2.隠家
迷宮攻略村の早朝。まだ陽は山の頂に隠れ見えないが、辺りはすでに明るくなってきていた。
立ち並ぶテントとテントの合間では煮炊きの火が起こされ、朝食の準備をする者、自分たちの武器装備の点検をする者などが集まり、今日の稼ぎに思いを馳せながら火の周りを囲んでいた。
早い者なら既にテントをたたみ、迷宮の中に入っている時間だ。
二十層以下の深層まで潜っているベテランの冒険者なら迷宮内で野営する場合もあるが、大抵の冒険者は日が昇る前に迷宮に入り、日が暮れるころ攻略村に戻って来る。
迷宮内では魔獣の死体や一定時間動かないモノは全て床に沈み、そのまま飲み込まれてしまうので、迷宮に飲み込まれないための魔力阻害術式を書き込んだ高価な布を敷いて寝る必要があるからだ。
その日、いつも通りの朝を迎えた攻略村で、迷宮攻略の準備をしていた冒険者たちは信じられない光景を目にした。
突然轟音と共に上がった火柱が山の斜面の一角を吹き飛ばし、中から噴出した炎が遥か上空の雲さえも蒸発させたのだ。そしてポッカリと開いた山の斜面の大孔から巨大な竜が飛出し、空中で咆哮をあげたのである。
80mはある真黒の体に九つの首、体長と同じくらい巨大な一対の蝙蝠の羽、四本の足先と尾には鋭い爪が銀色の光を放っている。それは誰もが知っているお伽噺。この世を滅ぼさんと魔獣たちを操り、人族を滅ぼそうとした不死竜ヒュドラであった。
その禍々しい姿、空気を凍らせるような咆哮、身に纏う強大な魔力に、真近にいた冒険者達は硬直し、まだビギナーの冒険者などはその場で腰を抜かしてしまった者までいる。
空中に静止したヒュドラは地上にいる冒険者たちを一睨みすると、さらに上空の雲の中へ消えていったのである。
◆
「最深層の階層主ヒュドラが地上に出てきただと?!」
「はっ、四日ほど前『怨嗟の迷宮』の出入口結界が内側から破壊されまして、中から九頭の有翼巨竜が這い出し、王都の方に向かって飛び去ったとの事であります。」
「何故だ!迷宮の階層主は部屋から出ることは出来ない筈だ!どうやって出たというのか!」
「それが・・・光の勇者シン様が迷宮攻略の際、階層ごとの結界を全て破壊されてしまわれたようで・・・それで・・・」
「・・・どういうことだ?」
「は・・・結界を壊しながら下層階まで進み、最深層のヒュドラに敗れた、と・・・」
「っ!なんということを!それで彼らは無事なのか?」
「はっ、重傷軽傷はありますが勇者一行と随行の騎士ともご無事です。ただ、荷運び奴隷は何故か隷属の首輪を外して逃げ出し、行方知れずだとか・・・」
「・・・生存している?まさかヒュドラが見逃してくれたとでも言うのか?」
王都ダガリスクのほぼ中央に位置する王城。その王城内にある近衛騎士団屯舎の団長室で行われている会談である。中にいるのはこの部屋の主、と配下の騎士二人であった。
『怨嗟の迷宮』からヒュドラが出現してから四日が過ぎ、ようやく王城にも情報が入ってくるようになったところである。
近衛騎士団を率いるファリアナはエルフ族である。見た目こそ十代、二十代で通るほど若々しいが、長寿なエルフ族である彼女は生を受けて二百年が過ぎ、軍人として円熟期を迎えている。同じエルフ族であればまだまだ少女と呼んでも良い年齢だが。
ヒュドラが飛び去った後、冒険者組合はすぐに探索隊を編成し、炎で溶解した迷宮入口が冷えるのを待って中の探索に突入した。中にいた二十名ほどの冒険者達は一層よりも下層にいたため、迷宮入口で起きた惨状に巻き込まれることなく無事でいたのだが、彼らの口から驚くべき情報が齎された。
二十九層までの迷宮内の魔獣がほとんど消え失せている、と。さらに攻略途中でヒュドラなどと出くわしたりしなかったというのである。
探索村にいた冒険者の中で、エクスぺリア(銀)ランクのパーティと有志十数名に三十層以深の探索を強行したところ、この迷宮のすべての魔獣が消え失せたことが判明すると共に、最深五十層の階層主空間で蹲る勇者一行を発見したのだ。
