16.約束
「只で済むとは思ってない。地獄に落ちる覚悟はしているわ。」
この部屋の中が息苦しいのは、狭く窓のない場所に大人数がいるからだけではなく、闇奴隷商人たちから流れた血の匂いが充満しているからだろう。
二の腕を切り落とされた闇奴隷商人は、余りの痛みに気を失ったか床に倒れたままピクリとも動かない。このまま放っておけば出血多量で命を落とすのは間違いないが、元々隷属の首輪さえ外せば死んでもらう予定だったのだから気にする者はいなかった。
鉄格子の中の女達は目の前で起きた殺戮に息を呑み、血の気の無い真青な顔で二人の侵入者を見つめていた。中にいるのは全員が女性で粗末な服を着せられ、人間族が七人、獣人族が三人、そして目的のエルフ族の二人もそこにいた。
静寂の中で始めに動いたのはロウで、鉄格子に近付いていき、格子を両手で掴むと簡単に引き曲げて数本外し、中にいた女性たちに出てくるように促した。全員が牢から出たところでキョウがエルフ族の女に声を掛ける。
「助けに来た。ファルシーサとエリメルフェスナ?」
「は、はい・・・」「そうです・・・。」
二人のエルフが前に出てくる。並んで肩を竦める二人にキョウは優しく微笑みかけると、心配するなと一言いいロウを見て頷いた。
今度はロウが二人の前に出て、指先に魔法陣を出現させてエリメルフェスナの首輪に触ると、革の首輪は少しだけ輝いて二つに割れ、ポトリと床に落ちる。
その様子を後ろで見ていた女達が息を呑んだ。隷属の首を付けられた者は一生奴隷のままで首輪を外されることは無いと誰もが聞かされ、これからの自分の未来に絶望していたのに、黒髪の男が簡単に外してしまったのだ。ロウは呆然と立ち竦むエリメルフェスナの前を過ぎ、隣りに立つファルシーサの首輪もあっという間に外してしまう。
「辛かったね。」
キョウが言ったその一言で二人の胸に自由となった喜びがあふれ出し、二人は大粒の涙を流して泣き始めた。
「さ、あなたたちも。」
他の女達は一斉に驚いた表情を見せた。解放されるのはエルフ族の二人だけだと思っていたのだ。
エルフ族が奴隷になった場合、必ず同胞が助けに来て攫った相手を皆殺しにするのは有名な話だった。今も先にエルフ族に声が掛かったので、この二人がエルフ族の救出部隊なのだと全員が思っていたのだ。
キョウは短い言葉を繋げて、ここにいる全員を解放する、希望者がいれば安全圏に連れて行くが、そこに行ったら秘密を共有することになり他言したらそれ相応の償いを覚悟してもらうと伝える。さらに、残りたい者がいるなら、このアジトにいる者は全員殺したから二階にある闇奴隷商人の溜めこんだ金貨を持って逃げるなりすればいい、と伝えた。
女達の中にも様々な事情を抱えた者もいるので、選択肢を与える形を取ったのだ。結局、元冒険者だという三人と、この街の商人の娘だという二人がこの場で別れることを選択し、人間族が二人、獣人族の三人もエルフ族に付いてくる意思を示す。
この五人はごく最近捕えられたようで、それ程傷もなく比較的元気な様子だったが、ロウは念のためとこの五人に回復魔法、浄化魔法を同時に掛け、女達を健康状態に戻しておく。ファーレンに運ぶ残りの七人は後でまとめて回復させることになっていた。
キョウは冒険者の女に外の混乱状況を伝えて尚且つ商人の娘を家まで送り届けるよう頼み、二階の一番奥が闇奴隷商人の部屋であることを教え、失血で気絶している男の腰から鍵束を奪い取って女に渡した。
鍵を渡された女冒険者はキョウの言葉に、その部屋にある金も服も見つけたものは自由にしてよいという気遣いに驚きつつ、キョウを真直ぐ見つめて感謝の言葉を述べる。
「本当にありがとう。今ここで名前は聞けないけど、貴女の事は絶対に忘れない。どこかでまた逢ったら全身全霊で恩を返すわ。」
「辛いことは早く忘れてしまうのがいい。」
