ひとりぼっちの男と少女
少女は泣きそうになりながら、ぐっと奥歯を噛み締めて歩いていた。母親に言いつけられた駅は途方もなく大きく、改札口を見つけることすら一苦労で、ようやく目当ての改札を出たら今度は高い建物ばかりが並んでいて、すぐに道に迷ってしまった。
人はたくさん行き交っていた。けれど少女はひとりぼっちだった。母親に渡された地図を握りしめ、とにかく歩いた。すれ違う人はみんな大人で、時折小学生の自分が何でこんなところにいるんだと言いたげな目で不思議そうに見られたけれど、少女はただ俯いて早足に歩いた。誰に助けを求めたらいいのかもわからなかったし、誰かに助けを求めて、それで母親が恥をかくようなことになったらと思ったら、とにかく闇雲にでも歩いていた方がましに思えた。
ここは一体どこだろう。街の名前もよく知らない。ただ、母親の恋人が住む街だ。それだけは知っている。
見たこともない数の人が足早に歩いている。行き交う人々、笑い声、客を呼ぶ店員たち、誰かを呼ぶ声、誰かに呼ばれる人。
母親は今もたぶん恋人の部屋で楽しい時間を過ごしていて、自分が来ることなんて忘れているかもしれない。
もしそうなら、このままここで迷い続けたら、どうなるんだろう。
日が沈み、夜が来て、もう二度と、どこにも帰れなくなるんだろうか。
自分の想像が恐ろしく、もうすでにくしゃくしゃの地図をさらにくしゃくしゃと握りしめた時、
「何やってんのお前」
聞いたことのある声に、弾けたように顔を上げた。
そこに男が立っていた。細く背の高いシルエットも黒髪もすっと通った鼻筋も、たしかに見覚えのあるものだった。ただ、いつも滅多に自分に向けられることのない目は不審げな色を浮かべながらたしかに自分を見ていて、それだけは初めての光景だった。
膝から力が抜けそうになった。立ち止まり、呆然とする少女に、男はさらに眉を寄せ、「何でそんなとこ突っ立ってんの」と、言った。
少女は黙って右手を突き出した。口を開いたら泣いてしまいそうだった。そこに紙切れが握りしめられていることに気づき、男が少女の手を取った。指先はとても冷たかった。けれど、その冷たい指は、かちかちに強張った少女の指を存外丁寧にゆっくり解いてくれたので、怖くはなかった。むしろ、人に触れたことにほっとした。そうしたらまた泣いてしまいそうになり、少女は慌てて唇を噛み締めた。
「……ここに来いってか」
簡略化された、どうみても情報の足りない地図に、男は気に入らないものを見る顔をした。少女が俯くように頷くと、今度は、はっと鼻で笑った。それは決して楽しいから出る笑いではないことは、少女にもわかった。
「ひでえ母親」
おまえ、かわいそうだな。
母親を、ひどい、と言われたことに、少女はなぜかほっとした。そして、かわいそう、と言われたことで、自分の哀しみを哀しみと認められたような気がした。
母親を、責めてはいけないと思っていた。
母親は絶対で、与えられる何を拒むことも、なにかとてつもなく恐ろしい罪のように思っていた。許されないと、思っていた。
男が少女にくるりと背を向けて歩き出した。数歩進み、訝しげな顔をして振り返る。そしてどうやら、ぎょっとしたようだった。いつも気怠げに細められている目が見開かれる。その顔が、少女の視界で、大きく滲んだ。
数秒沈黙したのち、男は少女のもとに戻ってきた。鼻水を啜り、ぼろぼろと次から次へ溢れる涙を袖口でごしごしと拭う少女の右手を、大きな左手が包み込む。そして、決して優しくはないけれど、十分幼い少女の歩幅を考えた強さで、その手が引かれた。
男に連れられて歩き出す。その、大きくてかさかさした手を、少女はぎゅうっと握り返した。手の大きさが違いすぎて小指のあたりを掴むみたいになりながら、それでも必死に、少女はその手を強く握った。
「……お前、手、ちっちぇえなあ」
男がぽつりと呟いた。少しだけ笑みを含んでいるようで、よかった、怒ってない、と少女は安心して、さらに強く男の手を握った。
自分たちが不思議な二人組であることは少女にもわかった。すれ違う人は時々不審げな顔で男を見る。それはたぶん、自分が泣いていることも理由のひとつなのだろう。男は気にしていないようだけれど、
「今、警察に見られたら、つかまる?」
そう、こっそり訊いてみた。自分たちが社会制度に何重にも守られていることを、小学生ながら少女も理解していた。
その問いかけに、男は少し驚いたように肩越しに振り返り、
「かわいくねぇなあ」
そう言って、何故か少し楽しそうに、笑った。
