第八話「みんなの明日」
発狂したかのように悲鳴を上げる拓夫と、それを嘲笑うように高笑いを続ける春彦。その悪夢のような状況に駆け付けたのは、家で拓夫を待っていたマクレガーだった。
「拓夫!」
すぐにマクレガーは拓夫の元へ駆け寄ったが、右手を振り回しながら叫び続ける拓夫はマクレガーに気付いてすらいない。暴れる拓夫を何とか抑え込み、マクレガーは数度揺さぶったが拓夫はまともに言葉を発さず、目の焦点さえ合っていない。
それから数十秒経って、意識を保っていられなくなったのか拓夫はその場で意識を手放してしまう。倒れる拓夫を抱き留めた後、マクレガーはギロリと春彦を睨みつけた。
「……君は何者だ。何故サーバーのことを知っている?」
「何でだろうな。どんな理由が良い?」
おどけた様子で問い返す春彦に、マクレガーは不愉快そうに顔をしかめる。その反応が面白かったのか、春彦はニヤニヤと小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「怒るなよ、怒りたいのはグリッチにされた僕の方だ」
おどけた態度を崩さないままそう言った春彦に、マクレガーは言葉を返せないまま黙り込む。バツの悪そうな表情で春彦から視線をそらすマクレガーに、春彦はそのまま続けて語を継いだ。
「冗談だよ、君のせいだなんて思ってない」
「……君はグリッチなのか? それとも……」
それとも、何なのか。その言葉の先はマクレガーでさえ知らない。この世界の中にある意識データは人間と、崩壊したデータであるグリッチだけだ。例外であるハックを除けば本来その二種類しか存在しない。しかし目の前の少年……冬馬春彦はそのいずれとも別の存在だった。
「不思議だよな、ただのデータのハズなのに変異するなんて。こうして自我を保てていること自体、僕も不思議なんだよ」
「では君は……グリッチから変異した存在だとでも言いたいのか……!?」
「まあ、そういうことで良いんじゃない? 詳しいことは僕にもわからないんだけどさ」
軽い調子でそう言って、春彦はマクレガーへ背を向ける。
「待て! どこへ行く!?」
「……どこでも良いだろ。そんなことより、秋葉君の心配した方が良いんじゃない?」
それだけ言い残して、春彦は悠然とその場を立ち去っていく。マクレガーは一瞬追いかけようとしかけたが、拓夫がこの状態ではヴィルスには勝ち目がない。結果的に見逃される形になったことは業腹だったが、春彦の言う通り今は拓夫の心配が最優先だった。
春彦が立ち去ってから数十分後、拓夫はマクレガー宅のベッドで目を覚ます。しばらく何がどうなっているのかわからないまま辺りを見回したが、すぐに気絶する前のことを思い出して自分の右手に目をやる。
あの時の不快なノイズ音はもう聞こえておらず、右手も元に戻っている。試しに握ったり開いたりしてみたが、特に普段と変わりはない。しかしその一方で、言いようのない不安定さは感じられる。それが精神的な要因によるものなのか、それとも本当に不安定になっているのか判断はつかなかった。
「……気がついたか」
そうこうしていると、部屋のドアが開いて中にマクレガーが入って来る。
「マック……」
「飲むか?」
マクレガーは、拓夫の顔を見ると手に持っている水の入ったコップを差し出してくる。拓夫は小さく頷いてそれを受け取ると、すぐにそれを口にした。
冷たい水が喉を通っていく感触が心地よい。水を飲んではじめて、拓夫は喉が渇いていたことに気がついた。
喉が渇く、水がおいしい。そう感じることで生きていることを実感出来るハズなのに、どこか虚しい。自分がデータで、この世界も作られたもので……そう考えると今感じているものも全て偽りでしかない。空虚な感覚は、水では満たせなかった。
「奴から、ヴィルスからどこまで聞いた?」
拓夫が水を飲み干したことを確認してから、マクレガーは静かに問いかける。