「っ!そうだね。でも、それでも忘れないわ。ありがとう・・・。私はノガバン連邦国のメリルグラン。覚えておいてね。」
目に涙を湛えた女はキョウの耳元でそう呟いて頭を下げると、他の四人を促して部屋を出て行った。
それを見送ったキョウは残っている七人に部屋の中央で一塊になるよう言うとロウに目配せし、ロウが転移の魔法陣を発動させ、女達を全員同時に救出部隊が待つ拠点へと転移させた。
救出部隊の拠点では炊き出しと簡易風呂、清潔な衣類と毛布が用意されている。
最初の計画では転移陣は使わず、助け出した者は一旦ロウの亜空間世界へ入ってもらう予定だったが、あの空間が人族に与える影響が未確認だったので転移させることを採用したのである。
「さ、次行こう。」
『へいへい。』
「何かやる気を感じない。」
『むう、元々我はやる気などないのだぞ。キョウに無理矢理働かされているのだ。』
「ふふ、そうじゃなくても手伝ったくせに。」
『・・・』
こんな状況になっても、相変わらずこの二人の間の主導権はキョウが握っているようだ。
◆
キョウとロウは街中を走り回り、数刻の間に六人の闇奴隷商人全員を配下と共に亡き者にし、男五人、女三十八人の非正規奴隷を解放した。その内、人族の二十人はその場での解放を願い、帰る当てのない人族の女六6人と獣人族の男女十五人は安全圏への移送を願ったので、ロウの転移魔法によって拠点へと送られていった。
拘束されていた者の殆どが奴隷狩りと呼ばれるならず者に拉致されたり、巧妙な罠で騙されて捕まった者で、ほぼ誘拐と変わらぬ手口で無理矢理集められていた。中には激しい暴行を受け殆ど瀕死の状態でロウの回復魔法でなんとか危機を脱した者や、解放されてもなお心を閉ざし無反応な者までおり、改めて奴隷制度への怒りが湧き上がってくる。
二人の働きで、このタウンゼルにいる非正規奴隷は、個人で所有されている者を除けばほぼ解放されたと言って良いだろう。
残るはこの国の貴族に買われていったエルフ族を助け出すだけである。
件の貴族の屋敷の前でキョウは顔の下半分を黒い布を巻き、ロウは顔面の器官を全て無くして能面状にして顔を隠す。ここから先、さすがに人の多い貴族家では目撃者全ての口を封じる事ができないかもしれないためだ。
さらにロウは能力【幻影】を使って見る者に認識阻害が起こるよう魔力を纏わせると共に、黒髪黒眼のキョウの髪と目を銀色に変えておいた。
二人は屋敷の高い壁をあっさりと飛び越え、堂々と正面玄関の扉を開けて中に入っていく。
何が起こっているか理解できず立ち竦むメイド風の下女を捕まえ、この屋敷の当主がいる場所を訪ねると、血塗れで入ってきた賊にメイドは恐怖し殺されると思ったのか、言われるままに二階にある当主の部屋へと案内してくれた。
当主の部屋の前でメイドを解放し、中にいる者に断ることなく扉を開けて入っていくと、そこには当の中年ぐらいの貴族と年を取った家宰と思われる男が一人、屈強な男か一人、執事とメイドが三人集まっていた。
血に塗れた異様な姿をした突然の侵入者に全員が席を立ち、二人に向かって罵声を浴びせる。
「何だ貴様らは!誰の許可を得て入ってきたのだ!」
護衛と思われる屈強な男が剣を抜いて手前にいるキョウを目掛け、上段から切り下してくる。肩口を狙っている辺り、腕の一本ぐらい切り落としても良いと考えているのか中々鋭い攻撃だ。
しかしキョウが半身になって男の右を摺り抜けると同時に横薙ぎに刀を一閃すると、男の上半身と下半身が切断され盛大に血を噴き上げて崩れ落ちた。男は悲鳴を上げることもなく、驚愕の表情を浮かべながら絶命する。
部屋の中にいたメイドが甲高い悲鳴を上げ、家宰が硬直したまま腰を抜かし、執事が当主を庇うように前に立つもその足はガクガクと震え只々血塗れのキョウを見つめるだけであった。
当主も力が足に入らないのか再び椅子に身体を投げ出し、顔を青くしてただの肉塊になった護衛の男を見つめていた。