ここまでの調査で丸一日費やし、翌日早馬の連絡を受けて王都冒険者組合職員と王都より守備兵が派遣され、現在も再調査が行われている。
迷宮コアが見つからないことから、迷宮の主ヒュドラが持ち去ったか、破壊されたか、何れにしても『怨嗟の迷宮』はもはや迷宮ではなくただの洞窟となってしまったことは間違いなかった。
「・・・ヒュドラがこちらに向ったというのは間違いないのか。」
「攻略村にいた冒険者たちが口々に申しておりました。冒険者組合でも周辺を捜索しておりますが、これまで目撃情報すら全くありません。」
「分からぬ…それほどの巨体をどこに隠したというのだ。別の場所に飛んで行ったのではないか?」
「この事態を受けて陛下も王国軍による捜索を御命じになり、準備が行われております。各軍の支配地域から連絡が来るまで、今しばらく時間が掛かるでしょう。」
国にとっては迷宮が無くなってしまったことより、迷宮からヒュドラが解放されてしまったことが重要課題となるであろう。何故ならヒュドラを解き放ってしまったのが、ソシラン王国が召喚した光の勇者であるからなのだ。
厄災の不死竜が暴れ出したら、万が一、ヒュドラが他国に向かい、なんらかの損害を与えてしまったら国家間の紛争にも発展してしまう恐れがある。
そうなる前に何としても国内で探し出し、王国軍全軍で討伐に当たらなければならない。それほどヒュドラは危険且つ厄介な存在であるのだ。
「とにかく耳目を広げて些細な情報でも集めるのだ。哨戒部隊を増やして事に当たれ。冒険者組合との連携も忘れるな。」
「はっ!」
◆
その頃、当のヒュドラは王都の方角とは全く別の位置、雲の中にいた。いや、正確に言えば、周囲を厚い雲で囲まれた天空に浮かぶ巨大な陸地、浮遊島にいる。
いつの間にか異界から転生させられ、長い間迷宮に閉じ込められていたヒュドラは、当然人族の間に伝わる自分に纏わる伝説やお伽噺などは知らない。
人間達からは討伐される側にいるという事は何となく理解しているが、迷宮を脱出できた今、自分から人間を殺そうとか、この世界を滅ぼそうとか、そう云う感情は全くなかった。
そんな事よりこれから見て廻ろうとしているこの世界の景色が楽しみでならないのだ。
この世界、ヒュドラはその名を知らないが、惑星構造のこの世界の大きさは昔住んでいた「地球」の九割ほどの大きさで、二つの衛星をもっている。陸地と呼べるものは二つの大陸と無数の小島、そして天空に浮かぶ浮遊島が三つある。なお二つの大陸は陸続きでこの世界の四割を占めている。
ただし、大陸上での人族支配地域は半分にも満たず、大陸全体の半分は「魔境」と呼ばれる深い森と切立つ山々、そして幾条にも連なる渓谷で構成された地形で、人族の侵入を許さない厳しい環境下にあり、それ故魔獣たちの楽園となっていた。
一方浮遊島はというと、地上にいる者達はその存在こそ知っているが、詳細までは知られていない。大きさがこの世界最大の湖デトフトレス湖(約二万㎞2)がスッポリと収まるほどと云われている位で、何故浮いているのか、どんな生物が住んでいるのか、それを知っている者は誰もいなかった。
これまで幾人もの召喚士や魔獣使いたちが達が呼び出した飛行型魔獣(飛竜や魔鳥など)と共に調査に出向いてみた事はあったが、激しい気流と厚い雷雲に阻まれ、近付くことすらできない状況だったという。そんな場所がいまヒュドラの塒となっている。
あの場にいた冒険者達の証言通り、一旦は目についた人里へと向かったのだが、改めて自分の姿を見て街に向かうのを思い留まったのだ。迷宮の外に脱出できたという興奮から少し冷静になると、迷宮から脱出した時に人族の前に姿をさらしたのは拙かったと改めて後悔した。
