第七話「世界の真実」
川へ転落した拓夫が、マクレガーによって引き上げられたのは、ヴィルスと戦ってから約三十分後のことだった。
ハックがヴィルスによって川へ叩き落された後、マクレガーはすぐに家を飛び出して拓夫の救出へ向かった。幸い川の流れは非常に緩やかで、拓夫はあまり流されておらず、マクレガーはすぐに拓夫を発見することが出来たのである。
「拓夫! 拓夫! しっかりしろ!」
マクレガーは拓夫を引き上げると、すぐに拓夫の呼吸を確認する。意識は失っているが、呼吸はしっかりと行っており、マクレガーはひとまず安堵して胸をなでおろす。
それから数分後、拓夫は意識を取り戻してゆっくりと両目を開けた。
「拓夫! 良かった……無事か!」
その頃にはすでに日は落ちており、拓夫は真っ暗な川辺で目を覚まし、一瞬わけもわからず目をキョロキョロさせていたが、やがてある程度思い出したのかすぐに起き上がる。
「……俺、ヴィルスって奴に……やられて……っつ……!」
痛むのは右肩よりも右腕だった。しかし、完全に折れたと確信出来る程の激痛だったハズなのに、今は手首や指をある程度動かせる。右肩の傷も何故か塞がっているのか、もう血は出ていないようだった。
「とにかく君が無事で良かった。今日はもう休んで――――」
「……マック!」
マクレガーが言葉を言い切らない内に拓夫は凄まじい形相でそう叫ぶと、マクレガーの肩に掴みかかる。
「一体どういうことなんだよ! 人が……人がグリッチになったんだ!」
「……それは……」
「マックはいつもそうだ! 誤魔化すばっかりで、結局まだ何も教えてくれないじゃないか! 一体何がどうなってるんだよ! なあ、グリッチの正体ってほんとに調べてるのか!? ほんとは知ってて、教えてくれないだけなんじゃないのかよ!」
表面上、マクレガーとはそれなりにうまくやっていた。拓夫自身ある程度マクレガーを信頼していたし、それはマクレガーの方も同じだ。けれど、決して不信感が消えたわけではない。いずれ話すと言っていたマクレガーが生首のまま生きていた理由、それについては未だにマクレガーは話してくれていない。グリッチの正体についても調べておくと言ったっきりで、全く進展がない。そんな中で一度にかなりのストレス負荷を受けたせいで、その反動がマクレガーへの不信感という形でぶちまけられてしまっていた。
「答えてくれよ! 教えてくれよ! 何なんだよ、一体!」
そこまで言って、拓夫は今自分がマクレガーに八つ当たりしているだけだと気付いて口をつぐむ。マクレガーに対する不信感が拭えていないことには変わりがないが、だからと言って今マクレガーを責めたところでどうにもならない。
「……ごめん」
「いや、悪いのは私の方だ……すまない」
マクレガーは申し訳なさそうに頭を下げた後、ゆっくりとその場で深呼吸をして見せる。そして意を決したかのように口を開いた。
「明日、全て話そう」
「えっ……」
「ここまで巻き込んでおいて、君に話していない事自体おかしな話なんだ……本当にすまない」
マクレガーはもう一度頭を下げると、すぐに顔を上げて語を継ぐ。
「だが前にも話した通り、かなりショッキングな話だ……。君が、戦えなくなってしまうかも知れない程に」
静かで、重苦しいマクレガーの言葉に、拓夫はゴクリと生唾を飲み込む。
「……それでも、受け止めて欲しい。詳しい時間は明日連絡しよう、私の家に来てくれないか?」
「わかった……。ありがとう、マック」
拓夫がそう告げると、マクレガーは驚いたように目を見開いた後、困ったように苦笑した。
「礼を言われるような資格はない……君はもっと、私を糾弾したって良いくらいだ」
「それで何とかなるわけじゃないだろ。さっきは、ごめん……取り乱してた」
