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超人ハック  作者: シクル
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第四話「いつかの蝶」

 凛桜が由紀夫をプロデュースしてから一週間後、由紀夫はしばらく悩んでいたがついに花屋にいる少女へ声をかけることに決めた。本当なら凛桜に言われるがまま、プロデュースされた翌日には少女へ声をかける予定だったが、少女がしばらく花屋へ姿を現さなかったため、由紀夫が躊躇していたのもあって結局一週間が経過していた。

「り、凛桜……やっぱり悪いよ……」

 花屋の反対側の物陰に隠れるようにして、拓夫と凛桜は由紀夫と少女の様子を眺めていた。こういう野次馬的な行為はするべきではない、と拓夫は何度も主張したのだが凛桜はどうしても見ると言って聞いてくれず、結局凛桜に連れられる形で拓夫も由紀夫を見守っていた。

「うっさいわね、こういうのは横から見るのが面白いのよ。だからラブストーリーは売れンのよ」

「そ、そういうモンかな……」

 とは言え、凛桜も本当に野次馬感覚で来ているわけではなく、単純に由紀夫のことが少し心配だったというのもあるらしい。その証拠に、凛桜は先程から由紀夫の様子を固唾を呑んで見守っている。

 遠目なのでどんな会話をしているのかはわからないが、由紀夫が終始おどおどしているのだけはわかる。凛桜のプロデュースで、かなり見栄えが良くなってはいるものの、生来の気の小ささは変わっていないようだった。

 そのまましばらく見守っていると、由紀夫は少女に手を振りながら離れていく。緊張した様子ではあるが、表情は明るい。

「拓夫携帯」

「へ?」

 困惑したまま拓夫が携帯を見せると、凛桜はそれをひったくると勝手に由紀夫へメッセージを送り始める。

「あ、ちょっと凛桜! じ、自分ので送れば良いだろ!」

「アイツ登録してないのよ、ちょっと貸して」

「か、借りてから言うなよぉ……」

 凛桜がメッセージを送ってから数秒後、由紀夫はポケットから携帯を取り出して確認すると、すぐにこちらを向く。どうやら凛桜は自分達が見に来ていることを由紀夫に伝えたらしい。

 しばらくしてから、由紀夫は拓夫達の元へ駆け寄ってきた。未だに緊張の抜け切らない面持ちではあったが、妙に興奮している様子が見て取れる。

「あ、あのっあ、ぼっぼか、僕……へへへ……」

「いや全然わかんないんだけど」

 もう舞い上がってしまって何を言っているのかわからないが、とにかく嬉しそうな由紀夫の様子に拓夫は目を細めた。

「は、話、話が……出来ました……ッ!」

「やったじゃない。何話したのよ?」

「て、てんッ……天気と、後、花が、綺麗だって……」

「そんだけ?」

「や、やりました……へへへ……」

「全ッ然やってねーわよアホ! このヘタレ! 何でその今のルックスで天気とお花の話しか出来ねえのよ! 頭お花畑かぁーーーー!」

 怒声を上げながら由紀夫の肩を激しく揺さぶる凛桜だったが、由紀夫はすっかりのぼせてしまったような表情でボーッとしたまま頭を前後させている。

「ま、まあまあ一応進展……したわけだし」

「こんなモン進展の内に入んないわよ! デートの約束くらい取り付けて来なさいよ!」

 何はともあれうまくいったようで、拓夫は心底安心して息を吐く。何だかんだで凛桜と由紀夫も打ち解けたようだったし、何よりこうして平和な日常の一コマの中にいられることがとても尊いことのように思える。

 まだハックとして非日常に身を置いてからあまり経ってはいないが、こうした日常は大切にしたい。それと同時に、これを自分が守らなければならない、という使命感も湧き上がっていた。





 それから何日かかけて、由紀夫と少女は少しずつ打ち解けていった。ハナ、と名乗ったその少女は、ほとんど喋らないものの由紀夫のことは気に入ったようで花屋で由紀夫を捜すようにキョロキョロしている所を拓夫が見かけたこともある。

