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月を飲む  作者: 隼海よう
6/14

ひゃくおくねんのこどく


「セフレ」

「は」

「……って、なんて和訳するんだろ」

 夏休みも間近、がんがんにクーラーを効かせた部屋で、あたしは男のパソコンににじり寄った。男の部屋にはパソコンが二台あって、ひとつは大きなデスクトップ、もうひとつは薄いノートパソコンだ。ついでに言うとタブレットもある。デスクトップのパソコン以外は触っても特に何も言われないので、ちょうど何かの作業中だったのか、開きっぱなしだったノートパソコンのブラウザの検索画面に”セフレ”と打ち込んだ。すぐに、”セフレの作り方”とか”セフレから恋人になるには”とか非常にどうでもいい検索結果がずらりと並ぶ。

 今度は”セックスフレンド 訳”と打ち込んで、検索ボタンを押す。それらしいページが出てきたけれど、端的に日本語訳を書いたページはひとつもなかった。どうやら和製英語らしい。上の方に出てきたページに書いてある文字を斜め読みする。合意の上で性交を行う関係。恋愛関係にはないが性的関係にある関係。セックスもできる友人。

 ……あたしたち、友人、なのか?

 フレンド、という単語は、たしかに友人という意味だろうけれど、その響きは、あたしたちの関係からはひどく遠いように思える。

 快楽、のため、だけの関係……というのもまた、しっくりこない。

 なんだろう。

 恋人でも、友達でもなく。

 いきどまり。沈滞。荒野。……絶望?

「……あ」

 ふと振り返ると、ベッドに腰掛けた男がハンバーガーを食べていた。

「それあたしの」

「腹減った」

「自分で買ってよ」

「いいだろ別に」

「よくない」

「どうせいつも全部食わねぇじゃん」

「よくない」

「つれねぇな」

 男ががさがさと紙袋に手を突っ込んで、ポテトだけを寄越した。

「ほらよ」

「むしろポテトいらない」

「わがまま」

「どっちが」

 端的な会話が散らかる。あたしはぺったりと床に座った自分の太ももを隠す制服のスカートを眺めながら、今日聞いたバイト先の先輩たちの会話を思い出す。

 彼らは、あたしがいるのなんかお構い無しに、男同士の会話をしていた。今日のバイトメンバーに男の大学生は三人いて、そのうち一人には彼女が、あとの二人にはセフレがいるそうだ。

 彼らの話題は自分の相手がどんな具合か、みたいなことだった。セフレがいる二人は、そのシンプルな関係のこと、お互いがいかにお互いの欲を満たしあっているかということ、まあそんな感じのことを、どこか自慢げに話していた。

 馬鹿馬鹿しい、と思ったけれど、同時にあたしは不思議に思った。

 彼らが語る彼らの関係は、言葉にしてしまえばたしかにあたしと男の関係によく似たものなのに。

 でも、なんだかそこには、少しだけ、希望のような、余地のようなものが、あるみたいな気がしたのだ。

 ポテトを一本だけ食べて、左手の人差し指についた塩を舐める。それと一緒に、右手で胸元のリボンを解く。振り返ると、男はベッドの上に寝転がり、肘をついてあたしを見ていた。

 昏い瞳を見つめ返す。

 あたしの瞳の奥にも同じくらいの熱の欲望が灯っているのだろうか。

 はらり、と細いリボンを床に落としながら、少なくともあたしたちは、フレンド、ではないなと、思った。



***** ◯ ***** ◯ *****



 あたしと母さんは、二人きりでクリスマスケーキを食べていた。

 部屋にテレビはついておらず、どちらが喋るわけでもなくて、母さんが仕事帰りに買ってきてくれたデパ地下のケーキを、一切れずつつついていた。

 二人で過ごすクリスマスは久しぶりだった。母さんが、あの人と終わったのだということは、はっきりとは宣言されなかったけれど、母さんが職場を変えたことで薄々は感づいていた。そしてこのクリスマスというビッグイベントを数年ぶりに二人きりで過ごしたことで、あたしが感づいていたことは現実だったんだな、終わったんだな、と思った。

 母さんはショートケーキで、あたしはチョコレートタルトだった。どっちのケーキにも、特にクリスマスの飾り付けがしてあるわけではなく、たぶん母さんは本当に仕事帰りに寄った店で余っていたのを買ってきたんだろうと思う。でも別に不満はなかった。あたしは生クリームが苦手で、それを母さんが覚えていてくれたので、それだけでもう十分だと思った。

 あの人と、かぞく、になるあたしたちが、本当は、あたしは全然想像できなかった。あたしたち、の中に、当たり前にあの人は入らなかった。あの人と、あの人の息子を含めた四人を、あたしたち、とくくるのは、どうしてもできなかった。それはほどんど、気持ち悪かった、とすら言ってもよかった。

 けれど、それを言ったら、もしかしたら今目の前で母さんは泣いてしまうかもしれない、と思ったので。

 あたしは甘ったるいチョコレートクリームのたっぷり乗ったすかすかのスポンジを、ただ黙って噛み続けていた。





ーー 目を開けると、ベッドの中には裸のあたしひとりきりだった。起き上がったあたしの肌の上をさらりとタオルケットが滑る。なんだかまだ口の中に安物のチョコレートクリームの味が残っているようで、枕元に置いてあった男のものらしいペットボトルの水を一口飲んだ。

