19.戦争
足元の草花は朝露を湛えて輝き、穏やかな西風が葉を揺らすごとに大地を潤す雫を落とす。
普段は草食獣の楽園であるレイストル平原からは獣の姿は消え、代りに血に飢えた人族達が獲物を前に殺気を振り撒き、その場を満たす張り詰めた空気が今にも破裂しそうである。
圧倒的少数のファーレン王国軍は守り人と闇の勇者を戦闘に丸く固まる魚鱗の陣、ブリアニナ王国の大軍がこれを押し包まんと鶴翼の陣で対峙した。
そんな中、キョウはロウが作った長柄の偃月刀を両手で持ち、顔の上半分を隠した銀色の仮面を装着してファーレン軍の前方に立っていた。この仮面には認識阻害の魔法陣が組み込まれていて、髪の色や長さ、顔の輪郭などを見る者の意識によって都合よく改変させる魔道具である。
一方、黒狼姿のロウは背中から生やした二本の触手を使い、背中に跨ったキョウの腰をがっしりと自分の背に固定して振り落さないようにしている。
この戦争の要因を作ったこの二人、出来るだけ妖精族に被害を出さないようにするため、単騎で敵陣に突入する心算であった。
無謀ともいえる作戦だが、共に人族以上の身体能力と固有能力を持つ二人ならば、密集した集団の中に入りさえすれば刀術、槍術の能力を持つキョウは有利に戦う事が出来るはずだ。
『キョウさんや。マジであの中に突っ込むのか?しかも我とキョウだけで?』
「先手打って攪乱する。」
『・・・我が元の姿に戻ってブレスでも吐けば、あっという間に全て消し去る事が出来るぞ。』
「それじゃダメ。ロウじゃなく妖精族が勝たないと。」
『そういうものか。』
「そういうものよ。」
二人がどこか長閑な様子で会話を交わしていると、双方から開戦の銅鑼が鳴らされ草原の空気が一気に膨張した。
まずブリアニナ軍の騎兵部隊が飛び出してくる。先に約三百の騎馬で突っ込んで歩兵と弓兵のみであるファーレン軍を蹂躙し、敵が陣を保てなくなった時点で重歩兵を投入する定石通りの戦法だ。さらに重歩兵部隊の後ろには、白のローブで統一されたサキュリス正教国魔法部隊が何時でも魔法攻撃を行えるよう待機している。
ブリアニナの騎兵隊は、人間族の使う弩よりも長く飛ぶと言われるエルフの弓の射程に入る直前で一斉に散開し、小隊ごとにファーレン軍の陣に突っ込んでくるはずである。散開した騎馬は弓では狙いを絞りにくいからだ。
騎兵部隊が両軍の中間点付近に差し掛かり、散開しようと手に持つランスを水平に構えたのが見えた。
しかし、この時ファーレン軍の先頭にいたのは火と水と雷の妖精族守護3傑である。しかも騎馬が散開する前であるのに、火の精霊との契約者フレームルはすでに己の弓を引き絞っていた。
フレームルは弓を引き絞ったまま魔力強化の制限を解除し、自分の持つ内包魔力の半分程度を弓に与えるイメージで魔力を流し込むと同時に、自分の契約精霊であるイフィトローズに願い、魔法矢を具現化させる。
(猛き炎の精霊イフィトローズよ、我の射る矢となりて目前の有形無象を焼き尽くさん・・・)
フレームルが詠唱を完成させると、引き絞られた魔法弓に真赤な炎の矢が具現化する。やがて矢が纏う紅蓮の炎はフレームルの全身を覆い、その熱が周囲にいる者達まで伝わってくるのだが、当の本人は熱がるでもなく、身に着けている物も焼け落ちる気配がない。
「はっ!!」
フレームルが短い気合いを発し、同時に炎の矢が放たれる。
周りにいたファーレンの戦士に見えたのは真赤な糸の様な細い矢の軌跡。しかしその軌跡は敵軍の目前で急速に質量を増していき、やがて何匹もの巨大な炎の蛇となって騎兵部隊に襲いかかった。
炎の蛇達は、矢の射程外だとまだ集団となっていた騎兵部隊をあっという間に呑み込み、人も馬も灼熱の炎で焼き喰らい尽くす。生きながら焼かれる者達の悲鳴や叫び声が響き、朝靄に包まれ静かだった草原はまさに阿鼻叫喚の地獄絵図に変わった。
炎が起こす熱波は騎馬兵の後方で突撃体制を取っていた歩兵達まで達し、数百m離れた自分達の所まで届いた熱風に頭を伏せて耐え、恐る恐る目を向けた先の惨状に全員が息を呑む。数百の部隊を一瞬で焼き尽すほどの大規模魔法など、見たことも聞いたことも無かったブリアニナ軍の兵達は、眼前で起きた事が信じられず、ただ目を見開いて固まっていた。
それは軍を率いるダファスタード将軍も同じで、焼け焦げて真黒に炭化してしまった部下達から目を離す事が出来なかった。
(い、一体何が起こったというのだ?!)