それから二言三言会話をして、拓夫が帰路につこうとしたところを、不意にマクレガーが後ろから呼び止める。
「……拓夫、今のハックではヴィルスを倒すのは難しいだろう」
振り向かないまま足を止めて、拓夫はヴィルスとの戦いを思い返す。
あの時拓夫は、グリッチとの戦いでかなり傷つき、疲労していた。しかしそれを差っ引いてもヴィルスとの実力差は大きかったように思える。ヴィルスはあの時、拓夫を完全に弄んでいた。いくら負傷していたとは言え、ハックになった拓夫があんなに簡単に敗北するなどとは思いたくなかったが、それが現実になってしまう程にヴィルスの実力は圧倒的だった。
「近々、ハックのアップデートを予定している。ディスクが完成し次第、君に連絡する」
「……そっか。頼むよ」
少し振り向いて短くそう答え、拓夫はそのまま帰路についた。
世界が壊れる夢だった。
拓夫はいつも通り町中を歩いていて、行きつけのアニメショップへ行って好きなキャラクターのグッズを買い、のんびりと歩いていた。最初は何事もなく、ただの平和な町並みが続くだけだったが、次第にノイズが聞こえ始める。それはどんどん大きくなっていって、気がつけばその場にうずくまって耳を塞いでしまいたくなる程大きくなっていた。そうなる頃には見えている世界もおかしくなっており、人の姿は消え、代わりにグロテスクな姿をしたグリッチが大量に現れた。
耳を塞いだまま、グリッチから逃げ出す拓夫だったが、どこまで行っても、どこに行ってもグリッチだらけで人間の姿はどこにもない。周囲の建物も3Dグラフィックのようになっており、所々チラついていて不安定になっている。気が狂いそうになりながら逃げ惑い、拓夫はやっとのことでグリッチのいない、建物の影に逃げ込んだ。
そこで、拓夫は自分の右手に違和感があることに気がつく。そして恐る恐る自分の右手を見て尻餅をつきながら悲鳴を上げる。
右手が、周囲の建物と同じようにチラついている。ジジジと音を鳴らしながら不安定にブレる自分の右手が、少しずつグロテスクな……グリッチの手に変わっていく。
拓夫の悲鳴をかき消すようにノイズが大きくなり、周囲の建物が、世界がチラついて、ブレて、滅茶苦茶な四角いグラフィックの塊になって――――そこでやっと、拓夫は目を覚ました。
「ハァ……ハァッ……!」
シャツが寝汗でべっとりと張り付いて気持ちが悪い。顔も身体もぐっしょりと汗で濡れており、呼吸も荒い。まるでマラソンでもしてきたかのようだ。
現在の時刻は午前八時。昨晩は疲労もあって日付が変わる前に就寝していたため、八時間も眠っているハズなのだが、あまり疲れが取れた気はしない。
額の汗を拭おうとして、拓夫はふと気がついて自分の右手を見る。そこにあったのはいつもの自分の右手で、そっと胸をなでおろしたものの別の違和感が引っかかる。
拓夫はあの時、確かに右腕をヴィルスに折られたハズだった。いくらハックの装甲があったとしても、あの音と激痛は生身のものだ。肩だってグリッチに噛みつかれた時に装甲を貫かれていたのに、今ではもう何ともない。
言いようのない気持ち悪さが汗と一緒に貼り付いて、不快感が募る。とにかく汗だけでも流そうと、拓夫はすぐに風呂場へと向かった。
昼前にマクレガーから「十六時頃に来て欲しい」連絡を受けた拓夫は、言われた通り十六時に着くように徒歩で向かっていた。
今まで話してくれなかった真実を、急に今日語られると言われても実感はわかなかったが、どこか歩幅は広く、早足だ。昨晩はグリッチについて、拓夫なりに色々考えてはいたのだが、どれだけ考えても嫌な答えに辿り着いてしまう。マクレガーがそれを振り払うような答えを出してくれると信じたかったが、そんな淡い期待よりも嫌な予感の方が強かった。
そんな風に考えながら歩いていると、ふと拓夫の進行方向に異様なシルエットの人影が立ちふさがる。それを視界に捕らえた瞬間、すぐに拓夫は身構えた。