 最初の内は拓夫と凛桜も見守っていたが、少しずつ進展していく二人の仲を見て安心したのか次第に”野次馬”はしないようになった。

 そして由紀夫がハナと話すようになってから一週間くらい経った頃、学校で由紀夫は朝から少し興奮気味に拓夫の元へやってくる。

「あ、あああ秋場くん!」

「ん……どうしたの?」

 テンションの高い由紀夫に、拓夫は眠そうにあくびをしながらそう答える。ここ数日、前に取り逃がしたグリッチを探して夜中に歩き回っているせいで、拓夫は少し睡眠不足気味だったのだ。

「ぼ、ぼぼ、ぼ、僕、ハナちゃんと、デートの、や、約束を!」

 小刻みに震えながらそう言った由紀夫に、拓夫はしばしポカンとしたままだったが、やがて事の重大さに気がついて眠そうだった瞼をぱっちりと開けた。

「え、ほんとに!? すごいよ! いつ!?」

 まるで自分のことのように喜びながら驚いた拓夫に気を良くしたのか、由紀夫は照れ臭そうにはにかんで見せる。

「あ、明日……いつもの花屋で待ち合わせるんだ……! 放課後、少し喫茶店で話す、だけだけど……!」

 まだ少しデート、と呼ぶには微妙にも感じられるが由紀夫にとっては大きな進歩だ。最初は話しかけることも躊躇していたような由紀夫が、喫茶店に誘うことが出来ただけでも大きな進歩だ。

「きっと凛桜も喜ぶよ」

「そ、そうだね、そうだと、良いけど……」

 そんな会話をした次の休憩時間、拓夫が携帯で凛桜に連絡を入れると凛桜はすぐに駆けつけてぶっきらぼうながらも由紀夫に称賛の言葉を送っていた。





 その日の夜、マクレガーから連絡を受けた拓夫はハックになってグリッチと戦っていた。

 この間の蝶のグリッチに似たフォルムのグリッチで、別物なのか同一のグリッチなのか判別がつかない。前回は一切反撃をしてこなかったが、今回は宙を舞いながらヒットアンドアウェイでハックを攻撃してくるため、こちらの攻撃が全く当たらずにハックは苦戦を強いられていた。

「こッ……の野郎!」

 悪態を吐きながら繰り出した拳は空を切り、ハックは上空から滑空してくるグリッチによって弾き飛ばされてしまう。

 苦悶の声を上げながら、ジェットハッカーで応戦しようとバイクへ近づくハックだったが、グリッチはそんなハックを放置したままどこかへと飛び去って行く。

「あ、アイツ!」

 急いでジェットハッカーで追いかけはしたものの、結局今回もハックはグリッチを追跡し切れずに取り逃がしてしまっていた。

「もう……なんなんだよ!」

 元の姿に戻るやいなや、拓夫は一方的に攻撃され続けたことへの苛立ちからか、あまりらしくない悪態を吐く。

『ワンサイドゲームだったな……怪我はないか?』

「なくもないけど……ハックの装甲のおかげで平気だよ」

 ハックの時に受けたダメージは当然拓夫の身体にもフィードバックするが、基本的にはハックの装甲で守られているおかげ拓夫の傷は浅い。

『しかし妙だな……あのグリッチ、前回とは様子がまるで違う』

 前回現れたグリッチは、ハックに対して一切攻撃を行わなかったのに対して、今回はハックを見つけるやいなや猛攻をしかけてきている。似た姿をしてはいるが、同一のグリッチだとはあまり思えなかった。

