49.新しい世界
生物がそこにいれば必ず発生する音が消えてしまい、焼けた木々が爆ぜる音、岩が割れて崩れる音、風が灰砂を運ぶ音だけが聞こえてくる。
元はエルザード大森林の中心部であり、緑豊かで妖精達や小鳥達が飛び交い、巨大な樹の根元で獣たちが微睡む森は、使徒と管理者の戦いによって一面焼け野原と変わってしまったが、その中で変わらず緑の枝を広げる「聖樹エルブ」の姿は一種異様な姿であった。
厄災の不死竜ヒュドラことロウは、その焼けた地に降り立って静かに聖樹を見詰めている。
あの忌まわしき管理者達が自分達の領域へと戻って行ってから、すでに丸一日が経過していた。
ロウの眷属達も背後に控え、ロウの次の命令を待っているようである。
しかし、彼らの背にはロウから与えられた羽は既に無く旧の姿に戻っていて、昨日までの暴力的な強大な魔力は、今はなりを潜めていた。
ロウの姿もあの禍々しい化物の姿から、普通の化物の姿に戻っている。
あの醜い姿を見てキョウが何と言うのか不安だったが、ロウが今の姿に戻る過程を見てもキョウは特に何も言わず、相変わらずの無表情であった。
そんなキョウが小さく呟く。もちろんそんな小声さえロウはしっかりと拾っているのだが。
「ロウ、森を元通りに出来ない?」
『こうなった全責任は我にあるからな。ラスボスを焙り出す方法は、これしか思い浮かばなかったのだ。』
「仕方がない、とは思うよ。でもこれやり過ぎかも。」
聖樹エルブを中心にして1km以上の範囲にあった森が消滅したのだ。
その一端を担いだとはいえ、妖精族であるキョウにとっても目の前に広がる惨状については、すこし心痛むものがあった。
『キョウよ、我が固有能力【再生】を使って森をある程度まで蘇らせる。その後、あの時キョウが魔境を動かした魔法と癒しの何とかを使って・・・』
「ロウ!あなたやっぱり頭がいい。直ぐやっちゃって!」
『おおう、ハジリスクよ!お前も治癒のブレスでキョウに協力するのだ!』
『心得ました、主様。』
『・・・お前、喋る事ができたのか?』
『初めからこのように念話を送っておりましたよ?』
『いや!!シャーとかグオォとかしか言っていなかっただろうが!!』
『それは・・・おそらく主様が我々を眷属として扱わなかったからでしょう。今日まで何のご命令もなくほぼ放置でしたから。』
『おおう・・・』
『今回の件で主様は初めて眷属に命令なさいました。それでようやく主従関係が決定されたのです。それは我々にとって大変名誉あること。』
「ロウが、みんなを眷属と認めた、ということ?」
『その通りでございます。奥方様。』
『まてまて!まてい!!!ハジリスクよ!ドサクサに紛れて何をブチ込んだか!!!我とキョウはだな・・・』
「ロウ、早く森の再生。」
『お、おおう・・・』
ハジリスクの誤った意識を変えねばと説教しようとしたロウだが、キョウに急かされて中途半端に会話を終わらせることになってしまった。
キョウが赤い顔で明後日の方向を向いていたのはご愛嬌だろう。
ロウは空中へ舞い上がり聖樹エルブの上空に静止すると、固有能力【再生】の魔法陣を三段重ねで顕現させる。直径2kmにも及ぶ巨大な魔法陣はゆっくりと回転しながら下降していき、戦闘の痕を無残に残した森を円柱の中に包みこんだ。
ロウが魔法陣へ更なる魔力を注ぎ込むと魔法陣が純白に輝き出し、光の中にあった森の樹木が、草木が時間を戻したかのようにぐんぐん再生されていく。
もちろんすべての植物が再生した訳ではない。炭化したバオブの木も元の大きさの半分にも満たないのだ。
それでも真黒に焼け爛れた大地は新芽が覆い尽くして見えなくなり、立ち枯れた木にも再び小さな葉が芽吹いていた。
ロウの姿に怯え、聖樹の葉の陰に隠れていた精霊達も顔を出し、再生されていく森に歓喜の表情を浮かべながら飛び回っている。
戦いの傷跡が全て緑に変わった時、ロウは魔法陣を消滅させ、ハジリスクの前に魔法強化の魔法陣を新たに顕現させた。
『ハジリスクよ、魔法陣に向かって治療ブレスを撃て。』