陣幕に櫓を組み、高見から戦場を見ていたファスタード将軍は、目前で起きた大参事に混乱していた。
妖精族が精霊魔法を使う事は知っていたが、これほどの規模の攻撃魔法があるとは聞いたことが無い。当然、人間族の上級魔法士の魔法はおろか、竜種の炎ブレスでも数百の部隊を焼き尽くす事は出来ない筈である。
呆然と前を見つめる将軍の目に、まだ火が残り白煙を上げる草原を一騎の黒い塊がこちらに向って駆けてくるのが見えた。
「ま、魔獣だ!!フォレストウルフ・・・い、いや、でかいぞ!!人が乗っている!!」
誰かが上げた叫び声に兵士達が一斉に敵陣の方を見ると、白煙が立ち込める中を巨大な黒狼がこちらに向って疾走してくる姿が映った。魔獣の背には全身真黒な防具を身に着けた兵士が跨り片手持ちに偃月刀を抱えている。朝靄を掻き消すように差し込んできた朝日を受け、白銀に輝く槍は持主の黒と対成すかの様相であった。
狼の疾走は兵士達が思っているより迅く、それこそ剣槍を構える間もなく目前まで迫ってきている。
『キョウよ。本当に良いのか?』
「うん、もう迷わない。私は私の心のままに出来ることをする。」
キョウとロウは先頭に並んでいた兵士達の頭上を飛び越え、後衛部隊の真中へ降り立つと、ロウは咆哮をあげ能力【威圧】を発動させる。すると巨大な狼の魔獣を間近に見て恐怖していた者達は腰砕けに座り込み、なんとか耐えた者も足が竦んで動ける状態ではなくなってしまった。
ロウの威圧を受けなかった者も巨大な魔獣を恐れて逃げ惑い、大混乱する兵士の中をロウは縦横無尽に走り回り、キョウは長柄を電光石火の如く振り回して敵兵を撫で斬っていく。その穂先に迷いは無かった。
狙いは弩兵と魔法士兵。極力敵の遠距離攻撃手段を封じたいからだ。
無造作に振り回しているようにも見えるキョウの偃月刀が光る度に血飛沫が上がり、ロウは進む先々で鋭い爪で障害を吹き飛ばし、爪で引き裂かれた兵士は草原に倒れたまま、二度と起き上がることは無かった。
キョウが振るう穂先の軌跡すら目で捉える事が出来ない雑兵達は、その刃を向けられただけで恐慌状態に陥り、二人が進む先はまるで楔が撃ち込まれたように広がって行く。
やがて横長に展開していた敵陣の左半分を蹂躙したキョウ達は、味方の陣から空に放たれた一条の光の矢を認めると再び跳躍して敵陣を脱出し、嘲笑うかのように敵陣の前を左から右へと横切っていく。
それを見た無傷で残った魔法士部隊が慌てて魔法を構築し火玉、氷矢、石矢を放つが、ロウの素早い動きに照準が合わず放たれた攻撃は全てロウの後方に着弾し、掠り傷一つ与える事が出来ない。
ブリアニナ軍に矢や魔法を無駄打ちさせるための茶番をしばらく続け、頃合いを見て味方の陣に戻っていった。
そんな闇の勇者の活躍を眺めながら、水の精霊との契約者アルタミアと雷の精霊との契約者サンダファレスは次の攻撃の機会を待っていた。
この二人が戦いの場で並んで立つのは何十年振りであろうか。なにせサンダファレスはアルタミアの師でもあり、娘フレンギースの名付け親でもあるのだ。妖精族の中で唯一雷の精霊と契約した男で、サンダファレスが契約に成功するまでは、雷とは神の怒りが具現化したもので精霊とは無関係の事象だと考えられていた。
彼がまだ若かりし頃、直近に落ちた稲妻の中に精霊の姿を確かに認め、以来百数十年の間、稲妻が現れるたびに契約を願ったのだという。
「師よ、闇の勇者キョウが言っていた水と雷の相性とは何だろうか?」
「さてな。水は広く雷は強く、か。アルタミアが先に仕掛けないとダメだというのだから、何か理由があるのだろう。」
「広く、か。この距離だと敵の中央部、全体の五分の一程度が良いところだろうな。フレームル殿の魔法弓は炎の大蛇が顕現したが私の弓は何を見せてくれるのだろうか。」