「……この世界がサーバーで管理されている世界で、俺も、皆も、データだって」
うつむいたままそう言って、拓夫はマクレガーの言葉を待たずに語を継ぐ。
「もうサーバーにガタがきてて、人のデータはどんどん壊れて、グリッチになるって……」
ハナも、美由も、今まで倒してきたグリッチも、元々は人のデータで、壊れてグリッチになった存在だった。春彦の言葉を鵜呑みにして良いとは思わなかったが、マクレガーは否定するようなことは一切言わずに拓夫の話を聞いていた。
「俺もデータで、ハックで何度も上書きされておかしくなってて……マクレガーが言おうとしてたことって、このことなの……?」
数瞬、マクレガーは黙ったままだったが、やがて小さく頷いて肯定する。
「……そうだ。黙っていてすまない」
マクレガーは、拓夫に怒鳴りつけられることを想定して目を閉じたが、どれだけ待っても拓夫が声を荒らげることはなかった。ただ黙ったままマクレガーを見つめ、やがて拓夫はどこか諦めたような表情でマクレガーから目をそらす。
「……いいよ、こんなの簡単に言えるわけない……。ハックのデメリットくらいは教えて欲しかったけどね」
そう言った拓夫の口から漏れたのは、乾いた笑いだった。
「……怒らないのか」
「怒っても、グリッチや消えた人達が戻るわけじゃないだろ」
ひどく冷えた調子の拓夫に、マクレガーは言い返せないまま口をつぐむ。
「それより、もう少し詳しく聞かせてよ」
マクレガーの言葉を促すように拓夫がそう言うと、マクレガーは小さく頷いてから話し始める。
サーバーの外の世界は、核戦争によって既にほとんど滅んでいる。このサーバーはマクレガーの作ったもので、コールドスリープ状態にある人々の意識を保存しているサーバーだという。
あまりにも突拍子もない話で飲み込みにくかったが、拓夫は何とか飲み下してからハッとなって目を見開く。
「じゃ、じゃあコールドスリープを解除すれば良いじゃないか! 身体は無事……なんだろ?」
縋るような言葉だったが、マクレガーは頷かなかった。もし出来るならもうやっている、そんなことくらい少し考えれば拓夫にだってわかることだ。
「もう電力がほとんど底をついている。今は予備電源で辛うじて動いている状態なんだ……。そんな状態でコールドスリープは維持できない」
「じゃ、じゃあ……」
「身体は恐らく朽ちているだろう。もう、このサーバーを稼働させているだけで精一杯だ」
――――明日で世界が終わるとしたら、君はどうする?
春彦の言葉の真意を理解して、拓夫は思わず息を呑んだ。今朝見た世界が終わる夢が妙に現実味を帯びてきて薄気味悪くなる。頭の中で想起される夢の中の光景を何とか振り払いながら、拓夫は口を開いた。
「どうやったって世界は……」
「……終わる」
そう口にして、マクレガーは口惜しそうに目をそらす。拓夫だって信じられなかったが、きっと一番信じたくないのはマクレガーの方なのだろう。こんな秘密を抱えたまま生きることがどれ程辛いことなのか、拓夫には想像も出来なかった。
「……それでも私は、何もしないまま見ていることが出来なかった。せめてサーバーが終わるその日までは、ここに生きる人達を守りたかった……」
「それで、ハックを?」
「ああ……。だがハックを開発してグリッチと戦おうとしたその日……私は不覚にもデリートされかけた」
「じゃあ、生首だったのは……」
「グリッチにデリートされかけ、ギリギリのところで必要最低限のデータだけ切り離した結果だ」
元々ハックは、マクレガーが自分で装着してグリッチと戦うためのものだったのだ。しかし使う前にグリッチによって戦闘不能にまで追い込まれたマクレガーは、やむを得ず通りがかりの拓夫にハックをインストールし直したのである。
「君を巻き込んで本当にすまない。本当なら君は、何も知らないでいられたというのに」
