11.妖精
深く深く、見上げても天辺が見えないほどの樹木に覆われているはずなのに、日中の森はなぜか明るく木漏れ日さえ挿していた。
縦へ横へ縦横無尽に成長する巨木はバオブと呼ばれ、最大で百数十mに達するまで成長し、ある時は壁、ある時は隧道となり、幾度となく森を進む二人の行く手を阻んできた。
しかし、フレンギースは何か目印がある訳でもないのに、こうした障害を容易に潜り抜け、他の人族が単独では決して入ることのできない森の奥へ、確実に妖精族の国へと同道の客人を導いている。
この二人がエルサード大森林に入ってから、三日目の朝である。
これだけ自然豊かな人の手が入らない森にも拘らず、途中遭遇するのは小さな獣だけで、魔獣や鬼獣などと鉢合わせし戦闘になることは一度も無かった。聞けば森の民が安全に通れるよう、"道"となる範囲に精霊結界が張ってあり、魔獣の類が入れないようにしてあるらしい。
つまり、今はフレンギースが一緒にいるので"道"を外れることは無いが、一旦外れてしまうと忽ち危険な魔獣に襲われてしまうという事なのだ。
先行するフレンギースはロウとの接し方、というより一緒にいる上での距離感をどうすれば良いのか、ずっと戸惑っていた。
ロウの隷属解除の魔法を見た時、苦しむあの娘達を助けてくれるのはこの人しかいないと思い詰め、必死に同道をお願いしたものの、若い男と二人きりで昼夜に渡り行動を共にすることになる、ということは考えの中に全くなかった。
元々、フレンギースは男嫌いという程ではないが、特にこちらから積極的に関わっていくという気持ちがある訳でもない。女性の人口の方が多い世界にあって男性に対して積極的に行動する女性が多い中、自分のような消極的な者は少数派の部類に入るだろうと思っている。
盗賊達に捕まっている間、すぐに犯されるようなことは無かったが、衣服を剥ぎ取られ、下種な男達の目に自分の裸を晒さねばならぬという屈辱を受けたばかりだというのに、見知らぬ男と自分のたった二人で数日を行動を共にするなどあり得ない事だと思うのだが、それほど緊張もせず、寧ろこんなに気を使ってもらって申し訳ない気分になっていた。
今回の件でロウしか頼れる者がいないとはいえ、たった二人だけの旅に初日は警戒し、移動速度を意図的に速めて夜の野営時には疲れて眠ってしまうように仕向けたのだが、フレンギースの思惑はあっさりと躱されてしまった。
フレンギースの移動速度に遅れることなく付いてきているのも拘らず、息も全く上がっていないうえ、夜になれば何処かへ姿を消してしまう。野営地に精霊結界を張ってセーフゾーンを確保しているので、フレンギースは結界の外に出て夜の単独行動は危険だと注意するのだが、ロウは見張りも兼ねて野営所の傍の樹の上に居るだけだと言って昨晩も姿を消していた。
恐らく、彼女に余計な警戒心を抱かせないためなのだが、ロウに対しそれほど悪印象を持っていないフレンギースは、日中と違いガランと空いてしまった自分の隣を見て、何故か溜息が出てしまうのであった。
「間もなくスイレーベの街が見えてくるはずだ。」
『ようやく着いたか。とんでもない所に街を作ったものだな。』
「妖精族でなければ絶対に此処まで辿り着くことは出来ない。我々妖精族の国は何千年もこの森に護られているんだ。」
『過信するのも如何なモノかと思うがな。』
「我々の街や"道"は精霊が結界を張って簡単には入れないようにしているし、結界の外には強力な魔獣も住んでいる。この森に入れば方向感覚も狂ってしまうからね。」
『ふん。エルフを一人捕えてあの首輪を付けさせて、道案内させれば問題ない。』
「あ・・・そ、それは・・・」