「貴様が拘束しているエルフ族を貰いに来た。案内してもらおう。」
キョウが低く威圧を込めた声で宣言すると、思い当たる節があるのかそこにいる全員が当主の方を向き、どこか非難めいた視線で見つめている。
「はっ、な、何を馬鹿な事を!そ、そんな女などしらん!出て行け!!」
声高に居直る当主を無視し、キョウはツカツカと当主に向かって近付いていく。執事が懐から二本のナイフを取り出しこれも場馴れした様子で斬りかかってきたが、目に留まらないキョウの峰打ちにその場で沈んだ。
「ひゃ!!ク、クロード!あああ・・・ぎぃゃやややや!!!!」
室内に当主の絶叫が響き、同時に当主の左腕の肘下が宙に舞った。
ロウは仮面のように隠した表情の下で頬を引き攣らせ、腕を切断された当主に回復魔法を掛ける。これはキョウとの打合せ通りで、痛めつける過程で死んでしまっては困るから魔法で回復するよう言われていたのだ。
いくら回復魔法を掛けても、その瞬間の痛みと失われた血は本物だ。顔面を蒼白にして当主がガタガタ震え出した。
「エルフ族は何処?案内しなさい。」
「あ、あ、むこうの・・!ぎゃぁぁぁああああああ!!!」
今度は当主の左耳が飛ぶ。どうやらキョウはこの貴族の男に最大限の苦痛を味わわせる気のようだ。当主はキョウの問いに素直に答えるつもりだったようだが、答える間もなく耳を切り飛ばされたのだから。
椅子を机を蹴倒してのた打ち回る当主の尻を更に刀の切先で付き刺し、さらに絶叫を上げる当主を見下ろしてようやくキョウはロウに回復魔法を掛けるよう目で指示を出す。
「お前はただ案内すればいい。立て。」
涙と鼻水で汚れた顔を引き攣らせ、震える足で何とか立ち上がる当主だが、身体の部位を無くしたショックからかうまく歩く事ができない。キョウは当主の背中を容赦なく蹴り付けて扉の方へ吹き飛ばすと、再び立てと命じ、今度は廊下まで吹き飛ばす。どうやらボールのように扱って案内させるらしい。
メイド達の悲鳴で駆けつけてきた者もいたか、血塗れの当主とキョウをみて立ち竦み、どうにか助けようと近寄ってきた者はロウの威圧を受けてその場でへたり込んでしまった。
(全く恐ろしい娘だ・・・。機嫌を損ねないよう気を付けよう・・・。)
ロウは密かに心の中で誓い、腰を抜かして立てない家宰を抱えてキョウの後を付いていった。
当主の案内で廊下の突き当たりの部屋まで行き、鍵がかかって開かない扉をロウが重力魔法で引きちぎって抉じ開ける。中は豪華な調度品が揃った寝室ではあるが、全ての窓に鉄格子が付けられたいわば監獄であった。
薄暗い部屋の天井に光魔法で明かりを灯すと、ベットに凭れ掛かって床に座っている女がいるのが見えた。大きな音を立てて扉を破壊したにも拘らず、明かりが付いても皆が入って行っても俯いたまま動かない。
酷い状態だった。
闇奴隷商人のアジトで着せられたボロ服はそのままで、相当殴られたのが顔中が腫れて目も開かない状態だ。体中鞭で叩かれたような跡があり、傷口が塞がらずまだ血が流れている箇所もある。
「っ!『ロウ!』」
『分っている。大丈夫、魔力の流れは感じる。』
ロウは傷だらけの女の傍に膝を付き、再生と浄化、さらに状態異常解除の魔法陣を立て続けに出現させて上級治療魔法を発動させると、見る見る女の傷が消えてゆき、痣だらけの肌は元の艶のある白に戻っていった。
「ん・・・、んぁ、あ・・」
「気が付いた?怪我は直した。」
「あ・・・貴女は?」
「助けに来た。セルフィルナ、もう大丈夫。」
キョウが優しく微笑み、彼女の名を呼んで安心させると、助け、と聞いて緊張が解けた彼女の目にどんどん涙が溢れてきた。キョウはロウに目配せして隷属の首輪を外させ、両手で顔を覆って泣く彼女の肩を抱き他の二人も無事助け出したと教えてやると、彼女の嗚咽は号泣に変わった。
ベットに寄りかかり号泣する彼女から離れ、這う体で逃げようとしていた当主の元に近付いていき、男の脇腹を蹴って横の壁に激突させた。