「ふふ、炎の蛇とは無口なあ奴にぴったりの象形であったな。相当魔力も使ったようだ。」
「私の魔力では全力で射るのは二度か三度が限度。師よ、後はお願いします。」
アルタミアが弓を引き絞りながら魔力強化制限を解除すると、弓を中心にして九つのクリスタルが横一列に並んだ。クリスタルからは冷気が放たれ、アルタミアの足元の雑草がすでに凍り始めている。
やがて冷気に当てられた中空の朝靄までもが凍り始め、クリスタルの周りは大小幾つもの氷塊が浮かんでいる。やがてアルタミアが詠唱を完成させると魔法弓に青い弓が具現化し、アルタミアは迷いなく敵陣に向けて矢を放った。
放たれた青い矢に従うようにクリスタルも射出し、またそれに追随する等に無数の氷塊も動き出す。敵陣に向けて飛ぶその姿はまるで巨大な鳥、氷の不死鳥であった。
氷の羽を広げて飛ぶ不死鳥は、展開する敵陣の中央部にいる重歩兵部隊まで一気に迫ると、敵兵を呑み込む直前に氷の姿から水の姿に様変わりし、巨大な波となってブリアニナ兵を襲ったのである。
大津波に流されたかのように敵陣が乱れ、ずぶ濡れになった兵たちが泥水に足を取られて右往左往しているが、今の攻撃で死者が出たわけではない。
「は、はは!何だ、こけ脅しか!脅かしやがって!」
泥まみれで起き上がった兵達は自分の身体にかすり傷さえない事に安堵し、派手な攻撃だった割には何の威力も無い魔法攻撃を嘲った。
だが、彼らは気付いていない。この時すでにファーレンの守護6傑最強の男、雷のサンダファレスが魔法弓を引き絞り、詠唱を完成していたことを。
サンダファレスの弓が放電を始める。最初は白く見えた放電が徐々に青白く変わっていき、サンダファレスの前方で収束するように集まってきた。
頃合いと見たサンダファレスが矢を放つと、地上を這う巨大な龍のように縦横無尽に稲妻が走り、時に弾き合い、時に融合して扇形に広がりを見せながら敵陣を襲った。
水と雷、そして金属鎧を着た人間が同じ場所にいれば、そこで起こるのは云わずとも明らかである。稲妻龍の直撃を受けた者は一瞬で炭化し、余波を受けたた者は、これまで受けたことがないほどの衝撃を感じた瞬間に全身の血管が破裂し、そのまま起き上がることは無かった。
つい先程まで戦いの喧騒にまみれたレイストル平原が、今はブリアニナ兵の悲鳴や呻き声しか聞こえてこなかった。たった三度、たった三矢で数百ものブリアニナ軍が抹殺された事実を、味方の誰も受け入れる事が出来なかった。
ブリアニナ軍だけではない。味方であるファーレンの戦士たちも魔法弓のあまりの威力に言葉を無くしている。ラフレシア女王が「神器」と称した意味をようやく悟ったのである。
当然、魔法弓の製作者であるロウは、背中に乗るキョウの呆れるような溜息を聞きながら冷や汗を流していた。ロウが考えていた以上の破壊力である。
「ロウ。」
『・・・うむ、何も言わなくて良い。妖精族が持つ内包魔力量を見誤った。』
「いや、あれでいい思う。人間族にとっては脅威。」
『妖精族に悪しきことに使わぬよう釘を差さねばな・・・。まぁ、いざとなったら召喚術で我の元に取り戻すさ。』
「そんなこと出来るの?」
『もちろんだ。我が作った物は大抵召喚できるのだ。』
「ふーん・・・。私の刀はダメだよ?」
『・・・』
キョウへの返事を保留し、ロウは再びブリアニナ軍に向かって走り出す。妖精族の先制攻撃で足並みが乱れた敵軍を掻き回すには絶好の機会だった。
次に狙うのはサキュリス正教国から来た魔法士部隊である。他国の戦争に介入してきたこの宗教国の部隊だけは全滅までいかなくても壊滅させるくらい損害を与えねばならない。それが妖精族の国に干渉するなという彼らへの警告にもなる。