『見たところここの結界も【惑わす】だけで【障壁】ではないからな。鑑定や魔眼のような能力があれば突破は可能だな。』
「・・・」
『まぁこれだけ森の奥地にあれば、結界の有る無しとは別に、大勢で進軍するのは不可能だ。森を焼き払ってしまえば別だがな。せいぜい内側からの敵に注意することだな。』
「・・・き、貴重な意見と聞き置くよ。あ!町が見えてきた。あれがスイレーベだ。」
唐突に森が拓け、そこに広がる光景にロウは目を見開いた。樹と共生。そんな言葉が最も当てはまる印象だった。
バオブの巨木はそこにはなく、精々高さ十数mの樹木と、苔で覆われた岩、背後の50mは高さがある崖から滝が流れ落ち、町の背後に虹を作り、端部から流れ落ちる水は一カ所に集まって川となり森の奥へと流れていく。
高い崖を背にした町は、町の範囲だけ3mほど垂直に隆起している独特の地形をしており、それが天然の城壁のようになっているようで、町に入るにはそこだけ階段状にくり貫いた門を通らなければならないようだ。
フレンギースによればこの町はファーレン王国の第三都市であり、人族領に一番近く自国の防衛拠点にもなる町で、周辺の小村も併せて約二万人が暮らしている。
町の門の外には、武装したエルフ族の戦士と数人の人馬族、牛頭族が臨戦態勢を布いて展開していた。明らかにロウを警戒しての出迎えだが、一度人間族に捕まった者がすぐに解放され、人間族を連れてくると伝言してきたのだ。何らかの策略があると警戒されてもおかしくは無い。
一旦彼らから距離を取って歩みを止めたフレンギースは、ロウにその場で待つよう願い、単独で守備隊の元へ走り今までの経緯を説明する。初めは警戒していた町の守備隊は、フレンギースに隷属魔法が施されていない事が確認できると、歓声を上げて喜んだ。涙まで流しているのはザンデル村まで一緒に来ていた仲間たちか。
「ロウ、事情は分かってもらえた。皆歓迎してくれるだろう。」
『そうか、行き成り逃げ出すことにならなくて何よりだ。』
「そんな事、絶対させない。何せロウは私の恩人なのだから、敵意を向けるどころか町を挙げて歓待されると思う。」
『まて・・・フレンギースはもしかして偉い人なのか?』
「この町を治めているのは私の母。」
『・・・目立つことは絶対に嫌だからな。そんなことになったら我は逃げるぞ。』
「善処しよう。だが逃げるのは無理だと思う。私が絶対探し出すから。」
『・・・』
にっこりと笑うフレンギースを見て、何故かロウの背中に冷たい汗が流れた。
◆
門を抜けると、それまで見えなかった街の全容が目の前に広がっていた。
町の周囲にはバオブの様な巨木は存在せず、普通の木々がまるで街路樹のように整然と植樹されている。町の建物は石積と木材の混成建築で、殆どが一階建ての平屋構造だが、建造物は通路や広場、水場と共に効率よく配置されているのでゴチャゴチャした印象は受けない。
緑と水に囲まれた、美しい町だった。
フレンギースを先頭に街へ入っていくと、そこは大通りなのか道の両側に商店が軒を連ね、結構な数の買い物客が歩いている。さすがに大声で呼び込みを行う店はないようだが、食料品や衣類、武器屋まで独特の看板を掲げ、通りを歩くものにアピールしていた。
屋台が無いのは残念だったが、食堂や酒場の様な店もあったので、今夜は美味しい物が食べられるかもしれないと、顔の綻びが止まらないロウであった。
一行は真直ぐ町の中央へ向かって進み、やがてそこだけ丘のように盛り上がった場所に建つ、一際大きな屋敷の前に到着した。塀などはなく花をつけた垣根があるだけの建物だが、此処が領主の館、即ちフレンギースの家らしい。