 結局その後グリッチは出現せず、今回もモヤモヤしたまま拓夫は帰路へ着いた。





「そ、それじゃ、い、いいい、いってまいり、ましゅッ……」

 吃るわ噛むわ裏返るわと散々ではあったが、大谷由紀夫は力強く敬礼して見せた。

 デート当日の放課後、由紀夫は拓夫と凛桜に何度もお礼を言った後、ついにハナの元へ向かおうとしていた。

「はいはい、適当にがんばってきなさいよ。フられたら拓夫が慰めてあげるから」

「お、俺かよ……。いやまあ、慰める……けどさ」

 かなり緊張した様子ではあったが、意気込んで待ち合わせ場所へと向かう由紀夫の背中を見送ってから、拓夫と凛桜は顔を見合わせて一息吐く。

「うまく……行くと良いよね」

「そーね。あたしもラブストーリーはハッピーエンドの方が好きだし」

 ま、バッドエンドのやつも見るけどね、と付け足してから、凛桜は悪戯っぽく笑って見せた。



 その後凛桜は友人とカラオケに行ってしまい、特に予定のない拓夫はぼんやりと帰り道を歩いていた。今日に限ってアニメの録画もそれ程溜まっておらず、積んでいる本や雑誌もそれ程崩す気になれなかったので自然と歩く速度も遅くなる。

 由紀夫のことは多少心配ではあったものの、様子を見に行きたいと思う程ではなかったし、そもそも喫茶店に行ける程仲良くなったのであれば後はなるようになるだろうと拓夫は思う。由紀夫の人となりはよく知っているし、ハナも聞いた感じでは由紀夫と相性の悪い性格には感じない。少々二人共奥手過ぎる所はあるものの、仲良くなるのは難しくないだろう。そんな風に考えつつ、喫茶店で吃りながら話す由紀夫を想像していると、突如拓夫の右腕にハックドライバーが出現する。拓夫は慌てて周囲に人がいないのを確認してから、小声でマクレガーに応答した。

「何? どうしたの?」

『拓夫、グリッチだ。急いでくれ』

「……わかった、場所は? バイク取りに帰った方が良い?」

『いや、その必要はない、走った方が早い。場所は――――』

 マクレガーが告げたグリッチの出現場所を聞いて、拓夫はその場で息を呑んだ。





 人目につかない場所で予めハックになってから、拓夫はグリッチの現れた現場へと向かった。既にそこではグリッチが暴れ始めており、駆けつけた警官達もその場に倒れ伏している。

 暴れているグリッチはくすんだ褐色の、蛾のような姿のグリッチだ。グリッチは倒れている“少年”を庇うようにして震えている少女へ、ゆっくりと歩み寄っている。ぐしゃぐしゃになった花壇の上に倒れている少年を見て、ハックは力強く拳を握りしめて駆け出した。

「大谷君!」

 倒れている少年は大谷由紀夫、そして震えている少女は紛れもなくハナであった。

 マクレガーに場所を聞かされた時にはもう、拓夫は嫌な予感がしていたのだが、かなり最悪に近い形で予感が的中している。由紀夫が無事かどうかはまだわからないが、遠目に見た感じだとどうにもならない致命傷を負っているようには見えないのと、ハナが無事なことが救いである。

 ハックはグリッチに接近すると、飛び上がって上から突き下ろす形で拳を繰り出す。ハナに気を取られていたせいでそのまま殴りつけられ、よろめいたグリッチにハックは続けざまにもう片方の拳を叩き込む。それが見事にクリーンヒットしたのか、グリッチはその場から派手に吹っ飛んで倒れ込んだ。

「は、早く逃げて!」

 ハックがグリッチを殴っている間も、何故かその場から動こうとしなかったハナにそうハックは呼びかけたが、ハナは震えたまま動こうとしない。由紀夫を守ろうとしているのかとも思ったが、その怯えた表情がグリッチよりもハックに向けられていることに気がついて、ハックは困惑する。

「こ、来ないで……!」

「えっ……あ、いや、お、俺は……」

 ここで由紀夫の友人だと言うわけにもいかず、ハックは口ごもる。人から見ればハックだってグリッチと変わらない、人ではない化け物だ。最初に警察に銃を向けられた時と同じで、むしろ怯えない方が不自然なのだろう。