マクレガーは深々と頭を下げて謝罪の言葉を告げていたが、拓夫の中には何の感情も起こっていない。本当なら怒鳴ったり悲しんだりするところなのかも知れなかったが、拓夫はどこか他人事のようにマクレガーの話を聞いている。
きっともう、どうでも良かった。
「……いいよ、俺がマックでもあの時はそうしたと思うし」
拓夫の素っ気なさが気になったのか、マクレガーは驚いたような表情を見せたが、拓夫の目を見て唖然とする。
もう、何も映っていない。マクレガーの方を見ているようでいて、拓夫は何も見ていない。生気も覇気も感じられない表情で、拓夫はただ呆然とどこでもないどこかを見つめていた。
それからしばらくして、不意に拓夫はベッドを出る。
「もう良いのか?」
「うん、身体はね……って、データだけど」
無理におどけてそう付け足して、拓夫はマクレガーが回収してくれていた自分の荷物をまとめ始めた。
「助けてくれてありがとう。また、グリッチが出たら教えてよ」
感情のこもらない声音でそう言って、拓夫は静かに部屋を出てマクレガーの家を後にする。その力のない背中を、マクレガーはただ見送ることしか出来ずにいた。
翌日、拓夫は学校を休んだ。
何をする気も起きず、拓夫は朝食すら食べないでベッドへ横たわっている。学校へ連絡すらしていないため、凛桜や由紀夫から安否を確認するメッセージが何通も届いている。拓夫はそれらを全て無視したまま、ベッドの中で眠るでもなくただ横になって過ごしていた。
――――僕はね……どうでも良くなる、かな。
あの時はよくわからなかったが、今は春彦が何故そんなことを言ったのか理解出来る。どうせ終わる、消える世界なら、もう何がどうなったって良い気がする。
何だか何も考える気になれなくて、色んなことを思い浮かべては放棄してしまう。ヴィルスのこと、世界のこと、ハックのこと、マクレガーのこと、考えなければならないことはいくらでもあった。しかしそれもあまり意味がないように思えて、拓夫は再び全ての思考を放り投げた。
そのまま一時間程ベッドの上で過ごした後、拓夫は何気なく立ち上がる。このまま家の中にいても埒が明かないしいい加減空腹も辛い。かと言って何か用意する気にもなれなかったので、拓夫はとりあえず外へ出ることにした。
何気なく歩く町並みは、いつもと変わらない。今まで通り沢山の人がいて、それぞれがそれぞれの生活を送っている。これは拓夫の守りたかったものだったけど、それもいつかどうしようもなく消えてしまうのだ。
町も人も作り物には見えなかったが、どれも0と1の集合体に過ぎない。そう考えると段々全てが数字の羅列に見えてきて、拓夫は目を閉じて首を左右に振る。
「オニイサン」
そうして歩いていると、ふとカタコトで声をかけられる。声の方へ目をやると、そこにはケバブの屋台と、外人の店員がいた。
どこか見覚えのあるその顔をまじまじと見て、拓夫が思わずあ、と声を上げると、店員は人懐こい笑顔を見せる。
「あ、あの時の……」
拓夫が、マクレガーと出会った日にその場へ居合わせたケバブ屋の店員である。
「オボエテテクレテ、アリガトネ」
言いつつ、店員はてきぱきとした動作でケバブを用意する。その様子を呆然と眺めていると、店員は出来たケバブをスッと拓夫へ差し出した。
「えっ……あ、ありがとう……えと、いくらですか?」
特に断る理由もない。丁度空腹だったので、差し出されたケバブを買おうと財布を取り出す拓夫だったが、店員はイラナイ、とかぶりを振る。
「オニイサン、アノトキ、タスケテクレタデショ」
「あの時って……」
あの時は無我夢中だったが、走り去るケバブ屋を助けるためにグリッチに突進したのは覚えている。
「み、見えてたんですか……?」
「バックミラーデミエタヨ、ズットオレイイイタカッタケド、オニイサンニナカナカアエナカッタ……」