ヒュドラはわざわざ勇者様が討伐に来るほど最上級危険生物に指定されており、ランクでいえば神話級生物である。それが野に放たれたとなれば、間違いなく国を挙げての討伐隊が向けられてしまうだろう。
それならば、ほとぼりが冷めるまで姿を隠しておくしかない。何処か人族が居ない場所がないか探してみようと改めて周りをみた時、空中に浮かぶこの島を見つけたのである。まさに異世界ファンタジーであった。
巨大な岩の塊が浮かんでいるような島である。地表から見ればただの岩塊に見えるが、上空から見るその姿はまるで地面を切り取ったように豊かな自然が育まれていた。小高い山を中心にして森や草原、湖や川まである。
有翼人種や天使のようなモノがいたら厄介だが、慎重に近付いて行っても浮遊島に動きはなかったので警戒を解かずに島に降り立ったヒュドラは、ここは魔獣達がいない「迷宮」であることを理解する。
この浮遊島には、魔素凝縮石とみられる鉱石が点在して埋まっており、周辺の雲が壁になり大気が滞留しているので、大気中の魔素の濃度が高い。つまりここはヒュドラのいた「洞窟型」迷宮と同じで、巨大な「平地型」迷宮と言っても良いだろう。
(これは良い場所を見つけた。)
これだけの広さと魔素濃度があれば、迷宮から連れてきた七眷属がここにいても何の問題もない。空間魔法で地上とのパス(魔法陣転移経路)を創ればいつでも行き来できるようになるし、万が一命の危険に晒されても即座に逃げ込む事が出来る。
早速、ヒュドラは浮遊島の改造に乗り出した。
先ず浮遊島の外周部六カ所、土魔法で地面を丸いテーブルのように隆起させその上に結界魔法陣を設置する。魔法陣を線でつなげば六芒星となり、その中には外から入ることはできない魔法結界となるのだ。
結界が出来上がったら、ヒュドラは亜空間世界の扉を開いて、中で暮らしていた七眷属に出てくるよう促す。亜空間世界もそれなりに広い世界であっが、こことは比べようもない。出てきた眷属達は不思議そうに周囲を眺めていた。
(ここで自由に暮らすとよい。ときに地上に行ってもいいが人族とモメるのは控えて欲しい。)
そう伝えると、どうやら地上に降りようとする者はいない様で、皆悠々と広い浮遊島のあちらこちらに散らばっていった。ハジリスクは湖の中へ、バフォメルは地下へ、九尾とキマイラは森へ、ボーンドラゴンとフェニックスは山の頂へと。
ふと見ると、七番目に眷属となったシャドウアサシンがヒュドラの足元に残っていた。シャドウアサシンはその名の通り影や闇に潜み、音もなく獲物に近づいて命を刈り取っていく人型に擬態した鬼獣である。
前進が真黒で顔の器官は無い。迷宮階層主にはヒュドラが自ら作った武器や魔道具を与えており、このシャドウアサシンには自分の鱗から削り出した双剣を持たせていた。
名 前:‐‐‐(シャドウアサシン)
種 族:鬼獣
状 態:平常
生 命 力:‐‐‐ 魔力量:‐‐‐
能 力:迷宮階層主43
不死竜ヒュドラの眷属7
固有能力:【影移動】【不可視】
特殊能力:【状態異常耐性】【闇魔法】
通常能力:【幻影】【体術】【隠蔽】
武 器:ヒュドラの鱗の双剣
ヒュドラの影を指さしているという事は、どうやらヒュドラの影の中に入りたいという事らしい。念話でシャドウアサシンの意識に語りかけると、「影に入り常時主を外敵から守る」という事を伝えたいらしかった。
一等級クラスの魔獣を自分の影の中で飼うなど物騒極まりないが、主を守るのが当然と言わんばかりに胸を反らせるシャドウアサシンに、ダメというのも可哀そうだと考え直したヒュドラはは渋々了承した。
シャドウアサシンが影に沈むと、ヒュドラは次の行動に移る。
亜空間世界に仕舞ってあった怨嗟の迷宮産の魔素凝縮石を十四個取り出すと、眷属達がそれぞれ自分の塒にした場所の近くへ一体につき二個ずつまとめて置いておく。勿論悪戯されぬよう結界陣を施したうえでだ。