「とにかく……とにかく逃げて!」

 やり切れない思いのまま拳を握りしめ、ハックは目をそむけるようにしてハナからグリッチへ視線を戻す。既に起き上がったグリッチは、背中の羽を広げて飛び上がり始めていた。

「や、やばい!」

 空中戦になればハックが不利だ。慌ててハックはグリッチへ駆け寄ったが、その頃にはもうグリッチはハックの上空を悠然と飛んでいた。それをハックが見上げるのと同時に、グリッチは急降下してハックへ体当たりを食らわせる。

 そこから先は昨晩とほとんど変わらない。空中でヒットアンドアウェイを繰り返すグリッチと、一方的に攻撃され続けるハック。十分と立たない内にハックは疲弊し、グリッチによって弾き飛ばされてしまう。

『拓夫! 大丈夫か! 拓夫!』

 ドライバーから聞こえるマクレガーの言葉にもまともに答えられず、ハックは呻き声を上げる。うつ伏せに倒れてもがくハックを放置して、グリッチは再びハナと由紀夫の元へと歩み寄っていく。

「や、やめ……ろ!」

 何とか起き上がるハックだったが、もうハナ達はグリッチの目と鼻の先だ。もう間に合わない、そう思ってすぐに逃げろと叫んだが、ハナは動こうとしなかった。

「……!」

 そして次の瞬間、ハックは信じられない光景を目の当たりにする。

「えっ――――」

 ハナの周囲を、ゲームのグラフィックがブレるような“砂嵐”が包み込み、瞬く間にハナの姿が白い化け物へと姿を変えたのだ。

 その姿は、数日前の夜中にハックが戦った(というよりは一方的にハックが攻撃していた)蝶のグリッチとよく似ている。ハックは今目の前で起きていることを信じたくないがために似ている、と思うように勤めていたがアレは紛れもなくあの時と同一のグリッチだ。

 唖然とするハックを置いてけぼりにするかのように、蝶のグリッチは蛾のグリッチへ殴り掛かり、そのままグリッチ同士の殴り合いへと発展する。

「グリッチ同士が……戦ってる……」

 しばらく殴り合った後、二体のグリッチは飛び上がって今度は空中で戦い始める。最初は互角のように見えたが、段々蝶の方が劣勢になっていき、飛ぶ姿も次第に弱々しくなる。

「も、もうやめろよ……! ねえ! ハナちゃん……なんだろ! やめろって! ねえ、どうなってんだよマック!」

『……すまない、私にも状況が把握出来ん』

 下から呼びかけることしか出来ないのが、ハックにはもどかしい。ハナちゃんが変化した姿とは言え、グリッチはグリッチだ。わからないことが多すぎてどうすれば良いのかわからなかったが、とにかくこのまま戦わせるわけにはいかないとハックは感じていた。

 しかしハックの声も虚しく、グリッチ達は戦い続ける。やがて、もう満身創痍、と言った様子の蝶のグリッチが強引に蛾のグリッチへ組み付く。引き剥がさんともがく蛾のグリッチだったが、蝶のグリッチは必死にしがみつきながら、蛾のグリッチの羽へ手をかける。

「グッ……ギッ……!」

 そしてそのまま蝶のグリッチは、強引に蛾のグリッチの羽を片手で破り捨ててしまう。流石に悲鳴を上げつつ、蛾のグリッチは飛行を維持できずに蝶のグリッチと共に落下していく。しかしその際、蛾のグリッチは蝶のグリッチを下敷きにして落下すると、馬乗りになって乱暴に蝶のグリッチを殴りつけ始めた。