屋敷の玄関までは数十メートル程歩かなければならないのだが、家の扉の前に数名の戦士を従えた一人の女が仁王立ちしているのが見える。
近付いて見れば、その姿は完全武装といっても良いだろう。蒼のブレストプレートを身に纏った女は既に双剣を抜いており、厳しい眼差しでフレンギース達を、いやロウを睨みつけていた。
「お母様!一体どうされたのですか?!」
「フレン、今すぐその男から離れてこちらに来るのです。皆も下がりなさい!!」
これまでの和やかな雰囲気から一転、何とも剣呑な雰囲気となったことに戸惑いつつ、領主の命令は絶対なのかフレンギースと一緒にいたエルフたちは一旦下がってロウを遠巻きにし、領主に倣うよう臨戦態勢を取る。
「お母様!ロウは私の恩人です、戦支度で迎える人じゃない!!」
『いや、待て、フレンギース。フレンギースの母君よ。もしかして我が"見える”のだな。』
「・・・お前はいったい何者です。お前の纏う魔力、人族のモノではありません。私の精霊が怯えています。死をもたらす者が来た、と。」
「!!!」
『ふむ、何者かと問われても、我は我だ。フレンギースに請われて此処まで来たのだがな。』
「あくまで隠すと言いますか・・・。ならば、たとえ敵わぬまでもこの町を守るため全力で戦うのみ!」
『いや待て、落ち着け。我はフレンギースからの頼まれ事以外何もするつもりはないぞ。そう聞いた上で我を如何するかは其方で決めてくれ。町の外で待つ。』
「っ!」
ロウは後ろ向きのまま跳躍し、あっさりと包囲の輪から出て屋敷の敷地外に出ると、その場にいた者達に軽く一礼して背を向け、振り返ること無くスタスタと歩き去っていく。
余りに素早いロウの逃げっぷりに呆気にとられる母君。と同時に、あのまま戦っても勝ち目など無く良くて相打ち、いや確実にこちらが全滅しただろうに、なぜ自分たちとの戦闘を避けて逃げだしたのか、全く理解できず混乱してしまった。
「お母様!いったい何のつもりですか!せっかくシンシアース達を助ける事が出来る人を連れてきたのに!!」
「・・・お前はあれの正体を知って連れてきたのか?友を助けたい気持ちは理解するが、この町を、町の者達を危険に晒す事を許すわけにはいかないわ。」
「何を言っているのですか!ロウが何だというのです!」
「本精霊との契約を済ませていないお前には判らなかったか・・・。あれは人間族ではない。隠蔽能力を使っているのだろうが、あれは妖魔か魔獣か、間違いなく人外の類なのだ。」
「え・・・ええ!?そ、そんな馬鹿な・・・」
「更にいうならあれが纏う魔力、今まで感じたことが無いくらい強力で異質だ。私が全力を出して戦ったとしても到底敵うものでもない。」
「まさか・・・」
フレンギースの母、この町の領主であるアルタミアは水の精霊と契約したファーレンの守り人六英傑の一角である。
今朝いつもと同じように、執務室で予定の確認を行っていると、傍にいる自分の契約精霊であるミトが急に怯えだし、危険が迫っている、死をもたらす何かが近付いてきている、と訴えてきた。
精霊は自然界の魔素の流れに敏感で、これまでも結界の中に侵入してきた危険な魔獣や人間族の存在をいち早く感知しアルタミアに教えてくれていたので、大事に至らぬ前に危険を排除する事が出来た。
ところが今回はただ怯えるだけで、危険が何なのか、何処にいるのか一切語ることをせず、ずっと震えているばかりなのである。こんなことは一度もなかったので、今回の侵入者は余程強い者らしいと、部下に臨戦態勢を整えるよう命令を出したのがつい先程であった。
そして警戒のため、部下と共に町の外に出ようをしたとき、突然ミトが悲鳴を上げ、あいつが来た!といってアルタミアにしがみ付き、泣きじゃくり始めたのだ。その騒ぎの中、フレンギースが無事帰ってきて館に向かっていると報告を受けたのだ。