シャドウアサシンの分は、我固有能力【創造】を使い、魔素凝縮石を腕輪に変化させて身に着けておけるように調整した。シャドウアサシンは腕輪を受け取ってしばらくの間フリーズしていたが、再起動してすぐ腕輪を身に着けると何となく弾んでいる気持ちが伝わってきたので、喜んでいるのだろう。
そしてもう一つ重要な行程、浮遊島の中心部の山の麓に転移魔法陣二つ(出口と入口)を設置して転移経路を確立した。
これでヒュドラは地上で同じ魔法陣を設置若しくは古代魔法で発現させれば、いつでもこの浮遊島に来る事が出来る。眷属たちはヒュドラが召喚するしかないが、この陣があると同じ所へ送還できるため、眷属達への負担も軽減できるのである。
(これでこの世界での拠点が出来た。)
湖の畔の広い草原にゆったりと寝転びながら、ヒュドラは満足げに笑のだった。
それから浮遊島でダラダラ過ごす事七日。その間ヒュドラはあちらこちらを探索し大体この島の全容が分ってきた。
この島が何故空中に浮いている訳は浮遊島の地下?に重力石の鉱脈が多量に埋まっているためである。地上ではすでに掘り尽くされたといわれる希少鉱石で、数百年前までは輸送の必需品として重宝されていたものだ。それがここには大量に残されているのだ。
むろん重量軽減の効果が永久に続くわけではないので、いつかはこの浮遊島も地表へ落ちるだろうが、それはまだ数百万年も先の話である。
さらに生態系を見ると、この島には魔獣や魔植物はおらず、ほんの僅かの鳥と虫たちが住みついているだけだという事、植物は地上にいるものと変わらず、中には食べ物になりそうな実を付けている木々もある事などが分かった。水は全て淡水で、魚や両生類など水生生物は生息していない。島の端部から流れ落ちる水は直ぐに周りの雲に吸収され、雨となって再び浮遊島へ降り注ぐのだ。
ただ、ここの植物が何となく元気がないように見えるのは、ここは食物連鎖から外れてしまったこの土地で土自体の養分が不足しているためであろうと予想を付ける。植物を喰らう虫や獣が死骸となって土に還るとき、多大な養分を還元するが、それがここにはないのだ。
つまり今生えている植物が荒らされない程度には、獣や鳥、虫などを入植させなければならないという事である。ヒュドラが地上に降りるとき、最初の仕事が決まったようなものだ。
(下界からいろいろ調達してこなければならんな。)
そうは言っても、この開放的な空間でもう少しだけ惰眠を貪ってから下に降りようと、再び草原に寝転ぶヒュドラであった。
◆
王都ダガリスク。王城の一角にある大広間に、エラセナ・ソシラン王を元としてクロフ宰相、ホーンデル大将軍、ファリアナ近衛騎士団長、ヴァリストリズ魔法士長など国政の中枢にいる人物が集まっていた。
その中に皆の視線を集めて、居心地の悪そうに俯く五人が勇者様御一行である。
「・・・なるほど。四十一階層から階層主を無視して進んだと・・・。その際に結界を破壊した訳か。」
「・・・。」
「下に行く扉自体が結界であることは分かっていたはずだが?あの結界は人族では解明出来ない術式で組まれている。それを破壊などと・・・。」
「・・・時間が惜しかったんだ。四十層まで雑魚みたいな魔獣しかいなかったし、あの程度なら一日で潰せると・・・」
「シン様、聊か早計でした。結界を破る前に皆と作戦を練れば良かったかもしれません。」
ファリアナ団長が勇者の『愚計』を『早計』に言い換えて暗にシンの行動を諌めるも、どこか拗ねた様子の勇者様には届いていないようである。異界から召喚されてきた勇者は、強大な力を持っているにも拘らず、年が若く精神が出来上がっていない。他の者に対して尊大で、まるで自分がこの世界で絶対者であるような錯覚をしている節がある。
エラセナ王は、近々人族のテリトリーに向けて何処かで魔獣の大氾濫が起こるというメサイナ神教会の神託を受けて、王国防衛の切り札にするため、自国の力のみで一年前に大規模召喚術を敢行した。