「やめろ……おい、やめろよ!」

 すぐにハックは蛾のグリッチへ駆け寄りながら飛びつくと、強引に蝶のグリッチから引き剥がす。その頃にはもう既に蝶のグリッチは弱り切っており、両手をピクピクさせてその場でもがいている。それをチラリと見て、拓夫はやり場のない感情を握りしめて蛾のグリッチに叩き込む。先程の戦いで弱っている上に羽が千切れて飛べない蛾のグリッチは、ハックの拳を受けてたたらを踏んだ。

 そんな蛾のグリッチに勢い良く連撃を叩き込み、一度弾き飛ばしたところでハックはハックドライバーを操作した。

『Program Break!』

 電子音声と共に、ハックの右足にエネルギーが充填される。回避動作をする余裕もない程弱った蛾のグリッチ目掛けて跳び上がると、ハックは右足から伸ばしたコードを蛾のグリッチの身体へ接続した。

「うおあああああッ!」

 がむしゃらに叫びながら放たれたハックの右足は、ハックの身体ごとコードを通して蛾のグリッチの身体を突き抜ける。“有線キック”を受けた蛾のグリッチは、しばらく呻いてからハックの後ろで爆発四散する。

 そんな蛾のグリッチには目もくれず、ハックはすぐに倒れている蝶のグリッチへと駆け寄って行く。まだ息はあるようだったが、このまま死んでしまうということは火を見るより明らかだ。そう思える程に、蝶のグリッチは目に見えて弱っていた。

「ね、ねえ! しっかりしてよ! ねえってば!」

 これ以上刺激を与えるわけにはいかないため、揺さぶろうとした手を何とか引っ込めて、ハックは蝶のグリッチへ呼びかける。しかし蝶のグリッチはハックへ弱々しく手を伸ばすだけだった。

 少しずつ、少しずつ動かなくなっていく。

 広げたままの羽を寝かせて、次第に動かなくなっていく。

「あ、あぁ……」

 蝶のグリッチが動かなくなった瞬間、いつかのアゲハチョウの姿が重なった。





 拓夫が蛾のグリッチを撃破してしばらくしてから、機動隊や救急車がその場に急行した。サイレンの音を聞きつけたハックは、動かなくなった蝶のグリッチを連れて逃げようとしたが、マクレガーに止められて結局一人だけでその場から逃げ出すことになった。

 被害はそれなりに出ているようだったが、ひとまず倒れていた人々や由紀夫は救助され、事件は幕を下ろした。

 そして事件の翌日、拓夫は浮かない顔で由紀夫のいる病院を訪れる。

 気を失っていただけで大した外傷はなく、検査入院だったのですぐに退院出来るようだったが、心配になって拓夫はお見舞いに向かうことにしたのだ。そこには、ハナをたすけられなかった罪悪感も含まれてはいたが。

「は、ハナちゃんは……無事に、逃げられたかな……」

 多少落ち込んではいたものの、ひとまず大丈夫そうなことに安堵しながら拓夫が話していると、ふと由紀夫がそんなことを呟く。

 答えられないまま言い澱む拓夫だったが、それに気づかないまま由紀夫は語を継いだ。

「警察にも聞いたんだけど、そんな子はいなかったって……。無事に、逃げたんだったら良いけど……」

 不安そうな面持ちでそう言う由紀夫の顔を、拓夫は直視することが出来ない。真実を告げることも、うまく誤魔化すことも出来ないまま、拓夫は顔をうつむかせることしか出来なかった。

「……秋場君?」

「あ、いや、その……無事に逃げてくれたら……良いね……」

「……うん、きっとそうだ……そうだよ」

 自分に言い聞かせるようにそう呟く由紀夫がいたたまれなくて、拓夫はそれから少しだけ会話をしてから由紀夫の病室を去った。

 やり切れない思いが身体の底に沈殿しているかのようで、ひどく重たい。身体をひきずるように歩きながら拓夫はグッと悔し涙を押し殺そうとする。


――――ごめん、大谷くん。俺、ハナちゃんを助けられなかった……助けられなかったんだよ……また、何も出来なかったんだ……。


 病院のリノリウムの床が、ほんの少しだけ濡れた。


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