慌てて飛び出した館の前で、フレンギースと共にいる人間族の男を見て驚愕した。余りに異質な出立と、僅かながら感知できる人のモノとは全く異なる魔力、そして彼の使う念話の違和感、そして彼女の鑑定能力をもってしても彼の情報を知る事が出来なかった。
「お母様、たとえロウが妖魔だろうが何だろうが、忌わしい隷属魔法を解除できるのは事実。ここで歓待も出来ないというなら、私はこのままロウと二人でシルファードへ向かう。」
「お前は何を言っているの!あんなモノを王の元に行かせる訳にはいかない!第一途中でお前に何かあったら・・・」
「ここに来るまでも何も無かったし、これからもない!ロウが何者であろうとシンシアースを助けられるのは彼だけなんだ!」
「待ちなさい!フレンギース!!」
制止しようとした兵を躱して、フレンギースは身体に風の魔法を纏い、全速力で元来た道を戻りロウを追った。
その頃ロウはすでに門を抜け、町と森の境界部まで退避していた。
そのまま逃げ出す心算はない。ここで待っていればフレンギースが来るだろうし、二人の目的はこの町に立ち寄ることではなく、別の街にいる魔法で隷属された妖精族を解放することなのだ。途中の道案内をしてくれるフレンギースさえいれば何とでもなるだろうと楽観している。
ただ、この街の領主アルタミアの態度を目の当りにし、少しだけロウの気持ちは憂鬱になってしまう。
(やはり我は人族の敵なのだな・・・)
問題はロウの正体なのだ。
これから向かう目的の街でも精霊と契約した者や高位の鑑定能力を持つ者がいれば、ロウが人族ではない別のモノだと見抜く者がいるであろう。フレンギースの母君ですら剣を抜いて向かって来ようとしたのだから、王都だというシルファードでは街の中に入ることを拒まれるかもしれない。
まぁ、最悪は闇夜に乗じて忍び込むなりするしかないが、出来れば妖精族最大の都市の観光ぐらいはしてみたいなとは思っている。
そんな事を考えていると、町の門からフレンギースが飛び出してきて、ロウを見つけると全速力で向かってきた。背後に追ってくる母君と十数人の戦士を引き連れて。
「ロウ!母の非礼を許してほしい!!母は私がいつか必ず説得する!だから見捨てないで!!」
大声で叫ぶフレンギースを見ると、ロウは脱力して肩を降ろした。
『こら、誰かが聞いたら誤解する様な事を大声で言うでない・・・』
まるで引き裂かれる恋人達のようなセリフを叫びロウの腕にしがみついてくるフレンギースを、ロウは辟易とした顔で引きはがしにかかる。
そんなことをしている内に、二人は半円に展開したエルフの戦士達と対峙することになってしまった。もちろんその中心にいるのはフレンギースの母君である。
「フレン!!離れなさい!!」
『なあ、フレンギースの母君よ。エルフというのは敵意のない者にまで剣を向け、有無を言わさず殺してしまう種族なのか?』
「お前のような厄災をもたらすモノはこの世にあってはならぬ!故に倒さねばならぬ!それだけだ!」
『なるほどな。では、我もエルフに倣うとして、我にとって厄災となる全てのエルフをこの世界から駆逐しても良いのだな。』
それまでの軽い調子と打って変わって声を低めたロウは、人化状態で最大に出せる魔力を解放して対峙するエルフたちに【威圧】を浴びせた。たったそれだけのことで、エルフの戦士達は腰砕けに地に付き、周りの森からは鳥や獣たちの気配が消えた。
「くっ!こ、これは!!」
『エルフ程度の力で気を削がれ、それで我を倒すだと?片腹痛いわ!!』
「う、うわあぁぁぁ!!!」