先程のサンダファレスの攻撃で相当数の戦力を減らしたが、それでもサキュリスの部隊は百以上の魔法士が残っていた。
彼らは全員白地に赤の縁取りをした揃いのローブを着ているため、乱戦になっても居る場所はすぐ判る。遠目で白ローブを確認したロウは一直線に魔法士部隊へ突入していった。
黒狼の姿に気付いた魔法士たちが慌てて魔法の詠唱をはじめ、発動した魔法の火球、水球、風の矢を、ロウ目掛けて乱射し始めるが、ロウが前面に展開した特殊能力【障壁】に弾かれ、高速で向ってくるロウの軌道を変えることすら出来ない。
もはや恐慌状態で遮二無二魔法攻撃を続ける部隊の中に飛びむと、ロウは風のブレスを吐いて前方の敵をズダズダに引き裂き、キョウはロウの背から飛び降りて偃月刀を振り回し、魔法士たちを撫で斬っていく。
サキュリス正教国の魔法士部隊は、教国全土から集められた魔法適性の高い優秀な人間族で構成された云わばエリート部隊であるが、小隊での迷宮の攻略や辺境での魔獣討伐位しか戦闘経験がなく、その戦闘においても後衛として後ろから遠距離攻撃を行うだったので、自らが魔獣の爪や白刃の前に曝されたことは無かった。
そんな彼らの前に突然飛び込んできた黒狼姿のロウに対処できる者はなく、爪で風魔法で引き裂かれるだけの魔法士達はパニックに陥って辺り構わず攻撃魔法を乱射し、同士討ちを始める始末である。それは乱戦になったキョウの周囲でも同じことで、偃月刀を振るうキョウに対し、氷魔法の剣や土魔法の剣で接近戦に対応出来た者はごく僅かであった。
キョウの刃とロウの爪はサキュリス魔法士部隊の老若男女問わず振り下ろされ、サキュリス正教国の純白のローブが瞬く間に真赤に染まっていく。
完全人外に成り下がったロウは元より、理不尽な慣習を叩き壊すためと迷いを吹っ切ったキョウも人を斬ることに躊躇いは無かった。
ブリアニナ軍の軽歩兵部隊が救援に入るまで、キョウとロウは疾風怒涛の勢いで魔法士部隊を蹂躙し、再びキョウがロウの背に乗ると数十mも跳躍して囲みを抜け、最前線を離脱する。
何とか生き残ったサキュリス救世軍の魔法士は五十人も居らず、もはや追撃を掛ける気力もなく仲間の死体を呆然と見つめるばかりであった。
キョウ達が掻き回している間もファーレンの魔法弓による遠距離攻撃は止むことは無い。魔法弓による攻撃は初弾ほどの威力は無いが、それでも敵兵を確実に捉え、ブリアニナ軍の戦力を徐々に削っていった。
通常の弓や魔法の射程外から攻撃してくるファーレンの軍に対して、ブリアニナ軍の統率は成す術もなく瓦解していく。
しかし、戦慣れした騎馬部隊の精鋭兵は、ファーレンの魔法弓を止めようと攻撃を躱しながら大きく迂回し、挟み込むよう両側から突撃してきたが、雨の様に降り注ぐエルフ達の矢の前に押し戻され、ファーレン軍まで辿り着いたのはほんの数十騎だけで、決定的な損害を与える事が出来ないでいた。
それでも突入してきた騎馬兵は、軽装の歩兵や弓兵だけのファーレン軍には脅威である。騎馬の馬蹄は前に塞がるエルフの戦士を踏み潰し、ブリアニナ騎兵独特の長いランスは軽武装の戦士の身体をいとも容易く突き刺した。
乱戦に持ち込んだブリアニナ騎兵が次なる獲物を探そうと馬首を返そうとした時、彼の上半身が一瞬で吹き飛んで消失する。主を無くした馬の横に立つのは、大斧を振りぬいた体長3mを越える牛頭族の戦士であった。
妖精族と相互助力の契約をした牛頭族と人馬族は妖精族には無い「剛」を担う頼れるべき仲間である。妖魔族に分類されてはいるが、彼らの生活水準は人族のそれと変わるがなく文化的で、共通言語も話せるので意思疎通もできる。
見れば突入してきた騎兵の傍には牛頭族がいて大斧を振るい、再突入しようとしている騎兵には人馬族が横合いから強襲して剣を振るい、次々と落馬させていた。