心得たとばかりに、ハジリスクの右の首が美しい銀色のブレスを吐き出した。巨大な魔法陣の縁まで拡散した銀色のブレスは魔法陣を通してその威力は増強され、さらに大きく拡散して森に降り注いだ。
再生が成った植物にとって銀色のブレスは正に栄養剤と同じである。芽吹いた小さな芽も成長し、樹木も力強く枝葉を伸ばしていった。
一方、大地に立つキョウは六神の加護【植物操作】を発動し、森の木々達の根の配列を整え、枝葉が陽に向くよう調整し、被害を受けなかった範囲の森から虫や微生物を呼び寄せていった。
そして最後に、大地に手を当て【癒しの光】を注ぎ込む。これで大地も元の豊かさを取り戻した事だろう。
すると、期待に満ちた目で様子を伺っていた精霊達も飛び出してきて、森の植物に促進魔法を掛けたり魔力を分け与えたりと、精霊が本来するべき仕事を再開したのである。
まだもう少し時間はかかるだろうが、聖なる森が復活したのである。
『こんなもんか。』
「こんなもんだよ。」
空中にいたロウは、キョウが【植物操作】作った広場に降りてきて、復活した森の出来栄えを眺めていた。
すると、聖樹エルブの太い幹の部分に、精霊達の魔法の光とは異なる柔らかい光が集り、まるで聖樹から生み出されたかのように、高位精霊ラフレシアが現れ、地上に降り立った。
俯き加減のラフレシアは、キョウの前までゆっくり歩いてくると、そのまま静かに跪き頭を垂れた。
長命族の生涯を掛けて信仰してきた精霊王が、双月神と同一であったとう衝撃の事実に打ちひしがれたとき、突然聖樹の中に転送され、今まで外に出ることができなかったのだ。
それが森の再生と共に再び外へと転送されたのである。
「ラフレシア様・・・」
『ごめんなさい、キョウちゃん。私を殺して。たとえ高位精霊でも強力な魔力に触れれば消滅するから。』
「・・・」
『私にとって精霊王様が全てだったの。全身全霊をかけて仕えていた。あの方の啓示は私の・・・私の・・・』
精霊王の啓示を受けてキョウに対し精神操作を行ったのはラフレシアなのだ。
魔人族と人間族が争いどちらかが滅び、または数を減らせば、中立を保った妖精族は種族滅亡の脅威から解放される、と聞かされていたのだ。
近年、種族間の諍いが多くなり、それを憂いていたラフレシアにとって、精霊王の啓示は一筋の光明となったのだ。
だからこそ、他の二種族を争わせて疲弊させるという、精霊王の指示通りにキョウへ人間族への憎しみと、魔人族への依存を植え付けたのだ。それに、キョウは神力を有して強大な力を持っているから死ぬことは無い、そんな打算もあったことも否定できない。
しかし、その精霊王が世界を滅ぼそうとしている管理者だったとは、ラフレシアにとっても正に青天の霹靂であった。
そして親しかったロウから発せられた言葉が、ラフレシアに向って宣言した、精霊王を消滅させて自分を最後に殺すと言う言葉が、まさに自分が受けるべき罰であると、繰り返し胸の奥底から響いてくるのだ。
そしてロウの宣言通り、精霊王はいなくなった。
『どうあっても無益な戦争を引き起こした私の罪は消せない。お願い、私を消して・・・』
ラフレシアの面前に重力に縛られない涙の雫が漂う。
そんな様子を見ていたロウは、殺気も威圧も憎しみや怒りの感情もなく、ごく自然に静かな口調で話しかけた。ファーレンの王宮で何度も話していた時のように。
『王様、王様が消えたならば、精霊達や妖精族はどうなるのだ?』
『え?』
『偽の精霊王が消えて、心の拠り所を無くしたのは、王様だけではないのだぞ。』
『っ!』
『ならば王様、本日から王様が精霊王だ。どうせ元より存在しなかった精霊王なのだ。王様が精霊王でも問題はあるまい。どうだな?キョウよ。』
「ロウ、あなたやっぱり天才かも。それ採用。」
『何を言っているの!そんな事を精霊達や妖精族が認めるわけがないじゃない!!』
『いや、認めているさ。周りの精霊達の様子を見るがいい。精霊達よ!我は偽の精霊王を排除し、新たな王を見出したぞ!!』