更にロウは頭上に魔法陣を出現させ、本来ヒュドラとして持つ魔力の一部を解放したうえで、「明確な殺意」をエルフたちに向けて放ったのである。
これまでに受けたことのない強大な殺気を受け、エルフの兵達は次々と恐慌を起こし、武器を取り落して地に伏せ逃げ出す者や、数人は意識を失った者までおり、その場に立っているのは【威圧】を向けなかったフレンギースだけで、六英傑のアルタミアですら膝を地に付け足を震えさせていた。
そこまでやってロウは全ての力を収束させる。
正直、ロウがこの世界に来てからここまではっきりと殺意を人族に向けたことは無い。加減が利かず少しやり過ぎたかと内心後悔しつつも、理不尽には理不尽で返さなければ何処へ行っても同じことが繰り返されてしまう、と自己擁護に努めた。
『母君よ。我はフレンギースの頼みでここに来ている。それ以上の事をするつもりもないし、エルフと敵対しようとも思っていない。』
「そ、それを信じろというのか!」
『信じる信じないはそちら側の事だ。我を信用せず、剣を向けるのであれは、先ほどの力を解放して反撃するだけである。』
「そ、それでも!」
『我は君らをまだ敵認識していない。寧ろフレンギースの頼みがあるで今は仲間だな。だが、攻撃してくれば別だ。不死竜ヒュドラの名に懸けて全力で相手になるぞ。』
「ロウ!」
「っ!ふ、不死竜だと・・・」
『うむ、そういう事だ。どうする、フレンギース?我を連れて行くのを止めるか?』
「い、いやだ!絶対連れて行く!この非礼の償いは何でもするから、助けて!」
『そういう事だ、母君。国中に触れを出すなり追手を出すなりすればいい。だが、次に剣を向けた時、我は今ほど寛容ではないぞ。』
そう言い残してロウは背を向け、ゆっくりとした足取りで森の中に向って歩いていく。
「ロウ!そっちじゃない!」
フレンギースの指差す方向には何処かへ続く道が見える。最後は間が抜けたことになってしまったが、自分の間違いに気付いたロウは身体を縮めてフレンギースの元へ戻り、悲しみの表情で母を見る彼女を急かすようにして小走りに去っていった。
◆
スイレーベからシルファードはやはり徒歩で三日ほどであるという。
あれから時々休憩を入れながら日が暮れるまで走り通して、火が暮れる前にようやく二人は歩みを止め、野営の準備に取り掛かった。野営といっても結界魔法を展開して火を起し、ラフテというテントに似た寝床を用意すれば、あとは食事を作るだけである。
今日一日、偶の休憩時にも二人の間には殆ど会話が無かった。
ロウの正体を知り混乱の極みの中で、その場の勢いで母親と喧嘩別れしてしまったフレンギースを慮り、ロウは特に自分から声を掛けることをせず、彼女の気持ちの整理がつくまでしっかり考えさせようと思ったのだ。
フレンギースの作る野営食は簡素なもので、木の実やキノコ、雑野菜を塩と香辛料で煮込み、干し肉を浸して食べる一般的な冒険者達の料理だ。
もちろんロウは食事などしなくても生きていける体であるが、元々前世でも食いしん坊だったので、この世界でも食べられるものならば何でも食べておくようにしている。「食」というものを楽しんでいるのだ。
しかし、どうしても薄味になってしまうこちらの世界の料理に飽き始めたロウは、空間倉庫を開いて小さな皮袋を取り出す。とある獣の骨を煮込んで作ったスープを乾燥させて粉末にしておいたものだ。豚骨と似た味がするので、とある獣とは言わずもがなであろう。
その粉末を混ぜたスープは忽ち芳醇な香りを撒き散らし、ずっと走り通しで空腹だったフレンギースの食欲を破壊的に刺激した。