妖魔族の働きでファーレン軍も体制を立て直し、前方から迫ってくるブリアニナの歩兵部隊に照準を合わせ、弓の遠射を行って牽制していくが、鉄の鎧と盾に阻まれ致命打を与えることができない。
そんな衝突を幾度か繰り返しながらも両軍の距離は徐々に縮まっていき、ようやくブリアニナ軍の弩や魔法攻撃の射程に入ったと思われた時、真白な光の束が音もなくブリアニナ軍の一角を貫いた。
ファーレン軍から放たれた激しい光と熱は、とても人の目で追えるような速度ではなく、それが何だったのか理解できた者はいなかった。ただ、矢の軌跡上にあった大地が溶けた跡と、直撃を受けた数名の兵士が蒸発して残った僅かな残骸だけが攻撃の凄まじさを語っていた。
戦場から再び音が消えた。
ファーレン討伐軍の中には首都タウンゼルからやってきた者もいる。彼らの記憶には王都を襲った不死竜ヒュドラの攻撃が鮮明に残っていた。
(ま、まさかここにあの怪物がいるのか・・・・?)
再び死の光がブリアニナ軍を襲う。今度の光もまた数名の兵士を蒸発させ、二度目の攻撃にようやくブリアニナの兵士達が光を発せられた方向に目をやると、そこにいたのは白銀の鎧を纏った気高きエルフの女王であった。
ラフレシア女王の弓の前には十本ほどの真白な光の矢が円を描いて並び、ゆっくりと回転しながら互いの距離を縮めている。
光の高位魔法攻撃。
神が与えた全ての魔を滅する力を持つ属性で、光属性で消滅すれば魂も残らないとまで古来より伝えられている。如何なる物理障壁も魔法障壁も貫通する攻撃の前では、どんな抵抗も無意味である。この世界で戦いの中に身を置く者なら誰でも知っている常識であった。
ブリアニナ軍に向けられているのは、まさしくこの光魔法攻撃であった。
やがて十本の矢は回転しながら一つになり、それを待って三度エルフの女王の弓から光の矢が放たれた。
その矢はこれまでよりも巨大な矢であったが、今度は誰にも命中することなく兵達の、いや指揮官であるダイセン将軍の頭上を掠めただけなのに、矢が運んできた光と熱量はこれ以上ファーレンに近付いたら遠慮なくこの矢を撃ち込むぞ、という意思を伝えるには十分な威力を持っていた。
火と水と雷、さらには光というこれまで経験したこともない強力な魔法攻撃の前にブリアニナの兵士達はもはや戦意を無くし、手持ちの武器さえ打ち捨てて我先にと潰走を始める。こちらの攻撃が届かない遠距離から強力魔法で狙撃されれば、自軍に勝機など無いのは明らかであった。
しかも指揮官であるファスタード将軍の戦車ですら先頭を切って敗走している。これから全軍の立て直しなど出来るわけがない。
潰走を始めたブリアニナ軍を見て、ファーレンの戦士たちは一斉に歓声を上げる。
ファーレン軍の血気はやった者の中には追撃しようと前に出ようとした部隊もいたのだが、ラフレシア女王はこれを凛とした声で制止し、一切の追撃を許さなかった。
これ以上の無い勝利を手にしたのにも拘らず、ラフレシア女王の表情は固い。
(多くの命が失われた。これほどの血を流さねば我が国の安寧は得られぬのか・・・)
血を流す戦争で得るものなど無いことは解っていても、同胞の命を護るため、豊かな森を守るため、自らの手を血で染めなければならない女王の心には灰色の雲が立ち込めていたのである。
◆
レイストル平原の戦いはファーレン軍の圧勝であった。ブリアニナ軍は死者821名、サキュリス軍の死者は247名、ファーレン軍の死者は42名である。圧勝と言って良いだろう。
戦い後に残されたのは、多数の武器と兵士の亡骸、味方からも見捨てられた怪我をして動けないブリアニナ兵、さらに、数多くの荷駄馬車と荷駄部隊に就いていた非戦闘員の人間族や獣人族であった。
荷駄部隊の数は約五百。担ぎ手、馬飼い、鍛冶工、料理人、娼婦といった非戦闘員で構成されている。