「貴様、彼女に何をした!!」
「ぐえぇえええ!!」
倒れ込んだ当主の胸倉を掴んで引き起こすと、刀を握りしめたままの拳で当主の横顔を殴りつけ、顎骨を粉々に砕いた。さらに泣き叫ぶ当主を部屋の真ん中に投げつけ、だらしなく手足を伸ばして仰向けに倒れる当主の股間を踏みつけると、くぐもった呻き声を一つ上げてそのまま失神してしまった。
それでもキョウは水魔法で大きな水球を作ると、当主の顔目掛けて放ち無理矢理目を醒まさせる。まさに夜叉か般若か、その姿はロウでも恐怖を覚えるほど怒りと憎しみが籠った鬼気迫るものであった。
キョウは手加減を知らず、自力では動けない当主を再び引き起す。
「他にも奴隷がいるだろう?案内しなさい。」
「あ、あう、・・・あ」
もはや当主は声を上げることも歩くことも出来ない状態だが、答えない当主の顔面にさらに叩き込まれたキョウの拳は鼻の骨を砕き、右の眼球を破裂させる。ここまでくるとこの貴族はもはや生ける屍である。
当主が使い物にならないと判断したキョウは、ロウに無理矢理連れてこられた家宰に向き直り、ゆっくりと近付いて行った。
今度は自分に向かって近付いてきた悪魔の姿に家宰は恐慌を起こし、訳の判らない悲鳴を上げながら逃げようとするが、腰が抜けているので体は全く動かなかった。背中を向けている家宰の髪を掴んで引き起こすと、低く冷たい声でキョウが話しかける。
「他の奴隷がいる所、どこ?案内。」
「ひゃっ!は、はいぃぃぃ!!!こ、こしが、腰が!」
『ロウ。』
『へいへい・・・』
ロウは家宰の背中の服を掴んで、まるで鞄でも持つように家宰を引き摺って行き、その後ろにセルフィルナの肩を抱いて介助して歩くキョウが続いた。二人の残忍さを見せつけられた家人はもはや抵抗する気力もなく、行く手を遮るものは誰もいない。ただこの嵐が早く去ることだけを願っていた。
そして家宰に案内されたのは一階の厨房脇の部屋で、半地下構造になった石壁の部屋だった。
その中にはやはり隷属の首輪を装着させられた人間族の女が2人と兎人族の女の3人が、肩を寄せ合って部屋の隅で震えていた。
「怯えなくていい。助けに来た。」
女達の返事を待たず、ロウがさっさと隷属の首輪を外してやると、一瞬呆けた顔をしていた三人が首に手を当て、お互いの姿を見て首輪が無い事に気付き全員が泣き出してしまう。続けてロウはこの娘達にも再生魔法と浄化魔法を掛け、可能な限り元の身体に戻してやった。
その間、キョウは家宰を引き摺って外に出て、他に奴隷はいないか再度脅しつけるが、家宰も泣きながらもういない、隠していないと繰り返す。その姿に虚実は見られないが、だからと言って手を緩める心算はない。
「ぎゃぁあああ!!!」
キョウは土下座して額を床に付ける家宰の右手の甲に刀を突き刺して床に縫い付けると、暴れようとする家宰の背中を踏みつけて押さえつけ、最後の問いを投げつけた。
「偽りは無いか。」
「な、な、ない!ありません!!いだい痛い!!ゆるじて下さい!!奴隷はもういばせん!!!痛いぃぃぃぃ!」
「お前の主は禁を破ったのだ。それを止めなかったのはお前の罪。」
「は、はい!!はいぃぃぃ!!」
「同じ事を繰り返せば、また来る。」
それだけ言い残して家宰を解放すると、ロウと共に部屋の中から出てきた四人と共に最初に入ってきた玄関へと向かって歩いて行った。捕えられていた四人は魔法で怪我が直ったとはいえ精神的疲労が大きいうえ体力も失っていたので、ロウが触手を腰に巻いて三人を持ち上げ、セルフィルナはキョウが強化魔法をかけて抱えていた。
「長居は無用。」
『大賛成です。』
この貴族の屋敷にはほんの半刻、露店で買い物をする程度の時間滞在しただけで目的を達成した二人は、混乱が続くタウンゼルの街中に消えて行ったのであった。
◆
