか。
混乱したまま辺境伯の横に並んで立つユリアナを見ると、兄のノートスと一緒に優しく微笑んでこちらを見ている。ユリアナのような高貴な人が、何故いつも落ちこぼれの自分を気に懸けてくれたのか、その理由がようやく分かったのだ。
「あの時、よくぞ息子たちの危機を知らせてくれた。君の勇気がなければノートスもユリアナも、今この場にはいなかったであろう。」
「い、いえ、あの・・・」
「父君も村中を縦横無尽に駆け巡り、まさに鬼神の働きであった。ぜひ我が領へと願おうと思っていたのに、気付けばすでに村を出た後であったわ。」
辺境伯の言葉はさら続く。
「そなた王国軍の従魔使いを目指しているそうだな。ユリアナから聞いている。」
「は、はい。そうなれればと精進しております。」
「うむ、卒業したら王国軍に入れるよう私から推薦しよう。我が領地に配属されるよう手配しても良い。しばらく下積みは必要だが焦らず功績を積めば良い。状況が許せば・・・マーリン・ヴァルドアス領を、いやティノ・ヴァルドアス領が再興出来るよう王に推薦しよう。」
「え・・・?」
「十三年前に我がオヌワーズ家の世継の、王家血筋の命を救った故マーリン・ヴァルドアス伯の褒賞はまだ為されておらぬ。また、危険を顧みずオヌワーズ家の者の危機を知らせたその娘の褒賞もな。さらに君は今回の事でレミダの街を救った英雄だと聞く。その資格は十分にある。」
「え?え?」
「本当に感謝しているのだよ。あの時私は目の前の有事ばかりに気を取られ、子供たちの事まで気が回っていなかった。父親失格であった。そんな私の過ちを君の父上が補完してくれたのだ。」
「父さまが・・・」
「ユリアナから聞かされるまで忘れていたとは情けない限りである。許せ、ティノ嬢。」
ソシラン王国貴族筆頭が平民の小娘に頭を下げるなど決して有り得ない事である。余りの事にティノは何の対応も取れず、ただただオロオロするだけであった。
「あ、わわわ・・・・わ、たしは」
「まぁ、固い話はこれ位でよかろう。これからも目をかけてやるので一つ私の願いを聞いてくれないか?」
「は、はいぃぃぃ!何なりとお申し付けくださいませ!!」
「ユリアナがそなたと仲良くしたいのに、上手く言い出せないらしいのだ。うじうじ一年も悩みよって。どうだ、ユリアナと友達になってくれないか。」
「え?」
「お父様!!!やめて!!恥ずかしい・・・」
状況を呑み込めていないティノがユリアナを見ると、学院では決して見せることのない、真赤な顔をして恥じらう可憐な少女がそこにいた。
(お前には頼れる友が沢山いる。)
ユリアナやアルフレイも。キュアもビャッコも。ロウの残した言葉の意味をかみしめ、漸くティノに本当の笑顔が戻るのであった。