店員の思わぬ言葉に、拓夫は呆気にとられてしまう。受け取ったケバブを手に持ったまま、拓夫は呆けてしまっていた。
「ソレ、オレイヨ。ゲンキンガヨカッタカ?」
「そ、そんなこと、ない! あ、ありがとうございます……嬉しいです」
冗談めかしてそう言った店員に慌ててそう答えると、拓夫はケバブを一口口にする。肉と野菜に絡められた独特な香りのソースの味が口の中を満たす。久しぶりに食べたケバブは、空腹感もあいまって今まで食べたどんなケバブよりもおいしく感じた。
「オニイサン、アシタセールヤルヨ」
「セール?」
「ソウ、オヤスクスルヨ! オニイサンナラ、ミンナニナイショデ、サラニオヤスクスルヨ」
「明日……明日、ですか」
ニコニコと笑いながら、店員は手作りのチラシを一枚、拓夫に手渡す。拓夫はそれを受け取ると、ケバブを食べながらなんとなく眺めてみる。
「アシタモココデヤルヨ、アシタモキテネ」
「……」
その明日は、来るのかどうかもわからない。
もしかするともう今日の内にサーバーが完全に壊れて、明日なんて来ないのかも知れない。もちろん、店員はそんなことを知る由もないので、無邪気に明日のセールによる客入りを楽しみにしているのだろう。
「……カオイロワルイヨ、マズカッタカ?」
「いえ、おいしいです……明日、ここでやってるんですよね?」
拓夫がそう答えると、店員はパッと表情を明るくさせる。何だかそれが眩しく感じて、拓夫はつい目をそらしそうになる。
「また、来ます。きっと……」
明日が、明日が来るのなら、きっと。心の中でそう呟いて、拓夫はケバブを丁寧に食べ切った。
ケバブを食べて少しだけ気力が戻った拓夫は、すぐに凛桜や由紀夫にメッセージを返信した。体調が悪かった、とだけ伝えると、由紀夫は明日元気になったら来て欲しい、とメッセージを返してくる。その一方で凛桜は少し怒っているようで、放課後拓夫の家まで来ると言うのだ。出来れば今日は一人でいたかったが、恐らく心配してくれていたであろう凛桜に来るなとは言えなかった。
拓夫が家に戻ってから数時間後、凛桜は午後四時半くらいに拓夫の家を訪れた。
「……何よ、ほんとに顔色悪いじゃない」
「仮病だと思ってたのかよ……」
「別に。ただ、アンタが連絡もしないで休むなんて珍しかったから、何か言えない事情でもあるんじゃないかと思っただけよ」
そう答えると、凛桜は台所に荷物を置くとすぐに手を洗い始める。荷物はスーパーの買い物袋のようで、中にはじゃがいも等の食材が入っている。
「コロッケ、食べるでしょ?」
「え、いや、うん……なんか、ごめん」
「何謝ってんのよ。いつものことでしょ」
呆れているような言い方だったが、凛桜は穏やかに微笑むとすぐに調理に取り掛かる。心配してもらえるのは嬉しかったが、こんな気持ちもいつか消えてしまうデータなのかと思うと虚しくなってくる。
「明日、来れんの?」
「……多分」
じゃがいもを洗いながら問うて来る凛桜にそう答え、拓夫は表情を暗くさせる。ケバブ屋の店員も、由紀夫も、凛桜も明日のことばかり言ってくる。来るかどうかもわからない、不確定な明日の話だ。もう一分先だって、拓夫にとっては信じられなかった。
「煮え切らないわね。そんなに具合悪いの?」
「そういうわけじゃ、ないけど……」
曖昧な態度を取る拓夫だったが、凛桜は声を荒らげずに話を聞いている。
「変なこと、聞いても良い?」
おずおずと拓夫がそう問うと、凛桜は数秒間を置いてから良いわよ、と短く答えた。
「凛桜は……凛桜はさ、明日もし世界が終わるとしたら……どうする……?」
ピタリと。包丁を動かす手が止まる。それは突拍子もない質問に驚いているようにも、真剣に受け止めて考え込んでいるようにも見えた。
「どーもしないわよ」
しかし素っ気なくそう答え、凛桜は再び包丁を動かし始める。絶え間なく玉ねぎを刻む音が、部屋の中に響く。