大規模召喚魔法は、過去の大戦で戦火を増長させる切っ掛けとなった魔法であり、この戦いで勝利した連合国側が禁法に指定したため、術式を示した魔導書も現存する物は殆どなくなっていた。
しかし数年前にソシラン王国の王城の奥深く、誰も立ち入らぬ地下倉庫に眠っていたモノを全く偶然に発見されたので、国家専任魔法士達が莫大な金と時間と労力を注ぎ込んで研究を進め、何とか実用レベルまで解読したのであった。
禁法とされていたにも拘らず大規模召喚魔法を実行したのは、神託が示した大氾濫だけが理由ではなく、近年、西大陸一の強国アイゼウン帝国が軍備を増強しているという噂もあったため、でもあるのだ。
召喚魔法は成功し、「チキュウ・ニホン」という世界から若い男女が一人ずつこの世界に降り立った。
召喚された二人は、強大な魔力と人を超えた身体能力を持っており、訓練では熟練の騎士を圧倒し、魔獣との戦いにおいても二等級魔獣なら単独で屠る事が出来た。
だが、所詮子供だ。特に男の方、勇者シンは、あからさまに表に出すことはないとはいえ勝負に勝てばつけ上がり、強い魔獣を一体でも倒せば英雄気取りである。しかもより強力な武器や魔法の知識を求めたり、あの年で奴隷の女を求めるなど、素行でもただ手の掛かる餓鬼であった。
一方の女の方、勇者キョウは年は勇者シンより上のようだが、殆ど表情を変えず、喋らず、不思議な子だった。内包する魔力は勇者シンよりも優れているし、身体能力でも剣術、槍術など熟練度が高かった。聞けば彼らの世界での戦闘訓練「ブドー」で修練していたらしい。
キョウは訓練を開始する前からすでに近衛騎士団長と同等以上の戦いぶりで、白金クラスの冒険者に匹敵すると言っても過言ではなかった。勝負に勝っても驕らず、と言っても全く表情を変えないだけだが、勇者シンとは正反対の印象だった。
その彼女が、半年ほど前に突然王城から消えた。覚えたての字で「さようなら。ありがとう。」と残して。
捜索は今も続いているが、目撃情報すら得る事が出来なかった。
そして今、この世界を破滅に導くという厄災の不死竜ヒュドラが野に放たれた。
メサイナ教の信託がこの事を指していたのかどうかは分からないが、迷宮の外に出たヒュドラがこの世界にとって一番の脅威となったという事だけは間違いないだろう。
それほど重大な事であるのに、と勇者一行を横から見るファリアナの胸の内は暗澹たる思いしかない。
(なぜ異界からの召喚者は年若い者しかいないのか、分別のある大人であればつまらぬ気遣いなど不要であるのに。)
「なにも俺だけの責任じゃないだろう!?予備知識も準備期間も無しに迷宮を攻略しろと命令したのはあんた達じゃないか!」
「うむ。責任の一端は我々にもある。それに今は原因追究より今後の対策を決めるのが先だ。」
今は王都近くに潜んでいるかもしれないヒュドラからの、王都防衛について話し合う会議を行っているのだ。ホーンデル将軍が場を引き取り、議論の方向性を戻すとそのまま現状報告を行う。
「現在、軍は王都防衛、北国境防衛、魔境氾濫防衛、各都市への駐屯兵と四つに分けて展開している。何処も兵を割いて王都防衛の増強に回す余裕はない。」
「しかし、ヒュドラがダガリスクに向ったという情報がある以上、王都防衛を厚くせねば甚大な被害を被ることになるぞ。」
「王都には勇者殿一行が留まっていれば良いのではないか?それならば王軍の増強など不要であろう。」
「だが、シン様ですらヒュドラに敗れている。王軍の戦略結界でも使わなければ、迷宮の入口を吹き飛ばす程のブレスは防げぬぞ。」
ヒュドラが迷宮入口を吹き飛ばして出てきたことはすでに報告されていた。その威力を考えれば大勢の兵士の魔力を使って、広範囲に障壁魔法を展開する戦略結界でも防げるか不安な所であった。
「次は必ず倒して見せる!この間だってもう少しの所だったんだ!!」