しかしブリアニア軍に属する非戦闘員は二百人程度で、それ以外は全員が奴隷身分であり、殆どが首都タウンゼル近傍で集められた人間族と獣人族である。しかも3分の2が非正規奴隷であった。
非戦闘員の中には兵達と一緒に逃げ出した者もいたが、女や体力の無い者は追撃されれば逃げ切れないと思い、殺されるよりはとファーレンの捕虜となる方を選んだのである。
一方、奴隷達は隷属の首輪を付けている限り、逃げることは出来ない。この戦争に駆り出されるにあたって、自分たちの主は暫定的に荷駄部隊の部隊長になっているので、戦場から逃げるというは禁じられていたからだ。
ラフレシア女王がまず命じたのは怪我人の治療で、平原の一角にラフテというテントに似た野営所を張り、敵味方関係なく治癒魔法とポーション類をつかって、傷付いた者達を可能な限り治していった。
怪我が治り動けるようになったブリアニナ兵には、奴隷身分ではない非戦闘員の護衛を条件に、軍が撤退する際に置いていった荷駄から多少の食料と身を護る程度の武器を渡し、軍に戻るのもそのまま逃げるのも自分たちの勝手であると解放することを伝える。
多くのブリアニナ兵達は戦争奴隷としてファーレンに連れて行かれると考えていたので、敵国の捕虜解放宣言に呆気にとられている。
奴隷身分ではない非戦闘員の殆どがブリアニナへの帰国を望んだため、40人程の小隊に分けて順次解放していくと、ある者は感謝の言葉を口にし、ある者は悪態をつき、それでも自国の方へ向かって歩いて行った。
そして次にやるべきは荷駄部隊に就いていた奴隷達の解放である。
幸い奴隷達を管理していた荷駄部隊の部隊長を無傷で捕えたので、主の命により奴隷達の隷属の首輪が締まって命を落とすようなことにはならなかった。
戦争に連れてこられた奴隷たちは、いわば「軍の所有物」と見做され、自軍の敗北によって敵軍に渡すぐらいなら殺してしまった方が良い、というのが人間族の考え方である。そんな非人道的な命令があることを知ったキョウが逸早く荷駄部隊長を発見して拘束したので、大事には至らなかったのである。
しかし、奴隷達は行軍の間、碌に食事も与えられず過酷な軍役や重い荷を運ばされていた者達ばかりで皆が疲弊しきっている。
正規の奴隷約80人の中には犯罪者がいる場合が多く、奴隷の主から一旦軍に「供出」という形を取っているので名簿もあり、ファーレン軍は荷駄部隊の部隊長に正規奴隷の名簿を提出させて、まず非正規奴隷達と区分した。
供出された正規奴隷の殆どが担ぎ手、馬飼いとして使役されており、この者達は残された荷駄の一部を与え、部隊長と一緒にブリアニナに還すことにする。
そして非正規奴隷達約220人はロウが隷属の首輪を外していく。
ロウが創った「解放の杖」を人の目が多いこの場所で使う訳にはいかなかったので、一人ひとり人化したロウが隷属解除の魔法をかけて解放していくという気の遠くなる作業であった。しかし、これならば非正規奴隷達はロウを隷属魔法が出来る魔法士と勝手に勘違いしてくれる筈である。
解放された非正規奴隷達には十分な食事をあたえ、怪我人や体調が悪い者には治癒魔法を施していく。
非正規奴隷の殆どが荷運びとして集められた屈強な人間族と獣人族の男達、兵士達の食事の世話係りや娼婦として連れてこられた人間族、獣人族の女達である。
自分の首から忌わしい首輪が外れたことを実感すると彼らの目には生気が戻り、地獄の日々から解放されたことを、涙を流して喜んでいた。
ファーレン王国は解放した者達に選択肢を与える。
必要な食料と武器は渡すので、ブリアニナ王国に戻るのも自分の国に戻るのも自由にせよ、またはファーレンの援助を受けて自分の生活を立て直し、いずれ己の将来を決めること、という二択であった。