ロウの声に一瞬身を竦ませた精霊達だったが、直ぐにラフレシアの周りに集まり出し、次々に唇を押しつけていく。自分は精霊王の眷属だという証でもあるのだ。
精霊達も見ていたのだ。森を破壊したのは怖いヒュドラだが、身体が二つに分かれて魔獣と戦いだした精霊王はもっと怖かった。戦いで森は壊れてしまったが、壊れた森をヒュドラが治してくれたのだから、本当はヒュドラは良い奴なんだと。
最初は驚き、立ち竦んでいたラフレシアだが、周りの精霊達の様子を見てようやく緊張が解けたのか、その目から再び涙が溢れだしたのである。
◆
聖なる森の再生にも目途が付き、この場でロウができることは無くなった。
管理者達の干渉による種族滅亡の危機も当面は回避されたことだし、再び誰にも邪魔されない怠惰な生活に戻れると喜んでいる。
ロウはまた人族に関わってしまったことを後悔しつつ、自分が関わってきた者が悲しまないで済んだことにはとても満足している。
管理者領域の破壊行為によって世界各地で天変地異が発生し、また多くの命が失われたことも事実だが、ロウにとっては見ず知らずの誰かより、目の前にいる自分と関わってきた友人の方が、天と地の差と同じくらい大切なのである。
ふと、ロウはキョウに尋ねた。
『こんなにも能力も外見も異なる種族が共存する世界では、種族間で差別や争いが起きぬようにするのは難しいのかの。』
「難しいよ。地球でもそんな問題は山ほどあった。」
『この世界、力や数で簡単に人を支配できるからな。全く人というのは厄介な生きのだ。』
「ロウだって人間だったくせに。」
『もう忘れたわ!だいたい四本足の方が・・・むっ?!』
ロウは何かの気配を感じて空を見上げた。
視界の隅で何か小さい何かが動いたような感じと似ていたのだが、それが何なのか分からず、ジッと空を見上げていた。
しかし、それ以降何の気配も感じず、気の所為かと思い直して見上げていた首を元に戻した瞬間、晴れ渡った空から降りてきた一条の紅い閃光が、ロウの身体を貫いたのである。
『ぐはっ!!』
「ロウ!?」
焼けるような痛みと共に体中の力が抜け、ロウの巨体がゆっくりと崩れ落ち、再生したばかりの樹木を薙ぎ倒した。
一体何が起こったのか、キョウもキノもラフレシアも、もちろんロウの眷属たちも状況が解らず呆気にとられ、大地に伏せたロウを目を見開いて見るばかりである。
そして、倒れたロウの身体を見て息を呑んだ。彼女らの視線の先には、ロウの硬い鱗が溶けてポッカリと口を開けた直径1m程の傷口があったのだ。
天から降ってきた一条の紅い光はロウの背中から胸へと抜け、そこにあったロウの魔核を完全に消滅させたのである。
しかも、ロウの固有能力【再生】が発動せず、傷口が塞がる気配がないのだ。
『な、なるほど、これが我の終幕か・・・』
「ロウ!!一体何が?!管理者達がまた何かやったのっ?!」
『ち、違うな。あ奴らの気配では、神力の気配など無かった・・・』
キョウは訳が分からず、とにかくロウの傷口に向かって【癒しの光】をあてるが、傷口が塞がる気配は全くない。ハジリスクも治療ブレスを吐き出したが、結果は同じであった。
他の眷属達もロウの周りに集まってくるが、彼らも成す術なく立ち尽くすしかできない。
『キョウよ、無駄だ。おそらくこの傷は魔力でも神力でも治らぬ。』
「なっ!なぜ?!一体何が起きているのっ?!」
『この攻撃は、我もキョウも良く知る力によるものだ・・・おそらく科学力。』
「っ!そ、そんな・・・、ばかな・・・」
ロウを撃った光は、神力の気配も魔力の気配も全く感じることが出来ないもので、成層圏から撃たれたレーザーのように全く気配のない攻撃など、この世界ではあり得ない事なのだ。
しかもあれは銃のような飛び道具を使った攻撃ではなく、まるで槍でも突き下ろしたかのようにロウの身体を突き刺し、隠蔽した魔核を確実に消滅させたのだ。
このような事が出来る力となると、魔力、神力以外ではロウが知る限り人工的な科学兵器位しか思い浮かばない。