美味しい食事というものは、悲しく落ち込んだ人(彼女はエルフだが)の心さえ穏やかなものに変える、いわば魔法の一つだ。ロウが手を加えただけで劇的に美味しくなった料理を、フレンギースは息を付く間もないほどあっという間にたいらげる。
食事を終えた彼女の顔つきは明らかに変わっていた。
「・・・とても美味しかった。不思議な香辛料なのだな、その白い粉は。」
『そうであろう?こういう物を作ったり、探し回ったりするのが我の楽しみなのだ。』
「ふふっ、ロウは面白い人だな。あんな強い殺気で母を戦闘不能にしたかと思えば、こんな料理人しかしないようなことを楽しんでみたり。」
『ん?誰でも好きなことぐらいあるだろう。母君を脅したのはすまなかったな。あの場で言ったことは決して本気ではないぞ。』
「ああ。話も聞かない母だが、あの人も町の代表として皆を守る義務があるんだ。それだけは分ってほしい。」
『当然のことだ。多少攻撃されても我の身体なら傷などたちどころに治ってしまうであろうよ。』
決してヒュドラと敵対したい訳ではない。それどころかフレンギースは色々な気遣いが出来るロウを、好ましくさえ思っている。話の入口が見えたようで、フレンギースはロウに一番聞きたい事、ずっと考えていたロウの本当の姿について切り出した。
「ねえ、ロウ。貴方は本当にあの伝説のヒュドラなのか?」
『その伝説とやらはどんなものか知らぬが、確かにヒュドラだな。本当の姿は頭が九つだ。』
不死竜ヒュドラ。
創世期時代、創世神に嫉妬した邪神バオロボウが、この世に厄災を齎すために創造された邪神獣である。
九つの首を持ち、その一つ一つが属性を操って強力なブレスを吐き出し全てを破壊する。また吐く息は毒となって大気を穢し、体内の血液は触れたもの全てを腐らすので、その存在自体が厄災となった。
例え首を切り落とされたとしても瞬く間に旧に復する再生能力を持ち、死とは無縁の存在と云われている。世界の半分を穢し、数多の生物を死に至らしめた。
神話時代の中期、神々と邪神の戦いが激しくなる中でで、七神がヒュドラと相まみえたときに、七神は八つの首を同時に斬り落とし、首が再生する前に全神で最後の一本を斬り飛ばして行動不能になったヒュドラを地の底に封印した。
そんな禍々しいお伽話とは全く違う、穏やかでどこか優しげなモノが今、フレンギースの目の前にいるのだ。
「・・・なんで人の姿に?」
『姿はいくらでも変えられる。ちょっと買いたい物があったので人の住む町に行きたかったのだ。ならば人間族の格好が良かろう?』
「まさか、串焼きじゃないよね?」
『・・・』
サッとロウが目を反らし先程までとは別の、また気まずい雰囲気になるが、どちらともなく笑い出してそんな空気を吹き飛ばしてしまう。
フレンギースは目の前にいるモノが、人族の魔法士でも不死竜ヒュドラでも、もうどちらでも良かった。母の失礼な振る舞いを怒りもせず、また同じような事が王都シルファードで起こるかも知れないのに逃げ出したりせず、知り合ったばかりの自分の友のため付いて来てくれているのだから。
「ロウ、ありがとう。シルファードではロウの前の障害は全部私が排除する。どんなことをしても。」
『おいおい、そんな物騒な事を言うでない。穏便に行こう、穏便に・・・。』
「そうよ、フレンちゃん。暴力反対ぃ~~」
突然背後から聞こえる女性の声にフレンギースが慌てて振り向き、声の主の姿を認めると、そのまま固まって動かなくなった。
背後に立っていたのはやはりエルフ族の女性で、美しいシルクのような輝きを持つ薄い青のドレスを着た女性だった。膝までも伸びた金色の髪と、切れ長の目に収まった蒼の瞳が特徴的な人で、前世と同じ180㎝に設定した人族姿のロウより背が高い。