混乱した街の喧騒も聞こえない程離れたタウンゼルの東の森に、エルフ救出部隊の一時的な拠点が設けられている。清らかな川が近くに流れる平坦な地に、この森にいる精霊と協力して侵入抵抗結界と認識阻害結界が張られており、獣も人も何も近付く事が出来ないようにしてあった。
夜も更けた拠点にはホロ付の馬車が5台置かれ、ロウが地面に描いた魔法陣を囲むように野営が張られており、エルフ族の男女がタウンゼルから次々と転移魔法で送られてくる者達の対応に追われていた。
キョウからは種族関係なく全員救い出す、と言われていたので万全の準備をしており、各人自分のするべきことを滞りなくおこなっている。
陽もとっぷりと暮れたこの時間、拠点にはタウンゼルから転移魔法で戻ったキョウとロウの姿もあった。
拠点に戻った二人は、真っ先にまだ治療を受けていない者の元へ向かい、再生、浄化、異常回復魔法を駆使して傷付いた者達を癒していった。もちろん救出部隊にも治癒魔法の使い手がいて、傷付いた者は送られて来るとすぐに傷を癒されていたので、それ程切羽詰まった症状の者はいなかったのが幸いだ。
キョウはエルフたちに混ざって炊き出しや風呂の準備を手伝っている。あれだけ暴れて相当疲れている筈なのに、それをおくびにも出さずに動いている。
解放された者達の中には、囚われていた時に受けた精神的肉体的なダメージは大きく、いまだ何の反応も示さずずっと下を見ている者や、毛布を被って泣きじゃくっている者もいる。彼女達が社会復帰するまで、どれほどの苦痛と困難があるのだろうと思うとやるせない気持ちになってしまう。
しばらくすると騒がしかった拠点が落ち着いてきて、走り回っていたエルフたちも休憩や食事を取ることが出来るようになった。
明日の日の出前にはこの場所を引き払い、ファーレン王国を目指して出発する。救出部隊のリーダーはここにはロウがいるから魔獣が寄ってくるようなことは無いので、特に見張りなど置かず眠れる者から順に休んでいくよう皆に言って馬車に戻っていった。
なにせ今のロウは体長4m程の黒狼の姿である。
解放した者の治療が終わると、仲間のエルフや救出した女達が次々に寄ってきて、キョウだけではなくロウにまで労いを言われたり、涙を流して感謝されたりと、人型になってはいるが中身は人外のロウにとって少々煩わしい状態になってしまった。
元々人族の声帯がないので喋れないし、いろいろ聞かれるのも面倒だったので、皆の見ている前で固有能力【変化】を使って黒狼に姿を変え、話しかけられることを拒んだのだ。さすがに巨大狼にまで話しかける者はいない。ロウは後の騒ぎをキョウに任せてゆっくりと結界の端まで移動していった。
深夜、結界の外れの川畔にロウは寝そべっていた。
今日一日だけで暴風炎ブレスを吐いたり、治療魔法や転移魔法など相当魔力を使ったのだが、無尽蔵のロウの魔力が枯渇するわけでもなく疲労などはない。しかし、そんな事より人間族の都合に付き合わされていたことが精神的ダメージを蓄積させ、人間の姿になっているだけでも疲れてしまう気がしたのだ。
(あぁぁ・・・四本足、落ち着く・・・。)
フカフカの青草の上で寝転んでいると実に気持ちが良い。塒の浮遊島に帰って湖畔の草原に元の姿で寝そべればもっと気持ちが良いのだが、ここはここで快適だった。
たった数十年の人生より数百年不死竜として生きてきたロウは、二足歩行でいるよりも獣の姿の方がしっくりくるようになってしまっている。精神的にも人間である頃の感情は薄れ、人族に対する同族意識が無くなっていることは否定できない。
そうなってしまう程、ロウは迷宮で人族と敵対してきたのだ。何百、何千の冒険者を亡き者にしてきたのだから。
そんな一人の時間を楽しんでいると、ロウの傍らに音もなく腰を下ろす人影があった。もちろん闇の勇者キョウである。
「お疲れ。」
『本当にな。十年ぐらい眠らないと疲れが取れないかもしれないぞ。』
