迷子
からんからん、と、男の後ろに座っていたカップルが出ていった。窓の向こう、すぐそこで、二人揃って寒そうに肩をすくめる。彼氏が上着を貸すわけでもなく、そんな彼氏に彼女が怒るわけでもなく、二人は寒さに顔を見合わせて笑いながら、駅の方へと去っていく。
太陽はもう沈んだようだ。空だけがまだその残滓に紅く、街並みには柔らかな影が落ちる。ショーウインドウの明かりがぱっと点いた。街が夜を迎え入れ、行き交う人々がモノトーンに沈む。
「……それ」
途方にくれた静寂の後、口を開いたのは男だった。えっ、と、怯えたような声を出した私をちらりと見てから、横の椅子に置いてあるスモーキーピンクの鞄に視線を移す。
「お前のだろ」
さっきから、ずっと鳴ってる。
そう、言われてから、気がついた。耳慣れた振動音。電話だ。鞄の中で誰かが私を呼んでいる。
はっとして時計を見た。十七時をとうに回って、待ち合わせの時間は過ぎている。
出るか、とも言わず、男が立ち上がった。伝票をつかみレジへと向かうその背中を慌てて追う。男はカードで支払った。財布を出そうとする私を置いてとっとと外に出て行ってしまい、ありがとうございましたー、という店員の完璧な笑顔と声に押されるように私もその後に続いた。
外の空気はひんやりと冷たかった。風が強い。街路樹が揺れている。すぐそこで、街灯がふわりと灯った。また一段、夜が近づく。ポケットに手を入れてふと立ち止まり、目を細めて空を見上げる目の前の男を、私は老いた飼い犬を見る子供のような気持ちで見つめた。
ーー あの、秋の終わりの夜から、私は男の家に行かなくなった。バイトが終わってからもまっすぐ駅に向かい、化粧途中の母さんに乾いたおかえりを言われ、味のないハンバーガーを食べ、自分の部屋で眠った。
それからしばらくして、バイトを辞めた。高校を卒業し、そのまま就職して、あの街からごく自然に、それでいてひどく意図的に、遠ざかっていった。
男の部屋に、行かなくなった、のではなく、行けなくなった、と言った方が、正しいかもしれない。
あの夜。
男に何度も曝け出した裸の肌の、その更に内側を、強引に剥かれたような、あの夜から。
私は、あの部屋に、行けなくなってしまった。どこにもいけない哀しみと、あの部屋に満ちる孤独に、耐えきれなくなったのは、私だ。
男が振り返った。二歩分ほどの隙間を開けて、私たちは、夕闇に沈む街で正面から向き合った。
足がすくんだ。
唐突に、理解する。
私は今、失おうとしている。
この男を、今度こそ、永遠に。
その事実が、胸に迫った。
男がすっと手を持ち上げた。硬そうな皮膚に覆われた右手が、私の頬に、近づき、あと数ミリで触れそうで、けれど触れずに、ただ輪郭をなぞるように、ゆっくりと動く。皮膚が、ちりちりと焼けるように震えた。
「ひとつだけ」
かさかさと乾いた声で、男が言う。その声の、どこにも触れずに消えていくような佗しい響きに、絡め取られるように私は息もうまくできなくなった。
「ひとつだけ、教えてやるよ」
風に吹かれて、男の黒髪がざあっと揺れる。その瞳が隠される。冷たくも暖かくもなく、それでいて、仄暗い熱でかつてたしかに私を求めたあの瞳が。
あの部屋で、お前を待っていたことだけが。
それだけが、俺の『ほんと』だよ。
ゆっくりと、不釣り合いなほど丁寧に、男はその言葉を私に落とした。
男が、私の左手を取る。ざらついた皮膚が私の肌をすべり、その冷たい指が触れたところから、ゆっくりと輪郭がなくなるような恐怖に襲われた。
男が小指をなぞる。
指輪には触れず、柔らかく、舌で優しく舐め取るように。
「……でも、会っちまうと、駄目だな」
前髪の隙間から、男がまっすぐ私を見つめた。
「これ、潜れない海に、投げ捨ててやりてぇな」
そう言って、私を見下ろし、たしかに笑った目の前の男は、私の知らない穏やかな顔をしていた。
それはきっと、諦めて初めて生まれる安らぎで、私たちは諦めないと、なにひとつ他の何かを手に入れることはできないのだと、気づいた。気づいて、そして、その哀しみを、ごく自然に、私は心から呪ってしまった。
男が手を離した。
私の手は力なくぱたりと落ちる。
別れの言葉もなかった。くるりと踵を返し、男は、夜に溶けるみたいな黒い影を引きずりながら去っていく。夕焼け空から遠ざかる男のくたびれた背中を、私は呆然と見つめた。
男のシルエットが雑踏に消える。
世界は夜に向かっていく。
男が消えた方角に、丸い月がぽっかりと浮かんでいる。
ふいに、
自分がどこにいるのかわからなくなった。
ここはどこだろう。
行き交う人々、笑い声、客を呼ぶ店員たち、鞄の中で震える携帯、右手に下げた新しい紙袋。
知らない街に迷い込んでしまった子供みたいに立ち尽くす。自分の体がひどく小さくなった錯覚に陥る。そして、なぜだか、ずっと昔に見た映画を追体験しているような、手足の痺れるような感覚に襲われて。
脳裏に、
ーー お前、手、ちっちぇえなあ
笑みを含んだ、聞き慣れたものより少し張りのある、けれどやっぱりよく知った声の記憶が、はっきりと蘇った。
人通りの多い駅前通りで、ひとりだけ稲妻に打たれたみたいに、瞬きすらできなくなる。
そうだ。
あった。
たしかに、あった。
記憶は唐突に、それでいて鮮明に蘇る。見慣れた風景がぶれる。斜め前を歩く大きな背中。左手に握ったくしゃくしゃの紙。思い出の底に眠っていた、幻が、揺れる。
最後に会った日。結果的に、幼いあたしと若い男が会った最後になった、あの日。
全然、受動的なんかじゃなかった。
なんで忘れていたんだろう。
あの人は、泣きじゃくるあたしの手を引いたのだ。
あたしが伸ばした手のひらを、ぎゅっと掴んで。
この世の中でたった一人、ずっと離さずいてくれたのだ。たぶん、たった今、この瞬間まで、ずっと。
動けない。膝が震えた。呆然と佇むあたしを忙しく行き交う人が訝しげにちらりと見ては通り過ぎていく。強い風が吹く。髪が舞い上がる。真新しい紙袋がかさかさと音を立て、鞄の中であたしを呼ぶ振動は止まらない。
ーー まっててね。
ーー まってるよ。
幼い声が脳裏に響く。それは残酷なまでに鈍く遠く何度も響く。
待っていたのだ。
男は、あたしを。
あの孤独な部屋で、ずっと。
その真実を、あたしが捨てられるわけがないのだ。
動けない。雑踏の中、進むことも、戻ることすら。
今追いかけたら、たぶん間に合う。
けれど小指の指輪があたしを呼んでる。
あたしは空っぽになった手を胸に抱く。最後に触れた男の熱は、もうそこに残っていない。そのことに胸が引き攣れた。喉の奥から泣き声みたいな声が漏れる。
ーー まっててね。
ーー まってるよ。
行き交う人々、笑い声、女を呼ぶ男、男を呼ぶ女。
あたしたちは一体どこからやってきて、どこへゆこうとしているのだろう。
涙が、ひとつぶ、頬をこぼれる。
ひとりきり、迷子になったあたしの影を、月がいつまでも照らしていた。