「王都で範囲爆裂魔法を放たれても困ります。」
魔法士長が即座に釘を差す。ヒュドラとの戦いで勇者が放った爆裂範囲魔法の事だろう。実際、勇者の仲間たちはヒュドラとの戦いの傷より、勇者が放った爆裂魔法に巻き込まれて受けた火傷の方が怪我としては重かったのだ。
また戦うというシンに対し、それまで俯いていた他の四人が何か訴えるような目でみている。
彼らは再びヒュドラと戦ってもとても勝てないという事を分かっているのだ。あの時、自分たちが繰り出す殆どの攻撃をはね返されて全く歯が立たなかったし、ヒュドラの方から自分たちに攻撃を仕掛けてきたのは触手だけで、魔法攻撃も迷宮の入口を吹き飛ばすようなブレス攻撃もなかった。ヒュドラは本気で戦っていないことは明確だった。
それを裏付けるように、当然の如く自分たちは生きている。装備や持ち物の殆どを奪われたようだが、あの魔獣に喰われなかっただけでも運が良かったのだ。あれだけの力の差を見せつけられて、再び戦いを挑むなど愚の骨頂である。
「シン様、あれは我々の想像を超えたモノでした。今のまま再び挑んでも倒す事はできないでしょう。」
神官服を着た女、エリサーナがシンとは対照的な静かな声で言う。彼女は神聖魔法、怪我や状態以上の回復魔法の使い手で、教会から勇者パーティの一員として派遣された優秀な魔法士である。
ヒュドラの触手に捕えられ、もう少しで食べられることろで気を失ってしまった。気が付いた時には、他の皆も爆風で吹き飛ばされて服も体もボロボロ状態、ヒュドラはすでにその場にはいなかった。
「力が違いすぎます。私たちの攻撃では、ロドリスの爪もシルヴァスの矢もヒュドラに傷を付けることすらできませんでした。シン様の聖剣でもヒュドラの鱗を突き破る事が出来なかった。完敗です。」
「違う!!偶々鱗の硬い場所だっただけだ!皆がもっと奴の気を引いて時間を稼いでくれれば、きっと弱点を見つけ出して致命傷を与えられるんだ!」
もはや作戦でも戦術でもない、ただの精神論で戦いを進めるつもりか。エリサーナはこの勇者の元に派遣され、始めのうちは身に余る光栄な事と使命感に燃えていたが、この勇者シンと、勇者を召喚したこの国の施政者たちの実情を見てしまうとあまりの未熟さに辟易していた。
ノガバン連邦国を構成する一小国出身の彼女は、ソシラン王国にあるメサイナ神教学園で治療魔法を学んでいたのでこの国に少なからず好印象を持っていたが、政治的にかかわってみれば非常に危うい綱渡りをしているようにも見えてしまう。
魔獣の大氾濫が起こるという女神メサイナの信託だけではく、東大陸の魔人族の国ロストベル王国のキナ臭い動き、西大陸でも人族国家アイゼウン帝国の版図拡大計画など、今この世界に住む者を震撼させる出来事が続いている。
それなのに訓練のためだったとはいえ、無謀にも迷宮最深部に挑み、あまつさえ厄災の神獣ヒュドラを開放してしまうとは、その一端を担った自分を神の名のもとに罰したい気分であった。
それぞれの胸の内で様々な感情が入り乱れ、会議室がだんだん熱を帯びてくる中、それまで静かに耳を傾けていたエラセナ王が口を開く。
「まぁ待て、ここで熱くなっても良い結果は生まれない。どうだろう?勇者シンは大氾濫の抑えに行ってもらい、其方から兵を王都に回すのは。王都防衛の兵数はホーンデルに一任する。」
「成程、シン殿が魔境の抑えに居れば十分兵は裂けまする。」
「勇者シンも此度のヒュドラとの戦いを反芻し、次回相見まえた折に結果を出せばよいであろう。ヒュドラ出現を機に『魔境』の魔獣達が活性化するかもしれぬ。抑えはシン殿に任せよう。」
「くっ!」
いまだ納得のいかない様子の勇者シンだが、これ以上問題を大きくしたくない施政官達と自分の能力の低さを改めて認識した他のパーティメンバーが押し留め、ヒュドラ対策は王都の防衛線を厚くすることに決定した。