「感謝してる。たくさん救えたから。」
確かにキョウの言う通り今回の作戦で救出したのは四十七人。その内、ファーレンに連れて帰るのがエルフ族三人、獣人族十六人、人間族八人の二十七人だ。この半年余りキョウが走り回って解放してきた人数を上回る救出劇をたった一日で成し遂げたのである。
しかも首都タウンゼルの闇奴隷商人を壊滅させているし、貴族と商人を徹底的に脅しつけたので、噂が拡がれば今後非正規奴隷を持とうとする人間は確実に減るはずだ。
この大きな成果は、ロウが救出作戦に参加した為であることは明らかで、特にタウンゼルを混乱に陥れたヒュドラの存在が大きい。
しかし、このような作戦は何度も使えるようなものではない事は、提案したキョウも実行したロウも十分理解している。
『あの様子ではたとえ今回が大人数でもイタチゴッコであろうな。』
「判ってる。でも止めるわけにはいかない。」
『全く奴隷制度など作る人間というのはどうしてあれほど浅ましいのか。諭吉さんの名言を百回ぐらい唱えさせてやりたいわ。』
「ふふ、ロウってホント日本人なんだね。でもそれ学問のすすめだよ。」
『・・・』
表情の硬かったキョウに少しだけ笑顔が戻る。彼女も今日一日、迷宮攻略から非正規奴隷の救出まで鬼神の如く動き回り、相当疲れている筈で、本人は気付かないまでも若干それが顔に出ていた。
そして、ロウが気になっていたキョウの心の闇。おそらくそれは元の世界への未練、同意もなく召喚された理不尽、人の尊厳を踏み躙る奴隷制度、そして多くの人を殺したことへの後悔。
『キョウよ、あそこにいる者達を人として生かすためには、あ奴らは消えてもらわねばならなかったのだ。人を斬った感覚はあの者達の笑顔で洗い流すがいい。』
「っ!」
『キョウがいなければ同じような闇がもっと大きく広がっていた。皆感謝するだろう、その闇を払った勇者にな。』
「で、っでも!あたし、人を殺して・・・捕まっていた人たちを見たら頭が真っ白になって・・・それで・・・殺して・・・」
『必要な殺生と割り切れとは言わん。だが、あの者達を光りある場所に引き揚げたのは間違いなくキョウなのだぞ。』
「で、でも・・・でも・・・」
『勇者たるキョウにしか出来んことだったのだ。たとえ血に塗れても、救いを求める者がいるならその手を伸ばしてやらねばな。』
「う、うん・・・うん・・・」
キョウが地獄に落ちる覚悟がある、といった言葉がロウの耳にずっと残っていた。隣りで膝を抱え涙を流している少女が言った言葉とは思えないほど重い言葉だ。
平和な日本からいきなりこのような未熟な世界に飛ばされ、それが自分の意思であっても血腥い戦いの中に身を置いたのだ。普通の人間がそんな精神的負担に耐えられるわけがないのに、ただ人を救いたいという思いだけで必死に耐えているのだ。
『心配するなキョウよ。お前を地獄などへは落とさせぬ。』
「え・・・?」
『もしキョウか死ぬ時がきたら、我がキョウの元に行って我の全ての力をもって、キョウの身体も魂も消滅させてやる。何も残らぬ様にな。それならキョウを想う者の心の中だけにキョウは残ることになるだろう。』
「っ!」
『だから安心してキョウの道を進めばいいさ。』
たくさんの涙を湛えた目を大きく見開き、キョウはロウの横顔を見つめた。
やがてその表情が泣き笑いの様に崩れると、キョウは両手を顔に当ててロウに寄りかかり、声を殺して静かに誰にも聞こえないように嗚咽するのであった。
◆
翌朝、拠点を引き上げた五台の馬車は、東のエルサード大森林に向かって街道を走っていた。
ロウは走行している馬車に乗るのが苦手なので、黒狼の姿のまま最後尾を走っている。そしてその背中には満面の笑みを湛えたキョウが乗っていた。
「ははは!ロウ!すごい!全然揺れない!」
『・・・キョウさんや。我を馬か車かと勘違いしているのではあるまいな。』
「してない!してない!でも気持ちいいよ!」