「どうもしないって……どうでも良いってこと……?」
「まあそうとも言うけど、そういうわけじゃないわ」
そこで一度区切ってから、凛桜はそのまま言葉を続けた。
「例えばこの後、帰りに居眠り運転してるトラックがあたしに突っ込んできたら、あたしは死ぬわけじゃない」
「……うん」
「今この瞬間だって、急に心臓発作ってこともあるわ。アンタもね」
凛桜が述べている可能性は、いずれも十パーセントにも満たない限りなく低い可能性の話だ。その意図がよくわからず、拓夫は訝しげな顔のまま凛桜の話を黙って聞き続ける。
「あたしが死ねば、あたしの世界は終わる。もちろんあたしが死ななくたって、世界の方から災害や戦争で勝手に終わることだってあるのよね。あたしにはどうにもならない理由で、何も出来ないまま勝手にさ」
「そりゃ、そうだけど……」
「だから、世界なんていつ終わってもおかしくないのよ。今もどこかで、誰かの世界が終わってる」
言いつつ、凛桜は蒸したじゃがいもをマッシャーで潰し始めた。
「これは理想論だし、難しいことだけど、そうなっても良いように頑張れば良いんじゃないの」
「そうなっても良いように?」
「そ。明日終わっても良いように、今日やり切るのよ、いつだってね」
「……そんなの無理だよ! 出来るわけない……」
思わず情けない声を上げて、拓夫はハッとなる。怒鳴られるかと思って身構えたが、凛桜は軽く笑って見せた。
「ね、そんなの無理よね。あたしもそう思う。大体二十四時間で全部やり切るなんて、土台無理な話なのよ」
話しながらも、凛桜はてきぱきと手を動かして調理を進めていく。話題は重かったが、凛桜の動きには一切の淀みがない。
「ま、気持ちと姿勢の問題よ。明日終わるかも知れないなら、今を、この一分一秒を大事にしていこう……なーんてね」
気がつけば、既にコロッケは揚げ始める段階まで進んでいた。パチパチと油の中で弾けるコロッケに目を配りながら、凛桜は素早くキャベツを刻んでいく。
それから数分経つ頃には、丁寧に皿に並べられたコロッケとキャベツが机の上に置かれた。
「要は、どっちにしたっていつか終わるんだから、どーもしないわよってこと。余命を宣告されたって、あたしはいつも通り今を生きてやるわ……ちょっと焦るかもしれないけどね」
「今を、生きる……か」
確率は確かに低いかも知れないが、サーバーのことがなくたって世界はいつか終わる。それは唐突かも知れないし、じわじわと病のように蝕んだ末なのかも知れない。どれだけ安全な社会にいても、死と終わりは不意に訪れるかも知れないのだ。
凛桜は、それでも今を生きると言った。それは諦めてしまった拓夫や春彦とは全く違う答えだ。終わりを受け入れた上で、今を生きる。いつか終わるから意味がないだなんて、凛桜は少しも考えていなかった。
「明日が来たら、アンタは学校来んの?」
凛桜の問いに、拓夫はしばらく答えなかった。凛桜をジッと見つめたまま、拓夫は数瞬考え込む。
――――……それでも私は、何もしないまま見ていることが出来なかった。せめてサーバーが終わるその日までは、ここに生きる人達を守りたかった……。
マクレガーは、今を生きることを選んだ。いつ終わるかわからない世界で、いつ来なくなるのかわからない明日を生きようとしていた。世界が終わるその日まで、マクレガーはやり切ると決めていた。
拓夫やマクレガーにとっては信じられない明日でも、凛桜や皆は信じている。いずれ終わるからと、春彦や今の拓夫が諦めた一分一秒を生きている。
それはきっと、守らなければならないものだ。拓夫が、守ろうとしていたものだ。
「……行くよ、俺……明日は行く」
「あっそ」
素っ気なく答えてから、凛桜は安心したかのように頬をほころばせる。拓夫はその表情を見てから、コロッケの前に手を合わせた。
「いただきます」
「あ、そういやご飯炊いてないでしょ」