勇者の態度増長を如何に押し止めるか、ソシラン王国にまた新たな厄介事が燻っていることを再認識した一同であった。
◆
「エリサーナ。」
王城内に用意された自室に戻ろうとしたエリサーナを呼び止める者がいた。振り向くと仲間であるシルヴァスが片手を上げて小走りに駆けてきている。エルフの国ファーレンから来た女戦士で、精霊魔法と魔法弓の使い手だ。
翠色の長い髪で碧眼、長身でほっそりとした体型の彼女は一見成人前の少女のように見えるが、実は齢250年を超えるエルフの中でもベテラン域の戦士である。この国の近衛騎士団長であるファリアナに請われて勇者パーティに参加したのだった。
女同士この数か月寝食を共にしてきたので、互いに気心は知れている。立ち話もなんだからとそのままテラスに出ていき、備え付けのベンチに並んで座った。
「さっきの会議の話?」
「ああ。勇者パーティの一員にって言われた時はまぁ戦いに行けるならって喜んだけど、まさかその勇者が力を持ったただの餓鬼とは思いもしなかったわ。」
シルヴァスもまた先ほどの勇者シンの態度に辟易していたらしい。もっとも彼女は事ある毎に言い寄ってくるシンを適当にあしらい続け、かつシンの気分を害しないよう大人の対応を見せていたので、そんな様子を横で見ていたエリサーナは、彼女はどのみちシンに好印象は持っていないと思っていた。
「移動の途中でも奴隷女と乳繰り合っているし、私まで舐めるように見られるのはいい加減ごめんだわ。」
「英雄色を好む、か。異界人で能力を持ってなければコブリンやオークと変わらないけどね。」
そんな愚痴から始まった話だが、シルヴァスが言いたいことは分かっている。あの迷宮で戦ったヒュドラの事だ。
「怨嗟の迷宮」は五十層からなり、最下層の迷宮主が不死竜ヒュドラであることは女神メサイナの信託で分かっていた。だがあれは、あの迷宮の深層にいたのは、魔獣のような知能の低いモノではなく、ヒュドラをはじめとして神獣や霊獣といった知性のある高等生物のような気配をもっていた。
「あのヒュドラは今まで私が戦ってきた魔獣なんかとは比べ物にならない。桁違いだわ。あれを倒そうなんて万の兵士で向かっても無理に決まってる。」
「そうね・・・。四十層からの階層主だって、あれだけでレジェンダリの冒険者でも手も足も出ないような強さよ。それを創りだしたのが最下層の迷宮創造主であるヒュドラという事になるんでしょ?」
「そうなるわね。それにあのヒュドラは私たちを殺さなかった。最初から殺すつもりもなかったようだわ。明らかに手加減されていたもの。」
自分たちが助かった理由が本当に判らなかった。奴隷たちをどうやって解放したのかも。一つだけ言えることはあのヒュドラは、確実に人族の考えや行動を理解しているという事だ。
「ねぇ・・・ヒュドラもそうだけど他の階層主はどこ行っちゃったんだろう?」
「上の階層にも階層主の死体は残っていなかったらしいから出て行ったんだろうね・・・。フェニックスにボーンドラゴン、九尾か・・・。」
「白い双頭竜はハジリスクよ。伝説の神獣だね。私たちとんでもない事やらかしたね。厄災級どころか破滅級の魔獣、いや神獣まで解放しちゃったんだから。」
「迷宮の魔獣達はともかく、ヒュドラはどこに行ったんだろうか?やっぱり「魔境」かな?」
「・・・もしかしたらもっと近く、すぐ傍に居るかもしれない。」
「え?」
「ん・・・何となく。良くわからないけど我々に近いところにいるんじゃないかって、そんな気がするのよ。」
「まさかね・・・。」
自然と共に過ごす時間の長いエルフ族は精霊魔法に精通し、人族では存在を意識することすらできない「精霊」と繋がりを持っている。自然の変化に敏感で、ちょっとした変化でも違和感を感じてしまうらしい。
精霊はヒュドラを見ていない、もしくはヒュドラが気配を消しているのか、エリサーナには分かるすべはなかった。