「……なんだよ、そんなビビんなよヒーロー」
ヴィルスである。
何らかの方法で拓夫がマクレガーの家へ行くことを知って先回りしていたのか、それとも偶然近くにいただけなのか……いずれにせよ、遭遇するタイミングとしてはかなり悪い部類と言える。
すぐに拓夫はハックドライバーでハックになろうとしたが、周囲の目を気にして一度ピタリと動きを止める。すると、ヴィルスはわざとらしくクスリと笑みをこぼして見せた。
「ああいーよいーよ、話がしたいだけだからさ。それに人目が気になるんだろ? 公衆電話でもあれば良いのにね」
「……話って、一体何の話だよ」
幸い近くに人はいない。窓から誰かが覗いている可能性もあるが、相手はヴィルスである以上、一々気にしている場合ではない。彼の目的は不明なままだったが、昨日のことを考えると拓夫はヴィルスを許す気にはなれなかった。
「そんなに敵意むき出しにしなくても良いだろ、友達じゃないか」
ヴィルスの軽口一つ一つが不愉快で、拓夫はあからさまに顔をしかめる。そのリアクションが面白いのか、ヴィルスは楽しそうに言葉を続ける。
「この世界がさ、全部作り物だとしたら……どうする?」
「えっ……?」
唐突なヴィルスの問いに、拓夫はうまく答えられないまま困惑する。
「だからさ、全部偽物なんだよ。町も人も、今僕達が立っているこの地面でさえもな」
「わ、わけのわかんないこと言うなよ! そんなことあるわけないだろ!」
「君も本当は薄々気づいているんじゃないのか? グリッチが何なのか」
「……それが今の、偽物だって話と何か関係があるのか……!?」
「あるさ」
ヴィルスが短くそう答えると同時に、拓夫の後ろから甲高い悲鳴が聞こえてくる。見れば、通りがかったらしい若い女性がヴィルスを指差してブルブルと震えていた。
「――――ッ! に、逃げてください!」
慌てて拓夫はそう叫んだが、足が竦んで動かないのか女性は逃げ出そうとしない。
「丁度良いや」
それをチラリと見て、ヴィルスはそう呟くと足早に女性の元へ近づいて行く。すぐに拓夫はヴィルスを止めようと飛びついたが、ハックに変身していない拓夫ではヴィルスを止めることが出来ず、乱暴に突き飛ばされてしまった。
「や、やめろ……やめろ!」
拓夫が苦痛に表情を歪めながら起き上がる頃には既に、ヴィルスは女性の目の前まで接近していた。変身してからでは間に合わないと判断した拓夫は、無理に立ち上がってヴィルスへ駆け寄って行く。
「君が守ろうとしていたものに何の意味もないってこと、教えてやるよ」
「やめろォォォォォッ!」
ヴィルスは足を引きずって逃げようとする女性の首元を右手で掴み上げると、そのまま間髪入れずに左拳を腹部へ叩き込んだ。
「かっ……!」
ヴィルスの拳は女性の腹部を突き抜ける。口と腹部の穴から同時に血が吹き出して、返り血がヴィルスの紫色の肢体を染めた。
一目でわかる、即死だった。
「うわああああ!」
「何もうエキサイティングしてんだよ、面白いのは今からだろ」
激情のままにヴィルスに殴りかかろうとする拓夫だったが、殺された女性に異変が怒り始めていることに気がついてピタリと動きを止めた。
「教えてやるからよく聞いとけよ? 僕達は、この世界はサーバーで管理されているデータなんだよ。だからこうしてデータが完全に破損すると……」
女性の身体が、壊れた3Dグラフィックのようにブレていく。そしてそのまま数秒と経たない内に細かな粒子になって弾けるようにしてその場から完全に姿を消してしまう。その一部始終を見て、拓夫は思わずその場へへたり込んでしまった。
「こんな風にデリートされる。サーバーから消えるんだよ」
「う、嘘だ……」
「嘘じゃない。お前は何度もグリッチをサーバーからデリートしてきたじゃないか」