そしてその意味とは、この世界には存在しない「力」がロウを殺そうとしたのだから、その理由など一つしかない。
『我をこの世界に送り込んだ者が、我をもう不要だと判断し、廃棄しようとしているのだろうよ・・・』
「う、嘘・・・どうして・・・」
『その者の望みが、この世界の安寧ではなく、管理者領域の破壊だったのだ。それを実行できない我は用済みという訳だ。』
「そ、そんな!!」
ロウは自分の仮説は、まず間違いないと確信している。
あと一度、管理者領域に終焉のブレスを撃っていれは、あの場所の崩壊は止めることは出来なかったであろう。
だが、ロウは管理者達が言っていた「領域が崩壊すれば地上も滅ぶ」という言葉を、ただの脅しと聞き流す事が出来なかったのだ。だからこそ、管理者達が撤退したのを見て領域へ続く扉を閉じたのである。
『まったく、中々厳しい雇い主である。顔位見せればひと泡吹かせる程度には抵抗できたものを・・・』
「ロウ、やめて!!じっとしてて!」
ロウはゆっくりと身体を持ち上げると、しっかりと四本足で大地を踏みしめ、九つの首を全て上げ、両羽を天に向けで垂直に伸ばした。胸の穴からはロウの魔力が溢れだし、血が流れるように大地に落ちて浸透していく。
『だが、このままでは終わらんぞ。我の意思を、我の意地を、見せてくれる。厄災の不死竜ヒュドラを見縊るなよ・・・』
「待って!ロウ!何をしようとしているの!!」
「ロウ様!」
『ロウちゃん!』
ロウの身体から膨大な魔力が放出され、それは空中で銀色の粒子状となって周囲に充満していく。それと同時に魔力の塊である身体が徐々に崩れ始め、銀の粒子も上空に舞い上がって拡散していった。
それはまるでロウの細胞一つ一つがバラバラになり、天に昇っていくような姿である。実際、光に包まれているロウの身体の一部が、まず一つ目の首が消え失せ、九つ目の首も形が崩れていく。羽も先端の方から徐々に分解されていった。
そんなロウの姿を目の当たりにして、キョウが泣き叫びながらロウの前足に縋りついた。
「ロウ!やめて!いなくならないでよ!!」
ロウは、まだ崩壊が始まっていない真中の首を回してキョウに向き合い、これまでに感じたことがないほど威厳と気迫を込めた言葉を紡いだ。
『キョウよ、我を召んだ者やあの管理者達に、我がいたこの世界を、キョウのいるこの世界を好き勝手になどさせぬぞ。』
「ろ、ロウ・・・」
『キョウ。未熟な人類が成長し、この不平等な世界が正されるまで、他の何者も干渉できぬよう我が邪魔してやる。』
「やめて!そんなのいらないから!戻ってよ!」
『全く、人族に関わると碌なことがない。だが、キョウと共にあった時間は、中々楽しいものであった。』
その言葉を最後にロウの身体が完全に崩れ、光の粒子が一層加速して拡散していく。やがてそれは宙に滞留して停止し、この世界、つまりこの惑星全体をすっぽりと包み込んだのである。
地上にいる者達は、突然周りの景色が銀色に染まっていく様を見て、再び天変地異の訪れかと、ある者は身を固くして立ち竦み、ある者は建物の中へ駆け込んで窓という窓を閉じ、部屋の片隅で震えていた。
全人族が混乱と恐怖に打ち震える中、ロウが最後に見せたこの銀色の景色は、惑星全体を覆ったまま一つの魔法を発動した。
それは、ロウの固有能力【吸収】であり、全ての人族から隷属魔法を吸収したのである。
隷属印を持つ行使者、主に奴隷商人や国の官吏魔術士達からその印を奪い、隷属の首輪を身に着けた者も、今正に作られようとしていた首輪も、組み込まれた術式を消滅させ、完全に破壊してしまったのだ。
奴隷市で売られそうになっていた少女も、迷宮に潜る冒険者に囮として使われていた少年も、鉱山で働かされていた凶悪犯罪者も、首輪が外れ隷属魔法から解放されたのを理解すると一斉に逃げ出し、自由を得たのであった。
そして、奴隷達の首から外れた隷属の首輪は、二度と発動することは無かったのである。
世界中が騒がしく大混乱に陥っている間に、惑星全体を覆っていた光の粒子が今度は惑星の中心付近に集まってきて、また別の形を形成していく。