実はしばらく前に、少し離れたところに突然現れたことをロウは把握していたのだが、気配は消しているがそこにいるだけで何もするつもりがないようだったので、放っておいたのだ。
正直、ロウは森の妖精か何かだと思っていた。近付いてくる時も特に敵意は感じなかったので、まさか人とは思わなかったので若干驚いている。
「あれ~?フレンちゃん、どうしちゃったのかなぁ~?」
固まって動かないフレンギースの目の前で手を振る女性は、それでも動かないフレンギースを諦めて、ぴょんっと飛ぶように四半回転してロウに向き直り、小首をかしげるようにして挨拶をしてくる。何となく仕草が子供っぽいのだが、ロウはあまり考えない事にした。
「こんばんわ~。こんな時間にお邪魔して御免なさいね、ヒュドラさん。」
『ん?我の事を知っているのか。うむ、我はロウだ。何も気を使う必要はないぞ。』
「ず~っと走って、よ~やく止まってくれたからご挨拶に来ましたぁ!」
『うむ、ちと急いでいてな。シルファードという街に行かねばならんのだ。』
「アルタミアから連絡が来ましたよ~、二人が向かってるって。それで、迎えに来たのです!」
彼女は腰に手を当て、方腕を天に突き上げて宣言するだが、話の見えないロウは彼女を生暖かい目で見るしかない。二人の間に冷たい風が流れたような気がした。
「らららラフレシア様!!!」
突然フレンギースが再起動し、片膝を付いて頭を垂れる。動きはぎこちなく見れたものではなかったが、それは明らかに主に対する配下の取る礼であった。フレンギースはスイレーベの町を預かる領主の娘だ。それが頭を下げるのだから、ロウはこの女性は相当偉い様であることに思い至る。
『もしかしてファーレンの王様か?』
「はいぃ~、ファーレンの女王ラフレシアです!!宜しくね~、ロウさん」
『これは失礼した。我はロウという。訳あって人の形をしているが、巷ではヒュドラと呼ばれるモノだ。お見知りおきを。』
ロウは直立に立ち、胸に右腕を、後ろ腰に左腕を当て、綺麗に腰を折って頭を垂れた。たとえ目の前の女性が一国の王だとしても、ロウは家臣ではないのだから膝を付く必要はない。もちろんそれは前世での記憶であり、この世界が同じであるとは限らないのだが。
しかし、この受け答えを王様はいたく気に入ったようで、ロウの手を取ってブンブンと振り回し、終いには腕にしがみ付いて体を寄せていた。
「まあまあまあまあ、なんて礼儀正しい方なの!私、好きになっちゃいそうですぅ~!」
『いや、それは拙いでしょ。お偉いのだからそういう冗談はなしで。』
「いけずぅ~~~///」
『ところで王様は何故こんな所まで出張って来られたか?我を捕えに来たわけではないようだが。』
「もう!もう少し付き合ってくれてもいいじゃない!ぶうっ!」
女王の漫才に何時までも付き合う気のないロウは、気にせず本題に入っていく。
さっき女王様は「迎えに来た」と言っていたが、「誰を」までは言っていない。果たして言葉通りなのか、迎えに来たのはフレンギースだけで他の目的があってきたのか。
ロウは空間倉庫の中から野営用のシートを出して適当な樹の根に被せ、女王に座るよう促すと自分も適当な場所にさっさと座る。女王がその動作だけは非常に優雅に腰を下ろすと、ガチガチに緊張したフレンギースもロウの隣に鹽らしく座った。
ロウと向かい合って女王がこの場に来た経緯を話し始める。
今日の昼下がり、いつもの様に職務室で書類に埋もれていると、アルタミアからシルファードに厄災が向かっているとの連絡が入ったそうだ。