「いいよ、そんなの」
すぐにそう答えて、拓夫はコロッケに箸をつける。調味料も何も付ける気にならない。凛桜の作ってくれたコロッケを、今のこの瞬間をそのまま味わいたかった。
温かい、ほくほくとしたコロッケを丁寧に味わい、噛みしめる。コロッケがおいしいと感じられる今、大切な人が傍にいる今。いつか終わるのは当然で、だからこそ諦めてはならないもの。
「……おいしい?」
「……うん」
コロッケもキャベツも、一欠片も残さず食べ切って、拓夫はごちそうさま、と静かに告げる。
そうして一息吐くと、不意に拓夫の携帯が振動する。確認すると、マクレガーから連絡が来ていた。
「……ごめん凛桜、俺、行って来る」
「行くってどこへよ?」
凛桜はしばらく拓夫の返答を待ったが、答えようとしない拓夫をしばらく見つめた後、諦めたように息を吐く。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます、ちゃんと、帰ってくるから」
立ち上がり、そう告げると拓夫は振り返らないで家を後にする。その背中をしばらく見つめた後、少し不安げに目を伏せた。
町でヴィルスが暴れている。そうマクレガーから聞いた時は耳を疑ったが、マクレガーが嘘を吐いていないことは現場についてすぐにわかった。
駅前の広場でヴィルスは意味の感じられない破壊活動を行っていた。怯えて悲鳴を上げる人達を襲うわけでもなく、腕の刃を振り回してただただ暴れ回る。拓夫のイメージとはかけ離れた暴れ方をするヴィルスを訝しげに拓夫が見ていると、中央の噴水の傍で倒れた母親を揺すり続ける子供の姿が見えた。
「お、やっと来たのかヒーロー……待ってたよ。もう来ないかと思ったけど、やっぱり来てくれたね。暴れてみて正解だったよ」
その言葉で、拓夫はヴィルスの行動の意味を理解する。そもそも暴れること自体には何の意味もない。ただ、拓夫をおびき寄せるためにやったことに過ぎないようだった。
「無視すんなよなぁ」
ヴィルスの言葉には答えず、拓夫は固唾を呑んで子供と母親を見守る。すぐにでも助けに行きたかったが、ヴィルスの方が二人に近い。昨日のように目の前で殺されるのはもう沢山だった。
「ねえ、起きてよ母さん! 母さん!」
悲痛な叫びが、拓夫の胸を締め付ける。自然と手に込められた力が、拳を握らせる。それと同時に、不快なノイズ音が拓夫の右手から発せられた。
「……!」
拓夫の右手は、またしても壊れたグラフィックのようになってブレていた。拳を握ったつもりでいたが、手の形ですらない上に感覚さえない。
「どうした? 今度は泣き叫ばないのか」
「母さん! 明日、明日父さんが帰って来るんでしょ!? こんな所で寝てたら、父さんに会えなくなっちゃうよ!」
明日、また、明日だ。凛桜と同じで、この子も明日を信じている。
「……やっぱり、守らなくちゃいけないものなんだ」
「……あん?」
つまらなさそうに答えるヴィルスを睨みつけ、拓夫は腰に出現したディスクホルダーからディスクを取り出すと、右腕のハックドライバーへ装填する。
「はっ……マジかよ! お前、ハックになっちゃうんだ?」
『Now Loading……』
ハックの力でデータを上書きすれば、拓夫の右手の症状は悪化するだろう。マクレガーは決定的なことは口にしなかったが、そうなることは考えなくてもわかった。
「もしかしてお前、こいつらとか助けようと思ってる?」
拓夫から視線をそらさず、ヴィルスは右腕の刃を子供と母親の方へ向ける。
「やめとけよ。意味ないぜ? こいつらもただのデータだ、生きてないんだよ。そんなことより、俺のヴィルスの力とお前のハックの力で、全部ぶっ壊す方が面白いだろ?」
「……違う!」
ヴィルスの言葉に我慢ならず、声を張り上げた拓夫に、ヴィルスだけでなく泣いていた子供までが肩をビクつかせる。それをきっかけに、逃げ遅れた人や通りがかった人達が、一斉に拓夫の方へ視線を向けた。