そして、まあ、お前が行こうとしてるとこにちゃんと連れてってやるから、今回は勘弁してくれよ、と、言った。
それからしばらく、何も言わずに二人で歩いた。高いビルの間を、公園の脇を、汚い路地裏を歩いた。地図に書かれた道順とは全然違う気がしたけれど、何故か、全く怖くなかった。それはきっと、少女が握れば必ず微かに握り返してくれる、男の手の力強さのおかげだと思った。この手についていけば、もう絶対迷わないという、不思議な確信があった。
少女は男に手を引かれながら、忙しそうに自分たちを通り過ぎていく人々を眺めた。
みんな一体どこからやってきて、どこへゆこうとしているのだろう。
そんなことを、思った。
十分くらい、だろうか。
二人で歩いて、交わした会話は、本当にほんの少し。
ふと男の手の力が緩んだ。あたりを見回すと、いつの間にか見覚えのある風景だった。それは、母親と一緒に車で出かける時、時々母親が立ち寄るマンションで、それはつまり今自分の手を引く男の父親が住む場所だった。
「着いたぞ」
男が立ち止まり、少女を見下ろした。
少女も立ち止まり、男を見上げた。
「ほら、行けよ」
そう言いながら、男は少女の手を離さなかった。少女が自分から手を離すのを待ってるみたいに、ただ少女の小さな手を包んだまま、少女のことを見下ろしていた。
「いかないの?」
「あ?」
「中、一緒に」
「俺が?行かねえよ」
「なんで?」
「なんでも」
名残惜しかった。男と離れるのが、というより、この手を離すのが。
この人は、伸ばした手を握ってくれる、それをずっと確かめていたかった。母親さえ気づいてくれない自分の哀しみを、哀しみとして扱ってくれる。その安堵のそばにいたかった。
「……ほんとに、いかないの?」
ぐずぐずと少女が呟くと、男はふっと笑った。目が細まり、目尻にとても柔らかい皺ができた。初めて見るその笑い方を、少女は見上げた。ずっと見ていたかった。
「なに、お前、行くの嫌なの?」
頷いてはいけない気がして俯いた。本音を言えば、行きたくなかった。夕飯を食べるだけだと母親は言っていたけれど、夕飯を食べるだけだとしても、どうせ母親は自分のことなんか見てやいないし、母親の恋人は、分かった風に笑って欲しくもない言葉ばかりを与えてくるのだ。自分がいらない世界で恋をしている大人二人を見ているのは、辛かった。何度消えてしまいたいと思ったか知れない。
「じゃあ、ここでしばらく待っててやるよ」
「え?」
「だから、どうしても駄目になったら、逃げ出してくればいい」
だから、ほら。
そう言って、男は少女の背中を押した。びっくりするくらい優しい押し方だった。
少女は歩き出す。二歩、三歩。けれど立ち止まり、振り返る。まだそこに男はいる。しょうがねえな、と言いたげに笑い、しっしと手を振る。
「ほんとにいる?」
「ほんとにいるよ」
少女が問いかけると、男はポケットに手を入れて頷く。
道端の街灯がぱっと点いた。もうすっかり夜になってしまったことに気がつく。空を見ると月が出ている。星は見えない。
また歩き出す。マンションの明かりが近づく。母親が書いてくれた地図はどこかにいってしまった。部屋番号は覚えている。とても高い階にある部屋だ。たぶん、エントランスで部屋番号を入力したら、母親の恋人が迎えに出てくるのだろう。
振り返る。もう男はずいぶん遠くなってしまった。けれどまだそこにいるのはなんとかわかる。青白い月の光に、男の影が長く長く伸びている。
男がゆっくり手を挙げた。ここにいるから、と伝えているように、長い腕が、ゆらりゆらりと夜に揺れる。
「ほんとにいるー?」
もういいかい、と問いかけるかくれんぼの鬼のように、少女は再び問いかけた。
「ほんとにいるよ」
まあだだよ、と答える子供のように、男もそれに微かに声を張ってちゃんと答えた。
マンションのエントランスが近づく。ガラス張りの扉を開けるまで、少女は何度も、何度も振り返った。
ほんとにいる?
ほんとにいるよ。
ほんとに待ってる?
ほんとに待ってるよ。
幼い子供同士のような、少女と男の掛け合いは、夜の住宅地に木霊した。
最後の最後、
まっててね。
少女がエントランスのガラス戸を開け、そう叫ぶと、
まってるよ。
もう影もほとんど見えなくなってしまった男の声は、たしかにそう答えた。
そうして少女は駆け出した。もうその幼い背中は振り返らなかった。
月の美しい、夏の終わりの夜だった。
手放した温もりがきっと戻らないことを知っていて、月明かりに照らされたひとつの孤独は、いつまでもそこで手を振っていた。