ヴィルスのその言葉に、拓夫はゾッとする。マクレガーと出会って、ハックになってから倒したグリッチの数なんてもう覚えていない。もし、グリッチの正体が拓夫の想像通りだとしたら――――
「サーバーにもだいぶガタが来てるみたいでさ、こうやって外部からデリートしなくても人間の意識データは段々壊れていく……するとどうなると思う?」
「ど、どうなる、んだよ……」
答えはもう、ほとんどわかりきっていた。昨日の光景だけでも、その程度の想像は誰にだって出来る。それでも問い返してしまうのは、その現実からギリギリまで目を背けていたかったからなのかも知れない。
「ヒーローは教えて君だなぁ……。壊れたデータはバグるんだよ、バグったデータは――――」
「グリッチに、なる……」
「そゆこと」
拓夫はハナのことを、人の心を持ったグリッチだと思っていた。しかしそれはとんでもない思い違いで、本当は逆だったのだ。ハナは元々人で、グリッチになった後も人の意識を残していただけだった。あの蜘蛛のグリッチも、トンボのグリッチも、蛾も、ムカデも、倒してきた全てのグリッチは元々人間で、壊れた人のデータの成れの果て。必死に否定しようと考えたが、ヴィルスの説明は全て辻褄が合ってしまっていた。
「ち、違う、そんなことはない……データじゃない、お、俺……俺は生きてるよ! データじゃない……!」
「そういえばさ、肩の傷はもう良いの?」
「肩の、傷……?」
「あんな深い傷が一晩で治るなんて、おかしいと思わないのか?」
「……データだからって、データだから治ったって、そう言いたいのかよ……!」
「そう言いたいのだよ、”ワトソン君”」
わざとらしくおどけて見せて、ヴィルスはその場で高らかに笑い始める。その笑い声が夢の中のノイズのように聞こえてきて、拓夫は思わず両手で耳を塞いだ。
「あ、もう一つ教えといてあげようか」
言いつつ、ヴィルスはうつむいた拓夫の顔を覗き込む。反射的に逃げようとした拓夫の身体右手で押さえ込むと同時に、ヴィルスの姿がその場でチラつき始める。
「え……?」
次の瞬間、拓夫の顔を覗き込んでいたのはヴィルスではなく――――冬馬春彦だった。
「冬馬……君……?」
「驚いた? その顔が見てみたかったんだよね、ごめんね今まで黙ってて」
ニタリと厭な笑みを浮かべて、冬馬は嘲るように拓夫の顔を覗き込み続ける。それが不愉快で、拓夫は春彦を突き飛ばしたが春彦は動じない。にやけたまま一度立ち上がると、今度はその場で拓夫を見下ろし始めた。
「あ、そうだ。そういえばさ」
しばらく拓夫を見下ろした後、春彦は思い出したようにそう言うと、拓夫の右手を強引に掴む。
「僕が壊した右手、どうなってる?」
ジジ、とノイズのような音がする。
いつの間にか感覚がなくなって、肘から下が失われたかのような錯覚を覚えた。
「え、あ……?」
拓夫の右手は、壊れていた。夢で見たのと同じように、壊れたグラフィックの塊になって不快なノイズを発し続けている。
「あ、ああ……!! ああ! うわああああ!」
悲鳴を上げながら右手を振り回しても、何も変わらない。拓夫の右手は、壊れたままノイズを発し続けていた。
「あーあ、まあそうなるよな。ハックで何度もデータを強引に改竄してるんだ、データが壊れて当然だろ」
「うわ、うわあ……ああああ!」
「だって君も、データだもんな」
「うわあああああああ!」
どれだけ叫んでも何も変わらない。春彦の言葉を遮断することさえ出来ない。右手はただただノイズを発し続け、それに呼応するかのように春彦が再び高笑いを始めた。
「よし、それじゃもう一度君に聞くよ秋場君」
もったいぶるように間を置いてから、春彦はへばりつくように語を継ぐ。
「明日で世界が終わるとしたら、君はどうする?」