「ただのデータなんかじゃない……生きてるんだよ! 皆色々思うことがあって、楽しみにしてることとか、やりたいこととかあって……コロッケを食べたらおいしいし、誰かと一緒にいられたら、嬉しいんだ!」
「……は?」
「それって、生きてるってことなんだよ! ただのデータじゃない、生きてるんだよ!」
その言葉と同時に、拓夫はハックドライバーの上蓋を素早くスライドさせる。そして自分の姿がハックに変わるのを待たずに、拓夫は全速力で親子の方へ駆け出した。
『Install……』
「ばっかじゃねえの!」
それを見たヴィルスは、ワンテンポ遅れて親子へ接近すると刃を振り上げる。そして即座に振り下ろして親子を切り裂こうとしたが、ギリギリで間に合った拓夫の右腕が、ヴィルスの刃を強引に受け止めた。
『Set up! Hack!』
弾けた右腕のデータが収束し、そこを中心に拓夫の身体はホログラムに包まれてハックへと変化する。
「な、なんだ……! 白い化物だ……!」
「子供を助けたわ! やっぱり味方だったのよ!」
遠巻きに見ていた女性がそう叫んだ途端、一斉に周囲で歓声が上がる。それを一身に受けながら、ハックは戸惑うヴィルスを強引に突き飛ばし、親子の方へ振り向いた。
「……大丈夫!?」
「う、うん……うん! ありがとう……ありがとうお兄ちゃん!」
子供が、笑った。ただ見ているだけだった人達が親子の方へ駆け寄り、気絶したままの母親と子供を運んで走り去って行く。その様子を見ているだけで、ハックは満たされる。
空虚なデータが心で満たされて、生き返ったような気がした。
「なんっだよ……なんだよお前! 意味ないって言ってんだろ! 明日にはこのサーバー、止まるかも知れないんだぞ!」
起き上がり、ハックへ悪態を吐くヴィルス。ハックは振り返ってそれを見据えると、傷ついた右腕を握りしめて見せる。
「お前……言ったよな! 明日で世界が終わるならどうするって!」
あの時ハックは、拓夫はきちんと答えることが出来なかった。現実味のない質問に、答えを持っていなかった。それでも今ならハッキリと答えられる。明日で世界が終わるなら、拓夫のやることはたった一つだ。
「俺は……俺は今日を、今を全力で生きてやる! 明日で終わったって良いように、やり切ってやる!」
「そんなことが出来るかよ!」
「やるんだよ! 来るかも知れない明日のために、今を、この一分一秒を生きてやる! 俺に出来ることをやってやる! 皆が信じてる明日を、その先の一秒を、俺が守るんだ!」
明日が来るなんて保証はない。それでも信じて生きたいと、今は思えた。先がないから諦めるなんて考えは、もう二度としたくない。来ない明日を思って今を捨てたくない。今を、この瞬間を、ハックの力で守りたかった。
「俺の今を! みんなの今を……明日を! お前みたいな奴に、一秒だって壊させるもんか!」
「は、はは……はぁ。馬鹿だなお前ってッ!」
一瞬気の抜けたような調子で笑ったヴィルスだったが、すぐに激情を露わにしてハックへ襲いかかる。皆の声援を受けながら応戦するハックだったが、やはり戦闘能力ではヴィルスの方が一枚上手なのか、すぐに押し負けて弾き飛ばされてしまう。
「だっせえなぁ……だせぇよお前! 何が守るだ、出来もしないのに大口叩くんじゃねえよ!」
よろめくハックを切りつけて弾き飛ばし、ヴィルスは声高に笑い始める。それはどこか、強がっているようにも聞こえた。
「まあ、面白かったよお前。それじゃ、デリートして――」
右足に紫色のエネルギーを充填させながら、ヴィルスはハックに歩み寄って行く。そして倒れたままもがくハックを踏みつけようとした……その時だった。
「――――ッ!?」
突如ヴィルスの身体に、何発もの銃弾が撃ち込まれる。ダメージ自体はないように見えたが、ヴィルスは動きを止めて銃弾の来た方向へ視線を向けた。