その結果、人間族の男達の殆どがこのまま自分の国に戻るといい、獣人族は男女とも一時的にファーレンの庇護下に入るという。人間族の女達は、自分達には帰る場所が無いのだと全員がファーレン行きを望んだのである。
◆
山の稜線に陽が近付いていき、間もなくレイストル平原に夕闇が迫る。陽の高いうちは人々の怒声や悲鳴が響き渡っていたのに、今は鳥の囀りさえ聞こえるほど静かであった。
戦いを終えたファーレン軍は前線をエルザード大森林の縁まで下げて、明日の朝からスイレーベに移動するため、今夜はこの場所で野営することにしている。
潰走したブリアニナ軍はフレームルが率いる斥候部隊に追跡させているが、脇目も振らず国境の町カレンド目指して移動を続けており、途中で体勢を立て直すとか、引き返してくるといった動きは全く無いようである。
もし軍を立て直して引き返してくるような動きを見せれば、即座にフレームルの炎の矢を撃ち込み、ファーレンの追撃が来たと思わせてさらに潰走させるつもりであったが、どうやらその心配は杞憂であったようだ。
本体に続いて解放した捕虜部隊と荷駄部隊も安全圏に入るまでは移動を続けるだろう。因みに荷駄部隊の積荷については、予備として積んできた全ての武器と、ファーレンで引き取った解放奴隷達の分の食料を押収して残りはブリアニナに還すこととした。
食料を全て押収したせいで食糧難に陥り、近隣の村落から略奪されても寝覚めが悪い、との考えだ。
ブリアニナ軍潰走の後、平原に残された遺体が魔素に晒されアンデッド化しないよう、ファーレン軍は全員でブリアニナ兵の遺体を集め、荼毘に付したうえで埋葬している。ロウの召喚した炎の魔法は遺体の骨も残さぬほど強力で、平原に残された血の臭いも一瞬で掻き消してしまったほどだ。
戦死者の遺品を持ち帰らせることは不可能であったが、最後まで残されたブリアニナ兵に荼毘された灰を平原の片隅に埋葬するまで同道させ、灰の一部は自国に持ち帰ってもらった。
静かな夜であった。
野営所ではいくつもの火が焚かれて周りの木々を照らし、そこだけ月の光を拒絶しているかのように明るいのだが、少し森に入れば青白い月明かりが優しく木枝を照らし、時々飛び立つ何かの胞子がまるで雪の様に舞い上がる幻想的な世界を見る事が出来る。
多くの人がいる場所から離れた森の中で、黒狼姿になったロウは腹ばいになって休んでいた。この姿でいれば森に住む魔獣も寄ってこないだろうから、エルフ族の不寝番も森から這い出てくる魔獣を気にせず警戒に当たる事が出来るだろう。
そしてロウの横には、ロウの身体に寄り掛かるようにして背中を預けたキョウが座っている。
『人を斬った後は心が荒れるから、自然の中で心を空っぽにすると良い。』
ロウの助言通り、森の中で木々の間から差し込む月明かりを全身に浴びていると、本当にざわついた心が落ち着くから不思議だ。
時々、精霊が現れてはキョウの髪を持ち上げたり、鼻先を触ったりと悪戯を仕掛けてくるのだが、キョウは気持ち良さげに目を閉じて微動だにしなかった。
どの位時が経ったのか、不意に目を開けたキョウが、体をそのままにまるで虚空に向って語りかけるように言葉を発した。
「ね、ロウ。」
『なんだな。』
「私はこの世界でたくさんの罪を犯す。大罪人だわ。」
『・・・』
「私をこの世界に誘った神様は、きっと後悔している。」
『神様なんてものが、本当にいるとすればの話だがな。』
「あの約束、絶対守ってね。」
『・・・勿論忘れていないぞ。』
「それなら、いい。」
キョウは再び目を閉じて全身の力を抜き、ロウの身体に寄り掛かった。
ロウは少しだけ考える。
この優しい少女の最終章を、悲しい結末を書きかえるような出来事があれば良いのにな、と。