 男はベランダで煙草を吸っていた。男の向こう側にまんまるの月が見える。男の住む部屋はマンションのそれなりに高い階にあり、街の光がほとんど届かない代わりに、真っ暗な部屋にはうっすらと月明かりが差し込んでいた。

 男が一瞬振り返った。目が合う、けれど特に表情を変えることもなくすぐ首を戻す。あたしが起きたことに気づいても部屋に入ってくる気配もない。その、くたびれたTシャツを着た背中を眺める。

 この男を、もしかして、あたしは憎むべきなんだろうか。

 あたしの、母さんを、捨てた男の、息子。

 あたしの兄になるかもしれなくて、でもならなくて、別に今は何の関係もないのに、なんだか変な関係になっている男。

「……ややこし」

 ぽろりと本音が漏れてしまった。

 両親が離婚したのは、あたしが四歳の時のことだ。父さんがいつの間にか家からいなくなっていて、あたしはたくさん泣いた、……ような気もする。正直よく覚えていない。

 母さんは、女の人として、とてもよくできた人だと思う。

 とてもよくできあがった女、と言うべきか。

 ただ、母親として、妻として、いろんなものが足りなかった。

 足りないまま母親になり妻になり、いろんなことが追いつかなかった。

 さらに不幸なことに、母さんは、自分が女として上等だとずいぶん若いうちから気づいてしまっていたようで。

 結局、あたしの両親の結婚生活は、長くは続かなかったのだ。

 離婚してから、あたしが小学校に上がるまで、母さんは夜の仕事をしていた。昼間母さんは家にいて、あたしに一通りの家事、と言ってもたとえばレンジでチンとか、お風呂掃除とか、そういう最低限のことができるように教え込んだ。そして一緒に夕飯を食べてから、母さんは仕事に出かけた。

 あたしが小学生になると、母さんは夜の仕事から昼の仕事にシフトした。大きな病院の、案内のお姉さん、みたいな仕事だ。

 この頃の母さんは、記憶の中でいつも唇を噛み締めている。母親としては若すぎて、新しい学を身につけるには年を取り過ぎていて、受付嬢としては中途半端で。どこにも居場所がないような、そんな不安に一人で立ち向かっていたんだろう。

 そして、たぶん、あたしが小三くらいの時に、今ベランダで煙草をふかしている男の父親と付き合い始めた。終わった時と同じように、付き合い始めた、とも明言されなかったけれど、たぶんそれくらいだったと記憶している。

 この頃、あたしは寂しかった。

 仕事から帰ってきた母さんが前よりずっと柔らかく笑うたび、休日少しお洒落をして出かけるたび、寂しくて堪らなかった。あたしがいるからできないこと、あたしじゃ駄目なことの多さを目の前に突きつけられて、時々ひどく消えたくなった。

 付き合いが続いたのは、四年か、五年くらいだったんだろう。あの人と母さんの関係がいつ終わったのかすら、あたしは知らない。

 ベランダの男が、何かを掲げる仕草をした。目を細めてみるとそれはグラスで、中に透明な液体が入っていた。掲げられたグラスの中に満月が浮かび、ゆらり、ゆらり、と歪んで揺れる。

 あたしは脱ぎ捨てられていた男のシャツを羽織りパンツを履いて、ベランダへ出た。からからからと窓を開けた瞬間、むっとした夏の夜に包まれた。

 男が肩越しに振り返る。

「……なに飲んでんの」

 そのあたしの問いかけには答えずに、男はちびりとグラスの中の液体を飲んだ。右手の人差し指と親指の間では煙草が燻っている。それを一度咥え、ゆっくり吸って、吐き出しながら、

「お前、月が何歳か知ってっか」

「はあ?」

 からん、とグラスの中で氷が回った。

「五十億歳らしいぜ」

 何言ってんだ、こいつ。突拍子もない話題に眉を寄せる。

「そんで、太陽の寿命ってのはあと五十億年ちょっと」

 ベランダの柵に肘をつく男に並ぶ。酔っ払っているんだろうか。ずいぶんご機嫌みたいだ。

 特に相槌も打たず、あたしは街の明かりを見下ろす。あの五月蝿い居酒屋の光も、これだけ離れて見下ろすと、ずいぶんと美しい夜景の一部になるらしい。素直に、綺麗だ、と思う。肩越しに後ろを振り向くと、二人分の影が、長くベランダに伸びている。これはこれで、まあ、悪くない光景だ、と、思う。

 もう嗅ぎ慣れた匂いが鼻腔をくすぐる。この、中途半端に苦く中途半端に甘い匂いは、煙草の匂いだけではないようだ。最近知った。衣類をすべて脱ぎ捨てた男からも、死んだように隣で眠る男からも、この匂いは滲むように漂ってくるからだ。

「太陽が死んだら、お前、どうなるんだろうなあ」

 その問いかけはあたしに向けられたものではない。男は再度グラスを掲げ、そこに丸い月を浮かべた。あたしは男の横顔を盗み見た。目を細め、グラスを通して月を眺める男の顔は、なんだかとても愛おしげで寂しげで、何故だかとてもいけないものを見たような気がしてあたしは慌てて視線を戻した。

 星のない夜空に月が浮かぶ。

 まんまるに、うっすら流れるあたりの雲を照らしながら、満月があたしと男を見下ろしている。

 五十億年、地球の周りを廻り続けて。

 あと五十億年、ひとりきり。

 ひゃくおくねん、と、呟いた。あたしのその小さな言葉に、男がグラスを軽く掲げる。

「百億年の孤独に、乾杯」

 そう微かに笑って、男は月を飲み干した。



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