光の粒子は東大陸の北にある都市国家イータルの西付近から、南はエルザード大森林の西端部、人間族との国境まで、惑星を半分に割るような円盤状に集合していき、この惑星の東西に広がる巨大な大陸を、北東から南西の方向に斜めに横切るような「環」を形成したのであった。
そう、この惑星に「環帯/プラネタリーリング」が出現したのだ。
オーロラの様に成層圏から降りてきた「環帯」は地上にまで達し、そのまま強固な障壁となって生物の行き来を完全に遮断したのである。
それと同時にロウの二つ目の魔法、今度は固有能力【古代魔法/転移】が発動した。
環帯を境にして、人間族領にいた妖精族、獣人族、魔人族、妖魔族は混血を含め全て東大陸方面へ、妖精族、獣人族、魔人族の領地にいた人間族は全て西大陸方面へと、強制的に転移させてしまったのだ。
ロウの身体が分解されて発生した粒子は、人間族の領地と妖精族、獣人族、魔人族の領地を分かつ、いやこの世界の種族を完全に分かつ、巨大な壁となったのである。
それはこの惑星において、完全に人間族とその他の種族が隔絶された瞬間であった。
ロウが言っていた最後の足掻きとは、種族間の差別や争いを二度と起こさせないための物理的な障害と、諸悪の根源、隷属魔法の消滅だったのだ。
だが、キョウにとってそんなことはどうでも良かった。キョウが失ったものは余りにも大きかった。
キョウは天高く聳える銀色の壁を見上げている。金色の瞳から流れる涙を拭うこともせずに。
◆
緩やかに風が流れ、草原の草花を揺らしてまた空へと帰っていく。
自然豊かなこの場所は、近年人の手は全く入っていないにも拘らず、樹木と草花、鳥獣と虫らの均衡が絶妙に保たれており、まさに楽園と呼ぶのにふさわしい場所であった。
ここは、ロウが塒としていた南の海上にある浮遊島である。
浮遊島はロウのが作った環帯境界の真上に浮いており、この場所だけが唯一人間族の世界と妖精族、獣人族、魔人族達が住まう世界を行き来できる「門」となっているのである。
この世界を二分する「壁」が出来たことで、人族の世界は大きく変わってしまった。
人間族領から他種族が消えたことで、様々な魔法の衰退、武器道具の製造技術の消失、冒険者達の質の低下など数多くの問題が発生し、人間族は大混乱に陥った。
最大の混乱は隷属魔法が消滅してしまったことで、奴隷を生み出す事が出来なくなった人間族は、犯罪発生の抑止力として、騎士や憲兵とは別の犯罪警備摘発組織を緊急に整備しなければならなくなったのである。
一時期は犯罪者が溢れ、治安が悪くなってしまった国もあったが、国と冒険者組合、自警団の踏ん張りにより、何とか持ちこたえている。
ある国は大陸を二分する「壁」が諸悪の根源と決めつけ、環帯を破壊しようと大軍を送ったが、壁は如何なる物理攻撃も魔法攻撃も弾き返し、無駄な金と労力を消費しただけの結果となった。
だが、そんな混乱もしばらく経つと収束していき、人間族は東大陸を「異境」と名付けはしたものの、その言葉すら記憶の片隅に追いやり、東大陸の存在を無視したのである。
一方、妖精族、獣人族、魔人族の領地では、それほど大きな混乱は起こらず、これまでとは変わらない生活が続けられていたと言って良いであろう。
むしろ、人間族という数の脅威が去った今、自国の力を高めようと積極的に移民の受け入れや開拓、「魔境」での魔獣討伐が進められ、少しずつ居住可能な安全圏が拡がっていったのである。
魔獣で溢れかえっていた森では、討伐によってその数が減り、人手不足から魔獣が溢れ出ていた未攻略の迷宮も、国ごとに管理されるようになった。
だが、人間族の地から強制的に転移させられた者の中には生粋の西大陸出身者も数多くいて、その中には東大陸で暮らすという先の見えない不安が拭えず、自暴自棄になる者も少なからずいた。
この問題を重く見た魔人族の代表達は、彼らを自国に引き入れようという動きを一旦止め、主権と領地を認めた新たな都市国家を、新たな種族混成国家イータルとして誕生させたのである。