「……はぁ、マジか」
いつの間にかヴィルス達を取り囲んでいたのは、武装した警官達だった。
「……ッ! 白い方は!?」
「……今は紫の方を撃て!」
警官達はやや戸惑った様子でハックを見た後、すぐに視線と銃口をヴィルスへ向ける。ハックが味方だと断定はしていないようだが、少なくとも今はハックを攻撃するつもりはないらしい。
「お前らさ、本気かよ」
四方から一斉に銃弾を浴びながらも、ヴィルスは平然とその場に佇んでいる。銃弾はヴィルスの装甲に弾かれているようで、どれだけ撃ってもダメージを与えられていない。無視してそのままハックへの攻撃を再開するかとも思われたが、ヴィルスは警官達が目障りだったのかゆっくりと警官隊の方へ歩いて行く。
「邪魔なんだよなぁ」
武装した警官達を右手一本でなぎ払い、ヴィルスは退屈そうにそう呟く。そのヴィルスの後ろ姿を睨みつけながら、ハックは何とか立ち上がって拳を握りしめる。
「お兄ちゃん……」
そんなハックの様子を、警官達の後ろから遠巻きに見ている少年がいた。先程逃げたハズの、ハックが助けた少年である。
大人に連れられて一度は逃げたハズの少年だったが、ハックのことが気になってここまで戻ってきてしまったのだ。少年はよろめくハックを見つめ、グッと拳を握りしめると大きく息を吸い込んで、力いっぱい叫ぶ。
「お兄ちゃん……頑張れッ!」
その声が、その叫びが、ハックの両足に力を与える。ヴィルスから受けたダメージで不足していた体力を、少年の勇気で補ったのだ。握った拳へ更に力を込め、ハックは力いっぱい右足で踏み込んだ。
「うおおおおおおおおおッ!」
少年の声に応えるように、己を鼓舞するように雄叫びを上げ、ハックは警官達を押しのけてヴィルスへ肉薄する。
「――――ッ!」
警官達に気を取られていたヴィルスが、ハックに気づいて動揺した瞬間、ヴィルスの顎にハックの渾身の右ストレートが炸裂する。
「か……ッ……ッッ!?」
派手に吹き飛んだヴィルスを避けるようにして、警官達が離れていく。その警官達の合間を縫って、少年は顔を覗かせた。
「お兄ちゃん!」
「……おう!」
少年に力強くそう応え、ハックはサムズアップして見せるのだった。
『拓夫!』
そうしている不意に、今まで黙っていたマクレガーがドライバー越しに声をかけてくる。
『……間に合った。ハックのアップデートディスクをホルダーに転送した!』
「了解……! ありがとう!」
すぐにホルダーを確認すると、ラピッドハッカーのディスクとは別に、新たなディスクが追加されていることがわかる。「Hack buster」と書かれているそのディスクを取り出して、ハックはすぐにドライバーへ装填した。
「秋場……拓夫ォォォォオオッ!」
『Now Loading......』
ハックへ変身する時と同じ電子音声が聞こえると同時に、ハックはすぐにドライバーの上蓋をスライドさせる。
『Update……』
次の電子音声と同時に、ドライバーから出現したホログラムがハックの前に出現する。それに気づかないまま接近してきたヴィルスは、ホログラムの壁に弾かれてしまう。
そしてホログラムはハックの身体を包み込み、新たな姿を形成していく。
『Version2! Hack Buster!!』
分厚くなった白い装甲が、夕日を反射させて輝く。その眩しさに、周囲の警官達は思わず目をそらしてしまう。
しかし特筆すべきなのは装甲よりもその右腕だ。ハック自身の腕よりも一回り程太く大きな砲塔が、その存在をこれでもかという程主張していた。
ハック・バスター。マクレガーが開発した、ハックの新たな姿である。
「終わりだヴィルス……お前は、俺がデリートする!」
まるで後光でも差しているかのようなハックのその姿に、ヴィルスは口惜しそうに睨みつけた。