昨夜は、あのままロウに寄り掛かって寝てしまったキョウだが、色々抱えていた不安をしっかり泣いたことで吹っ切ることができたのか、朝の目覚めはとても気分が良さげで自然な笑みが零れていた。
顔を洗って皆の元に戻るキョウは、再び昨日までの闇の勇者としての顔をしていたのだが、何となく表情が柔らかくなっていることにその場にいる全員が気付いていた。何せ、これまでキョウの事を怖がって近寄らなかった精霊達が、彼女の周りを楽しそうに飛び回っているのだ。
キョウと精霊が仲良くなったことは、彼女に多大な感謝の気持ちを持っているエルフ族にとってとても喜ばしい事なのである。
「精霊達も人間族のキョウ様を仲間と認めた。」
たとえ種族が違っても精霊達が認めたならばその者は同胞である、という妖精族独特の考え方である。
キョウの周りを飛ぶ精霊達がとても喜んでいる姿をみて、エルフ達は自分たちに対する心の壁を取り払ってくれたのだろうと勝手に喜び、事実そう言われたキョウもにこやかに笑うだけで否定はしなかったものだ。
実際キョウにとって昨夜の出来事は、ロウが言ってくれた一言は、この世界に来てずっと心の中で抱えていた負の感情を全て吹き飛ばしてくれたのだ。
朝起きた時の陽の光は今までで一番眩しく、草木の香りは一番新鮮で、涎を流して半目で寝ているロウの横顔は一番面白かった。
(まだまだこの世界で生きていける。)
心の底からそう思えたのである。
◆
厄災の不死竜ヒュドラ襲来の混乱が収まったタウンゼルの街。
奇跡的に人的被害が全くなかったこの街だが、ヒュドラ出現に関して様々な噂や憶測が飛び交い、どことなく落ち着かない、不穏な空気が流れていた。
一つはヒュドラが迷宮から這い出してきたのは、奴隷となった亜人達を助けるためだった、というもの。
この噂の信憑は高く、とある商人が迷宮入口に連れていった獣人族の奴隷をその場で解放し、そのまま一緒に連れて行ったことが多くの人に目撃されている。しかも亜人達に手を出したら人間を滅ぼす、と言い残したらしい。
この商人は冒険者達に回復薬や保存食を行商で売り歩いており、荷物持ちのため非正規奴隷を買って使役していたという。ヒュドラの触手で掴まれた腰にはくっきりと痣が残り、しばらく経っても消えないため呪いを掛けられたのではないかという事だった。
また、街中で非正規奴隷を密売していた闇奴隷商人たちが何者かに襲われ、皆殺しにされたこともヒュドラと関係があるのではないかと囁かれている。
あれほど暴れたヒュドラが突然消え失せ、同じ頃にこの殺戮が行われたからだ。非正規奴隷に関係しているという共通点もこの噂の信憑性を高めていた。
さらに、とある貴族がエルフを奴隷にしたため、エルフ族の暗殺部隊に廃人にされたという話。
これは伝説の様に囁かれていた、同胞を守るためのエルフ暗殺部隊が本当に存在した事が明らかになり、改めてエルフ族だけは奴隷にするなという通説を認識させらることになった。
この貴族は目も向けられないほど酷い状態に折檻され、二度と起き上がることは出来ないという事だった。
奴隷繋がりでヒュドラの関与も囁かれたが、ボロボロになった件の貴族の状態を目にした者は、口を揃えて「これはエルフ族の報復だ。」と言い切ったいう。
この事件をきっかけに、ブリアニナ王国の各都市では亜人の奴隷を手放す動きが広まっていく。亜人奴隷を持つのは危険だ、と。
元々、非正規奴隷は「お目溢し」で所持を許されていた訳で、憲兵の機嫌しだいでは摘発されることも稀にあったのだが、今回の事で非正規奴隷を持つリスクが浮き彫りになったのである。
転売できる相手も見つからず、買い戻してもらうことも出来ず、やむを得ず持主によって解放される者や、同族に安く買い叩かれそのまま解放される者が数多くいたことを、この事件を引き起こした本人が意図していたかなど誰も知る由は無かった。