このような事が出来るのは、東大陸では元々種族間のいざこざも少なく、過酷な環境下で互いに足りないモノを補っていかなければ、安全に生きていけないのだから当然である。
隷属魔法も種族間差別も、元来無くても良いもが当たり前のように存在した時代は、終焉を告げたのである。
そんな新しい世界を見下ろす、人族は決して入ることは出来ない浮遊島に、全身漆黒の防具に身を包んだ銀髪の女が立っていた。
以前は後ろで一つにまとめていた長い銀髪をバッサリと切り、一層精悍さが増したような雰囲気である。
浮遊島の中心にある大きな湖の畔で一人佇み、もうずいぶん長い時間、紅い石が付けられた指輪を見詰めていた。
もちろん彼女は、闇の勇者から闇の断罪人へと称号が変わり、ついには魔王と呼ばれるまでになった転移転生者キョウである。
彼女は毎日こうして紅い石に語りかけているのだ。
「キョウさん。」
そんなキョウの背後から涼やかな声が掛けられた。
相当集中していたのか、少しだけ肩を上下させてからキョウが振り向くと、美しい金髪を揺らし、柔らかな笑みを浮かべた異界からの転移者レイが立っていた。
彼女の後ろには、レイと同郷の転移者トウゴとセナミが、もう少し離れてケンジも立っていた。
セナミ以外、一度はこの世から消えてしまった命であった。
ロウの応急処置と、新たに創造した蘇生の魔法、そしてキョウの神力によって、二月後にレイが、その一年後にトウゴとケンジが目覚めたのである。
彼らの死に絶望し、全人族を皆殺しにするとまで宣言したセナミが狂喜したのは言うまでもない。
蘇生した彼らは、始めのうちは気持ちと体のバランスがうまく取れず、起き上がることすらひと苦労だったが、真面目に取り組んだリハビリと、この世界に召喚された時に跳ね上がっていた身体能力のお陰で、元来の力を取り戻したのである。
キョウは今、ロウの眷属達とともに浮遊島で暮らしている。
浮遊島へ昇るには、ファーレン王国にある転移陣と、ソシラン王国オヌワーズ領にある転移陣を使うか、ロウの眷属の背に乗って飛ぶしか方法はない。
隷属魔法が消滅した今、奴隷そのものが居なくなったため、キョウが取り組んでいた非正規奴隷の解放はその役割を終えたといえる。
しかし、強者に虐げられる弱者は後を絶たず、非人道的な人身売買は今もなお行われているため、組織はまだまだ忙しく活動中なのだ。
東大陸では、相変わらずフレンギースとセイヤ、カミュが中心となって各国を廻っている。
人間族の領地西大陸では、異界からの転移者トウゴ、レイ、セナミ、ケンジの四人が中心になって弱者救済に当たっているのであった。
そしてキョウもここを拠点にして精力的に活動している。この世界でただ一人、壁を越える事が出来る人族として。いまだに魔王、東大陸を纏め上げる王として。
限りない人族の欲望に対抗していく活動は、決して折れぬ心と地の果てまでも向かう行動力が必要だが、キョウの組織は揺るぎない信念の元に行動しているので、彼らが立ち止まることはなかったのである。
ロウが再び戻ってきた時に「良い世界になったな」と言わせるのだ。
「キョウさん、この場所が本当にお好きなんですね。」
「うん、寝そべったら最高。」
「そうですね、草が柔らかいですもの。フカフカだわ。」
ロウがいつも言っていた事だけどね、と心の中で微笑みながら、キョウは再び指輪に目を戻した。
「キョウ姉さんは、ロウの旦那が戻るってほんと信じてんだな。まぁ俺達も礼は言わなきゃなんないし、同じだけどよ。」
「このまま消えてもらっては困ります。僕だってロウさんに謝らなくちゃならないんだ。」
「大丈夫。ローちゃんはそんな事気にしない子。」
「ロウの目玉も刀も、残ってるから。完全に消えてないよ。」
「そうですね。その指輪もロウさんの一部ですよね?帰って来るときの道標になるのかな。」
「そう。」
短く答えてキョウが顔を上げ、美しい金色の瞳で高く聳える銀色の壁を見上げながら呟いた。
「大丈夫、ロウはきっと戻って来るよ。いつかきっとこの世界に。」