妖精族の連絡方法は転移魔法によるメッセージの伝達である。転移魔法と言っても、精霊魔法で一旦対象物質を精霊界に送り、それを精霊に運んでもらうというやり方のようだ。しかも精霊と契約している者でないとこの魔法は使えないため、ファーレン王国では各都市に「契約者」を置いて、通信ネットワークを確立させている。
「アルが厄災だなんだ言ってたけど、フレンちゃんが一緒で目的が王都にいるあの子達の隷属魔法の解除というじゃない?これは丁寧にお迎えしなきゃって飛んできたのよ~」
森にいる精霊たちに居場所を教えて貰い、シルファードから転移魔法でここまでやってきたとか。
因みに精霊魔法の転移魔法は、常に精霊と共にいるエルフ族とフェイ族にしか使えない魔法で、空間を歪めるというより精霊界を「通してもらう」使い方になるので、ロウの使う古代魔法の転移より若干時間のズレが生じるらしい。
転移魔法が使えない人間族は、転移魔法を必死に研究しているのだとか。
『王様にしては素早い行動だが、一人で来るのは安全上問題ありだぞ?その身に何かあったらどうするのだ。』
「え~、危なかったらすぐ逃げるし~。ロウさんも優しそうだから問題ないでしょ?」
『一応、フレンギースの母君を思いっきり脅しつけてしまったのだがな・・・』
「うんうん!怖かったって泣いてたよ!私からもちゃんと言っておくから許してあげてね?」
『むう・・・、後で謝りに行かねばならんな。母君を泣かしてしまったとは、我最低だな。』
ほんの冗談のつもりで言った言葉にロウの戸惑う姿を見て、ラフレシア女王は一瞬虚を突かれた表情を見せるが、すぐ笑顔に戻して頷いて見せる。
もちろんラフレシア女王はただロウを迎えに来たわけではない。
ロウの正体が不死竜ヒュドラであることばかりに目を向け、一切の話を聞かず、わざわざ同胞の危機を救いに来てくれた者に剣を向けたのだ。しかも、ロウの方から考える時間を与えられたにも拘らず、である。その結果は最悪で、次に敵意を向けたらエルフ族をこの世界から消し去るとまで言われ、怒りを纏ったままシルファードに向かったというではないか。
ロウが本物のヒュドラなら、誠心誠意謝罪し、許しを請わなければ妖精族が滅ぶ。
即座にそう判断した女王は、森の全精霊に緊急事態を呼びかけてロウ達の居場所を探させ、とにかく身一つでやってきたのである。もちろん自分の命と引き換えてでも謝罪を受け入れてもらわなければならない、という覚悟の上でだ。
だが、実際のロウは紳士的でとても礼儀正しく、一緒にいるフレンギースとも信頼関係が築けているのが見て取れる。そんな二人を見て、まだ救いの余地はあると思い、二人の会話に割り込んで行ったのだ。
ラフレシア女王はそれまで必死に隠していた緊張を解くと、ずっと背中に流れていた冷たい汗が一気に引いてしまったようだ。
「ロウさん、アルの事は色々ごめんなさいね。後でしっかりお仕置きするから。」
『いや、それは結構。正体を隠したまま近付いた我が悪かったのだ。』
「じゃ~、一件落着ね!それじゃシルファードまで一気に移動しましょう~」
『お願いしよう。フレンギースよ、良いな?』
「はいい!!」
ラフレシア女王は両腕を伸ばし、ロウとフレンギースのそれぞれの肩に置くと、共通言語ではない別の言葉で魔法詠唱を始める。
すると周囲の魔力の流れが変わり、ラフレシア女王の周りに自然精霊達が集まってくると、まるで楪の様に周りを飛び回った。やがて強大な魔力が収束して門が開く。
「さぁ、参りましょう。ファーレンの王都シルファードへ!」
『ちょっと待った!焚火を消してない!』
ロウは焚火に駆けより、火を一生懸命足で踏んで消し始める。
その後ろでは、水魔法で消せばいいのにと呆れ顔をした女王やたくさんの精霊達、フレンギースまでが、火の上で踊るロウを生暖かい目で見詰めるのであった。